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2018年6月 9日 (土)

「有限性の後で」祖先以前的言明と原化石問題<思弁的実在論をわかりやすく読み解く1>

メイヤスー「有限性の後で」1章を読む。
メイヤスーは相関主義と実在論が有意味な問いを為し得るそれぞれの射程の範囲と限界を問い、それらの意味を掘り下げようとする。今日はその問いの中の「祖先以前的言明」と「原化石のパラドクス」なるものについて考えたい。

まず、語義の確認。
【相関主義】我々は思考と存在の相互関係そのものにはアクセスできるが、その片方だけにアクセスすることはできないとする存在論の主義。相関の向こう側の存在そのものへの「乗り越え」は不可能だとする。だから、素朴実在論以外のすべての存在論は相関主義だと言える。
【相関主義的ダンスステップ】結ばれる項に対する関係の優位への信念。主体と客体はその関係が第一であり、世界が私に現れるときのみ世界は有意味であり、自我が世界に対峙するときのみ自我は有意味である。相関主義は必然的に相関主義的ダンスステップの捉え方をする。
【祖先以前的言明】人間種の出現に先立つ現実についての言明。
【原化石】地球上の生命に先立つ出来事や現実を示す物証。祖先以前の測定を行う物質的支え。
【思弁的】絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を「思弁的」と呼ぶ。
Photo_4
祖先以前的言明 

対立する2つの思考の立場

さて、この問いに当たる前ために、メイヤスーは相関性への思考姿勢の様態が2つあるとする。
① 超越論的(現象学的)視点:認識対象をそれ自身で認識から独立した存在者として実体化させることを許さない視点。「相関主義」の視点である。
② 思弁的な視点:「絶対的なものにアクセスできると主張するあらゆる思考を「思弁的」と呼ぶ」と一方でメイヤスーは「思弁」を定式する。「思弁的実在論」
ただし、それは形而上学だとは限らないものである。自我を永遠化したものと存在者の所与を永続的に向き合わせる形而上学は、祖先以前の所与を可能とするので、それは祖先以前的言明の問題にはならない。そのような神の視点を持ち出すためには、我々は我々自身から抜け出してそれを問わねばならないが、そんなことはできない。我々は形而上学立場に立つことはできない。
それゆえ、ここで問うべき思弁的視点は「相関性」の実体化の視点でなければならない。形而上学ではなく、相関的な認識対象がそれ自体で存在する存在者への実体化することを許す視点を、我々は思弁的視点として考えるべきだ、ともメイヤスーは言っている。だから、彼が「思弁」と言うときには「絶体に対してアクセスできるとするあらゆる思考」という意味と「(そのようなもののうちの)相関的対象についての実体化」という意味の両方を兼ねていると考えて良いだろう。だから、ここでのメイヤスーの思索において、相関主義と実在論的思弁主義は対立するが、決して否定するばかりのものではない。彼にとっての実在論は必ず相関主義を問う先にあるものなのだ。

そのように語義を設定したうえでメイヤスーは課題となる問いを次のように示す。

課題:「相関主義と実在論あるいは思弁的実在論は祖先以前的言明にどのような解釈を与える可能性があるか」

 

科学にとっての祖先以前的言明

まず科学者にとって「祖先以前的言明」とは何かとメイヤスーは問う。まあ2次性質について言えば、色や音や味などの2次性質というものが元々、生物と生物が生きる世界との関係においての話なのだから、それは必然的に認識する主体との関係の話になり当然、相関主義的なものでしかあり得ないだろう。でも、物質の形質や延長や形などの1次性質は物体に固有の性質なのだから、主体の存在がなくてもその性質を語ることはできるはずだろう。だから、科学者のとっての「祖先以前的言明」は、「1次性質に限って」という但し書きはつくものではあるが思弁的だと言えるものになる。「科学的に言って、祖先以前のある出来事Xは人間の出現より何年も前に起こった」ときちんと現実の話として言えるのだ。思弁的実在論派を優勢とする。
しかし、これは相関主義派から言わせると、「科学的に言って、祖先以前のある出来事Xは人間の出現より何年も前に起こった、と人間から見たときの話として言える」ってことに過ぎないものだとメイヤスーは言う。相関主義から見れば、延長や形などの1次性質でさえ、それが言葉の意味を持つためには主体の存在が必要なのである。どんなに主体の不必要だと思われるような言明でさえ、必ずそれが有意味であるためには「人間にとって」とか「我々にとって」などという主体の設定がその底になければならないし、隠れていて分かりにくかったとしても必ずあるはずだと考えるのが、相関主義なのだ。

相関主義と思弁的実在論派とではその前提が違うので、どうやっても対立してしまう。
対立は必然的なのだけど、それで「必然的だから仕方ない」でメイヤスーは終わらせない。ここから、その対立のさらなる掘り下げをスタートさせる。
そこで、メイヤスーはどうしたか。
相関主義と実在論あるいは思弁的実在論それぞれが、主体の側に現れる「現出」と世界の側にある「存在」との関係をどう捉えるのかを確かめるために、それらが祖先以前的言明をどう解釈するかを問う。

 

初めの対立

相関主義と実在論との、「現出と存在の捉え方」にはいくつかの対立点がある。
最初の対立は、起点の違いである。

実在論側の捉え方において、「原化石は存在者が現出に先行する」。つまり祖先以前的言明というものは、主体に「現出」することのない出来事が過去に「存在」したという想定である。だから、それはつねに「存在」が起点となり「現出」に先立つものであり、「存在」と「現出」が共存することはない。「現出」はそれ自体が世界の中の出来事であり、「現出」そのものの事態とその起点となる「存在」は必ず別の出来事を指示することになる。

一方、相関主義ではつねに「現出」が起点となる。そして、その実在論の捉え方を馬鹿馬鹿しい自己撞着だとする。相関主義からしてみると、現出が既にしてあることこそが世界すべての基盤となる動かしがたい真実である。だから、実在論が言っている「存在は贈与に先立つ」という話は必ず「そしてそれは自ら贈与されるものでもある」という話とセットにならねばならない。だから、実在論の説は「存在が贈与に先立っている」というレベルの話と「存在は自ら贈与される」というレベルの話とが互いに互いを踏みつけ合って循環する無意味なジレンマ(「意味の二重化」)なのだとする。
そして、さらに、その起点となるのは常に現在であり(いわゆる「後方投射」)、その場合だけ世界は意味があるとする。

この相関主義の「意味の二重化」と「後方投射」に対して、メイヤスーは、さらに疑問点を挙げ反論する。
例えば、「45億年前に地球が形成された」という言明の真偽について相関主義の立場で語るとするなら、それは科学的言明として客観的妥当性があるとすることはできるが、言明の指示内容の真理性が記述されているような仕方で実在したかということを問うことに意味がなくなってしまうし、そのような本当の実在というものがあり得ないことになってしまう。それって、祖先以前的言明の価値が検証の普遍性だけでしかないということになるのではないか。しかし科学者が追うべきものは単なる検証の普遍性ではなく、その先にある真理なのではないのか。だから科学的立場を取るためにはそのような真理が必要なのでありそこに意味と価値があるとせねばならない、と言うのだ。
相関主義では科学的真理探究ができない。

 

第1の反論と対立

そしてさらに、この「真理」の意味と価値についてさらに2つの議論がある。
1つは「反実条件法」について、もう1つは「超越論的主観の語り得なさ」についてである。やはりそれぞれに相関主義と実在論とで深い対立がある。

真理の意味に関して相関主義からの再反論①「反実条件法」
相関主義はこう反論する。
そもそも、祖先以前的言明なるものに対して、その場で目撃できるものの真理性については語り得て思考可能であるが、時間的に古くて目撃されることができないものについて語り得ないとか思考不可能などと考えるのが間違いである。時間的に古いものが目撃されないゆえに思考不可能なのであれば、あらゆる見えないものは思考不可能になり、例えば立体の奥行きまでが思考不可能になってしまう。そのため、反実条件法「もし目撃者がいれば知覚されるだろう」が必要なのであり、それで問題は解消する。過去の出来事に関するある言明に関して、現実に目撃者がいなくても反実条件法によってその言明の妥当性は十分に語り得る。ただし、この妥当性はもちろん絶対的なものではなく、明日になってさらに新たな証拠が見つかれば覆されてしまうかもしれないような不安定な妥当性かもしれない。しかし、覆されるかもしれないからこそ、明日はその妥当性をさらに高め得る可能性がある妥当性なのである。だからこそ、(真理に到達することは不可能だとしても)科学的に真理を探究することは十分に意味があるものになるのだ。

その①へ実在論からの再々反論
さらに実在論はそれに反論する。
祖先以前言明は単に目撃者不在の出来事に関する妥当性を問うだけのものではない。古さの問題と祖先以前言明の問題を混同してはならない。求められるのは「何かが欠落した贈与」ではなく「贈与そのものの欠落」なのだ。反実条件法というのは、すでに「現在の私」が存在しているところから言明の妥当性をどう測るかということを問うものであり、そこにはすでに「贈与そのもの」が存在してしまっているのだから、「贈与そのもの」を問うことはできない。だから、反実条件法では問題解決にならない。原化石問題とは、生命体の誕生に関する経験的問題ではなく、贈与の到来に関する存在論的問題なのだ。それは定義上、贈与に先立って贈与を可能にした、贈与へと還元されることのない時間である。そして、それは、意識の時間ではなく〈科学の時間〉ということなのだ。問題は、時空間的贈与自体が、あらゆる贈与に先立つ時間空間の中で到来した、そういう世界に関する思考を、科学が如何に可能にしたかでなのである。

 

第2の反論と対立

更なる相関主義からの再々々反論②「超越論的主観の語り得なさ」
当然、相関主義も黙っちゃいない。さらに反論する。
存在者としての意識有機体の経験と、実際には存在しない超越論的主観を交差させることはできない。存在論的で超越論的条件が現れたり消えたりすることを語ることはできない。それはもはや永遠にあるともさえも言えないようなものなのだ。既にして現に世界を開闢している超越論的主観は科学的言説の外にあるのだ。だから、実在論が問おうとしている原化石の問題は、どんなに足掻こうとも経験的なものでしかあり得ない。実在論は「贈与そのものの欠落」を問うと言うが、それを問うことができるものにしてしまうこと、それ自体がその「欠落」を世界の中の経験的な出来事に貶めてしまい、問題を矮小化してしまうのだ。

「その②へ実在論から再々々々反論」
超越論的主観が対象として存在しないとしても、超越論的主観は確かに在るのであって無いのではないと、メイヤスーは反論する。
ここまでは、相関主義と実在論がそれぞれの論の立地点の違いから、互いに相手を踏んづけ合っているばかりで、どちらが優勢であるとは決めがたいように見える。
しかしここからメイヤスーは独創的で面白い反論を持ち出してくる。
主体は世界の中に位置づけられることでのみ超越論的になる。超越論的主観は有限な対象として局所化されねばならず、そのためには身体での受肉が条件になる。この時、超越論的主体が某かの身体を持つことは経験的なことである。しかし、超越論的主体が身体を持つということはそれが場を持つための非経験的条件である。さらにまた、超越論的主体が個体化せずに存在することにすると、その主体が絶対的理念的主体として思弁的実体化されてしまうことになる。だから、主体は思考する身体によって例示されるのでなく、例化されるのでなければならない、というものだ。

 

例化と例示

【例化instancier】というのは、或る存在が個体化されなければ存在しないときそれは一個体によって例化される、として示されるもの。
一方、
【例示exemplifier】とは、存在が個体化されなくても存在するときそれは一個体によって単に例示される、とされる。
例えば、今この世界の内部に存在する様々なもの、りんごも、りんごを乗せてる机も、夕暮れの空も、私の身体も、もしかすると「神」の一部だと言えるかも知れない。そう考えるとき私の身体は神の一部であって神そのものではないから、それは「神の例示」である。
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ここにりんごがこれも神これも神これも神(神の例示)

一方、今ここに現に開いていて世界でありかつ私の意識であるとも言えるようなこの「現われ」はもしかすると「神」の一部ではなく、「神」そのものだというような言い方ができるかもしれない。そう考えるときのこの「現われ」は「神そのもの」であって「神の一部」ではないとすることができるとするなら、それは「神の例化」になる。
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このこれは現にすでに今であり過去であり未来でありここでありそこでありあそこである(神の例化)

このように「例化」と「例示」を捉えるとき、プラトンにおいて人間-存在はイデアにおいても存在するから単なる「例示」である。一方、ウィトゲンシュタインのミクロコスモスみたく、ともかくすでに現出し具体化したものの全てを「私」の全てとするのなら、それは「例化」でなければならない。それゆえ、超越論的主体は必ず具体的視点を持つ身体との結び付きが必要となるのだ。
「論考」における「世界は私の世界である」(超越論的主観の例示)と「私は私の世界である」(超越論的主観の例化)の両立が、超越論的主体の具体的個体性と全体性を併せ持つことなのであれば、それは即ち相関主義と実在論が身体で繋がるということを示すものなのではないかと考えられるというのだ。
「超越論的主観は、そうした主観が「場を持つ=生じる(avoire lieu)」という条件においてのみあり得る、ということを発見するのである」。

なるほど。面白い。納得してしまいそうにならないだろうか。
相関主義と実在論の議論において、相関主義はあくまで現に生きて世界を開闢している主体の「生」を思考の基盤として、実在論の求める真理なんてものはどこまでもその基盤に転がるコマでしかないとするのに対し、実在論は主体の生を産む世界の「真実」こそが真に求めなければならないものであって、相関主義が基盤だと言う「生」なんてものは逆にその「真実」の上で転がるコマでしかない。どこまでも、問いの裏側同士で見えない相手を踏んづけ合っている。
しかし、メイヤスーによるこの最後の反論は、僕にはその両者を同じ土俵の上に乗せようとする問いに思える。その意味で、メイヤスーの問いの意義はたいへん重いように思える。
メイヤスーの問う実在論がどこまで有意味なのかは大いに疑問である。しかし、それが単に相関主義を否定するだけのものでなく、相関主義を深める考察であることは間違いないだろう。

この、部分と全体のせめぎ合いについて、有限無限の数学的問題として考えることができるかもしれないとして、「有限性の後で」は第2章につながっていく。
という感じで、ここまでが「有限性の後で」1章のまとめ。

メイヤスーの問いがどこまで、有意味に実在論と相関主義を本質的に結び付けられるものになるのかは分からない。しかし、単なる「踏んづけ合い」だけではないような問いのチャレンジは注目に値すると思う。それは、本ブログでも、ダメット反実在論やマクタガートパラドクスなどについて(例えば「反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14>」などのページ)考察してきたことに確実な結びつく問いである。それを数学的な有限と無限の問題と絡めて考えると言うのだから、すごくチャーミングではないか。

次節、メイヤスーのそのさらなる挑戦を追いたい。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 こんばんわ

「相関主義では科学的真理探究ができない。」
科学全体が、仮説の集積だとすれば、相関主義が、真理に到達できなくても、探求はできるんじゃないか、あるいは仮の真理には到達できるんじゃないかと思うんですけど、どうでしょうか?

一時的な結論でしょうか?

taatooさん、コメントありがとうございます。
メイヤスーの相関主義批判は、相関主義からは真の科学が生まれないとするものだと思いますが、そのポイントは仰るように「仮説」の捉え方にあると思います。相関主義の「仮説」においての「3分後のカップ麺の味」は何処までも今の私にとってのそれでしかないものであるのに対して、思弁主義の「仮説」では3分後にはちゃんとそこに「(私にとってではない)本当の3分後のカップ麺の味」があるとする、ってところがポイントじゃないかと思っています。科学でもって他者の「いわゆるクオリア」までを射程に入れてしまえるか、という違いと言っても良いかと思います。

これによってメイヤスーは、思弁主義が相関主義を乗り越えられたとすべきだ、みたいなことを言ってます。でも僕は、それでもやっぱり思弁と相関が互いに踏みつけあって(というか補いあって)じゃないと世界構築にならないんじゃないかとも疑ってもいます。

師匠 ありがとうございます。

なるほど。ただ、どちらも「仮説」なのに、「思弁主義」のほうだけ、「本当の」という言葉遣いが許されているような気がするんですけど。

taatooさん、
ああそうか。ホントですね。
〈その場に立って実験経験みれば「本当」の答えが分かるのだけどそれを確かめるまでの「仮説」〉というのが科学的仮説なのであれば、それは思弁主義でしかないですね。相関主義でのそれは、「『本当に』その場に立って実験経験してみる」というのは「あり得ない」か「ナンセンス」かでしかなくて、「その場に立ってみた『としたら』」という反実仮想的想定でしかないですから、その点で言うとある意味では相関主義の仮説は「科学的仮説」とは言えないのかもしれません。

師匠 いつもありがとうございます。

私の「仮説」は「仮」ぐらいで、おおざっぱです。
ただ、「本当」もそうですが、「絶対的なものにアクセスするあらゆる思考」というのも、これだけ見れば、なんか宗教みたいです。

メイヤスーもその点は、実質的に「信仰」と変わらないとしています。ただ、その信仰の内容を実験結果を数学的に把握することで、「形而上学的独断的信仰」のような独断でない「思考による信心」を求めたいと言っています。それでも、やっぱり信仰であることには変わらないように思いますが。

師匠 こんばんわ

見切ったといいながら、途中から、また最初のところに戻ってます。

>しかし、超越論的主体が身体を持つということはそれが場を持つための非経験的条件である。

>「超越論的主観は、そうした主観が「場を持つ=生じる(avoire lieu)」という条件においてのみあり得る、ということを発見するのである」。

ここの「身体」は、「非経験的身体」ということになりますか?
とすると、そこには「経験的身体」は既になく、「私」は消去されている。
そして、その「非経験的身体」は、「場」となり、「超越論的主観」とつながる。
その「超越論的主観」が「場」と「アクセス」することを、「思弁」と言う。
そして、この「超越論的主観」を「神」と言うこともある。
という積み木的理解は、どうでしょうか?

通常の経験的「身体」を、「非経験的」と前提して、溝が埋まるのか、心配です。
哲学も科学も数学も、「学」である以上、学ぶ「人」がいなければ、意味がないように思います。人のいない、三葉虫と神がささやく世界を根拠に、何が学ばれるのか。

taatooさん、コメントありがとうございます。
僕の書きようが拙くてずいぶんと読みにくい文章、申し訳なく思います。

>ここの「身体」は、「非経験的身体」ということになりますか?

すみません。この「身体」は【具体的で個物的で物質的で経験的】なものです。超越論的な主体が物質的で経験的な世界とアクセスするための蝶番として働くものだと思ってください。

「主体は世界の中に【物質的経験的に】位置づけられることでのみ超越論的になる。超越論的主観は有限な対象として局所化されねばならず、そのためには【物質的経験的な】身体での受肉が条件になる。この時、超越論的主体が某かの【物質的】身体を持つことは経験的なことである。しかし、超越論的主体が【物質的経験的】身体を持つということはそれが場を持つための非経験的条件である。」

という感じのことを書きたかったのですが、不十分な書き方で読みにくくてご迷惑をおかけします。申し訳ないです。
しかし、このように書き直したとしてもまだ何を言ってるかよくわからない書き方になっていますね。
このメイヤスーの章の次のレポートで、ダメットの相関主義とメイヤスーの思弁主義の対比をしたいと思っています。その中でもう一度、この、「身体」と「主体」と「例示・例化」のあたりのこともまとめ直したいと思っています。あまり改善できないかもしれませんが、そこでもう少し分かりやすい書き方ができるようにしたいと思っています。でももう少し待ってください。

師匠 ありがとうございます。

こちらこそ、毎度、すみません。
「身体が蝶番として働く」は、そうだと思ってました。
「「主体は世界の中に・・・」も、わかったと思うのですが、また外してるかもしれないので、次のレポートを待ちたいと思います

ただ、「祖先以前」には、「受肉」した「身体」は、無いように思うのですが、つまり「場」だけがあるという設定じゃないんでしょうか?

また、外してるかな。

taatooさん、有難うございます。
僕の理解では、
祖先以前言明を有意味にするのにも、やはり身体は必要だと思います。しかし、現実の身体を持ってくるのは無理ですから、反実仮想で「事実ではないけどもし私の身体がそこにあればどのように感じどのように行動できるかを仮想しよう」として記述することで、それを有意味にすることができるとメイヤスーは考えているのではないかと考えています。

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