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2018年6月20日 (水)

存在論的証明と理由律が棄却されるわけ<思弁的実在論をわかりやすく読み解く2>

メイヤスー「有限性の後で」2章を読む(前)
前節での「祖先以前的言明の射程への問い」をさらに進めて、今日は、「思考がどこまで存在自体にアクセス可能なのか」を問いながら、2章を読み進めたい。
Meillassoux

考察の略図と課題

2章で、メイヤスーは、
①絶対的存在の可能性をどう捉えるかについて、デカルトの存在論的証明とライプニッツの理由律に関して否定的に考察し、問いの基盤とする。
②その上で、我々が存在自体にアクセスする可能性を問うために相関主義が存在に向き合う視点として「相関項の第1次性」と「相関項の事実性」を考察する。
③そして、思考が絶体から抜け出すことと「事実性」に基づくものであることを問うなら、思考は「本質的信仰」になってしまわざるを得ない、ということを考えている。
そこで、本節では、この内の①の内容を振り返り、デカルトの存在論的証明とライプニッツの理由律が否定される訳とその意味を考察したい。

「祖先以前的言明」のように私と相関しない存在について語る場合には、「存在とは相関項があることだ」とするような「存在」の捉え方とは手を切らねばならなかった。欲しいのは、絶対的なものと思考との間に結びつきが必要になる捉え方だ。そしてそれは、経験的な言説の絶対性や絶対的な真理を求めるものだ。しかし、主体と相互関係のないところに関する言明など、ナンセンスでしかなく、あるいは無根拠な宗教でしかないと疑うべきものじゃないのか。
でも、メイヤスーは、そのような形而上学の語り得なさについて、すべてが語り得ないナンセンスと片付けるのではなく、どのように語り得ないかを細かにていねいに問うことによって「存在」の問いをさらに深めようとする。
そこで、今日問うべき課題を次のものとする。

2章の課題:「思考は、どのように非相関的なものにアクセスできるか。あるいは、思考はどのようにして絶対的なものにアクセスできるか」

※【非相関なもの】贈与なしに存在し得る世界。
※【絶対的なもの】思考への結びつきを解かれているもの。

 
デカルトの存在論的証明

そこで、メイヤスーは、デカルトがどのように延長実体を絶対的存在だとしたかに注目する。それは、どうやって物体に関する言説を相関によらないで絶対的存在にできる射程を示したのだろうか。
01dekarto
【デカルトの存在論的証明】
デカルトによる延長的実体の絶対的必然性に関する証明。

Ⅰ.神の必然的存在証明(第一絶対者:完全なる神が絶対的に存在する)

①神は無限に完全。(神の定義)

②存在することは完全性の一種。

③ゆえに神は存在する。

だから、私が存在していなくても神は完全なる必然で存在する。それは、私の思考との相関なき《大いなる外部》へのアクセス可能となることを意味する。

Ⅱ.完全なる神は正しく知性を使う限り私を欺かない。

Ⅲ.私の外部に3次元の延長性を与えられ、それについて私が判明な観念を得るような物体が存在していると、私には思われる。(数学的なものの射程の絶対性)

(結論)それゆえ、実際に、私の外部に3次元の延長をもった物体が存在していなければならない。(派生的絶対者)

このデカルトの存在論的証明に対して相関主義は2つの反論をする。1つは「相関的循環」による批判。もう1つはカントによる存在の想定に関する批判である。この2つの反論によって「存在論的証明」は失効する。

相関的循環

その1つ目はこう。
【相関的循環】絶対的必然はつねに「我々にとって」の絶対的必然である。この事実からしてどんな存在論的証明も無条件な絶対なのではなく、「我々にとって」の必然に過ぎない。だから、デカルトが証明した神だって、それは「我々が証明した」のだから、「我々にとって」の神に過ぎず決して《大いなる外部》などではない。

この相関的循環の反論によるなら、すべては相関主義の掌の上でしか世界を捉えることはできないのだから、当然ながら、すべての「絶対」もすべての「外部」もしょせん相関主義の掌の上のはなしになってしまう。だからデカルトの神だって外部のものではありえないものになって我々は「絶対」に対してぜったい到達できない。「すべては我々にとってのものでしかない」という前提で世界を問う場合には、世界には我々と無関係な絶対も必然もあり得ないということになる。

 
カントによる批判

では、2つ目の反論も見てみよう。カントによる批判である。
【カントによる批判の原理】「すでに存在すると想定される事物とその述語の一つとの間に生じる矛盾以外に他のところでは矛盾を生じ得ない」(メイヤスー「有限性の後で」)
例えば三角形が存在すると想定するなら、三角形に4つの角を与えることは矛盾なしに為しえない。しかし、その三角形自体がもともと無いのならそこに矛盾は成立しないと言うのだ。
Kant
たとえば、「神は存在する」を論理式で表すとするなら、次のようになるだろうか。
∃xG(x):神であるものが存在する。(「xは神である」をG(x)と表記する)

カント時代に述語論理は発明されていなかったのだから、馬鹿馬鹿しいと言われれればその通りなのだが、カントが批判したのは、「このxにあたるものが存在する場合にしか矛盾が生じる可能性はない」ってことなのではないかと思われる。

どこかに矛盾が生じているのならその時にはその対象が存在するとすでに想定されてしまっている、ってことだ。デカルトは、「存在するべき神が存在しない」は矛盾だからということから「神が存在」するという結論を出すことはできない。「存在するべき神が存在しない」はすでにその「存在」を前提にしてしまっているのだから、それは「存在」の根拠にはなり得ないという訳だ。

この反論よってデカルトの「存在論的証明」は無効とされる。
さて、ここから我々の問い「非相関的なものへのアクセス」への考察を2つ引き出せると思う。
1つ目は、すでに存在していると判断したものについてなら、矛盾律を使ってその在り方を語ることができるが、存在自体を語ることはできないということ。つまり、世界や存在者がどうなっているかを語ることはできるが、世界があるとか存在があるとかそのこと自体を語ることはできないということだ。
2つ目は、それゆえ何かの存在者を絶対的な必然だとするのは、独断的な無根拠な思い込みでする以外には、できないってことだ。
我々は、矛盾律を用いて世界の存在自体を語ることはできないし、独断で絶対的必然を語ってもしょうがない、ということだ。

しかし、それだからと言って、そこからすぐに、だから全ての実在論には到達不可能と結論付けてしまうのは早い。独断で絶対的な必然が語れなくっても、独断でない実在的必然なるものが不可能とされた訳ではない。

「独断で絶対的な必然」がダメだからと言っても、「独断でない実在的必然」までがダメだとは限らない。「独断でない実在」そこへ続く道が残っているかもしれない。早まっちゃあいけない。

メイヤスーは、そこで、「実在的必然」と「独断」の関係を探ることになる。

 
理由律

それを探るため、メイヤスーはここでもう一つ別の思索の視点で「理由律」について検討する。
Leibniz
【理由律】ライプニッツの「充足理由律」。すべて存在するものは,なぜそうあらねばならないかという十分な根拠をもっているとする原理。メイヤスーは特に「あらゆる事物や出来事は、そのようにあるための必然的な理由を持つとする原理」とする。
この原理はあらゆる事実に関してそれがそーなっている理由を説明できるものであることを要請し、思考が存在者とその存在を無条件にすべて説明できることを要請する。だから、思考は世界の法則によってすべての事実を理由づけることができるし理由づけられなければならない。

(ここで、メイヤスーは「理由律」の語義を「完全に必然的で実在論的な法則の確定性」として捉えている。ベルクソンやドゥルーズは「理由律」を絶対的ではなく仮説的で冒険的なものとして捉えていたし、ライプニッツ自身も、そのような仮説的な色合いが濃い捉え方をしているのではないかとも思われる。その意味で、「理由律」には、絶対的必然的な意味合いではない別の捉え方もある。しかし、メイヤスーの捉え方ももちろん正当であるし、この捉え方によって有効な議論ができていることは間違いない。以下の僕の説明のおいても「理由律」という言葉づかいはメイヤスーにならって「絶対的必然的な法則の確定性」という意味で使う。その意味でメイヤスーは「理由律」を否定し、相関主義などは「理由律」を受け入れるという話になる。)

さて、そうすると、もしどこかに「1つの存在者が絶対的必然だ」と言えるものがあるのであれば、それは理由律によって「すべての存在者は絶対的必然だ」と言えるものになる。

 
理由律が棄却されるわけ

だから、相関主義が言うように「無根拠に絶対者にアクセスすることができない(独断的形而上学の棄却)」とする立場を取るなら、それは、理由律のある世界においては、「すべての存在者は絶対的必然だとは言えない(あらゆる実在的必然の棄却)」を意味することになる。
そして、なんと、その「理由律」それ自体までが棄却されることになる。
それはこういう訳である。

①理由律が正しいならばすべての存在には理由がある。

②その理由を遡るとき無限遡及を避けるなら、それ自身を理由づけられるような理由Xに到達せねばならない。

③Xは他のいかなる理由にも条件づけられていない絶対的理由である。

④しかし、無根拠に絶対的なものにアクセスすることはできない。

(結論)理由律は正しいとは言えず、棄却される。

だから、それ自身を理由づけられるような絶対的な理由となる存在も否定されるので、「完全なるXは完全性ゆえに存在するとは言えない(存在論的証明の棄却)」という話になる。
相関主義をとる限り、「独断的形而上学の棄却」と「あらゆる実在的必然の棄却」と「理由律の棄却」と「存在論的証明の棄却」が、必須となるのだ。
だから、相関主義的な立場をとるなら必ず、
「ある特定の存在者が無条件に存在することを示す正当な方法はあり得ない」そしてまた
「様々な事物、神や世界や歴史や政治体制などが、必然的に今あるように存在せねばならないとする独断論や絶対主義は棄却される」
というところまでは確定させ得たと断言できそうだ。

そこで、メイヤスーは「祖先以前問題(思考の到達できない世界をどう記述するか)」への条件を「絶対的必然的な存在者に帰着することなく、絶対的必然性を発見すること」だとする。ここがややこしいんだけど、ポイントだと思う。絶対的必然的な何かの者を考えずに、絶対的必然性そのものを考える。「絶対的存在者なしで絶対的なものに関する言明に解決を求めねばならない」。
それは、「思弁だけど形而上学ではない」ような絶対論的思考の可能性だとメイヤスーは言う。
語義を確かめておこう。

【思弁】絶対的なものにアクセスできるとする思考。

【形而上学】絶対的存在者へのアクセスができるとする思考。

【絶対主義】独断的形而上学。他と比較しなくてもそれ自体で、無根拠にそーだと分かる存在者の存在を認める立場。

【絶対論的】絶対的存在者ではなく絶対的存在自体に関する思考を認める立場。

だから、メイヤスーが「祖先以前問題」の条件としているのは「無根拠で独断的な絶対的存在者にアクセスせずに、絶対的な存在自体にアクセスするにはどうしたらよいか」を求めることだ、と言える。

と、ここまでが、2章の中の「①絶対的存在の可能性をどう捉えるかについて、デカルトの存在論的証明とライプニッツの理由律に関して考察し、問いの基盤とする」の部分である。

次に、「②我々が存在自体にアクセスする可能性を問うために「相関項の第1次性」と「相関項の事実性」を考察する」の部分を考察する。ここにおいても、さらに「理由律の棄却」は「事実性」というスゴい世界認識モデルを導き、その威力を発揮するのだが、それはまた明日。

つづく

思弁的実在論はどこまで有意味か

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コメント

師匠 ご無沙汰してます。地震大丈夫でしたか?
犠牲になられた方の、ご冥福をお祈りします。
また、被災された全ての方に、お見舞い申し上げます。

しばらくお休みしてました。
メイヤス―ですね。また、読ませていただこうと思います。

taatooさん、ご心配してくださってありがとうございます。

我が家はけっこう震源に近いところだったのですが、大きな被害を受けずに助かりました。水道ガスが止まったことと心理的なダメージに疲れはまだ少し残ってますが、なんとか無事に過ごせています。

新しい実在論にちょっとはまっています。僕はずっと実在論なんて屁ぇやと思ってたのですが、新しい実在論はそれを考えることが主体と世界と言語を深めることに繋がりそうだと思ってとても面白いと感じています。

面白そうですね~。

「思弁的実在論」って「思弁的唯物論」とも、ありました。

「言語論上の唯物論」を標榜されている師匠のスタンスに近いと思いました。

海外でブームも、あったみたいですが、

その頃、日本でも、このブログで、密かに、語られていってことに。

taatooさん、ありがとうございます。
いつもの調子でぼちぼち書いていきますので、読んでもらえると嬉しいです。

師匠 【外】と【内】と【直】を割り当ててみました。

「祖先以前的言明」のように私と相関しない存在【外】について語る場合、「存在とは相関項があることだ」とするような「存在」の捉え方【内】とは手を切らねばならなかった。欲しいのは、絶対的なもの【外】と思考【内】との間に結びつき【直】が必要になる捉え方だ。そしてそれは、経験的な言説【内】の絶対性【外】や絶対的な真理【外】を求めるものだ。しかし、主体と相互関係のないところに関する言明【外】など、ナンセンスでしかなく、あるいは無根拠な宗教でしかないと疑うべきもの【外】じゃないのか。でも、メイヤスーは、そのような形而上学【外】の語り得なさについて、すべてが語り得ないナンセンスと片付けるのではなく、どのように語り得ないかを細かにていねいに問うことによって「存在」の問いをさらに深めようとする。

内の外性にアクセス(直)を試みているが、結びつくのは内とだから、やっぱり内だってことになる(・・?

師匠 少しづつ読ませていただいてます。実は読めてかった(-_-;)。

メイヤスーは「理由律」を完全に必然的で実在論的なものとして捉えている。ベルクソンやドゥルーズは「理由律」を絶対的ではなく仮説的で冒険的なものとして捉えていたし、ライプニッツ自身も、そのような仮説的な色合いが濃い捉え方をしているのではない

理由律って、記述には、必須と思うからメイヤスーに問題なし。相関主義なら、理由律が棄却される?相関主義でも、理由律って機能してなくない?仮説的絶対性では、あかんのかな。

taatooさん、ありがとうございます。

メイヤスーの方が理由律否定ですよ。「非理由」です。メイヤスーは「理由律」の語義を「完全に必然的で実在論的な法則の確定性」として捉えていたうえで、それがあり得ないことを説いています。注意してください。


メイヤスーにとって、「外」は理由律の射程外みたいな感じ、
で、彼にとって、彼の仮想敵(としての相関主義)は理由律に従うだけなので外を想定することができないのだけれど、彼は自由律を否定するのでその外を想定できるとする。
その上で、その外が何も語れないものではなく、必然的な偶然性を持たねばならないものだと語り得るとする。
さらに、その外が矛盾律に従って存在するものであることまで言えるとする。

というくらいの感じのものがメイヤスーの言う「外」(「隔時的言明」あるいは「即自」)なのかな、と思います。
言葉の設定によっては、もちろん、そのメイヤスーの「外」をさらに「でも、それさえ私にとっての『外』でしかないはず」としてそれを「内」だとすることは可能だと思います。

そこのところで、その論理の踏みつけあいがどんな意味を持つかを鳥瞰的に探ろうとしなければ、単に踏みつけ合うだけで終わりそうなので、そこを気をつけて考えたいなと思っています。

師匠 すいません。イエローカードですね。

メイヤスーは、立ち位置が外で、そこから外を言うので、混乱たと思います。
メイヤスーに問題なしで、問題なしと思います。

それにしても、またまた、惜しげもないまとめ、ありがとうございます。
メイヤスーの華麗なステップを、垣間見ることができたような気がします。

私自身は、一度でも、師匠と論理の踏みつけあいをしてみたいものだと思っています。
ま、不可能だと思いますが。

それから、これも素朴な質問ですが、「有限性」は、今回のまとめのどのあたりに関わるんでしょうか?

「有限」というのは主体の具体的経験から語り得る内容やその根拠が有限だということを示すものだと思います。「有限な経験的事実」あるいは「有限な表象・現象」あるいは「有限な記憶」みたいなところかな。
そして、その有限の情報から思考できる射程が、主体と相関関係のある範囲だけとする考え方を批判し、有限を超えて語り得る可能性があることを示そうとした、という思いで付けた書名だと思います。
「有限性の後でAprès la finitude」=「有限の次にあるもの」というくらいの感じかと思います。

つけ加え、
そんな感じネーミングだと思いますが、その有限の向こう側の説明に数学のカントールの無限の話を持ってきてたので、それをアピールしたかったというのもあるんじゃないかな。

師匠 なるほどです。ありがとうございます。

たまたま今、メイヤスーを読んでいたので、質問させていただきました。

デカルトに対するカントの反駁の真意について、私が読み違いをしている可能性についてです。

横山さんは、カントがデカルトの神の存在証明を棄却した理由を、「デカルトが無矛盾性を議論するときに、すでに「存在」を前提としているけれど、その「存在」は根拠がないから、当然、神の根拠にもなりえない。だから、神が存在するかは不明だ」という議論に求めているのでしょうか。つまり、神の根拠として提出された「矛盾しない存在」は、存在そのものが無根拠だから、矛盾してもしなくても神の根拠にはならない、とカントが言っていたと解釈しているのでしょうか??

私は、カントの意見は、「神は完全である、完全者は存在を含む、だから神は存在するという三段論法は真だが、だからといって、この世界に現実に存在することにはならない」ということを言っていたのかと思ってました。つまり、概念としていくら「絶対に存在するよ!」と言っても、「概念では絶対に存在する」神が「現実に存在する」かはわからないということを言っていたのかと。でも、あまりにも当たり前のこと言ってるようで、この読みは間違ってる気もしています。

長くなってしまい申し訳ありません。お聞きしたかったのは横山さんの読みは、「現実に存在するどんなものも、概念から存在することを導き出せない。だから、現実それ自体は理由律を欠いている」という意見を支持するでしょうか?

塩谷さん、ようこそ。コメントありがとうございます。

>「カントがデカルトの神の存在証明を棄却した理由を、「デカルトが無矛盾性を議論するときに、すでに「存在」を前提としているけれど、その「存在」は根拠がないから、当然、神の根拠にもなりえない。だから、神が存在するかは不明だ」という議論に求めているのでしょうか。つまり、神の根拠として提出された「矛盾しない存在」は、存在そのものが無根拠だから、矛盾してもしなくても神の根拠にはならない、とカントが言っていたと解釈しているのでしょうか??」


どうでしょう?僕の解釈はそれと似ていますが少し違うかも知れません。
「すでに存在すると想定される事物とその述語の一つとの間に生じる矛盾以外に他のところでは矛盾を生じ得ない」(「有限性の後で」)
という文でメイヤスーが示しているカントの反論は、結局、「矛盾は、存在する事物とそれに関する語の間にしかあり得ない」という考え方だと、僕は読みました。
つまり、もともと「矛盾」という概念は存在してるものに関して某かのことを語るためのものでしかなく、存在そのものを問うことのできるアイテムではないのに、デカルトは神の存在そのものを問うのに「矛盾」を使ってしまったのでその論述は無効だ、とそんな感じの反論をしたと読みました。

ですので、
>「お聞きしたかったのは横山さんの読みは、「現実に存在するどんなものも、概念から存在することを導き出せない。だから、現実それ自体は理由律を欠いている」という意見を支持するでしょうか?」
というご質問には、「結論としてはその通りのことを支持しますが、その根拠においての読みではちょっと違うかも知れません」という回答になろうかと感じています。

どうでしょうか?これで回答になっていたら良いのですが。ご不明な点があればまた一緒に考えさせていただきたいと思いますので、気軽にご連絡ください。

塩谷さんの読みと僕の読みは違うかも、と言ってしまいましたが、よくよく考えると同じことを言ってるのかも知れないという気もしてきました。パラレルな内容を別の表現で言ってるだけのような気もします。
歯切れが悪くてスミマセン。

お返事ありがとうございます。丁寧に答えていただき嬉しいです。

存在しているもの、とそれを語るとき、の不整合が矛盾だから、矛盾も無矛盾性も存在の根拠の問いにはならない、ということですね。だとすると、結局、自分の読みの結果(概念の無矛盾性は実在を可能にはしない!)と結論は一緒になりました。「存在と述語の間にしか矛盾は・・・」というカントの議論も、そう考えると納得がいきます。ありがとうございました。

今後は、メイヤスーの絶対化された事実性についてもうちょっと理解を深めたいと思います。
ただ、どうしても自然法則はヒュームのいうように、単に「慣れ」の問題ではないような気がします。哲学的センスの無さに泣けてきます笑

すみません、もう1つだけ意見を聞きたいのですが、独今性や永井均さんの言う<私>の存在って、自然法則に反してますかね??量子論と相対性理論の統一とか、宇宙の起源、他宇宙の実証が進んだとしても、独今的な世界はそれによって記述され得ないですから・・・。

塩谷さん、まず、僕、実は〈私〉というものがよく分からないのです。

「〈私〉とは何かという問いは二つの問い方がありうる…一つはたくさんの(自己)意識的存在者が存在して、私はそのうちの一人らしいのだが、この違いは何が作り出しているのかという問い方…。もう一つは、そもそもこれは何かという特定の可能性と対比されてはいない問い方、すなわち存在の問いである…〈私〉とは何かという問いの意味を理解しない人…の中に、あまりにも第二の視点に固着しているために、そこから身をもぎはなして自分の存在を相対化し他者と対等の立場に置いてみる(そのうえで「現実性-可能性」という形で違いを対象化して捉えなおしてみる)ということがそもそもできない人がいる」(「存在と時間」p162)

とされてますが、僕はまさにそこで批判されている第二の視点ばかりを重視してしまう者なのです。
これによれば、一般的で比較可能な〈私1〉と、この絶対個別で他との比較不可能な〈私2〉の二つのものが同一であるとすることによってのみ、それは問うことが可能になり、意味ある〈私〉の問いになるのだそうですけど、僕にはその二つがまるで別のものだとしか思えないので、それが一つの〈私〉とされるわけが分かりません。
ですので、ご質問への回答も、そのような無理解なものの解釈としてしか答えられませんからその様な当てにならないものだとして聞いてください。

〈私1〉は他との比較が可能な対象なので、自然法則とも関連させて矛盾してるかしていないかを問うことができると思います。そして、その意味で自然法則に反しないことが可能だと思います。
一方、〈私2〉は他との比較が不可能なものなので、自然法則との関連を問うこと自体ができなくて、それゆえそこに矛盾があるかないかという問い自体がナンセンスなものになりそうに思います。その意味で自然法則に反することも反しないこともできないと思います。
では、その〈私1〉と〈私2〉の統合であるような〈私〉になるとどうなるのかは、もう僕にはさっぱり分かりません。
僕がお答えできるのはここまでです。
中途半端な回答しかできなくて申し訳ないですがこれで精一杯です。

お返事ありがとうございます。
なるほど、なぜか私は<私>に途方もない説得力を認めてしまっているのですが笑 

<私1>は横山さんのいうように、自己意識的存在のことですね。私もそうですし、横山さんも<私1>であると。
独我論者はこの意味の<私1>に反論するわけですよね。

私の拙い意見なんですけども、<私2>は、多数の<私1>を認めた上で、さらに別種の現実性が、「まさにこれ」という高階の現実性があることを(私はすでにそう認めてしまっているのですが)認めたときに発見される存在です。メイヤスーが言う1階の現実と2階の現実も、この区別に適合できるかもわかりません。

<私2>が、自然法則と別種のものであることはわかりました。ただ、<私2>を錯誤と感じる人と、現実と感じる人の間の差異が気になります。今後有効にこの差異を議論してくれる人が現れればいいのですが・・・。私も少し考えてみます。長く付き合っていただき、ありがとうございました。ここの記事を読みながらメイヤスーを読んでいきます。

塩谷さん、
こちらこそコメントありがとうございます。またいつでもおいでください。
それと、〈私1〉と〈私2〉について僕の拙い考察ですが、ヘーゲル弁証法とマクタガート時間論との関連のなかで考えたことを本ブログ記事にまとめてましたので、もしよろしければ覗いてください。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/13-4485.html

 横から失礼します。塩谷さんの「カントの意見は、『神は完全である、完全者は存在を含む、だから神は存在するという三段論法は真だが、‥‥」という部分は、ちょっとカントの言っていることとずれているような気がします。
カントは「実際に持っている100円も、想像上の100円も、同じ(属性を持つ)100円である。」というようなことを述べていたはずです。つまり、存在は存在者ではないので、「完全」のなかに「存在」が属性として含まれていない。単に完全である神を想像しているだけということもあるということです。

御坊哲さん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
なるほどです。どうもこんがらがってしまってた議論をうまいこと整理してくださいました。塩谷さんまだここを見てくださってるでしょうか?

でも僕はまだこんがらがっていまして、自分の読解の弱さに愕たる思いです。御坊哲さんの整理でもまだ、御坊哲さんと塩谷さんのそれぞれが仰っていることが、どう違うのか或いはどこまで同じなのかよく分からないでいるのです

御坊哲さん、横山さん
御返事ありがとうございます。コロナ関連でばたばたしており、返信が遅れてしまいました。

私自身もいまだこんがらがっており、ある程度考察できたならば少し見解を書いてみようと思います。
今はメイヤスーの事実性の議論、デカルトの存在論的証明、永井さんの独在性の議論の間の同型性がもっぱら
気になっています。しかし、哲学書の読み方がまだ全然わかりません。初学者が「哲学書を読む」ときに犯しがちなミスがあれば、
教えていただきたいです。

メイヤスーの議論の骨子かどうかわからない点で、議論を展開させてしまいすみません。
しかし、なんとなく論点がわかりました。少し長くなってしまいました。

デカルトの議論の要約は
神は定義として存在するのだから、存在しないわけにはいかない。
神という主語に「存在しない」という述語を与えると矛盾になり、それは不可能であるーーということらしいです。
そしてデカルトは、「だから神は存在しなければならず、必然的に存在する」と結論(証明?)しました。

これに反論する根拠として、カントが持ち出した(とメイヤスーが述べている)のは、
横山さんが上で紹介した「すでに存在すると想定される事物とその述語の一つとの間に生じる矛盾以外に他のところでは矛盾を生じ得ない」(p. 59)というテーゼでした。そして、このカントテーゼの解釈を巡って、私と横山さん、御坊哲さんの意見が表面上分かれているようです。しかし、このテーゼから直接にメイヤスーが展開させているのは横山さんの意見であり、さらにそれを補強する形で御坊哲さんの意見があり、そしてそれとは少し逸脱した形で私の意見があるようだ、というのが私の見解です。

まず、3人の解釈が

横山さん「・・・どこかに矛盾が生じているのならその時にはその対象が存在するとすでに想定されてしまっている、ってことだ。デカルトは、「存在するべき神が存在しない」は矛盾だからということから「神が存在」するという結論を出すことはできない。「存在するべき神が存在しない」はすでにその「存在」を前提にしてしまっているのだから、それは「存在」の根拠にはなり得ないという訳だ。・・・」

御坊哲さん「・・・カントは「実際に持っている100円も、想像上の100円も、同じ(属性を持つ)100円である。」というようなことを述べていたはずです。つまり、存在は存在者ではないので、「完全」のなかに「存在」が属性として含まれていない。単に完全である神を想像しているだけということもあるということです。・・・」

私「・・・神は完全である、完全者は存在を含む、だから神は存在するという三段論法は真だが、だからといって、この世界に現実に存在することにはならない」・・・」

です。以下が私なりの3人の意見の整理です。

確かにデカルトのいう通り矛盾するものは不可能なのですが、矛盾は主語と述語の間でのみ起こりますから、主語が存在しなければ矛盾も起こり得ないことになります。神がもともと存在しないなら、つまり端的に無なら、無に述語は付与できませんから、矛盾はそもそも生じえない。しかし、デカルトは「神」という名詞(概念)が、無ではない何か(存在)を現実に示していると不当に前提してしまった。これは論点先取だ、というのが横山さんの解釈だと思います。

それでは、なぜ「神」という概念が「存在」を現実に示していることが不当な前提なのか、ということを考えると、それは
御坊哲さんが挙げているカントの「現実の100円も想像上の100円も、内容は同じ」という見解に行き着くのだと思います。つまり、<「神」という概念が「存在」を「現実に」示している>という言明は、たとえその中に「現実に」という一語が入っていたとしても、想像上の神に対して述べられた言明と内容は同じであり、本当に「現実に」示していることを意味しないかもしれないのです。このことを考慮していないから、デカルトの前提は不当であったということでしょう。そして、私が以前のコメントで述べていたのは、想像された神と現実に存在する神が区別できない、という御坊哲さんの意見を、「概念上の存在から現実の存在を演繹することはできない」という意見に読み替えたものだと思います。区別できないだけでなく、現実=概念+現実性という構造がこの世界の本質らしい、ということが私の意見です。そして今思い出しましたが、カントはこんなことを主張しておらず、永井均さんの『私・今・そして神』の「ライプニッツ 原理」という主張を私がうろ覚えで使っていたらしいということです。お手数おかけしました。

塩屋さん、
おかげで僕の頭の中もだいぶん整理できてきました。
概ねのところは少しわかってきたように思います。ありがとうございます。

ただ、永井の「ライプニッツ原理」って「何が起ころうとそれが起こるのは現実世界」ってやつですよね。それが「現実=概念+現実性という構造」と関わるというところはよく分かりませんでした。僕のカントとライプニッツの現実性に関する理解では、どちらかと言うと、「概念」にわざわざ「現実性」を付加しないと「現実」だと言えないとするのはカントの方である、というような気もちょっとしますので。
そこのところ、もしよろしければもう少し解説してもらえますか。

追伸、
カントの不一致対称物問題とかをみると、〈ライプニッツは「夢と言っても、結局それも現実の一部でしょ」みたいなことを言う〉とカントは捉えていて、それに対してカントは、「夢は現実ではない」としなくちゃならないと考える。僕にはそう思えてならないです。だからライプニッツが彼の「現実」はいつでも既にあるものでそれを問うのにわざわざ「現実性」を持ち込んでくる必要はないのではないか、という感じの疑問です

↓僕の「不一致対称物問題」の理解です。もしよろしければ覗いてください
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2019/12/post-b2e53c.html

早速の御返事ありがとうございます。
横山さんの意見と永井さんの意見をこの土日で読み込んだ上で、また意見を提示させていただこうと思います。
よろしくお願いします。

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