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2018年2月 8日 (木)

ドゥルーズの差異<「ベルクソンにおける差異の概念」を理解するぞ1>

「ベルクソンにおける差異の概念(差異について)」を読む

 

ベルクソン哲学に対するドゥルーズの視点は鋭く示唆に富む。そのなかでも、初期のベルクソン論「ベルクソンにおける差異の概念(差異について)」1956は、小品でありながらその分析は爆発的なまでに鋭くまた凄まじく、ベルクソンに取り組むうえで是非ともやっつけたい考察である。今日はこれと格闘してみる。でも、ドゥルーズ初期の文書は後期に比べると読みやすいとも言われるが、いやいやとんでもない難物だ。僕がこれから紹介する読みも誤読甚だしいと思うので、眉に唾つけて聞いてもらいたい。(だいたい、哲学者の言葉づかいって、そのずば抜けた思索力ほどに作文力があるわけじゃなく、まったく分かりづらいし、勝手な造語を乱発するし、いい加減にしてほしい。中でもドゥルーズの言葉づかいは酷く独創的で、無駄に格好つけているんじゃないかと疑いたくなるほど分かりづらい。それでもそれは、その思索内容があまりにユニークであるため言葉づかいもユニークにならざるを得ないという面があることも事実だと思う。そのため言葉の意味を取るのにずいぶん難儀しなくちゃいけないけど、それを一々確かめながら進みたい。)

(ドゥルーズの『差異』については、「差異と反復』の読解に挑戦している〈僕にも分かる「差異と反復」〉(の、とくに〈シミュラクルと「それ自身に向かう差異」〉)のページの方が、詳しく書けていると思うので、そちらも覗いてもらえるとうれしい。)

 

 

ベルクソン哲学の意義

 

さて、ドゥルーズはこの書で、ベルクソン哲学が世界の事物のあり方について、その存在論と方法論を統合させたとし、また、その科学的あり方と形而上学的あり方を統合させたとし、さらに、外的なあり方の程度を問う差異と内的で本質的なあり方を問う差異を統合させたとする。そして、それが差異の哲学に最大の寄与をもたらしたと言う。

 

 

 

ソシュールと構造主義

 

ではまず、ここで問われている「差異」とは何だろうか。しかし、ここで初っぱなに出てくる「差異」って語からしてすでにこんがらがった言葉づかいになっていて一筋縄ではいかない。
ここでの「差異」は、単なる2つの存在者の間の違いというだけの単純なものではない。
それを考えるためには、20世紀中期のフランス哲学の流れを見る必要がある。ドゥルーズはよくポスト構造主義の論者として分類される。それというのは、ソシュールの言語論を基にして世界を分節化してその構造を把握しようとする論説の流れを(あまりに短絡すぎるけど、それが一応)狭義の構造主義として、その静的な構造化モデルをさらに多角的に捉え直し乗り越えようする運動を(これもあまりに短絡だけど、これを一応)ポスト構造主義とするとして、それにチャレンジしていたと評価されているってことだろう。
ソシュールの言語論では、差異だけが言葉に意味を持たせ得る。ウィトゲンシュタイン「論考」の言語論では、全ての命題が「yes/no」の2択に付されることによって世界の像になり得る。そしてその2択の組み合わせだけで全ての世界記述に対応できるものになるのだった。ソシュールの言語論も2分化による世界把握という点では「論考」と同様の言語モデルなのである。表現されるべき世界の内容としてのシニフィエもそれを表現する語としてのシニフィアンも、そのような分節化によってのみ意味付けられ得るとする。たとえば、「犬」という語の概念は、一つの「犬一般」なる個体の具体的なイメージでもってすべてが意味できるようなものではない。そのような具体的イメージがあったところで実在する犬たちの多様さには対応できるはずがない。実際に或る具体的な個体が「犬」かどうかを判別するにはその語が占める領域の限界ラインが分からねばならない。そのように語の意味をとらえるなら、語の意味とは、その語が占める領域であったり、その内外を判別するにはラインであったり、その差異であったりするものだとも言えるものとなる。実際の生活で言語を取り扱うときに、言語活動によってその意味を判別するには最終的にはその言葉で言われた内容と現実世界が一致しているかどうかを肯定するか否定するか、yesかnoか、1か0かの二値にデジタル化して考えるしかない。それゆえ、この弁別のための差異によって区分けされた領域が語の意味とだとするしかないのだが、でもそうなれば語の意味はそこにあるそのもの自体を指すことはできなくなりそうだ。語が個体を指示できない、それがソシュールや「論考」の言語モデルの限界であるとも言える。

 

 

 

個体に言語が届かないわけ

 

この「個体」というのは、生物学用語の「個体」とはまったくの無関係というわけでもないが、まったく別の用語である。アリストテレスの哲学において、それ自身の性質や規定で他と区別される単一固有の独自の存在を意味するもののことである。ここにあるこれの「これ性・ヘクシアティhaecceity」と関係するとする人もいる。つまり、外延の要素の一つ一つが個体である。
ソシュールの言語論では、この個体は確定しきることができないだろうと考えられる。それは、たとえば本ブログ「瞬間転送と私の死」のページで考えたような状況を想定すればどんなものもその外延が確定できなくなる、ということからも分かる。どんなに厳密な内包を用意しようとも、それが有限なものである限りは、原理的に外延を確定し得る精度は有限なものでしかないはずだからだ。また、指示の仕方を、内包によって確定しようとする方法ではなく、じかに指し示して直示的に「これが○○だ」と示したところで無限に指示が確定できることにならないのは明白だ。もともと、そんなことはできないのだ。だからこそ、ソシュール言語論においての言葉の役割とは、槍の一突きで個体そのものを示すことではなく、ナイフの切り分けによって範疇に入るか否かを示すことでしかないとされたのだ。ソシュールの言葉が個体に届かないのは当然だったのだ。

 

 

 

ドゥルーズの4つの差異

 

しかし、ドゥルーズはその無理を突き破ろうとする。個体そのものの存在をきちんと見つけ出し、それをそれとしてその存在を明らかにしようとしなければならないと訴え、さらに、ベルクソンのやり方であればそれがまったく不可能だとは限らないとした。
それを可能にする武器が、ベルクソンの独特の「差異論」だというのである。(僕にはそれはベルクソンの独特さじゃなくてドゥルーズの独特さに見えるのだけど。)

 

どんな差異なのかというと、ドゥルーズはそれを説明するために4つの差異を考えた。「程度の差異」とそれに対する「本性の差異」、そして「内的差異」と「強さの差異」だ。(厳密には他にもいろいろあるけど大きく取り上げられてるのはこの4つ。)

 

「程度の差異」とは:具体的な事物間の一面的な量の比較による差異。2者間の差異で、違いを示すことによって、存在者の意味を表す。統語論的に事物と事物を切り分けるときの切り分け方を示し、ソシュールやウィトゲンシュタインの方法で世界を切るためのナイフとなる。ベルクソンの円錐でいうと縮約されたデータを示す。

 

「本性の差異」とは:事物の存在を有し、その存在そのものである差異。赤さの普遍性を示しながら、赤さそのものであるような差異。「本性nature」とは或る存在がそれによって何であるかが認められるための普遍的な特徴のことで、つまり、アリストテレス哲学における「形質」でもって世界をとらえる概念である。だから、同じくアリストテレス哲学における「質量」でもって世界をとらえようとする「個体」とは違うアプローチで世界へ向かう差異であるはずのものである。しかし、その普遍的で形質的な概念でもって質量的な個体へまで到達するような差異を求められるような差異を、ドゥルーズは考えているらしい。

 

「内的差異」とは:他との比較でなく、他から与えられる基準に頼らずに、現にあるとおりのそのままの在り方を示す差異。そして、かつ、ドゥルーズはそれを、それではない他の全てのものとの差異でもあるともする。自分自身と自分自身との間の差異って話だからそんなところに「差」があるわけないんだけど、でも、ドゥルーズはそれを「全ての他との比較」なる作業によって見つけられるものだと考え、それ自身が存在すること自体の差異ってものを考えようとする。そのようなチャレンジにおいての「存在そのもの」が内的差異である。

 

「強さの差異」とは:感覚されうるものの原因としての差異。内包量。それ自体が持っている存在の質で、程度の差異のように他の物との比較で計れるものではないので程度の値には換算できない(と、されてきた。しかし、ドゥルーズはそこを疑う)。抽象的量という意味での質を生み出す差異。ベルクソンの円錐でいうと弛緩されたデータを示す。この「強さの差異」が時間の中にあることで事物がありありとした質をもって存在する。

 

 

 

まあ、なんかすごい。「程度の差異」以外はそんなもの、を有意味に取り出せるはずないのじゃないかと思われるものばっかり。それぁ、そんなものを手に入れられるのなら、個体を普遍的に掴むなんていう無茶もできるかもしれないが、無理じゃないのか。ドゥルーズ自身も「内的差異などというものには意味がない、そのような観念はバカげている、と反論する向きもあるかもしれない」とも言う。しかしそれでも、ドゥルーズは内的差異を把握しようと志さねばならないし、実際にそこに到達できるとする。どんなトリックを使うというのか。
しかし、それは次節で。

 

 

 

僕は、前章「『物質と記憶』を読む」の最後で「創造的進化」を読んでから、ドゥルーズに向かうと書いてたけど、「差異と反復」を読んだ勢いで、ドゥルーズへの考察に突っ込んじゃいました。無茶を承知でやってみます。

 

つづく

 

「ベルクソンにおける差異の概念」を理解するぞ

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