フォト

ウェブページ

無料ブログはココログ

« 「物質と記憶」訳語比較 | トップページ | クオリア発言が真ではあり得ないことの証明<クオリア再考27> »

2017年11月11日 (土)

SHISHAMOとベルクソンとこの世界とこの生<ベルクソン「物質と記憶」を読む8>

「みじめで情けなくてそれでもこれが私だから奇跡なんて起きない奇跡なんていらない」(SHISHAMO「ほら、笑ってる」)

僕がベルクソンに心奪われるのはこの歌に通じる生の肯定があるから。
僕が哲学に心酔するのはその生の肯定を深く欲してきたから。
毎夜酔っ払っては己の惨めを怨み母や僕に暴力した亡父を乗り越えたかったからなのかもしれない。この歌を聴いて今日そんな気がした。

僕がずっと批判してきたクオリアにしても、ベルクソン哲学においてはそんなものはイマージュの総体の外側の存在でしかないのだから、そんなものをあるとかないとか語る価値のないものでしかない。ベルクソン哲学においては、昨日の私にも明日の私にも他者にも同様のヴァーチャリティ潜在性が共有されなければならないはずだ。だとすれば、それは、僕が 反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14>のページで考えた「質感としての現実性」が共有されることにもなるはずである。
この「ここにある世界」というものが単なる現在のこの横山個人だけの世界のはずがなく、この「ここにある世界」自体が過去や未来や他者の心的事実まで含めた実在のすべてであるとするから、この「生」の肯定でもあるのだ。
僕が、ウィトゲンシュタインやダメットに心酔してしまうのも、この「ここにある実在の生」が過去や未来や他者の心的内容まで含めた意味での「このここにある世界」そのものである、というそのことを確かめる哲学であったからだと思う。
そのような生と世界の確かめ方が父を乗り越える確かな道だったのだと思う。

というわけで、ベルクソンの「物質と記憶」を読めたらドゥルーズ「差異と反復」へ戻ろうかと思ってたのだけど、ベルクソンの「創造的進化」への読みに進むことにする。
その書では「この私」は人類という種にまで拡大して一致するらしく、上のような視点にまでつながるのではないかと思う。

ということで、「物質と記憶」の読みはここでいったん切って「創造的進化」とまとめて、それからドゥルーズによるベルクソン解釈にも絡めて再度、「物質と記憶」の内容も含めた考察をすることにしたいと思う。

つづく

ベルクソン「物質と記憶」を読む

twitterはじめました

« 「物質と記憶」訳語比較 | トップページ | クオリア発言が真ではあり得ないことの証明<クオリア再考27> »

コメント

師匠 酔っ払い嫌いそうですね。

だけど、哲学に心酔している師匠は、父上そのものです。

私は酒に酔っても、幸い暴力は無かったと思いますが、息子は、大人になっても私を怖いと言います。言葉の暴力があったかもしれません。

実は、息子は小学校の先生をしています。なんか、他人ごとと思えないです。

taatoさん、コメントありがとうございます。お子さんが小学校の先生ですか。されはそれは。
僕の娘も転々と就職先を代えた後に免許をとって今年から特別支援校の先生になりました。
さて、僕は酒について嫌いではないです。酔っ払いも嫌いではないです。僕自身今は酒を飲まないですが、以前はよく酔っ払いましたし、今も飲まないですが酒席は大好きです。ただ暴力は嫌いです。
僕が大学生のときに、あまりに父の酒癖が悪いので大喧嘩になって最終的に父が警察に連行されるということがありました。その事件以来、父の暴力は減りましたが、僕の中での解決はまだできていないのかもしれません。なんか最近は、父の方が正直な生き方をしてるのかも知れないという気もしてきています。

師匠 すいません 軽率なコメントでした。

いや、全然大丈夫です。気にしないでください。

いつも勉強させていただいております。

ウチの父も似たようなもので、物理的暴力はありませんでしたが、言葉の暴力はなかなかのものでした。
最近になって、絶対的なものがないという哲学の世界を知り、成長したところで、父の過去を聞くと、自分の力と周りの環境、構造から類推するに、そういうコミュニケーションをとることが本人には良かったのだろうと整理しました。

私も暴力反対なのですが、今になって暴力には暴力で対応もアリなのかなと思います。一つのコミュニケーションとして。とはいえ、自分はなかなかできませんが。

オヤジのその固定的な世界観はまねできないなとも思いますが、それを超えていくことが我々息子世代に託された課題なのかなとも思います。

Benさん、こんにちは、コメントありがとうございます。
コミュニケーションを暴力に頼る馬鹿であっても、その人にとってはそれが唯一の現実の人生だったのであれば、その人にとって許され得た最善であったのかもしれないですね。馬鹿な人生ではありますが、それはそれで或る意味では至極有意義でかけがえのないやり方であったのだろうとも思います。
その非道を許すつもりは毛頭ありませんが、でも今は、父を理解してやりたいとも思っています。
その上でBenさんが仰るように乗り越えていけたらなかなか素敵な親孝行になると思いました。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

« 「物質と記憶」訳語比較 | トップページ | クオリア発言が真ではあり得ないことの証明<クオリア再考27> »