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2017年10月22日 (日)

11/5大阪哲学同好会「ドゥルーズによるベルクソン論」発表用レジュメ

2017年11月5日大阪哲学同好会第46回例会で、「ドゥルーズによるベルクソン論」について発表します。発表用レジュメを作りました。

参考図書として、ベルクソン「物質と記憶」とドゥルーズ「差異について」に指定させてもらいましたが、全く読んできてもらわなくても結構です。

もしよろしければ、下からダウンロードして持参してください。もちろん当日にも配付用意はしていきますから、持ってきてもらわないといけないわけではありません。

「ドゥルーズによるベルクソン論レジュメ」をダウンロード

 
発表内容の前半は当ブログの下ページの記事が中心です。後半は今後ブログ記事にする予定のものです。

ベルクソン「物質と記憶」を読む

 

当日要項詳しくはこちら

 

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

師匠 レジュメ上の質問をお願いします。

>ヘーゲル弁証法:事物は自己との間に差異を生ずるがそれは自己ではない一切のものとの間の差異を生ずるからであり、それゆえ差異は矛盾する

この自己とは事物から観た自己のことですか?事物から観た自己って何なのかが、よくわかりません。それから、事物から観た自己ではない一切のものって何ですか?

自己以外との差異が生じるから、自己との差異が生じる?それが、なぜ矛盾なのか?

で、それがヘーゲルの弁証法?意味がわかりません。


taatoo さん、ドゥルーズ「差異について」から当該箇所を抜き書きます。
「ベルクソンの場合、潜在性の
観念のおかげで、事物は、まず、直接的に、自己との間に差異を生じる。ヘーゲルに従えば、事物は自己との間に差異を生じるが、それはまず自己ではない一切のものとの間に差異を生じるからであり、かくて差異は矛盾にまで行く。この場合われわれは反対命題と矛盾との区別はどうでもよい。矛盾とは全体の反対命題としての提示に外ならぬからである。」(p68)
この意味するところは僕自身もよく分かってないのですが、結局はマクタガートの矛盾(現在と過去が排他的でありながら同一的でなければならない)に通じるものではないかと考えています。
ネット環境に少しトラブルがあってコメントを頂いたことに気づいておらずお返事が遅れました。失礼しました。

師匠 ありがとうございます。とりあえず、仮の理解ということで、

「まず自己ではない一切のもの」の「まず」が大事と思いました。
初発(「まず」)の差異が、ヘーゲルの場合、語りえぬもの(「自己ではない一切のもの」)と関わっているという指摘であり、だから、ベルクソンとは違う。
と、ドゥルーズは言っている、ということで。

ベルクソンの「分化」の概念は、初発の差異を暗示しているような気がしていたのですが、あくまでも「語りえぬもの」には届いていない、ということで。ベルクソンはドゥルーズより少しヘーゲル寄りじゃないかという疑いが残るような。

ドゥルーズは、「一元論じゃない哲学はダメだ。」って言ってたらしいので、ベルクソンを「一元論」としてとらえていた、もしくは、とらえようとしたことは、間違いないと思います。「語り得るもの」の一元論(ベルクソン、ドゥルーズ)と「語り得るもの」と「語り得ないもの」の二元論(ヘーゲル)、といういつもの安易な私のまとめ。

師匠、ここで質問です。師匠は以前どこかで、言語論と唯物論は、親和性が高いということを言われてたと思いますが、唯物論と言えば、ヘーゲル~マルクスという流れがあると思いますし、「語り得るもの」と「唯物論」の関係について、改めて師匠の考えをコメントいただきたく。発表の際に、どなたかが、ベルクソンは「唯物論」だと、おっしゃった方がいらしたので、あぁ、そういう見方もあるんだと思って、気になってます。


taatoo さん、たしかにベルクソンは二元にこだわってますからドゥルーズよりもヘーゲルよりだとも言えるかもしれませんね。
僕の哲学観のイメージとしては、言語は常にウィトゲンシュタイン「論考」的な真偽2値の切断システムによらざるを得ないものだと考えていますから、言語が矛盾を許すことは原理的にあり得ないと考えます。そこで、矛盾律を必然とする否かによって区別すると、ベルクソンやドゥルーズの世界モデルでは矛盾律が必然となるものであると言えるでしょうし、それは多くの唯物論や一般的な科学的世界像にも通じるものだと思います。マルクスのことは知らないですが、その点でヘーゲルの唯物論はそれとは異なるようなものではないかという気がします。

師匠 ありがとうございます。

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