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2017年9月24日 (日)

身体行動がないと物理的世界はあり得ないのか<ベルクソン「物質と記憶」を読む7>

ベルクソンが物理的世界の成立のために必要だと考えたのはいかなる身体かを考える。

ベルクソンはあきらかに、世界を感受するための受信器としての身体と、世界に働きかける能動的行動体としての身体の両方が、物理的な延長のある世界が成立するために必要だと考えているように思える。しかし、本当に、能動的行動をする身体を持たない者には物理的世界は成立しないのだろうか。

そんなこと、ないよね。
たとえば、生まれつき身体の自由を持たず、四肢五体を自分の意志で動かすことができない子ども。表情も、眼球さえ自分で動かせないのだけれども、世界を見て、聞いて、触れを感じ、暑さを感じ、においや味も味わえる。その子が、一切の行為を自ら為さないままで、心的な言葉を持つことができる天才児だと仮定する。その子にとって物理的世界は、存在し得ないだろうか。たしかに、記憶の中でも、未来の出来事としての想定の中でも、自分の身体を自分の意図でもって動かしたり動かそうとしたりすることができる可能性がないのなら、そこに物質を認識できる可能性はずいぶん制限されるだろう。
Photo_2

もし、その子の右手指先に針が当てられたとき、そこに触覚がありそれを視覚でとらえることができる。(意図的な眼球運動ができなくても見させてもらえるような設定は可能だ。)だから、世界には自分に触覚をもたらすものが「在る」ことを知り得るはずだ。まあでも、その右手は自分で動かすことができないのだから、左手から右手までの距離感や目から右手までの距離感を運動感覚的な認識として知ることは無理だ。だから、この子はあらゆる運動感覚的な認識を得ることができない、とは言えるだろう。距離とは何なのか、方向とは何なのかを、この子が立体的な構成として理解することはかなり難しいだろう。空間を空間として理解することに絶望的な欠陥があるとさえ言えるかも知れない。この子がどれほどの天才だったとしても、その世界が運動感覚的な空間であることはできない。
しかし、だとしても、そこから、この子が、一切の空間的認識を持ちえないと結論付けることは、できないのじゃないか。この子を、運動する以外は何でもできる天才だと設定したのだから、運動感覚の全くないままの変てこりんな空間としてなら物理的空間は構成され得るのではないか。

ベルクソンは「意識」について次のように語っている。

「すでにないものを記憶して、まだないものを予期すること、これが意識の第一の機能です。」(「精神のエネルギー」平凡社「1.意識と生命」p17)

「刺激が回り道をするとき脳に求めるのは、脳が自動的にではなくあきらかに選択的に運動のメカニズムを働かせるでしょう。髄はさまざまな状況から課される問題に対して、出来上がった答えをたくさん持っています。脳が介入すると、それらの答えの中でいちばん適当なものが働くのです。すなわち脳は選択の器官なのです。」(同p21)

「意識が命令する行動と、行動を準備する知覚とのどちらを考察するにせよ、意識は物質に入り込んでそれをとらえ、自分の利益に変える力としてあらわれるのです。意識は二つの相補う方法でこれをおこないます。一つは、物質が長い間かかって蓄積したエネルギーを選択した方向に一瞬のうちに解放する爆発の行動であり、もう一つは物質のおこなった無数の小さな出来事をこの一瞬のうちにかき集め、膨大な歴史を一語で要約するという圧縮の仕事です。」(同p31)

ここを見ると、ベルクソンは意識の仕事が「記憶と予期」と「選択」だと考えていた。この「選択」とは身体行動を自分で選び取ることで、今考察している行動を持たない主体は、この「選択」の機能をもたないものだと言える。その主体は「選択」機能を失ったら物理的世界の構成が大きく制限された。

ではさらに、その主体が「記憶と予期」を失ったら、物的世界を構成することはできるだろうか。でも「記憶」を失ったらダメだろう。
一切の記憶を失った場合、つまり、この今の瞬間に知覚した認知内容まで含めてすべての世界データの記録を失った場合には、そこに物的世界が構成される可能性は無いだろう。そこには物質も世界も構成する材料が無いのだから、物理的世界があることにされる状況が成立するはずはない。

そうなると、ここで考察すべき点として、あと「予期」が残っていることになる。
Photo_3

リアル1、リアル2、リアル3

円錐図において、ベルクソンが示した2極は「記憶AB 」と「身体の行動S」であった。この2極が縮約によって接しあえたときに物的世界は成立するのであった。で、この一端の「記憶」が失われると世界は成立しない。また、もう一端の「行動の選択」が失われると物的世界の成立可能性がかなり制限されてしまう。だから、あと残るは「予期」だ。
ベルクソンは円錐図と「予期」の関係について多くを語ってはいない。でも、僕には、この「予期」が物理的世界の成立の上でたいへん重要であることは疑えないと思える。
つまり、僕には、「記憶」のみによって成立するレベルのリアル1と、「記憶と予期と行為選択」によって成立するレベルのリアル3のあいだに、「記憶と予期」によって成立するレベルのリアル2があるように思われるのだ。
リアル1は、その世界は記憶のみでできているのだけれど、そこに空間的分析はなく、それはもはや物として存在するものでない。物理的存在ではないのだが世界は在る。でも、そこには「私」なるものはあり得ない。リアル3は、空間的に分析できて物理的存在も在り、それは「私」と関係するものとして在る。では、リアル2はどんなのか。

たとえば、例の天才児がリアル1で「トン、トン、トン」という音を聞いているとする。その音は聞こえているのだから、確かに実在するはずだ。だけど、そのリアル1には「私」はいないのだから、それが「私」とどういう関係にあるかは分からない。
そこに「予期」が導入されたらどうなるか。その天才児は、その「トン、トン、トン」の音を次に続く未来でもあり得るものとして捉えることができるようになる。すると、それによって、「トン、トン、トン・・・」のなかに「私」を入れ込んだものとして、そして「持続」するものとして世界が捉えられるようになるのではないだろうか。ただし、まだこの時点での「私」は世界に働きかける「プレーヤー」ではないが、世界を感じ取る「観客」として、その世界の中に存在することができるようになるのじゃないか。
つまり、「記憶」によって、混沌の「舞台」としての「リアル世界1」が生まれる。これはまだ普通の意味では実在ではない。「予期」によって、その舞台を観る観客としての「私」を含む「リアル世界2」が生まれる。これもまだ普通の意味では実在ではない。そして、「行動選択」によって、その舞台で世界を演じるプレーヤーとしての「私」を含む「リアル世界3」が生まれる。これこそが、普通に言われる意味での実在の物理的世界になる。

ベルクソンは円錐図で「予期」についてあまり語っていないと言ったが、それでも、ベルクソンは円錐図において、平面Pを「可動平面」であり、「宇宙に関する私のアクチュアルな表象」だとして、円錐の外側に描いている。だから、あきらかにベルクソンは記憶からはみ出すような「予期」を想定していたと考えるべきだと思う。
もちろん、リアルな物理的な世界の構成には「プレーヤーとしての私」と「物」が絶対必要であり、そのために「行動選択」が絶対必要である。それはもちろんそうなのだが、そこには必ず「観客としての私」と「予期」もセットでないとダメなはずなのだ。
そして、例の天才児が「行動選択」機能を持てなくても、「予期」機能を持てているなら、物理的世界とは言えないかもしれないが、某かのリアル世界は構成されるとして良い・・・はずだ。

このとき、「予期」とは、つまり、私が3秒後に3秒後の私になるという論理飛躍を受け入れるということ。それを受け入れることこそが私の生だということ。そして、その「私の生」が、物的世界レベルのリアルと質感のレベルのリアルを結ぶということ。

ベルクソンがエランヴィタール(生の飛躍)を力説したのはそういう意味ではなかったのだろうか。

このような解釈について、僕には疑う余地はないように思われるのだが、どうだろうか?

と、今日の考察はここまで。

※以下の( )内は僕の勘違いの話だった。本来削除すべき内容かもしれないが、自戒の意味も含め、そのままにしておく。

我々の知性の、出来つつあるものを出来上がったもので理解するという習慣が、持続を空間的に固定化して理解する。自由意思の問題は、そのために捉え損なった疑似問題だ。ということを、ベルクソンは「物質と記憶」の前著「試論」で既に述べていたらしい。ここでベルクソンの勘違いを疑った僕の読みはまったく外れで、僕の勘違いだった。どうも失礼でした。

(なのだが、少しだけ、どうでもいい付け加え。ベルクソンは「物質と記憶」でも、「行動の選択」と「決定論」の関係の話で、反応の「不確定性」にくりかえして注目している。そこでは、決定論と行動は別に考えるものであるという話をしている。しかし、「精神のエネルギー」では次のように言う。「脳はどの道からやってきた振動であっても、運動のどの道とも連絡する交差点なのです。それは言わば、身体組織のある一点から受けた電流を思い通りの運動の機関の方へ向けることのできるスイッチなのです。」(同p21)これを見ると、ベルクソンは、脳によって行為を変え得る可能性があると考えているように読める。これに関しては、僕はその意味が分からない。僕にはどうしても、決定論と行動が独立だとするのであれば、「脳によって行為を変え得る可能性」を認めてはならないとしか思えない。決定論と行動が独立であっても、「脳が選んだ行動をすること」には問題ない。しかし、それは「脳によって行動を変えること」とは全く違うと考えるべきで、この点に関して、ベルクソンは誤謬があるようにしか思えない。まあ、細かい話だが、こだわっちゃった。この点について僕の考えは「運命からの自由を問うてはダメなわけ」のページに詳しく書いている。しかし、ベルクソンは一方で、「この記憶とこの先取りとが意識そのものである。そして、これこそ、事実上ではないまでも権利上において、意識が生命と共存的である理由である」(「精神のエネルギー・意識と生命」)とも語っている。いくつかの不明はあるが、ベルクソンがここで問うべき自由を「選択可能性」ではなく「行為者性」として捉えていたと読むこともできると思う。

今回の話は、僕の独自の読みでしかなく、かなりの眉唾物かも知れない。「リアル1,2,3」などというのも僕の造語なので他で使わないでね。

次節こそ、ドゥルーズの読みと絡めてベルクソンの二元論を考えたい。

つづく

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