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2017年9月10日 (日)

ベルクソンが二元論を採るわけ<ベルクソン「物質と記憶」を読む5>

「物質と記憶」が二元論の書だとベルクソンは断ずる。二元論だと馬鹿にしてはいけない。僕は一元論派で二元論者をずっと否定してきているのだが、このベルクソンの二元論はすごく面白い。二元論もアリだと思わせてくれる。
本節では、前節に引き続いて、円錐図からどのように物質が生み出されるのかを考えるつもりだったが、その考察をするための準備として先に、ベルクソンに二元論の意味を考える必要があったので、先にその考察をさせてもらう。

「この一書が肯定するのは、精神のレアリテであり、物質のレアリテであって、そのうえで両者の互いに対する関係を、一箇の明確な事例、つまり記憶という事例にもとづいて規定することが試みられる。本書は、だからはっきりと二元論的なものである。」(「物質と記憶」岩波文庫p15)
として、ベルクソンははっきりと二元論を採る。しかし、
「二元論を極限まで押し進めたことによって、私たちの分析はおそらく、二元論にあって相矛盾する要素を分離する結果となったのである。純粋知覚の理論が一方で、純粋記憶の理論が他方でその場合準備するはずなのは、延長を有しているものと延長を有していないもの、質と量との間を接近させるための道筋なのである。」(同p355)
とも言っている。
ベルクソンはこの書において、二元論を採ってはいても結局その二つの折り合いを付けてしまう。だから、ベルクソンの二元論は、心的なものと物的なものが矛盾し合うとするものではなく、その二つを折り合わせることができるような二元論である。だから、僕なんかはそれを一元論と言っても良いのじゃないかとも思うのだが、ベルクソンにとってはその二つは決してどちらかに還元できるのではないのだから、どうしたって二元論だと言わざるを得ないものなのだ。
Bergson
ベルクソンの二元論とは、
一方は、質的で、延長がなく、分離不可能で、内包的で、強度的で、非物理非空間的で、語り得ず、純粋な記憶に関するものであり、円錐図のAB面に当たり、持続する。
もう一方は、量的で、延長があり分離可能で、外延的で、程度の差的で、物理的空間的で、語り得て、行動の対象になり、円錐図のS点に当たり、持続しない。
この二元論は、確かに或る意味では、世界の精神的な側面と物的な側面を対照的に捉えるものではあるが、その対比は、持続する世界と持続しない世界との差を見るものでもある。
だから、たとえば、運動と無限の話についてでも、その捉え方はそれぞれ独立の話になる。飛ぶ矢は、ある時刻の0時間の瞬間において、ある一点の場所に、その存在する位置が固定的に決まる。ところが、その矢の運動をそのように捉えてしまうと持続しないものでしかなくなってしまう。(この矢の位置について、ベルクソンは「空間的な見方をすると一点に静止することになってしまう」としているが、ここでは「静止」ではなく、ベクトル的なイメージで運動するものでありながら一点の位置を占めていると捉えるべきだろう。けれども、そのように捉えたとしても、矢の位置が一点に決定されてしまうことと持続とは両立しない。)矢の存在する場所を一点に固定したものと捉えるとき、その一点をベクトルとして捉えてそこに速度ベクトルとして微分化された運動を隠し持っているとしたとしても、その一点だけではその矢はその運動の「質的味わい」を持ち続けているとすることはできない。それゆえ、一点を固定してしまうと持続は失われてしまう。この持続について、無理を押して言うとすれば、距離÷時間でm/sを単位とする値が得られそれが矢の速度を表すのだが、それに対して持続は、時間÷時間でs/sという単位にはなり得ないものを単位とせざるを得ないようなものだ、などという説明ができるだろうか?もちろん、このような比喩は厳密には誤りなので、不適当かもしれない。

「あなたは行程を軌跡に置き替えてしまい、行程の背後には軌跡が広がっていることをもって、行程と軌跡が一致すると思い込んでしまう。しかしながら、いったいどのようにして、進行が事物と、運動が不動性と一致するというのだろうか。ここで容易に錯覚を生むのは、私たちが持続の流れのうちに瞬間を区別し、運動体の行程について位置を区別するのと同様だ、とする事情なのだ。」(同p372)

運動の軌跡は確かに物理的時空間に当てはめて一点を定めることはできる。しかし、そうすることで持続は失われる。しかし、運動を記録するにはそうするしかないように思われる。
また、たとえば、歌われている歌のメロディについて、その音色と音程と時間的な並びを物理的時空間に並べて記録し記すことはできる。しかし、その記述はどこまでも細密にできたとしても、そこに持続するメロディの「質的味わい」を記すことはできない。ここで問われる質は、二元論の問いでよく問われるクオリア的な意味ももちろんあるのだが、ベルクソンはその「質」の本質を変化し続ける流れの中にあるものとし、持続こそが質の中心的なアイテムになると考えている点で、かなりユニークである。

二元論を統一しようとした点で、怒りや喜びなど感情の強度的な量を身体の反応として表れる数値的量で示すことができるとした行動主義的な考え方も、ベルクソンの捉え方に通じるように思われる。ところが、ベルクソンはこれを完全否定する。ベルクソンによれば、その強度的量は決して延長的量には還元できず、完全に独立のものだからだ。
では、世界の全てを、私の夢だとし私が捉えた観念として捉えようとした観念論は、二元論を統一しようとした点で、ベルクソンの捉え方に通じるものだろうか。ベルクソンはもちろんこれも否定する。ベルクソンの世界モデルにおいては、私は一つのイマージュであり、物的世界も一つのイマージュであるのだから、その片方がもう片方に内在されてしまうことにすることはできるわけがないのだ。

ベルクソンはそのような一元論に回収できないような質と量の問題を、世界が矛盾してるとするような安直な決着で納得したりせず、互いに独立させたまま折り合いを付ける術を探る。どうしたかと言うと、こうだ。

「物質の分割可能性とは、まったくのところ物質に対する私たちの働きかけに関係し、言い換えれば物質のアスペクトを変様させる自分の能力に関わるものであって、当の分割可能性は物質自身にではなく、この物質の背後に張り巡らされて物質を私たちの手に転がり込ませる空間に帰属するものであるとすれば、その困難は消え失せてしまう。」(同p431)

ベルクソンにとっては或る意味で、イマージュが世界そのものであり、世界そのものが物質であった。その視点において、イマージュは分析可能であり分割可能である。そして、また同時に、イマージュは、物質とは独立の視点で質を有し、その視点においては分析不能であり分割不能である。このイマージュにおいて、物質が分割可能だとする分割の仕方は物質そのものが超越的な既定として決められているものではなく、そのイマージュの一部であるところの私の身体がその行動によって規定するものだとするのだ。ここで言う「私」とは決して超越論的な主体ではない。もちろん永井均の〈私〉でもない。単に世界の内部に存在する身体としての私である。そのような身体的で人格的なレベルの私が世界の意味を規定すると言うのだ。なんと。そうすると、量的世界と質的世界が結ばれてしまうことになるのだ。そんなことで、いいの?という「目から鱗」的二元論なのである。

そのような二元論でもって、世界の構成を考えるのだから、ベルクソンの世界モデルでは、質的な記憶と物的な身体の取り合わせでもって物質世界が生まれることになる。

というわけで次節でやっと、円錐図において、質的記憶ABと物的身体Sがどうやって物質と空間を作っていくかを見て、ほんとうに二元論が解消されるのかを検討することにしたい。

次こそは、アクチュアリティやヴァーチャリティの視点とも絡めながら考えてみたい。

つづく

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