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2017年9月 2日 (土)

ベルクソンの円錐図<ベルクソン「物質と記憶」を読む4>

ベルクソンの有名な逆さ円錐の図について考える。考察する上で3つのポイントに注目していきたい。
1つめは、円錐の構成の意味についてであり、2つめは、その円錐が、時間軸上でなく、持続上に描かれていることの意味であり、3つめは、その構成において記憶と運動からなぜ物質が生まれ出るのかである。
順に考えていこう。

Photoベルクソンの円錐図

逆円錐の構成

この図は、前節で見た円環平面を立体化して拡張したものである。それは、平面Pに対してその上の1点Sで接する逆さの円錐SABで示される。平面Pが宇宙を表し、点Sが身体とその行動を、円ABが純粋記憶を表すものとされる。行動を一切含まないような純粋な記憶としての底平面ABと、記憶と一切関連がないような純粋に無心の行動としての点Sの間に挟まれた逆円錐は、私が生きる持続のあり方そのものを表し、その運動は点Sにおいてアクチュアルに宇宙に接する。

底面ABは純粋な記憶を示すものであり、それは、前節で取り上げた「朗読の記憶」または「表象の元になる記憶」の極限を指すものである。過去に関する記憶なのだけど、その記憶はまったく行動を含まないので、「どんな風に行動しよう」とか「世界がどんな風になっている」とかを思うことが全くないままに、勝手に浮かびくる自発的な記憶であって、一切の分析作用をまったく含まないものだ。それゆえ、そのまるまる全てが混沌だと言えるようなものである。ベルクソンはこれを「幼児の記憶」や「夢の記憶」と表現している。一切の分析が為されないのだから、その記憶の中でどれとどれが同じだとか似ているとか違うとかいう判断もあり得ず、あらゆるものには区切りの境界もない。自己同一性を計る手がかりになりそうなものを何も持たない。それゆえ、個々のものは他と区分され得ず全くのカオスなのであるが、そうでありながら、しかし、一般化が一切為されていないという点でその記憶の中身は全てが特殊であり個別である。個々のイマージュのどれとどれが似てるとか、同一であるとか、などというところを探すという視点自体があり得ず、どことどこが違うかという視点しかないような世界把握の状況である。否、「世界把握」とさえ言えないような混沌状態そのものなのである。
これは、まるで、ヘーゲルが「精神現象学」でもって「感覚的確信」と名付けた認識だと思える。それが何であるかを語れる様な分析は一切為されていないが、それゆえに、逆に、最も豊かな認識であるような世界の内容である。
ヘーゲルはこの極限的認識に対するもう一方の極限についてはあまり深く注目した言及をしてはいないが、ベルクソンはそっちの方の極限にも注目した。それがもう一方の極限の頂点Sと平面Pである。

平面Pは、宇宙に関する私のアクチュアルな表象である。そして、そのP上の点Sでもって私の身体のイマージュが集中して現れる。私の身体が現実的に宇宙と作用し合うトレデュニオン(連結線記号「-」・ハイフン)である。平面ABと完全に切り離され、その「豊かさ」も何一つ持ち込まないで、私の行動だけが世界と関係し合うという場合、そのSは無意識の行動だということになる。それは、前節でみた「習慣としての記憶」に基づいて為されることがらであり、「意識を持った自動人形」のように「習慣の坂を転がり落ちる」ことである。単に入力刺激をそれに対する反応へと繰り延べていくことだと言えるだろう。ベルクソンの言う例示によれば、それは「下等動物」の行動であり「衝動的な人物」の行動様式である。実際の行動はあるのだが、それを意識して反省的にフィードバックして認識することはなく、それゆえ厳密な意味での表象が現れることはない。

それでも、その平面Pと接することで点Sは世界の要素を一般化し分析する能力をもつことになる。
ベルクソンは「習慣と行動の関係は一般性と思考の関係に等しい」と言っている。S点における習慣と行動が世界に一般性をもたらし、世界を判別可能で分析可能なものにし思考を可能にする。つまり、身体が実際に行動を取り得るときというのは、個別の場面状況が習慣によって特定の行動パターンに振り分けられるときなのである。これは或る意味で、習慣が世界の混沌を振り分けてデジタル化する作業になると言える。個別の混沌が、行動の様式によって一般化され、分割可能で概念化可能なものにされて、世界の中に同一性と関係性を生み、思考を可能にする。この点で、「習慣と行動」は「一般性と思考」とパラレルであると言える。そのようにして、行動する身体の頂点Sは世界を理解可能にする。それは、SとPとの接点があるがゆえに起こりえるものであって、Sだけで接点がないなら成立しない。ABが無ければ分析するべき世界そのものを「生の対象としての存在」にすることはできないのだから、AB面とS点の両方が世界を構成するための必須アイテムだということになる。この2つがセットでなければリアルな世界は成立しない。しかし、この2つがセットになれば必ず世界はリアルなものとして成立する。(ここで言う「リアル」が何を意味するものかという問題もあって、それをはっきりさせないといけないところなのだが、それは次節にまわす。)

あえて言うなら、純粋記憶の平面ABは「観相性の記憶」であり、かつ、「意味論的意味」に満ちた記憶であり、身体の頂点Sは「運動性の記憶」であり、かつ、「統語論的意味」に満ちた記憶であるという言い方をすることが許されるだろう。
意味論的意味だけは豊穣だが、統語論的意味を持たなかった記憶は、そこで身体という存在を想定しその身体が運動することで、そこに統語論的意味を生むことができるというのである。

Photo_2

縮約と弛緩

図中のAB-S間の縦向きの交流作用のうち、ABをSへと押し込んでいく方向の運動を「縮約contraction」(「収縮」と訳される場合もある)と言い、逆にSをABへ緩めていくことを「弛緩relâchement」と言う。縮約によって、世界は分析され、物質や時間や空間を有する世界に生み直され、物理的実体を持つものとして肉付けされる。また、「弛緩」によって、身体は過去を得るとともに意識を持ち、世界を味わい、命が与えられるようになる。縮約と弛緩は純粋記憶ABと身体Sとの間を行ったり来たりしながら認識に意味を深めていく。
また、一方、前述したように、この円錐の底面ABと頂点Sに間には、いくつもの円形の断面が内含されるが、この断面はそれぞれが前節で考察した「円環」を示している。こっちはこっちで、横方向に認識を回転させながら、記憶と知覚が互いに補完しあい増強しあって世界を成すものとなる。

「統合された記憶は、現在の状態からの呼びかけに対して、2つの同時的な運動を通じて応答するのだ。その一つは並進運動であって、これによって記憶は全面的に経験に向かってすすみ、かくて行動のために、分割されることなく多少ともみずからを凝縮させる。もう一つは自転運動であり、それを通じて記憶は、現下の状況へと方向付けられながら、その状況に対してもっとも有用な側面を提示する縮約におけるこうしたさまざまな段階に、類似性を通じた連合にあって、その多様な形態が対応しているのである。」(「物質と記憶」岩波文庫p332この熊野訳では「縮約」ではなく「収縮」、「並進」ではなく「併進」と訳されていたが本ブログとの整合性を考えて横山が書き換えた。)

ベルクソンは、この円錐の縦方向の運動を「並進運動translation」と言い、横方向の運動を「回転運動rotation」と言い、この並進運動と回転運動とが両方合わさって、世界が成立すると言った。記憶は運動と絡まり合い、知覚と絡まり合いながら世界を構成する。
(ただ、並進運動と回転運動という翻訳が適切なのであれば、それは、剛体の運動についての言葉で、円錐を剛体と見て縦方向への運動と横方向への回転を捉えるものとするように言っているとも見えるが、ここでイメージするべき並進運動と回転運動は剛体のそれではなく、もっと流動的に、ぐちゃぐちゃになって混ざり合うものであるべきだと、僕は思う。)

 

持続と円錐

円錐は以上のような構成をもつ。ではそこに持続はどう関わってくるのだろうか。
次に、持続について考えよう。
何でも早とちりしがちな僕は、「ABが過去でS点が現在」だと誰かが評していたのを聞いて、この円錐の縦軸は時間軸なのかと考えてしまったのだが、それは全くの間違いであった。確かにAB面は過去を表しS点は現在を表すのだが、それは、AB面が世界を受動的に捉える側面であるという意味であり、S面が能動的に捉える側面だという意味であるというだけのことである。たとえば、知覚は一般的には現在の出来事を対象にするものだとされるが、このABS図においては、その知覚のうちの受動的な側面はすべて、言わば、過去の記憶だとすることができ、過去の内容だとしてしまえる。つまり、ここで「世界が過去のものだ」と言っているのは「世界が私の観察対象でしかない」とするというものだ。そして、もう一方で、その知覚の能動的な側面だけを現在の内容だとして、受動的な側面と分離させることもできる。「世界とは私がプレーヤーとして行為することそのもの」であってそれが「現在」だするような捉え方をして、受動的世界に対して能動的世界とする。その両者の分離が現在と過去の対立だとするのだ。この分離は、時間軸上での時間の変遷を示すものではなく、同時に起こっている一つのことがらを、その内容によって過去と現在に分けて捉えているものだと考えられる。この円錐図は、物理的で固定的な時間軸座標を前提してそこに後から乗るようなものではなくて、逆に、この円錐が時間を生み出すのだ。
この円錐内部は全て記憶からできているとも言える。頂点Sの先端部分でも、「今、行動してみた結果」が「今」という過去としてある。そこには「今、行動すればどうなるか」という期待があり、そこで、身体としてのSは宇宙という平面Pに対して動こうとしている。だから、捉え方によってはその先端の内部が過去で外部が未来だとも言えるかもしれない。そう言えるかもしれないが、これは持続として捉えるべきものである。なので、「今、行動すればどうなるか」と「今、行動してみた結果」が互いに混じり合った混沌のままで、一般化されない個別なままの世界としてある。つまり、「世界の時間的変化」がいわゆる弛緩的な状態としてあるのだ。それが、その混沌のまま変化し続ける状態が世界の基盤としてあるのだ。そして混沌のままに変化し続けるその身体的行動は、その行動によって縮約され、統語論的意味を持てるようになる。そのようにして、そこに弛緩的な持続とは別の、縮約的な時間が生み出される。という風にして捉えるとすると、物理的時間は持続の基盤の上に組み立てられるものでしかないというわけだ。

否、それでもまだ言い過ぎかもしれない。ベルクソンに言わせれば、「時間なぞ実在しない。あるのは持続だけだ」と答えるかもしれない。ベルクソンにとっては、持続こそが世界なのだ。

そのように、ベルクソンは時間の認証に対しては否定的或いは消極的なのだが、空間と物質については、持続と身体によって生まれると積極的に確かに認めている。

次節で、その考察をしたい。

アクチュアリティやヴァーチャリティの視点とも絡めながら考えてみたい。

つづく

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