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2017年8月17日 (木)

ベルクソンのやり方<ベルクソン「物質と記憶」を読む0>

ドゥルーズを読むためにベルクソンの「物質と記憶」を読んだ。これがなんとも面白かったので、ドゥルーズは横に置いておいて、先にこれをまとめておきたくなった。新しい章を立てて書いていこうと思う。

Bergson_2

アンリ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランスの哲学者。20世紀に最も読まれた哲学者はベルクソンとニーチェだと言われるくらいメジャーなんだそうだ。ドゥルーズやメルロポンティに注目され、再評価されてるんだって。

この「物質と記憶」は彼の第2の主要著で、持続と物理世界と主体について考察し、二元論の矛盾を解こうとしたものである(し、僕にはちゃんと成功しているように思える)。カントは、実在論と観念論の関係を、いわゆるコペルニクス的転回という新しい切り取り方をすることによって統合したが、ベルクソンはそれをさらに一般化したものだとも言えると思う。カントのやり方では、「主体が感性・悟性・理性という形式で世界を切り分け、主体が超越論的視点で世界を見ることで初めて世界が世界として成立する」とし、「世界は、主体の経験によって初めて実在するものになる」とし、そのような設定をすることによって実在論が観念論に支えられなければならないことを明らかにした。

それに対して、ベルクソンのやり方では、

1.「主体は単なる世界の観客ではなく、世界のプレーヤーでもあり、それゆえ、主体は物理的世界を生の希望として生み出す」というように、主体の位置づけを変えた。

2.「世界は固定的に切り取られ得る物理的時間だけではなく、止まった時間として切り取られることができない『持続』の中でだからこそ立ち上がることができる。それは持続の中で、記憶と可動的な身体とが互いに補完し合って関連することによって初めて『私が生きる世界』として立ち上がることができる」というように、世界が生の場であることをはっきりさせた。

そのようなやりかたであって、カントとはずいぶん違うけれども、そのやり方は主体によって成立する世界ではあるが、決して観念論に陥らないで、きちんと実在世界を組み立て、観念論と実在論が矛盾しないような世界モデルにしてしまうってところは、全くカントの路線だと言えると思う。
まさに「記憶と物質」に注目すれば、二元論の矛盾が解消されてしまうだけでなく、決定論と自由の矛盾も解消し、さらに「希望」としての世界が立ち上がってくるのだから、びっくりの面白い論立てであった。

次節から、順に解説していきたい。

つづく

ベルクソン「物質と記憶」を読む

twitterはじめました

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コメント

 カントとベルクソンが案外似ていると思われるのは、観念論と実在論を調停しているように思われるからですかね。カントの場合は、物自体というのを想定し、意識の側から物質世界にアプローチするのに不可知論という戦略を用いるのですが、ベルクソンの場合は持続の場としての時間を物質世界から物質と精神の中間あたりにずらすことによって、自由意志の問題を決定論のジレンマから解放したように見えるところが成程当時としては凄いアイディアなのかと思いました(うろ覚えですが)。カントのような構成法を採らずとも、世界との関わり方を考えれば、おのずから出てくる思考法の一つのタイプなのかなとは思います。少し観点はずれるでしょうが、超越論的視点や形式への当てはめ(構成主義)を採用しなくても、ただ生の持続に想いを馳せることで宗教的なものを否定できないのではと考えるようになりました。以前は無神論を神の不在としての顕現と捉えて有神論と並立しているというスタンスだったのですが、生に対する想いの強度の違いというか神をより近い側として捉えたほうが良いのではないかなと。さっぱり伝わらないかと思いますが、これでも割と考えたほうです。頭がおかしくなってしまった可能性すらあります。ともあれ、横山さんのベルクソン論、期待しております(行く会が多くなったこともあり、あまり行けてませんが、ドゥルーズのときは行くつもりです)。分析哲学をメインにやってこられた方がベルクソン及びドゥルーズをどう読むのかは純粋に興味があります。

イイダさん、コメントもらえて嬉しいです。ありがとうございます。
僕がベルクソンとカントの路線が重なるとしたのは、おっしゃるとおり、観念論と実在論の統合の手立てになっている点についてです。物自体には到達できないとしても、世界は主体の設定した形式モデルによって初めて意味を持つものになるとしたカントは、世界を神の手中から主体の手に取り戻したとも言えると思います。ベルクソンはその到達不能な物自体まで否定することで、神から世界を取り戻す作業をさらに進めたと捉えることもできると思い、同じ路線を先に進んだものと考えました。

上のコメントで「生に対する想いの強度の違いというか神をより近い側として捉えたほうが良いのではないか」とイイダさんがおっしゃっているのがやはりよく分からなかったです。僕は去年の大哲例会でマクタガートと永井の時間論を否定的に捉えて発表しましたが、そのときに、「主体の捉え得る世界は、自身と他者や他時刻の私までふくめた世界としてなお主体が到達できていると想定すべきであり、そこに立ち上がる世界は一神教の神による世界と完全に一致する」というような話をしました。実在論と観念論を統合することで神からもぎ取った実在世界は結局、一神教の神が作った世界そのものになる、という捉え方ですが、イイダさんがおっしゃっているのはそういう感じでしょうか。
って、僕の言うことの方が伝わりにくいでしょうね。

僕は、英米哲学を中心に読んできまして、それでも英米系哲学の十分には理解できていないのですが、ましてやフランス系哲学は言葉遣いからして分からないことだらけで、ずいぶん読み間違いがあると思います。イイダさんにはいろいろと教えて貰いたいことがあります。ここでしばらくは僕のベルクソンドゥルーズ理解を書いていこうと思っていますので、こうやってコメント貰えるとありがたいですし、また、大阪哲学同好会の11月の発表時にも来て貰えるなら心強いです。よろしくお願いします。

師匠 こんばんは、 お久しぶりです。
ベルクソンですね。いつもながら凄いです。なんか既にものにされてるし。

>1.「主体は単なる世界の観客ではなく、世界のプレーヤーでもあり、それゆえ、主体は物理的世界を生の希望として生み出す」というように、主体の位置づけを変えた。

これって、このブログで師匠がいつも言われてることじゃないですか。

つまり、世界のプレイヤーとしての主体から語るというスタンスですね。カントは、物自体に対する主体側に残って、超越という一工夫をしますが、ベルクソンは先に主体を超越させて、そこから構成してるんじゃないか。だから、始点は違うけど、似てるんじゃないかなと。

それから、師匠は別のところで、「反実在論的虚無主義」と言われてますが、ちょっとかじったベルクソン情報には、ベルクソンは、「反実存的楽観論」であるというのが、ありました。これって、前者と一緒のことじゃないですか。「楽観」は、ベルクソンが、「生」を語りますからね。

つまり、ここで、ダメット⇔師匠⇔ベルクソン、とつながるわけです。mayutuba,mayutuba.

しかし、直前のイイダさんとのやりとり、感動しました。神様の話、好きなので。

taatooさん、おひさしぶりです。コメントありがたいです。
ベルクソンの「反実存的楽観論」の話、興味あります。
僕のいう冒険的で虚無主義的な反実在論と、ベルクソンの哲学は繋がるだろう、という思い込みが元々僕にはありましたので、僕が読んでいるベルクソンはどうしてもそちらに引っ張られた解釈になってしまいます。
でも、そのように評価している人がいるのなら、僕の独りよがりな解釈ではないと言えるかもしれません。

でも、その「反実存的楽観論」を検索してみましたが、何も掛かりませんでした。
誰が言っていた話か分かれば教えてもらえますか。

師匠 おやすいご用です。と言いながら...

WEB‐哲学好事家の私ですが、今回の「反実存的楽観論」については、ネット上で見つけたわけではなく、しかも、ネット上に無いということが、今わかりました。なんと。

言った人は、戸島貴代志さんです。
著書の「現代フランス哲学に学ぶ」の第3章に出てきたと思いますが、残念ながら私の手元にはありません。amazonで購入できますが、図書館に置いてるかもしれません。

それから、WEB上では、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/philosophy1952/1992/42/1992_42_192/_.../ja/
ここに、戸島さんの論文(PDF)があります。


taatooさん、大助かりです。ありがとうございます。
その「現代フランス哲学に学ぶ」は僕の取り寄せられる範囲の図書館にはなかったのですが、図書館で戸島著の関係ありそうなものを選んで取り寄せ予約しました。
Jstageにあったpdfのうちにも、「反実存的楽観論」という言葉そのものは見つけられませんでしたが、実存とか死とかニヒリズムとかオプティミズムとかペシミズムとか、そのあたりのことを書いている物を見つけられましたので、ダウンロードしました。読んでみます。

師匠 こんにちわ

申しわけありません。「反実存的楽観論」のことですが、私の間違いでした。実は、「半実在的楽観論」でした。音で聞いていたので、「反」と思い込んでました。謹んで訂正いたします。

おわびに、一部、抜粋してみます。

「 しかし、自己と一致した生にとっては、世界は<それにもかかわらず>存在するのではない。生の絶えざる進行とともに開かれた世界は、当の生には、その生の<緊張の度>あるいは<創造の要求の度>に見合った水準で、いわば存在すべくして存在しているからである。「無の経験」が「経験の無」でしかないこの世界では、<なぜ何かがあって何もないのか>との問いは蒸発する。ここに、「無の経験」を必須要件とする哲学との決定的な相違が生じてくることを、第2章ではハイデッガー哲学との対比で述べた。
 こうした底無しの楽観論は、しかし生自身のたゆまぬ前進性・創造性に裏打ちされており、さらにこの創造性は先の「努力」の無根拠性 -生の努力を支えるものは当の努力以外存在しないということ- と表裏一体である、これが本章の結論である。このような半実存的楽観論をいわば地で行く<ベルクソン>を、次回では、ベルクソン哲学にける神秘の問題とともに敷衍しよう。」(「現代フランス哲学に学ぶ」60,61ページ)

「反」「半」違いでした。恥ずかし。
負け惜しみもありますが、結論部分はカントや言語とつながるような気がします。

taatooさん、ありがとうございます。
やはり戸島貴代志面白そうですね。
先日紹介してもらって、「創造と想起―可能的ベルクソニズム―」ってのを借りてきました。まださわりしか読めてませんが、なかなか良いです。
ハイデガーもベルクソンも生の哲学を問うたが、ベルクソンのほうがより生を肯定し、ハイデガーのありがたがる死なんかなくても生は生としてちゃんと世界を構成するんだからそれで良いじゃん、って感じのことを考察してるようでした。また、多くの実存はなんかペシミズムに陥っちゃってるけど、もっと肯定的に、世界は希望できるものだと捉えられるんだからそれで良いじゃん、って感じでした。「半実存」ってそういうことでしょうか?
僕が今読んでいるドゥルーズも、そのベルクソンの、ダメット的で肯定的な反実在論をさらに進めたものではないかと疑って読んでいるので、そこにもつながるかもしれません。
ちょっと時間はかかると思いますが、それらのつながりを考察しながら読んでいきたいと思いました。

放送大学ラジオで、その「現代フランス哲学に学ぶ」の講座がまた今日から始まってました。さっき気がついたので、今日の一回目は聴けませんでしたが、来週分から聞こうと思います。毎週日曜7:45~8:00らしいです。

師匠 こんばんんわ 師匠のおっしゃる通りだと思います。

最近まで頭が「反」になってたので、また違うことを言ううかもしれませんが、

ここでの「実存」は、ハイデッガーの「実存」を言ってることは、間違いありません。
とすると、「死」を必須要件とするハイデッガーに対比して、ベルクソンは「死」を必須要件としない。つまり、「生」と「死」を二項対立させ、「死」によって際立たせるような「生」を考えるのではなく、「死」を「生」の一部として取り込み、(ここで「死」が蒸発する)「生」を「生」として考えるということじゃないかと思います。

ゆえに、「生」の前進性、創造性の躍動だけがあり、しかも、それでいいのだ、という。これって、師匠の言われる、言語の「冒険性」であり、「無根拠性(虚無)」と一緒だと思うのです。

じゃぁ、「半実存」てなんだろか。戸島さんの明確な定義は見当たらないですが、「生」と「死」のセットが「実存」だとすれば、「生」のみだから「半実存」てことかなと思いました。「生」の躍動の「楽観性」って、「言語」の「冒険性」と似てるなって思います。


師匠 おはようございます すみません つづきをもう少し

「反」が「半」だと、わかった段階で、わかってきたことがあります。

「あるものの客観的実在性を否定する立場」が、「反実在論」の立場とすると、「実在」は、「客観的実在性」です。「外観」と言ってみます。

ハイデッガーの「実存」は、「世界内存在」であり、師匠の言われる「プレイヤーとしての主体」ですね。「客観の中に組み込まれた主観」=「内観」と言ってみます。あるいは「間主観」ですね。

「内観」(実存)と「外観」(実在)が、表裏一体にあるのが、ベルクソンやハイデッガーの世界観のようです。

つまり、ダメットの「反実在」とは、ここでの「実存」のことで、「半実存」は、半分ではあるけれど、スタンスは「実存」であるので、この点で、両者は同じ側(内観)であると言えると思います。

taatoo さん、ありがとうございます。
なるほど、分かりやすいです。

師匠 すみません。
師匠と戸島さんの話から、スタンスをつなげただけの、身も蓋もない感じです。と言いながら、性懲りもなく。

師匠が、カントとベルクソンは似ている、と言われたことを考えていました。

主観が客観に埋め込まれることによって、内側から観た客観と外側から観た客観があるんじゃないか。前者が「物」であり、後者が「物自体」じゃないだろうか。あるいは、内観を「観念」としたら、外観が「物自体」になるんじゃないか。

としたら、似てます。


taatooさん、どうもわからなくなっちゃいました。内側からみた客観が物で、外側から見た客観が物自体ですか。その、内側と外側、客観などの言葉が、何を意味するかを共有するためには、もう少し丁寧に手間を掛ける必要があるのかもしれません。

師匠 すみません ここは自分の思いつきなので、手間を掛ける必要はないと思います。

ありがとうございます。

taatooさん、いやなかなか興味深い視点を授けていただいたような気がしています。その、外側からの視点こそがドゥルーズの問うヴァーチャリティに関連するものではないかと今日ずっと考えながら「差異について」を読み返してました。でも、それってtaatoo さんが言ってた「外」と同じものかどうかは疑問ですけどね。

師匠 ありがとうございます

「外側から観た客観」は、微妙です。人は「外側」に立つことは、できないです。

師匠 恥ずかしいですが私のイメージをもう少し

死は生に取り込まれ、生の一部となるように、主観も客観に取り込まれ、客観の一部となる。ただ、主観と主観と接触した客観の一部は内観となり、他方、主観と接触しなかった客観は外観となる。(ここで、客観が2つに分化する。)そして、内観と外観は表裏一体であるがゆえに、内観側から外観側を観ることはできない。トランプのカードを裏から観ても、表の数字が観えないように。それなのに、人はなぜ内観で外観側を知ることができるのか。カードの向こう側に回り込むことのできない以上、カードを透明にするしかない。つまり、内観側から外観側が透けて観えるのだ。普段は、眼の前の透明なアクリル板の存在に人は気づかないだけなのだ。ただ、透けて観えている外観側と実際の外観が全く同じかどうかを、人は確認することができない。けれど、外観は、もともと1つの客観から分化したわけで、向こう側に回り込むことはできなくても、無いとは言えず、おそらく有る。

taatoo さん、詳しい説明ありがとうございます。
言われている内容が理解できるような気がします。
ダメットは「隣室での机の有無」について「隣室に行けば分かる」とすることの無価値を問いましたし、ベルクソンは「建物の正面しか見えない側から見たときの建物の側面の有無」についてそれを正面の側からの問うことの価値を問いました。taatoo さんの問いにもそれに近いものがあるように感じました。
ただ、コメント文末の「おそらく有る」という表現に違和感を覚えました。ダメットやベルクソンの視点では「おそらく」という言い方に意味がないとされるだろうと思われるところです。まあ、しかし、そこに仕立て上げられた実在世界に浸り切るのであれば「おそらく」という言い方は完全に妥当なものでしょうから、そのレベルの話なのであれば、違和を感じてしまう方がおかしいのでしょうけどね。

師匠 ありがとうございます。

こんなへんてこな世界像に、理解を示して頂ける人が居るとは、幸せです。生きててよかった、くらいです。しかも、安易に「おそらく」をつけたところを指摘頂くとは。実は、送信してから、私も「おそらく」に違和感を感じてました。この微妙な感じが解る自分もすごい。自画自賛。

師匠、では質問です。「おそらく」を削除するのでいいですか。それとも「無いとは言えない」で終わったほうがいいですか。師匠ならどう結びますか。

もともと、観念的な人間なので、「有る」とだけ言いきる自信がなかった、ということだと思います。


難しいですが、楽しそうな宿題ですね。ゆっくりと考えるべき問題がたくさん隠されていて面白いです。とりあえず答えを考えてみます。taatooさんの意図に添うものかどうか分かりませんが、こういうのはどうでしょう。
「向こう側に回り込むことはできなくても、『無い』と言うのには根拠も価値もない。『おそらく有る』と言うことに根拠と価値を見出だせるのだ。」
とか、
あるいは、ドゥルーズの言い方を流用するなら、
「向こう側に回り込むことはできなくても、無いとは言えず、『有る』という〈傾向tendances 〉があるとすべきである。」
そういう感じでは、ぐだぐだな言い回しでイマイチですね。

師匠 ありがとうございます

私の結論を尊重して下さりつつ、私のむちゃぶりに応じて頂けるという、まさに神対応。
2つともすごくいいですし、おっしゃるとおりだと思います。

で、いろいろ考えて(おおげさですが)、「おそらく」をハッタリも込めて「明らかに」にしたいと思います。「明らかに有る。」と訂正いたします。で、さらに強く(調子に乗って)、このコメントを、「外観(神)の存在証明」としたいと思います。

おふざけが過ぎますね。申し訳ありません。これに懲りずに、また、お願いします。


個人的には客観が主観を取り込むというところに疑問があります。

「主観が客観をを取り込んでいて
内観から外観を予想するという逆転が起きている。」
という考えを打ち消すことはできるのでしょうか。

横から口を挟んで申し訳ないです。

J さんは以前にコメントいただいた方でしょうか。横からの口挟み大いに歓迎いたします。
ご質問について、taatoo さんはどうお考えでしょうか。回答をお待ちします。

師匠 これって私が答えていいんですかね むちゃぶり返し

Jさんへ

おっしゃるとおり、主観と客観のアポリアまで遡るといろんな議論があると思うので、今ここでそれを議論、検証するには、あまりにも膨大な情報量になるように思います。ただの哲学好事家の私が回答するのは無理です。

ここでは、「主体としてのプレイヤー」(客観が主観に組み込まれるという事態)の話を前提に展開しているので、はしょってる部分がたくさんあるとは思います。師匠のブログの話や戸島さんの話から得た私の理解や展開を師匠に点検してもらって、感想をもらったりして、楽しんでいるという感じなんです。

私は、もともと観念的体質で、今でも密かに独我論を応援してたりしますので、もしかしたらJさんに近いところに居るかもしれません。で、だからこそ、あえて客観を前提にした議論を組み立てて、稚拙な検証を試みたつもりなんです。ただ観念からの側から神の存在証明はたくさんあるけど、客観からの証明はあんまり聞いたことないな~って自負しています。

過去の哲学の議論の累積は、主観と客観の調停を、いかに整合的に図るか。かなりはしょって言えばそういうことだと思います。しかも、それは今も進行中なわけですね。だから、Jさんの質問に対しては、「打ち消すことはできない。」が正しいと思います。

すみません 間違いがありました。 訂正いたします。

「主体としてのプレイヤー」(客観が主観に組み込まれるという事態) (誤)
「主体としてのプレイヤー」(主観が客観に組み込まれるという事態) (正)

taatooさん、ていねいな回答ありがとうございます。
「主観、客観、内観、外観」のそれぞれを僕がよく理解できていないだろうと思われたので、ご質問をふってしまいました。無茶ぶりでしたか。ごめんなさい。

放送大学ラジオ「現代フランス哲学に学ぶ」の第2回を聞きました。それによると、ベルクソン哲学の基礎テーゼは「事象の外に立つな」なのだそうです。「物質と記憶」の主題もその通りだったと思います。
それを考えると、「外観、客観」をどう捉えるかが議論の胆になりそうな気がしています。

師匠 いえいえ、お易いご用です。ただ、深夜はあぶさん化してますので、後で読むとかなり恥ずかしいことがありますが、なんとかOKでしょうか。

Jさんと私は近いと思ったので、過去の自分に話かけるような気持ちでした。Jさんと私の違いは、おそらく「言語」ですね。

実は、ベルクソンに、「言語」を補ったのが、メルロ-ポンティというのが、戸島さんの見方のようです。面白いでしょ。放送大学侮りがたし。

私としては
「主観を取り込んだ客観」と「客観を取り込んだ主観」とが逆手し得ることが
非常に興味深いことなのです。

例え「主観を取り込んだ客観」を想定したとしても
外観について何かを得ようとするならば、
それは気づかぬ内に「客観を取り込んだ主観」の干渉を受けてしまう。
という考えを打ち消すことができるのでしょうか。

逆転し得るからこそ、
『「外観はない」とは言えない』のではないでしょうか。

Jさんへ

反転するイメージですね。
「あり」と思います。

打ち消すことができるのでしょうか。
「できない」と思います。

『「外観はない」とは言えない』のではないでしょうか。
「そのとおり」と思います。

師匠はいかがですか?

Jさんへ 思いつきを追加します

ただ、反転の話を打ち消すことができないことと、外観の有る無しの話は、直接はつながらなように思います。

主観、客観をどう組み合わせて、ループさせても、外観には届かないという設定だからです。外観とは、ループの外なんです。

2つの客観を前提にした時に、はじめて外観の話ができるというのが、戸島ベルクソンの私の理解です。

『「主観が客観をを取り込んでいて
内観から外観を予想するという逆転が起きている。」
という考えを打ち消すことはできるのでしょうか。』
というのが、今問うべき課題とするとして、僕にはそこで使われている言葉の意味がまだよく掴めていません。
「主観」は任意の「人格」からの視点、「客観」はそのような人格をすべての集めてきたときにみんなで共有できる視点、で良いのでしょうか? それとも、「人格」のレベルではなく、もっと深いレベルの、超越論的主体などの話でしょうか?
また、「外観」はその人格的主観から到達可能性がない外側でしょうか。人格的客観からも到達し得ない外側でしょうか。或いは、超越論的主体さえ到達できない外側ということなのでしょうか。
さらに、「打ち消す」とは、否定するということでしょうか。それとも、否定さえできないとすることでしょうか。
この辺りを、J さんがどのように捉えてご質問されたのか、taatoo さんがどのように捉えて回答されたのか、が分かれば、僕も話についていけるようになるかも知れません。

ちなみに、「物質と記憶」熊野訳p133でベルクソンは次のように言っています。
「実在論にとっても観念論にとっても、知覚とは真なる幻影である」
これって、ここで問われていることに関係ありそうな気がします。

師匠

ここでは、主観が哲学(観念)的、絶対的で、客観が科学的、相対的な感じだと思います。双方の接触が内観となり、非接触が外観となります。

内観は「語りうるもの」で、外観は「語りえぬもの」です。

Jさんの主観と客観のループは、ル―プで循環するがゆえに、内観に留まっており、外観には届いてないと思います。もちろん、私の怪しい話が外側に届いているかと言えば、これまた怪しいですが。

戸島さんの話がきっかけになっていますが、ほとんど私の思いつきです。なので、師匠に、そんなに真面目に考えていただくのは恐縮です。申し訳ないです。

ただ、Jさんの話は、わかるように思ったので、自分なり回答させてもらいました。ありがとうございます。

地平線へと延びる平行線の間を歩き続ける人Aを想像しよう。

「Aが見る景色」の中には小学校で習う定義の範囲で言えば平行線はない。
しかし、平行線という前提の話なのだから
寧ろ平行線の性質というものが「Aが見る景色」の中にあるのだと考える。
それを具体的に語るとするならば、
『平行線は「地平線上(無限遠)にて交わる』という事になる。

しかしこれは「地平線上(無限遠)まで」の事しか語ってはいない。

そして、この性質を前提にいろいろな部分をすっ飛ばして、
どこまでも果てしなく歩き続けたAの「Aが見る景色」を考える。

稚拙ですが私のイメージとしてはこんなものです。
これでも相当気を使って書いていますが、分かりにくいと思います。
白紙に無理に線を引かぬこと。白紙であることを受け入れること。

Jさんへ

残念ながら、地平線の話は、ループというより迷宮ですね。

「白紙に無理に線を引かぬこと。白紙であることを受け入れること。」を見て、やはり違うと思いました。

私なら、「線」を引くことで、はじめて「白紙」が起ち現れ、「無理」が起ち現れる、そして、
その後で、「引かぬこと」、「受け入れること」は、自由でいいですよね。と思います。

お二人とも、丁寧なコメントありがとうございます。平行線と白紙の話、面白いですね。
僕にはJ さんもtaatoo さんもそれほど違うことを語られているようには思えないのですが、僕の読みの浅さでしょうか。

一切の一般化抽象化を伴う概念化を前提せず、概念化のような緊張的な世界把握から解かれきった弛緩の極地としての「絶対記憶」を想定する。ベルクソンの言葉遣いで言うなら、その「白紙」とはこの「絶対記憶」のことではないでしょうか。
そうであるなら、白紙に線を引かないままであればそこに空間世界も物的世界も構成され得ない。だから例えば、眼前にあるカップ麺をしてそれをカップ麺たらしめてそれを食べるためには、白紙に某かの線を引いて空間化物的世界化しなくてはならない。
その時に、例えば、「そのカップ麺を食べる3分後には『本当は』私のクオリアが反転して、今予期している味とは異なる味を味わうことになるかもしれない」等という懐疑を有意味な問いだとするクオリア論者が現れるかもしれない。
でも、その「クオリア」や「本当」の3分後等という「絵」は、白紙に無理に描いた線であることを忘れてしまったことによる疑似問題である。

そんな風に理解したのですが、とんちんかんだったでしょうか。

そのような「クオリア」や「本当の3分後」等というものは、ここで描かれるべき絵の「外」の話になってしまうので、それがあるとか無いとかいうことには何の価値も生まれ得ない。
一方、ある意味では、3分後にカップ麺が食べられるという概念化解釈も、そのような白紙に勝手な概念化をしたものにすぎないだけでなく、その概念化の根拠付けまでも勝手に捏造したものだ、という言い方もできるかもしれません。しかし、私がこの世界のプレーヤーとして生きていくための、その舞台として世界を設定するためには、この捏造は必須の捏造です。その立場にたつと3分後の私が今と同様の感覚をもってカップ麺を味わうだろうとすることは、客観と主観を融合し根拠と結論をループさせた話でありながら、世界の「内」の話として、意味ある話として語れることになる。
と、そんな話ではないかと思いました。

師匠 ありがとうございます

同じは違う、違うは同じという、言語の蒸発する地平を、想いました。

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