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2017年8月27日 (日)

ベルクソンの「連合説」批判と2つの記憶と「円環図」<ベルクソン「物質と記憶」を読む3>

本節では、ベルクソンの「連合説」批判を考え、それを解決するために2種類に分けた記憶について考え、さらに、それを使ってベルクソンが作った「円環図」という知覚-記憶モデルを見ていく。

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ベルクソンの「連合説」批判

「物質と記憶」は基本的に心身問題の著である。この著の初版の1896年当時は、心理学の行動主義も哲学の行動主義も黎明期であった。1902年にパブロフが有名な「犬の実験」で条件反射を示し、1911年にソーンダイクが「猫の問題箱実験」で試行錯誤説を唱え、1912年になってワトソンが行動主義心理学を創始した。(「猫の問題箱」とは、猫がたまたま扉を開けられた偶然の経験をつむことでその試行錯誤から扉の開け方を学習することができることを示した実験で、学習までを行動主義的に捉えようとする考察である。)哲学の方ではライルが「心の概念」で哲学的行動主義を提唱するのは1949年まで待たねばならない。だから、1896年当時はまだ、行動主義の考え方がはっきりと定まっていたとは言えない。しかし、見えない心をそのまま掴もうとするのではなく、行動など見えるものによって心自体を研究するべきだとする気運は高まっていた。その中で、「物質と記憶」は「連合説」を批判する。
そのあたりの用語を整理しておこう。

【行動主義】心的な内容も外的行動によって科学的に考察できるとする立場。「心的な表象やクオリアは行動のみでは考察できない」とする二元論との対立項として取り上げられる場合と、「脳神経の状態を見ることでも心の観察ができる」とする心脳同一説との対立項として取り上げられる場合がある。

【連合説】【SR説】学習のメカニズムとして、刺激と反応の結合がその基礎となるとする捉え方を連合説という。刺激と反応の間に、認知があるかどうかを問題にしなくてもよいので、行動主義の立場に近い。刺激(stimulus)と反応(response)の直接結合が学習の基礎となるとする考え方なのでSR説(stimulus-response theory)とも言う。

【認知説】【SS説】対して、認知が必要だとする立場を認知説という。こちらは、学習は環境内の刺激としての記号(sign)を構造的に把握し、新しく意味(significate)を持たせることによって成立する説なので、SS説(sign-significate theory)とも言う。

【機能局在説】脳の特定部位がそれぞれに異なる機能を担っているとする説。一般的に脳全体の機能によるとする「全体説」と対立する。ブローカ野やウェルニッケ野など脳の特定部位の損傷によって起こる特定の障害も、局在説を支持すると言われる。1909年ブロードマンが脳地図を作り、1930年代にペンフィールドが脳実験したことで、局在説は現在の脳科学で一定程度確実だとされている。(ベルクソンは局在説を批判していが、それは脳の限定の微小部位がそれぞれに個別の記憶反応の役割を担当しているとするような、限定された局在論であって、現在の脳科学で主流のニューラルネットワーク説をイメージしたものではない。なので、或る意味では局在説を支持するはずの精神盲などの事例でもって、ベルクソンは逆に限定的な局在説を批判している。)

【精神盲】【精神聾】(ベルクソンは「失読症」「言語聾」とも言っている。)高次脳機能障害の一つで一つの感覚を介して対象物を認知することができない障害を「失認」と言うが、視覚的失認が「精神盲」、聴覚的失認が「精神聾」に当たる。精神聾のうちの「ウェルニッケ失語症」は、左脳のウェルニッケ野という領域を損傷したときに、言語を聞き取れなくなり理解できなくなる症態。流暢に話すことはできるけれども、全く意味のわからない言葉を発する。1874年に発見されていて、ベルクソンのいう「精神聾」に含まれる。
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「物質と記憶」でベルクソンは連合説を批判したが、彼が批判したのは、次のような限定的な連合説である。入力刺激は、刺激内容に応じてそれぞれに対応する、脳中枢の或る一部の固定的な部位へ、感覚神経を通じて運ばれる。そこで運動命令に変換される。運動命令は、その命令の内容に応じてそれぞれに対応する身体の部分へ、運動神経を通じて運ばれる、というタイプだ。「個別の刺激に対して、個別の反射機能が対応し、個別の行動をする」そのようなそれぞれの具体的対応が単に並置されたものとして心を捉えようとしたものだ。この連合説を「並置的連合説」と言うことにしようか。この「並置的連合説」に対して、ベルクソンは「それぁ、おかしいだろう」と言う。
「並置的連合説」とは別の、現在の標準の連合説とされる方は、脳地図で色分けされた領域ごとにその働きの違いがあることも認めるが、それは、一般的にニューラルネットワーク説に裏打ちされたものなので、脳のそれぞれの部位間の連携を否定するものではない。だから、失語症などの例が、その反証となることはない。でも、ベルクソンの批判は「並置的連合説」に向かうものなので、その同じ失語症の例がきちんと反証になる。(この「並置的連合説」という言い方はベルクソンの言う「連合説」を特定して指示するために僕が勝手に作った造語なので他では使わないでね。)

では、ベルクソンの連合説批判を見てみよう。

「シャルコーが研究した、視覚的イマージュが完全に蝕まれた症例では、知覚の再認のすべてが廃滅されたわけではない。患者はおそらく、生まれた街の通りを再認していないと言えようが、それは患者が、その名を挙げることも方角をつかむこともできなかったという点についてである。それでも、それが通りであり、家が見えていることは知っていたのだ。」(「物質と記憶」岩波文庫p182)

この記憶障害の患者は自分が子どもの頃からよく知っているはずの街並みに連れていかれたのに、そこが自分の知っている街であることも通りの名前も方角も分からなかった。しかし、その視覚刺激から何も得られないわけではない。そこがどこかは分からなくてもどこかの通りであることは分かるのだ。そうであるなら、以前にそこで暮らしていたときに得た、その通りに関する個別の刺激情報が、脳内の個別の一定の場所に固定的にあったとは考えられない。もしそうなら、脳組織の一部損傷によって記憶が失われるときには、街の名とともにそこが街であることも分からなくなるはずだからである。

「患者は自分の妻子を再認しなかった。にもかかわらず彼らを認知する際には、婦人であり子どもであることは述べることができたのである。こうしたことは、仮に言葉どおり絶対的な意味で精神盲が起こっていたとするなら、ことごとく不可能だったはずである。廃滅されていたのは、したがって或る種の再認であって、再認する能力一般ではなかったことになり、我々は前者を分析する必要がある。結論としては、あらゆる再認が必ず過去のイマージュの介入を含んでいるとは限らない。知覚をそれらのイマージュと同一化することに成功しなくても、そのイマージュ群を呼び出すとこは可能なのである。まず極限的に言えば、瞬間的になりたつ再認といったものが存在する。これはまったく身体だけで可能となる再認であって、そこには明示的な記憶が少しも介入してこない。・・・他方、これらの更新された知覚群が精神に対して現れる際には、独特なアスペクトをともなっており、そのアスペクトによって特徴づけられるものこそが、馴染まれた知覚あるいは再認された知覚にほかならない」(同)

そこで、ベルクソンが考えた知覚反応システムにおいて、過去の記憶を「あれはこんなだった」と再認するときのその再認の仕方は、「並置的連合説」によるようなワンパターンではなく、必ずしも一つではないとする。全く別の二つの仕方の混合になるとするのである。
その一つは(あ)明示的記憶が全く不要な自動的な身体的反応であり、たとえば、長く滞在した街では明確な知覚を持たなくても帰宅できてしまうような出力の仕方である。また、たとえば、ピアノで慣れ親しんだ曲を弾くのに無意識で弾いてしまえるような仕方である。
もう一つは(い)独特の感触をともないそれによって意図的に為される行為であり、たとえば、ピアノから聞こえる曲調を味わいつつ、譜面を一音一音確かめながら曲を弾くような仕方である。
ベルクソンは、この(あ)と(い)は、ふつうどちらか一方だけの出力になることはまれで、大概はこの両者の混合物としての身体反応として現れる、と言う。
いかなる身体反応も、そのような2つの反応パターンの混合物としてあるものなので、脳の一部の損傷があった場合でも、同一の記憶に対してでも適切か反応ができる場合もあればできない場合もあるとするのだ。そして、その混合物が、反応は出力されるたびに新しく組み合わされるとしたのだ。「並置的連合説」では同一の入力に対しては同一の出力のみが許され、仮にその通路が損傷した場合はその出力のすべてが一挙に失われるはずだ。けれども、その反応が2つの反応パターンの混合物として、そのつど新しく作られるものだと考えるならば、同一の記憶入力に対してでも出力の場合によっては異なる反応をすることができることになるというのだ。

 

2つの記憶

そして、さらに、ベルクソンは、そのように(あ)(い)2つの出力の仕方があるのに応じて、記憶の仕方にも2種類のあり方があると言う。(あ)「習慣としての記憶」と、(い)「表象としての記憶」である。

(あ)第1の記憶は「習慣」である。「習慣」とは、「学科の記憶」であり、同じ努力を反復することで獲得できる記憶である。「過去の努力のさまざまを、それらを呼び起こすイマージュ記憶のうちに再発見するのではない。現実の運動がそれによって遂行される、厳密な秩序と体系的な性格のうちに見出す」(同p160)算数の九九を記憶するときの記憶。記憶したものをいつでも同じ仕方で使えるようにするための記憶である。そして、それは表象ではなく反復する行動である。能動的記憶だとも言える。それゆえ、その内容は類型化され得る。

(い)第2の記憶は「表象の元になる記憶」である。「表象の元になる記憶」とは「朗読の記憶」であり、「一回一回の朗読が私の歴史に属する特定の出来事として、私の前にふたたび浮かぶ」(同p155)ものである。また、「私たちの日々の生活におけるあらゆる出来事であり、展開されるがままに記録され、どのような細部もすべて一つ一つのく事実にその位置と日付を与えること」(同p159)である。それは行動ではなく、これこそが「真の記憶」とされるものである。
「習慣としての記憶」はくり返されることができるので、以前と同じ反応を同じように反応することはできるが、「表象の元になる記憶」は原理的にくり返されることはあり得ないので、以前と同じ反応を返すことはない。受動的な記憶でしかなく、個別なものでしかあり得ない。

「並置的連合説」では、すべての行動は単に記憶が(あ)の「習慣としての記憶」だけしか考慮されていないため、真に重要で真なる記憶である(い)の「表象の元になる記憶」を組み込めていないので、ダメだというのである。
そしてさらに、ベルクソンは、この「表象の元になる記憶」を組み込むことによって、認知が認知たり得ることを考察していく。

 

円環図説

それでは、その、表象の元になる記憶を組み込んだ認知システムとはいかなるものかを見てみよう。
これだ。円環図である。

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図が意味するのは、Oが対象そのもののイマージュである。AはOに関してもっとも狭い円環を作る記憶のイマージュである。この記憶Aは基本的には表象的な記憶であるが、そこにはつねに習慣的記憶がともなわれる。この記憶Aは円環をなしてOとともにOに関する認知を構成する。そして、AがなければOはまったく広さを持たない認知でしかなかったのだが、Aが補完された対象としてのOは円環になって広さを持ち、意味を持つことになる。さらにこの小さな円環はさらに別の記憶Bによって補完されその意味の広さを広げる。このとき、その意味はBの側だけでなく、対象そのものの側にも広がることになる。そのようにして記憶と対象の知覚が相乗的にその意味を広げ深めていき、円環はBB‘からCC’、DD’とどんどん大きくなっていく。その広がった円環によって人はその対象を意味のある印象として捉えることが出来るようになり、それに順応した対抗行動が取れるようになる。「並置的連合説」であれば、Oはいつまでも短い線分でしかなく、そこに表象的な意味が生じることはない。このような円環図説を取るからこそ、意味のある表象が可能になり、表象のある行為が可能になるのだ。
たとえば、

「峡谷のパノマラ展望」

という文字列の知覚に対して、もしかすると記憶は「それは文字の並びである」という意味を与えてくれるかもしれない。もしかすると記憶は勝手に「パノマラ」を「パノラマ」に変換して「峡谷のパノラマ展望」という文字列だと補正してくれるかもしれない。もしかすると記憶は過去の峡谷の映像を思い起こして視覚イメージや聴覚イメージなど抱かせてくれるかもしれない。

そのように、記憶によって補完されることによってもとの知覚「峡谷のパノマラ展望」は単なる無意味な映像ではなく、意味のある対象になる。もしかするとそれは錯覚によってイマージュごと作り替えられることもあるのだ。そうして、意味づけられた対象は、初めて私が生きているこの世界の対象物として存在するものになるのだ。
これが、ベルクソンの考える知覚と記憶の補完システムとしての「円環」である。ベルクソンが考えたシステムは、このように記憶が知覚を相乗的に補完し世界の意味ができていくのである。

 

現代の心理学前線とベルクソンの説

ベルクソンの「連合説」批判自体は、現代の心理学からすれば、或る意味では、実はあまり大したことがない考察かもしれない。ここで見たその心理システムは現在の心理学的見知からすると取り立てて新しいところがないと言うこともできるだろう。実際、ベルクソンが考えているそのシステムは、記憶が円環をぐるぐる回ることによって知覚が再任できるとするところなんか、まるでニューラルネットワーク論と極似しているように見える。出版されて120年も経っている書なのだから、その心理学的価値はすでに乗り越えられている部分が多いのは確かである。それでも、その心理学理論は今でも通用する内容として考え得るものなのだから、その先見性は素晴らしいものであることには違いがない。しかし、その素晴らしさ以上に、そこから考察された知覚と行動反応の哲学的な捉え方は、今なお色褪せないだけでなく非常に哲学的魅力に素晴らしく富んだ捉え方であるのだから、驚かされる。

 

ベルクソンは、上のように捉えることによって、世界が、私が能動的に生きて活動する場になり得るとし、それゆえ、それが物理的存在物を成すことになると言う。そのシステムが、有名な「逆さ円錐」なのであるが、それは次節に回そう。ここからが、いよいよ「物質と記憶」の最重点の考察内容になってくる。

つづく

ベルクソン「物質と記憶」を読む

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コメント

パノマラひっかかりました…笑

ところで円環図が難しいです。どうか教えて頂けませんでしょうか?

>このとき、その意味はBの側だけでなく、対象そのものの側にも広がることになる。

とありますが、対象の側というのはB'ですよね?
どうしてBだけではダメなのでしょうか?

例えば「パノラマという文字の意味の記憶」としてBがあって、それがあるからこそO(パノラマという文字のイマージュ)に意味が生まれる。と。ふむ、これはわかります。

では、対するB'は一体なにを指すのか?よくわかりませぬ。たぶんBと同じ「パノラマという文字の意味の記憶」を指すのかなと思いますが。ではなぜそれは、対象の側にも広がる必要があるのでしょうか?OとBだけあれば、イマージュは記憶によって広がり意味を持てるんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。

あと、なぜ円環図の広がりを持たせるアルファベットは、表象の記憶だけで、習慣の記憶が該当しないのでしょうか?

あとあと、なぜOは下はちょっと丸みを帯びているのですか?

SHIRO さん、コメントありがとうございます。記事を読んでもらえて嬉しいです。
ご質問に回答します。ただし、僕のベルクソン解釈は、(色々な解説本や論文も手がかりにはしていますが)僕の勝手な偏った解釈も随分と含まれているはずですから、眉唾で聞いてください。

質問1)どうしてBだけではダメなのでしょうか?OとBだけあれば、イマージュは記憶によって広がり意味を持てるんじゃないかなぁ、と思ってしまいます。

回答1)
上の例でいうと、例えば、「峡谷のパノマラ展望」という文字列の知覚が「O」で、「過去にそのような図形パターンを文字として読んだ」という記憶が「A」です。「O」は「A」があって初めてそれが文字列であることになり得ます。
さらに、たとえば、類似の文字列として「パノラマ」なる単語を見てきた記憶を「B」とします。「O」はその「B」によってそれが「パノマラ」ではなく「パノラマ」と解釈すべき対象かもしれないと読み取られることになります。
ここで「O」は「B」によって補完される以前の「O」のままではなくなって変質してしまうかもしれません。実際に「パノマラ」を「パノラマ」だとみてしまった人にとってその知覚は「B」によって騙され変質したのだ、と言うこともできるでしょう。当該の図において、ベルクソンは、そのように「B」によって変質した「O」の要素をとくに「B’」と表現し「O」と区別したのだと思います。
また、この円環は認識がさらにどこまでもぐるぐる回るサーキットであって、「B’」として再認された知覚はさらに記憶自体を補正し直して「B」を変質しさせてしまうという側面もあると、僕は解釈しています。

質問2)なぜ円環図の広がりを持たせるアルファベットは、表象の記憶だけで、習慣の記憶が該当しないのでしょうか?

回答2)この点について僕の文章は言葉足らずでした。
ベルクソンにとって、真の「記憶の類」とされるのは「表象の元になる記憶」だけです。「習慣の記憶」は「記憶」の類ではなくて「知覚」の類であり、たとえば、身体が「パノマラ」を「パノラマ」と変換して知覚したのであればその「知覚」は「習慣の記憶」に基づいて為されたものだととらえます。そのような意味で、「習慣の記憶」は図中に示されている、というのが僕の解釈です。

質問3)あとあと、なぜOは下はちょっと丸みを帯びているのですか?

回答3)僕もこの点が気になりました。ベルクソンにしてみると、対象のイマージュOは対象のイマージュそのものとして認識されることは不可能で、対象のイマージュが認識されてしまっているのであれば、必ず既に某かの形で記憶で補完されているはずである、ということをベルクソンが表現しようとしたのではないかと勘ぐっています。

最後に、
僕はベルクソンの説明を読んで最初「O」が「実在する対象そのもの」を表していると解釈してたのですが、それは間違いだったと今は考えています。「O」は対象そのものではなく、「対象のイマージュ」でなければならないと思うのです。取るに足らないような少しの違いなのですが、この違いがベルクソン哲学の本質のように思えてなりません。

どうもありがとうございます。
平光哲朗さんの論文は100ページもあったので読みませんでした。笑

なるほど。
 Bは表象の記憶で
 B'はBによって変質した知覚で
 CはB'がもたらす記憶の再定着や強化
という感じでしょうか。

私たちは日々、知覚し、記憶を強化しているのですね。

ただ回答3についてはさらに疑問に思っていて、生まれたばっかり赤ちゃんのように記憶のないときの知覚はどうなるのか、ちょっと気になりませんか?彼のOは完全な直線になるのか?
いや、きっと胎児の記憶によって強化された知覚でしょうから、Oはやっぱり曲線ですね。
ならば、完全な直線にはなるのか。。結局いつもの無限の問題で行き止まりでしょうか。。
やっぱりちょっとだけ曲線にしたベルクソンさんはさすが、ですね。笑

SHIROさん、
>Bは表象の記憶で
>B'はBによって変質した知覚で
>CはB'がもたらす記憶の再定着や強化
>という感じでしょうか。

そこは、よく分からないでいます。
「CはB'がもたらす記憶の再定着や強化」なのかもしれません。
或いは、「Bに関する記憶と知覚の円環はB-B'のみで回路し、C-C'の円環はまた別の記憶に関しての回路するもの」だったのかもしれません。
どちらの解釈も可能なように思います。

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