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2017年8月21日 (月)

「イマージュ」と「知覚」の関係<ベルクソン「物質と記憶」を読む2>

前述したように、カントとベルクソンの世界モデルは似ている。主体こそが世界を成立させるための出発点になり、そこから出発するなら必然的に実在論と観念論が統合されるとする点がそうだ。しかし、はっきりと違う点も多い。カントは、この私が原理的に到達し得ない物自体を「ある」と設定してしまったが、この点ではベルクソンの考えは全く異なる。ベルクソンは、イマージュは必ずあらゆる存在に到達するとしなければならないとする。また、カントによれば、人は世界を認識するために、必ず、時間と空間の形式を印象に当てはめなければならないのだが、その感性論がなぜ必然的なものなのかに対する問いは十分には深められていないのに対し、ベルクソンはその「時間」がなぜ生まれるのかというさらなる深い次元の問いを問おうともがいている。そのような、形而上学と非形而上学の狭間のぎりぎりの限界を問おうとする、その限界の取り方の違いのため、カントが「印象・Eindruck(独)impression(英)」を世界構築の素材の基盤として取り上げたのに対して、ベルクソンは「イマージュ・image(仏・英)」なるものを、世界構築のためのさらに根源的な素材として取り上げている。
そこで、本節では、ベルクソンがどのように時間空間を立ち上げようともがいたのかを、考えるための基盤付けとして、「知覚」や「感覚」「身体」「記憶」などの意味をベルクソンがどのように捉えていたのかを確かめていきながら、ベルクソンが問う「イマージュ」なるものについて考えてみる。

 

イマージュと知覚について

「イマージュ」
【イマージュ】(image)とは、フランス語で、ある事物に対し特定の姿を想像するという意味。英語のイメージ(image)に対応する。アンリ・ベルクソンが主著のひとつ『物質と記憶』において用いた概念。(ウィキペディア)

「image」は「心像」とか「印象」とか「観念」などと訳される場合もあるだろうが、ベルクソンの問おうとしているそれは「心」の内部だとか外部だとかなどと言うことができないのである。

「あらゆるイマージュは、あるイマージュ群に対してはその内部にあるとともに、他のイマージュ群にとっては外部に存在する。しかしイマージュ総体について言えば、それが私たちにとって内部的なものであるとも外部的なものであるとも語ることができない。」(ベルクソン「物質と記憶」岩波文庫p50)

なので「心像」「観念」と訳してしまうとまずい。「Impression」との関係もあって「印象」とも訳せない。なので「イマージュ」という他はないように思う。竹内訳では「イメージ」となっているが、僕が読んだ熊野訳では「イマージュ」だったので、ここではそちらで通す。

さて、ベルクソンにとって、カントの「印象」では真に問いたい根源的問いに対するための武器にはならないだろう。それは、物自体と主体との関係が事前に設定されてしまっているような中での「世界データ」でしかなく、さらにその前提を取り除こうとすることができるはずだからだ。ここでベルクソンが問う「イマージュ」は、そのような前提をすべて捨ててしまって、全くのルール無用の対象として取り組むべき「世界そのもの」としたものなのである。それは、まだ物質も心も設定されていない「まったく無条件な何か」が唯あるだけだ、とするところから始めようとするものなのだ。物的存在に先立つなどというと、何だか観念論の様であるが、決して観念論ではない。それはまだ「物理的存在」でも「心的存在」でもなく、まだ、物質も心もない次元の話なのだ。「私」さえまだ無い時点の話なのだ。「我思う故に我あり」ではなくって、「我はまだ、思っても思わなくも、ない」。だから「我もまだ、ありでも無いでも、ない」。そういう次元での「イマージュがある」=「世界あり」という感じなのだ。
だから、イマージュの、或るところには宇宙があるのかもしれないし、また、或るところには私の身体があるのだろう。私の思考も、他者の姿も、思い出も、心的感覚も、空想の世界も、未来も、すべてはイマージュなのである。他者のクオリアだってそれがあるとするのなら、それはイマージュなのだ。

「知覚」
そのイマージュ総体の中で「知覚」という個別のイマージュがある。

【知覚】② 〘心・哲〙 感覚器官に与えられた刺激作用を通して,外界の事物・事象を,ひとまとまりの有意味な対象としてつかむはたらき。知覚を構成する基本的要素が感覚で,こちらは物理的属性との関係で部分的なものとして捉えられることが多い。 〔漢籍では「外界の事物を認識する」の意。西周(にしあまね)「哲学断片」(1870~71年)などに英語 perception の訳語としてある〕(三省堂大辞林)

知覚とは、一般的に、私の身体が外部刺激を何らかの対象から信号として捉える働きである。だから、「赤い」という知覚があるのなら、そこには何らかの意味で「赤さ」を有する外部対象があるとしなくてはならない。それが知覚なのだ。
ところが、さっき考えたように、ベルクソンにとって知覚は一つのイマージュに過ぎず、さらにそこにはまだ「外部」などという設定が無いはずだった。だからこの「外部対象」の「外部」をイマージュ総体の外部とするわけにはいかない。

「私が物質と呼ぶものはイマージュの総体であり、物質の知覚と呼ばれるものは、この同じイマージュが、特定の或る種のイマージュ、つまり私の身体の可能な行動に関係づけられたものなのである。」(同p43)
「知覚群とはすなわち、これらの同じイマージュ〔物質的世界のイマージュ〕がその中の唯一のイマージュ〔身体のイマージュ〕へと関係づけられ、その〔身体〕イマージュの周囲で異なった平面に配置されて、中心にあるこのイマージュがわずかに変様すると、その〔あらゆるイマージュの〕総体にあって形態を変換させるようなシステムに他ならない。」〔同p52〕
「まずイマージュの総体があり、その総体の中に「行動の中心」が存在してこの中心に対し、関わりを有するイマージュが反射されているように思われる。かくして知覚は誕生し、行動が準備されるのである。私の身体はこれらの知覚の中心に描き出されるものであり、私の人格とは、それらの行動が関係づけられるべき存在にほかならない。」(同p93)

イマージュ総体の外部とするわけにはいかないので、「身体」なるイマージュが知覚を感じ取る装置として働いていてそれが、その身体の「外部」を知覚として感受しているとして、「身体とその外部がある」という世界構成を考えることにする。
だから、「知覚」とは「身体というイマージュが身体の外部世界というイマージュを対象として感受したその内容」を意味するものになる。そして、その意味において、「知覚は身体の中にはなく、外部にある」というべきものになる、ということにしてしまうのだ。

「外的対象は私によって、それが存在する場所、つまりそれ自身において知覚されるのであって、私のうちで知覚されるのではない。」(同p113)

「純粋知覚」
この「知覚」について、たとえば「過去に知覚した内容を記憶しておいてそれを思い出す」などという言い方も、もちろんできるはずだ。できるけれども、その「知覚」が「身体というイマージュが身体の外部世界というイマージュを対象として感受したその内容を情報として保持したもの」として捉えるのであれば、かなりヤヤコシイ話になりそうだ。実際にそれが思い出される内容として捉えられるものなのであれば、純粋に「外部世界として感受した内容」なだけではなくその他の要素が混じった内容になってしまう。そこで、そのようなヤヤコシイ「知覚」は措いておいて、純粋なこの現在に限っての「知覚」を対象にして考える場合にそれを「純粋知覚」と呼ぶ。ところが、後述するように、すべての知覚は、或る意味で記憶として扱われる。それゆえ、「純粋知覚」というものもかなり危うい微妙な位置にあるとも言える。

 

その他の用語の確認

「感覚」
知覚の構成要素に注目し、外部対象の有無にかかわらずに、感受した内容の要素そのものを考える場合、それを「感覚」という。現在の知覚だけでなく、記憶や想起の内容についても感受する内容の要素はすべて「感覚」とする。

「表象」
感覚の複合体として心に思い浮かべられる内容。広義としては、外的対象の像や知覚内容、記憶の像など心に生気するもののすべてについて、概念や理念として捉えたものではないものも含める。しかし、「物質と記憶」では、狭義として、現在の感覚について何らかの概念や理念として捉えた内容を指す場合もある。

「記憶」
「記憶」は「物質と記憶」のもっとも重要なテーマの一つである。著の中で、「souvenirスヴニール」と「memoirメモワール」の両方が頻繁に交雑して出てくる。(表題「物質と記憶」は「メモワール」の方。)どちらも「記憶」であって、無理して言い分けるとするなら「スヴニール」が「思い出されること」で「メモワール」が「心に書き留めたこと」という感じだと思われるが、あまり区別する必要はないように思えるので、今後はすべて「記憶」でまとめてしまうことにする。
この「記憶」が、世界把握のための一つの舞台となる。

「記憶という明瞭な事例に基づいて明らかにするのは、精神についての同一の現象が、多数の互いに異なった意識の平面に同時に関与しており、その平面のそれぞれが夢と行動との間の中間段階のすべてをしるしづけている、ということである。これらの意識の平面のうち最終のそれにおいて、しかも最終の平面にあってのみ、身体が介入してくるのである。」(同p11)

「純粋知覚」が現在の状況を指すのに対して、「記憶」は過去の状況に関わってくる。しかし、あらゆる「知覚」は厳密には「記憶」されたものでもあり、また、ベルクソンの問う「記憶」は身体の行動と絡まり合って現在にまで浸食してくるものなので、これらが互いに互いを食い合って関係を成している。なので、「記憶」と言っても、単純に過去だとか現在とかで割り切れない。また、これらのすべてが、固定されず流れ続ける「持続」の場において、世界構築を為すことになる。しっちゃかめっちゃかの混沌になってしまうのだが、それを分析しようとして、ベルクソンは、まず「記憶」を「学科の記憶」としての「習慣」と「朗読の記憶」としての「表象」とに分けて考察する。
さらにその「記憶」が身体の行動と関係し合うところに「物質」が出てくるという話になる。
それで、「物質と記憶」という話になってきて、それだから、ここからが、ベルクソンの考察の本旨になってくるんだけど、「記憶」については、今回はここで留めておく。

 

再度、イマージュについて

さて、このような道具立てで、ベルクソンは世界を捉える。そして、そのすべて(物理的世界も非物理的世界も含めてすべて)がイマージュによって形成されているとする。
イマージュの中に「身体」という世界の中心的存在があり、その「身体」のなかに神経中枢があり、身体に対する外部を捉えて知覚する。身体は外部世界を認知するとともに、外部世界に対して働きかけることもできる。そのような外部世界というイマージュとの関係において、身体というイマージュが認知し行動するとき、それを為すものが「私」という人格になる。
しかし、そんな捉え方をすると、<イマージュ総体の中の一部でしかない「私」>というイマージュが認知した知覚のイマージュが、世界の総体のイマージュを生み出していることになり、どこまでも無限後退論に陥ったり矛盾になったりしてしまうのではないか。「脳は空より広いか」などと言われたりする問題だが、それが大丈夫なのだ。
ここで問われる疑惑はこんなものだろう。
たとえば、「赤いトマト」の画像を「私」が知覚したとする。私は老眼が激しく、眼鏡がないとその赤いトマトがはっきり見えないのだが、だからと言って、私の外部に私の知覚したような「ぼやけたトマト」が存在しているはずがない。また、ロックによると色は第二性質である。私が見ている赤色そのものを対象そのものが有しているのではなく、人体がそれを認知するときに初めて「赤」の質感がその中枢で作られるのだと言う。ならば、ここに今実際に見えている「トマトのイマージュ」は実際の私の外側にある物的存在そのものを捉えたものではなく、その情報の一部から矮小化されたものでしかないと言えるのではないか。だから、そのような「イマージュ」から正しい物質世界は生み出せるわけがないのではないか。
Photo_2
それに対する回答は、こうである。
我々は、身体という存在が視覚器官を有し視覚神経と視覚を有しているという絶対的な世界把握の下に、さらにそれより劣る世界把握として「赤いトマトがある」とするべきではなく、身体と視覚の器官があるとする世界把握と同時に「赤いトマトがある」と世界を把握すべきなのだ。そのように、世界把握をするなら、或る画像印象は、ぼやけた見え方しかできない私の目とそれを見えさせたトマトそのものを同時に成り立たせるので、上の矛盾は解消されることになる。700nmの波長の光線を「赤い」と知覚してしまう視覚器官が私にあることと「トマトが赤く見えている」ということとが同時に世界のあり方として成立すると考えるのだ。

「あなたが説明しなければならないのは、だから、どのように知覚が生まれるかではない。むしろ知覚とはどのように限定されるかである。」(同p81)

これは、「世界は私に見えている見かけの状態そのままで存在しているとは限らない。しかし、世界は私が見ているそのものとして存在している」と考えることでもある。つまり、イマージュは或る意味で世界そのものであり、世界に必然的に到達するものとするのだ。
こうして、このイマージュの捉え方は、実在論と観念論の齟齬や自由意志と決定論との困難を解消するのだが、それはベルクソンの世界像の全体を見てからまた考えることにする。今日はここまで。

次節は、習慣と表象について考え、なぜ記憶と行動から物質という異物が生まれるのかという問題の検討につなげていく。

つづく

ベルクソン「物質と記憶」を読む

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コメント

私は「物質と記憶」を5回くらい挑戦したが、ダメでした。むつかしすぎますね。一般的にベルクソンは他の哲学者と比べて誰にもわかりやすく書かれていると言われています。でも、この本は別ですね?(笑      もう5~6年ベルクソンをウロウロしていますが、物質と記憶だけは私には無理です。純粋持続はすばらしい発想だと思いますが
結局は「私にとって」に帰結されるのじゃないでしょうか?純粋記憶も記憶も「私」が

主人だと思います。

トマトさん、コメントありがとうございます。
この面倒な書を5回も、とはスゴいですね。
記憶の主人が私だというのは、その通りだという気がします。そして、その「私」とは如何なる私なのかを問うことが要点になるようにも思います。その辺りについても、僕なりの読みを紹介していこうと思ってますので、よろしければ、また、読んでください。

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