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2017年8月19日 (土)

「持続」の意味<ベルクソン「物質と記憶」を読む1>

【持続】②〘哲〙 〔フランス durée〕 ベルクソンの用語。意識の直接の事実として,何ら反省の加えられぬ直接の時の流れ。(三省堂大辞林)

「実在論のダメなわけ独我論のダメなわけ・独今論者のカップ麺」などというブログタイトルを付けているくらいだから、僕は、実在論と観念論との関連にも独今論にもとても興味がある。でも、ベルクソンはその独今論も物理的時間をも否定する。「持続」という視点でもって世界把握しようとするときに、時間を幅のない切り口でもって捉えようとしては、本当に問うべき質的な流れをすべて逃がしてしまうことになるから、物理的時間のみで世界を問うてしまっては問う意味がないとするのだ。

ベルクソンは、そこで、「持続」なるものを世界把握の基盤にもってきて、そこから世界を捉えようとしていくのだが、そうやって世界のリアルな存在を前提としないで、「持続」という、リアルとは別の不思議な視点から世界を立ち上げていくと、なんと逆に実在論と観念論が矛盾しないで統合できてしまうのだ。
また、この「持続」という視点、リアル世界ではないところから世界を考えようというのだから、形而上学的な、ことばでは語り得ないナンセンスな考察になりそうにも思えるのだが必ずしもナンセンスとは言い切れないものらしいのだ。なんとも不思議な視点である。

本節では、その「持続」について、それが何者であるのかを見る。

「私にとって、現在の瞬間とは何か? 時間にとって固有なことがらは、それが流れ去ることである。すでに流れ去った時間は過去であり、私たちが現在と呼ぶのは流れ去りつつある瞬間である。だが、ここで問題となり得るのは、何らかの数学的な瞬間ではあり得ない。おそらくは一個の理念的現在といったものは存在し、それは純粋に捉えられ、過去と現在とを分かつ不可分な境界ということになるだろう。とは言え現在は、現実的で、具体的な、生きられたものとしては、つまり現在の自分の知覚について語るときに私が語り出す現在に関して言えば、必然的になんらかの「持続」を占めている。それでは、この「持続」とはどこに位置しているのだろうか? それは、数学的な点のこちら側にあるのだろうか? あるいは向こう側にあるのだろうか? 数学的な点とは、現在の瞬間を思考する場合に、私が理念的に規定するものであるとして、である。言うまでもなく明らかに、件の「持続」は同時にこちら側にも向こう側にもある。「私の現在」と呼ぶものは、同時に、自分の過去にも未来にも食い入っているのである。」(「物質と記憶」岩波文庫p273)
「物質の感覚的質そのものは、かりに、私たちの意識を特徴付ける「持続」の特殊なリズムから、それを取り出すことができるなら、それ自体において、内部から認識されるものであって、外部から認識されるのではない。」(同p136)

ベルクソンは、私が「現実的で、具体的な、生きられたものとしては、つまり現在の自分の知覚について語るときに現在に関して」というような現在を捉えようとするのであれば、その現在は必ず時間幅がなければならないとする。そうでないと、生きている私が生きているものとして得るべき感覚的質を捉えることができない、と言う。

「宇宙に関する自分の継起的な知覚は質的な異質性を示すが、この異質性が由来するのはその知覚のそれぞれがそれ自身持続の一定の厚みを占めて広がり、記憶がそこで膨大な量の興奮を凝縮しており、それらは継起的なものでありながら、私たちには一切がともに現れるという事情からである。」(同p137)

たとえば、あるメロディを思うときに、物理的な時間スケールをあてがって、t1はドの音でt2はファの音だと分析してみたところで我々はそのメロディを味わうことはできない。独今論的に0時間の中にそのメロディを記憶と想起として押し込めてしまっても、やはりメロディは断裂されてしまうので、なめらかにつながったメロディの質は保持されない。
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たとえば、ある色調を思うとき、独今論的に0時間の中にその光の波長を押し込めて、波長の記録と予想がその0時間の中にあるのだとしてみても、0時間の中では光の波は波になれずにその質感を保持することはできない。いわゆる「現象的質感」を含めてその物体の固有の質は、時間幅が無ければ失われてしまうはずだ。質を考えるには質感そのものを捉えるための時間概念が必要で、その捉え方が「持続」なのだ。このように書くと、これは物理的瞬間をどのように捉えるかという問題を問うているようだが、そうではない。ベルクソンの問はさらに一段上を行っている。時間を下のように「物理的時間」と「非物理的時間」とに分けて考えたときの「非物理的時間」の方が「持続」だと考えたらしいのだ。

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「物理的時間」は空間に対応するもので、世界の中で空間的な長さ延長を測定することができるものとして、ある。「物理的時間」は測定可能なものなので、さまざまな他のものと比較することが可能で、程度の差としてあらわれる。一方、「持続」は、そのような空間的な長さを測れるものとしての時間ではなく、質の変化だけが流れていくものとして、ある。測定して程度の差として数値化したり、他と比較したりすることができないが、その代わり自己自身の質的変化をとらまえて、自己に対して差異を生じることができる。ベルクソンはこれを「本性の差異」と称して、「物理的時間」の持つ「程度の差異」と区別した。ドゥルーズによれば、「物理的時間」は知性的で、データの一般化に対応し、統一性と支配的傾向を持つのに対し、「持続」は感情的で、個別的で、不純なままだとしている。
しかし、「物理的時間」と「持続」は必ずしも全分断されて捉えられるというわけではなく、普段はその両者が混じり合い補い合って捉えられている。とくに、純粋な「持続」のみに注目して取り上げたい場合には「純粋持続」として考察の対象にしている。でも、冒頭に挙げた三省堂辞書でも言っているように「持続」は反省が加えられないのだから、意味ある言葉にすることができない。実際の世界に関する内容を語ろうとしても「純粋持続」だけでは程度の差を比較することができないので、有意味に語ることができないものになるはずである。ある意味で、この「持続」は私的言語であると言えるかもしれない。
ところが、ベルクソンは、この「持続」によって世界を切り開き、それによってそこにイマージュを見つけ、記憶と知覚を見出すことによって、物質世界を再発見するに到る。そして、その物質世界が私の質的で観念論的な世界と共存できてしまって、矛盾を生まないものになってしまうのだ。だから、実はまったく私的言語ではなかったと言えるものになるのである。凄いのである。

でも、そのことは次に回す。今日はここまで。

次節は、イマージュとその再認の仕方について考えて、「持続」による世界構築のユニークさを追っていく。

つづく

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