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2017年6月14日 (水)

「3分後に、私が3分後の私になる」という論理飛躍<「差異と反復」を読もうとしてる5>

「幻想のなかでは、時間における継起の経験的条件のかわりに、二つのセリーの共存が、すなわち、私たちがそれになるであろうような大人と、私たちが今までそれで「あった」ような当の大人たちのとの共存が成立している」(ドゥルーズ「差異と反復」文庫上p334)

これって、幻想の中でなら、「3分後に、この現実の私が3分後の現実の私になる」という論理飛躍を受け入れることができるということだよね。

「3分後に、この私が3分後の私になる」って、当たり前のことのように思えるけれど、実は全く当たり前ではない。3分後のヴァーチャルなリアリティは論理的には決して、この今の、アクチュアルな現実になることはない。ドゥルーズの時間の4つのパラドクスも、マクタガートのパラドクスも結局は、これを一致させられないがための、パラドクスである。

しかし、その逆説も幻想の中でなら簡単に乗り越えられるのだ。

幻想ってすごいなぁ。でも、その幻想って、ニヒリズムそのものではないか。絶対主義の絶対真理を拒絶し、また、相対主義も採らず、人それぞれ好き勝手に採用した真理のどれもが同等だともしない。その上で、すでに神を死んだとして自ら採用した真理に神ではない私自身が特別な待遇を与えるしかないとする立場。絶対主義相対主義に対して僕は虚無主義をそのように解釈する。「差異と反復」が繰返し「ツァラトゥストラ」を挙げるのは、まさにこの虚無主義を採っているからではないか。

そして、この、私が採用した真理を私は優遇してよいとする虚無主義を採るなら、私は3分後に、この現実の私が3分後の現実の私になる」という論理飛躍を受け入れることができることになるのではないか。

きちんと定式してみようか。

「或る正当な物理則に則った世界において、時空間のあらゆる地点で共通の世界を見ることができる」

という仮説を立てたうえで

「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」

とする冒険的な言語設定をすることによって、反実在論の立場での「3分後の未来が現在になる」という発言は、「この現実世界を生きる私が3分後を現実に体験できる」という意味を持てることになる。

このような、冒険的で虚無主義的な世界把握をするだけで、マクタガートのパラドクスは解消されてしまうのだ。それなら、わざわざ、へーゲルや永井が言う、矛盾を受け入れるような累進構造的世界像を採らなくても良いじゃないか。

こうして、僕は「3分後に、この現実の私が3分後の現実の私になる」という論理飛躍を易々と受け入れることができる。どう?

 

と、この考察って、反実在論的時間論と無矛盾な生のページで考えたこと、そのままになっちゃった。ドゥルーズの考察はやはり虚無主義であり反実在論だと言って良さそうに見える。

つづく

ドゥルーズ「差異と反復」を読もうとしてる

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コメント

師匠のドゥル―ズ解釈ですね。すごいです。

もろ私見ですが、ドゥルーズもニーチェもとても仏教的と思います。「永遠回帰」とか、明らかに仏教の輪廻の話です。ただ、仏教は、輪廻に対して、ペシミスティックですが、「永遠回帰」は、ポジティブなニヒリズムと言えないでしょうか。

そして、そこが、反実在論と呼応する、という理解でよろしいでしょうか。

ただ、「差異と反復」の「差異」には、言語発生の現場の差異にも通じるものがあり、それが、ヘーゲルの弁証法にも通じるものがあると思うんですが、いかがでしょうか。

taatooさん、こんばんは。ありがとうございます。
差異が言語発生の現場のものだってのは、まさしくその通りだと思います。ドゥルーズの語りが手強くてなかなか読み進められていないのですが、「差異と反復」より前の著作で「差異について」というのがありまして、こちらは分量も少なく、ドゥルーズのわりには比較的読みやすいものなので(と言っても易々とその本旨を掴ませてくれませんが)、「差異と反復」の読みの指標にできるかと、「差異と反復」を措いておいて先にその「差異について」を読んでいます。で、その「差異について」が、言語発生の話やいわゆるクオリア論についても問うている内容になっていると、かなり自信をもって解釈しています。

「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」
とする冒険的な言語設定をすることによって、反実在論の立場での「3分後の未来が現在になる」という発言は、「この現実世界を生きる私が3分後を現実に体験できる」という意味を持てることになる。

ここはマーカーですね。私だけのマーカーと言われれても気にしません。

「LIVE IN 和歌山」を絶叫ずる竹原ピストルさんは、自殺しないニーチェです。これは、間違いないです。

6月20日、京都磔磔というライブハウスの竹原ピストルワンマンライブに行って来ました。盛り上がって楽しくて31曲も歌われて素晴らしい夜でした。

いいなぁ~。

私の県にも、来てくれるみたいですが、さすがにチケットが手に入らないです。
ライヴじゃないと感じることができないことってあると思います。
だとしたら、これって、師匠の嫌いなクオリアかも。

訂正です。ニーチェは自殺ではなく発狂でした。
自殺したのは、ドゥルースでした。
申し訳ありません。深酒のせいです。まだまだ修行が足りません。
あぶさんみたくなりたいものです。

メルセデスベンツは、ジャニスチョップリンにも同じ歌があります。
さすが、最強のバッタもん。ジャニスを超えてます。


「メルセデス・ベンツ」はカバー曲だったのですね。知らなかったです。
ライブチケットはいろいろなところから申込んで全部外れたので行くのを諦めてたんですけど、たまたま知り合いから譲って貰えて行くことができました。ラッキーでした。

クオリアについては、僕が否定してるのは「一切の機能と独立の質感」であって、「独立だとは規定しない質感」なのであればまったく大丈夫です。

師匠 こんばんわ。 クオリアの件、申し訳ありません。戯言です、お許し下さい。

さて、ピストルさんを聴いて、不覚にも涙した私ですが、ウィトゲンシュタインが出てくる論文を読んで、まさか、まさかのまたまた涙してしまいした。

それは、2010年の大阪大学の丸田健さんの学習指導要領がらみの短い論文です。「ウィトゲンシュタイン」「魂」で検索すると、1番最初に出てきます。もし、ご存知なかったら、ぜひ読んでみてください。

ウィトゲンシュタインが、ここまで「魂」を語っていたことにもびっくりですが、この論文の内容がすごいです。今までもやもやしていたものが、全部きれいにすすがれた気分です。もし実際こんな学習指導要領ができているんなら、ほんとにグレイトでだぜ。(じょじょ風に)。

言語ゲーム、意味の使用説が下敷きになっているのは、間違いありません。ウィトゲンシュタイン最高!

taatooさん、耳よりな情報をありがとうございます。
早速、読みました。面白かったです。
他我問題の解消についてずいぶんスッキリと明快に「魂に対する態度」の考察をされていて、よく分かりました。でも、それを道徳教育に繋げるとする部分や後半のアニミズムに関する部分ではどうも眉唾の議論の飛躍があるように思えてあまり共感できませんでした。
僕らは「3分後の私に魂があるか」も「他者に魂があるか」も「石に魂があるか」も「世界には因果関係があるか」もどれもその是非を好き勝手に想定して生きることもできる。でも、3分後に魂があるとしない生き方に何の意味があるかを考えると功利的に「ある」とすべきだ。そして、その選択はさらに功利的選択でも「信じている」でもなく「知っている」という深いレベルにまで落とし込まなくては、真に生の享受をすることはできない。
それは、その通りだと思います。しかし、だからと言って、それが道徳的にそのようにしなければならないという話になったり、石にまで魂があるとすべきという話になるのであれば、大きな疑問を感じてしまいました。

師匠 ありがとうございます。

なるほどです。確かに、アニミズムは宗教的?ですね。
しかも、学習指導要領に繋げようとする道徳的なニュアンス。
どこかの私学の話もあるかもしれません。

師匠の分析表現もいつもクリアで、さらによくわかりました。ありがとうございます。
ただ、丸田さんの表現も、なんだろか、腑におちる感が、ハンパなかったです。
ウィトさんの「魂」を少しだけ独習してたタイミングだったからかもしれません。
それから、アニミズムの話については、分子生物学の福岡さんの話にも繋がるよう気がしながら読んでました。ギリ科学のような。

ところで、大きな質問で恐縮ですけど、師匠は、「魂」について、ウィトさんが語っていることについては、どう思われますか。哲学的「魂」と宗教的「魂」を区別することになりますか。

taatooさん、コメントありがとうございます。
その「魂」について、僕も今、またとても興味を持っています。僕の理解の仕方ではそれは「ヴァーチャルな世界を共有できる、私と私以外の主体」です。(その辺りのところをはっきりさせたくて最近ずっとドゥルーズを読んでいるのですが、その「ヴァーチァル」ってのは「他者と世界理解のアクチュアル性までも共有することか可能になるような可能性」として僕は把握しています。)
で、そのようなものを「魂」としていると考えた上で、人間のような外見を持ち人間のような行動様式を持つものが「魂」を持つとするとするのが、一般的な世界把握になると思っています。ただし、それは最終的には無根拠て不確定な、いわゆる宗教的信念なので、とりあえず「信じる」しかないようなもののように感じています。

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