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2017年5月23日 (火)

ドゥルーズの「力=累乗」というダジャレの意味<「差異と反復」を読もうとしてる1>

ドゥルーズの「差異と反復」に関する覚書き、という形でつらつらと記していたが、まとまった話になっていきそうなので、とりあえずこのまま1つの章立てにして残しておくことにする。

しかし、まだまだ読みかけの分からない本を読みながらまとめて見ているだけの、怪しい文である。いつもマユツバばかりの本ブログだが、怪文書であることを銘じて読んでね。

Deleuze
Gilles Deleuze1925.1.18~1995.11.4

ドゥルーズの「力=累乗」の意味について


「拘束すべき差異を対象としている再生という能動性が存在するが、もっと深いところでは反復という受動が存在し、ここから、新たな差異(眼、あるいは見る自我)が生じる。差異としての興奮はそれ自体すでに要素的な反復の縮約だった。興奮が今度は反復の要素へと成る限りにおいて縮約する総合は、まさに拘束と備給によって表象=再現前化された第二の力(ピュイサンス)〔2乗(ピュイサンス)〕へと高められている。・・・・・・
カントが受動的な自我を単なる受容性によって定義したとき・・・感性論の二部分(空間形式によって保証される感覚という客観的エレメントと、快苦において具現される主観的エレメント)を分断しただけのものだったから、我々の感性論の方がより深遠に思われる。対して、我々の分析の狙いは、受容性が局所的な自我の形成によって、つまり観照あるいは縮約という受動的総合によって定義されねばならず、これらの総合が諸感覚を受け取る可能性と、それら感覚を再生する力=累乗と、快感によって引き受けられるという原則と価値を同時に説明するという点である。」(「差異と反復」河出文庫上p264)

語の意味を確認しておくと。
「総合」(この「総合」はフッサールのそれ。)多様な知覚的現れが統一され対象が認識されえること、またその認識。
「受動的総合」:自我の関与なしにおのずから生じる無意識的総合
「能動的総合」:自我が積極的に関与して生じる総合
「備給」:差異・強度・リビドーが対象に向かうこと。
「拘束」:差異・強度・リビドーを手に入れること。
「力=累乗」:潜在的力能。濃度。世界の、認識されるべき量的可能性のこと。

ここからドゥルーズのいう「力」というものが、見えてくる。(カントの言うように)自我と断絶したものとしての受動的総合の世界があるのではなく、印象から世界を見定めることの中にそれを見る眼として自我を捉えた能動的総合があり、それとともに受動的総合はある。それゆえ、世界を認識する可能性としての力は受動的総合が能動的総合によって数値化されたり意味づけられたりし、また、能動的総合が受動的総合によって数値化されたり意味づけられたりして、互いが互いを支え合い、その支え合いが絡み合って累乗化されることになる(「受動的総合」の「能動的総合」乗、あるいは、「能動的総合」の「受動的総合」乗)。ドゥルーズが世界を認識する可能性のことを「力(ピュイサンス)=累乗(ピュイサンス)の複数の意味を持つ言い方でダジャレてるのはそういう意味じゃないかなぁ。

つづく

ドゥルーズ「差異と反復」を読もうとしてる

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