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2017年5月30日 (火)

「ヴァーチャル」の意味を調べてる<「差異と反復」を読もうとしてる4>

「ヴァーチャル」とはアクチュアルに実現されるための一種のポテンシャリティらしい。

いろいろ調べてちょっとだけドゥルーズの「ヴァーチャル」が意味するところが見えつつ隠れつつするといった感じになってきたので、まとめてみる。

僕は「ヴァーチャル」の意味について勝手に次のように捉えてきた。「古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つのセリーを形成しており、しかもそれら二つの中でかつ自己に対して置き換えられるような潜在的対象に即して、それら二つのセリーを形成している」(「差異と反復」文庫p286)などの文脈から解釈して、「この今現在のこの私が感じているこれ」がアクチュアルなこの現在についての話で、「その今現在のその私が感じているそれ」というのが3分前の私にとっての現在の話というイメージで、これがヴァーチャルの指すところなのではないか、と考えたわけである。ところがこれがずれた解釈だったらしい。

ある専門家に質問する機会を得たので、その捉え方で合っているかと質問してみた。それに対する回答はこう。
「三分前の、の含意がわからないのですが、三分前というのをアクチュアルな別の物ととらえると少し違うかなとおもいます。」
「ものすごく基本的にはヴァーチャルな方はリアルな力ですがそれ自身は流れだったり力だったりするので知覚的にとらえられるものではない、アクチュアルなものはそれを知覚の領域で把捉できるがそのときリアルな位相はある意味欠落しているというあたりでは」

つまり、「ヴァーチャル」はリアルでありながら、それは力や流れであるのでそれ自体は感覚的に把捉できない。一方「アクチュアル」はそれ自体を把捉できるのだが、リアルな位相を欠落させてしまったもの、ということだろう。

その後さらに調べてみると、本家フランス語ではなく英語版ウィキにこれに関する記述があった。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Virtuality_(philosophy)
以下のような説明だった。

Virtuality (philosophy)
ドゥルーズは、イデアルであるにもかかわらずリアルではないようなリアリティの一面を指すものとして、「ヴァーチャル」という言葉を使った。 たとえば、ある命題の実質的側面ではない命題の意味(つまり、書かれたものか話されたものか)は、それでもその命題の一つの属性である。彼に強く影響を与えたアンリ・ベルグソン やドゥルーズ自身が「ヴァーチャル」の概念を構築した。それは、作家のマルセル・プルーストが、記憶を「リアルだがアクチュアルではなく、イデアルだが抽象的ではない」としてヴァーチャリティを定義したことを引用して、されたものだ。 チャールズ・サンダース・パースによって書かれた辞書の定義では、ヴァーチャルとは何かあたかもそれがリアルであるかのような何かであるが、何がヴァーチャルにそうであって事実はそうではないということを、日々のその語の使用が示すものである。」

ドゥルーズの「ヴァーチャル」の概念は2つの側面を持っている。:一つ目は、ヴァーチャルとは、物質レベルでの現実の因果的な相互関係によって生成されるある種の表面的な効果である。我々がコンピュータを使うとき、モニターはハードウェアのレベルでの物理的相互関係に従って画像を表示する。ウィンドウは現実にはどこにも存在しないが、それでもなおリアルであり、相互作用することができる。この例は、ドゥルーズが主張するバーチャル(その創造され方)の第2の側面に実際につながっていく。この二つ目のヴァーチャルとは、アクチュアルに実現されるための一種のポテンシャリティである。それはまだ物質的でないにもかかわらずリアルなものである。
ドゥルーズは、アンリ・ベルグソンが「ヴァーチャルという概念」を最も高度のものとして発展させ、彼の全哲学がヴァーチャルに基づいていたと主張している。 「Bergsonism(ベルクソンの哲学)」という著書において、「ヴァーチャル」は「リアル」に対するものではなく「アクチュアル」に対するものであり、「リアル」は「ポシブル」に対するものだと書いている。そのポテンシャルによっては、ほとんど区別がつかないこの定義は、中世スコラ哲学と(ラテン語っぽく後から作られた)疑似ラテン語の「virtualis」に由来している。ドゥルーズは、ベルグソンの「持続」を用いて、連続的な多様性だとしてヴァーチャルを識別する。「それは、アクチュアライズされる限りにおいて、アクチュアライズされる過程において、ヴァーチャルであり、アクチュアライズの動きから切り離すことができない。」

つまり、
「ヴァーチャル」は「リアル」に対するものではなく「アクチュアル」に対するものであり、「リアル」は「ポシブル」に対するものである。

また、「ヴァーチャル」とは、アクチュアルに実現されるための一種のポテンシャリティである。それはまだ物質的でないにもかかわらずリアルなものであり、アクチュアライズされるときにその過程においてのみ問われ得るものであり、アクチュアライズの動きから切り離すことができないような連続的多様性である。

そして、「ヴァーチャル」はリアルでありながら、それは力や流れであるのでそれ自体は感覚的に把捉できない。一方「アクチュアル」はそれ自体を把捉できるのだが、リアルな位相を欠落させてしまったもの。
というのが、「ヴァーチャル」の定義的意味だということだろう。

ちょっとだけ見えてきた感じがする。

結局、「ヴァーチャルとは、アクチュアルに付随したものとして、アクチュアルな現在と他の現在が共有して感覚的に把捉することが可能になるような内容のあり方。 ある現在がそのアクチュアル性を問われるとき、そこには必ずヴァーチャリティが共有されていねばならない。」そんな感じかな?

なので、「3分前の現在がヴァーチャルだ」というのはずいぶん言葉足らずな間違いで、「3分前の現在も現在としてのヴァーチャリティを共有してる」と言うべきだったのかも知れない。

しかし、それでも、僕のイメージしている「『この今現在のこの私が感じているこれ』がアクチュアルなこの現在についての話で、『その今現在のその私が感じているそれ』というのが3分前の私にとっての現在の話というイメージで、これがヴァーチャルの指すところなのではないか」という捉え方もやっぱり、良い線行ってるようにしか思えないのだけどなあ。

ドゥルーズの「ヴァーチャル」の意味は定義的に、アクチュアルを実現させるためのポテンシャリティなのだろうけれど、その、ポテンシャリティでしかないヴァーチャルが、「3分前の私の(偽装された)アクチュアルに実際に届いてる」という一見矛盾してるようなことを主張していると思えるのだけどなあ。

この点について、もっと読み進めながら考えたい。

つづく

ドゥルーズ「差異と反復」を読もうとしてる

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