フォト
無料ブログはココログ

« 存在には反復の偽装と潜在化が必要であること<「差異と反復」を読もうとしてる2> | トップページ | 大阪哲学同好会に来ませんか »

2017年5月23日 (火)

反復の偽造と語れない「端的なアクチュアル」<「差異と反復」を読もうとしてる3>

まだまだ読みかけの分からない本を読みながらまとめて見ているだけの、怪しい文である。いつもマユツバばかりの本ブログだが、怪文書であることを銘じて読んでね。

ドゥルーズのいう「潜在的対象の置き換えによって反復は偽造され、反復はそれによって初めて構成される」・・・という話を前節に引き続いて考えてみる。そこで問われている「アクチュアルな視点のすり替え」とはどんなレベルでのすり替えなのだろう。

Deleuze_3

「二つの現在〔古い現在とアクチュアルな現在〕が、もろもろの実在的なものからなるセリーの中で可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的なセリーを形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、二つの現実的なセリーの中で、たえず循環し置き換えられるのだ(たとえ、それぞれのセリーのもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、一つの現在からもう一つの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が構成している共存的な二つのセリーの間で構成されるのだ。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して置き換えられるからこそ、その潜在的対象がそこに現れてくる当の二つの現実的なセリーの中で、すなわち二つの現在の間で、諸項の想像的な変換と、諸関係の想像的な変容を規定するのである。潜在的対象の置き換えは、したがって、他のもろもろの偽装とならぶ一つの偽装ではない。そうした置き換えは、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。反復は、実在性の〔二つの〕セリーの諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつその中で、はじめて構成される。ただし、そうした事態は、反復が、まずもって置き換えをその本領とする内在的な審廷としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。」(「差異と反復」河出文庫上p285)

 

ここで言われているのは「アクチュアルな対象が差異をもつものとして反復されるためには必然的にヴァーチャルな対象に落とし込まれなければならない」と言うことであろうが、その落とし込みというのはどのようなレベルの落とし込みで、どういうレベルの必然性なのだろう。

たとえば、「この私がこの現実のこの現在にUFOを食べているこの味わいはアクチュアルなものであり、3分前に3分前の私がUFOを食べていたときのその味わいのヴァーチャルでしかないような味わいよりもありありとした現実性を持っている」という言い方で語り得ているとされる「アクチュアル」は、定義的に「語り得るアクチュアル」である。だって、語り得ているということにしてるんだから、それを「本当は語り得ていない」などと言うことは原理的にできない。そして、その「語り得るアクチュアル」は実際に「ヴァーチャル」と有意味な差を持ってその違いを語り得ている。

しかし、この「語り得るアクチュアル」と「ヴァーチャル」とは所詮どちらも「誰かにとってのアクチュアル」でしかないのではないか。「この現実のこの味わい」と「3分前の味わい」との対比は、常に、「『その』現実の『その』現在の味わい」と「『その』3分前の味わい」との対比でしかあり得ないのじゃないか。「誰かにとってのアクチュアル」であるようなものとして対比として語り得るけれども、「誰かにとってではない、本当の現実の端的な『これ』としてのアクチュア」であるような対比としての話はできないのじゃないか? そして、実はもともと、「誰かにとってではない本当の現実の端的な『これ』としてのアクチュアルであるか否か」という対比は対比ではあり得ないのではないか。

だって、「『誰かにとって』ではない端的な現実のこれとしてのアクチュアル」なんてものを「語る」ためには、それを感じている側の「主体」と、感じられる側の「印象」とが、その語りに先立って「ある」とする前提が必要なはずである。ところが、今、僕らが考えようとしている「差異と反復」では、「主体」や「印象」を前提とする以前のレベルで、「差異」と「反復」のみがすべてに先立ってあると前提し、それ以外のあらゆる前提を持ち込まない こととする、というような世界の組立て方についての検討である。「差異」と「反復」のみが前提されていて、「主体」や「印象」との違いというものはその「差異」と「反復」から2次的に発生する(或いは「類推する」)ものでしかないという設定の話である。そのような話で果たして「端的なアクチュアル」を語ることができるのだろうか。無理じゃないか。だから、「語り得るアクチュアル」でもって「端的なアクチュアル」を語れているとすることはできないのじゃないか?

ここで、問題にしたい「端的なアクチュアル」というのは、このような、図の中に主体が描かれている図では決して表すことができないものだ。
1
そこに示されている「捉え方」は、図の中に描かれた主体にとっての「捉え方」でしかないからだ。これはウィトゲンシュタインが「論考」で「5.6331視野は決してこのような形はしていない」と言った問題そのものである。
56331

では、このような主体を描かない対象だけの絵ならば「端的なアクチュアルを描けた」としても良いのか。
2
しかし、「リンゴの絵」を示すだけでそれが「端的なアクチュアル」であることを示しているとすることができる可能性があるだろうか。いやいややっぱり無理でしょう。

世界が「すべて一様でのっぺりしたもの」ではないことを認め、様々な差異があることを認める。その様々な差異の中でも、大いに違っているものとあまり違わないで同じようなところがあるとすることができるようになる。そのときに、何かと何かが同じだとか違うとか判断することができる。これだけが、与えられた世界記述の根拠のすべてなのだ。だとすると、世界の中に存在する差異として「主体」なるものが認知されないままに、「りんごの見えそのもの」という認知が端的なアクチュアルであるのだと言おうとしても、そこには、それはアクチュアルだということを有意味に語るための差異も反復もない。だから、その「端的なアクチュアルだ」という判断は何の意味も無い単なるお題目でしかないはずだ。

「アクチュアル」が語り得ないというのは、言語ゲームに乗らないものは語られ様がないとするウィトゲンシュタインの哲学と同じことを言っているのであろう。しかし、ドゥルーズの視点はそこに「言語ゲーム」を持ち込まず、「差異と反復」だけに言語の根拠を求めた点で、すっきりして簡単な言語システムになっているので、「探究」よりずっと議論しやすいものになっているように思われる。
さらにそれだけでなく、私一人が思うだけでもその「私的言語」が語り得ないことを「哲学探究」よりもっと簡単にはっきりさせている。というのは、「私的言語論」では、よく、誰にも言わず語らずに思っていたり感じていたりするだけの私的言語であればそれはその限りで意味をもち得るかのような誤解をされていることがあるが(僕にはそれが誤解だとしか思えないのではっきりと「誤解だ」と断言させてもらう)、「差異と反復」にそれを当てはめてみれば、誰にも言わず語らずともあらゆる私的言語が不可能なことがはっきりさせることができると思えるからだ。「差異と反復」で或る発言が意味をもっているということは、2時刻でのそれぞれの主体が差異を共有しているということに他ならない。だから、仮に誰にも言わず語らずとも、自分自身で思っているその内容が意味をもっているためには、「新しい現在」と「古い現在」のそれぞれの私が差異と反復を共有しなければならないのだ。

そして、たとえば「現在の私において、3分前の私がアクチュアルに味わっていたUFOの味わいとするもの」と「3分前の私がアクチュアルに味わっている味わい」とが差異や反復を共有しているとしなければ、その語が何を語るものなのかを自分でも了解できる余地がなくなるのだ。そして、そのような捉え方をするのであれば、そこで語られる「アクチュアル」は必ず「その時刻における主体にとってのアクチュアル」でしかなくならざるを得ない。つまり、「差異と反復」を最も底辺の根拠するという立場をとるということが、そのまま、「端的なアクチュアル」などというものをナンセンスなものとして扱うということそのものであるのだ。

3_3
また、たとえば、もしかしたら、現在も過去も未来も、事実も空想も、ありとあらゆるすべてが「端的なアクチュアルだ」とすることも可能だとする立場もあり得るかもしれない。しかし、そのような言い方をしてみてもそれが真に何の差異も認めないままに言っているのだとするなら、そこで語られる内容は何も無い、はずだ。
もしそこに某かの内容を持つ話として、それが「端的なアクチュアル」だとするのであれば、そこに「『端的なアクチュアル』か、否か」を定め得るための某かの差異があることを認めねばならない。そして、それを認めてしまうなら、それは「その差異を認める主体にとって」あるいは「誰かにとって」のアクチュアルというレベルの話でしかないものにすり替わってしまうのだ。
「端的なアクチュアル」は、原理的に、論理的に、必然的に、「誰かにとってのアクチュアル」すなわち「ヴァーチャル」に「偽装」されてしまうのだ。

ただし、「端的なアクチュアル」が「ヴァーチャル」に偽装されてしまうと言っても、必ずしも、「端的なアクチュアル」によって語りたかった「このこれ」のすべてが言語の網から零れて逃げてしまうというわけではない。実はその「このこれ」は「ヴァーチャル」の話で十分捕らえられるのである。それはニーチェを考察しニヒリズムを考える中で、検討されはっきりするのだが、それはまた別の機会に。
また、その「偽装」をドゥルーズは、フロイトのエディプスコンプレックスに絡ませて考察し、根拠の根源性について考えていて、これも大変興味深いのだが、それもまた明日。

つづく

ドゥルーズ「差異と反復」を読もうとしてる

twitterはじめました

« 存在には反復の偽装と潜在化が必要であること<「差異と反復」を読もうとしてる2> | トップページ | 大阪哲学同好会に来ませんか »

コメント

師匠、おはようございます。

思考の途中のラフスケッチな感じが、イイですね。堅い結論より、途中の自由な試行のほうが、面白かったりします。

下2つのイラストがイイです。フリーハンド感がとてもイイです。メアリー、クリプキに続く傑作か。

師匠、フリーハンドって、神を感じませんか。

taatooさん、コメントありがとうございます。全く何処に行くかあての分からない書き物ですが、楽しんでもらえて良かったです。
フリーハンドに神を感じるというのはもしかすると、論理的論述よりもポエムこそに伝わるものがあるという感じですか?もしそうなら、そこには確かにある種の真実はあるようにも思いますが、そのような話の多くは眉唾物に感じてしまうものなので、つい身構えてしまいます。

ご謙遜もあると思いますが、冒険みたいでほんとに正直ワクワクします。
それに、師匠は、絶対イラストレーターでも食べていけると思います。
イラストのうまさと論理の頑固さと丁寧なレスポンスが、師匠のブログの魅力です。
誹謗中傷とかに負けないでください。奥さんはに負けてもいいですけど。
実は愛妻家ならぬ恐妻家だったりするわけですね。

フリーハンドのことは、別に神でなくてもいいんですけど。
例えば、自分の画いた線をもう一度画いてと言われても画けないです。
例えば、我ながらうまくひけたと思う線が1mmでもずれてたら、絵全体の印象が全く違います。
例えば、そんなに絵の専門的訓練を受けたわけでないのに、自分でもびっくりするくらい、周りの人に褒められるくらい、うまく描けた時、ほんとに自分が描いたんだろうかって思ったことがあります。
例えば、表現者と言われる人が、奇跡的な表現ができた時、神が降りてきたと言うのをよく聞きます。(信仰的では神ではないと思いますが。)
それから、例えば、自分の意識がある判断するより前に、脳という物質が既にその判断しているという、最近の脳科学の話。じゃぁ、自分より先に誰が判断してるのかって。ただの自然現象か、偶然か。

竹原ピストルさん、見ました、聴きました。千葉(出身)って、関東の関西ですね。ちょっと、師匠に似てます。

イラスト誉めてもらえて嬉しいです。ありがとうございます。

竹原ピストルは今年正月に娘にライブハウスへ連れていってもらってどハマりになりました。揺さぶられて泣きながら聴いてます。今月20日はまた京都のチケットがとれたのでワクワクしています。

>じゃぁ、自分より先に誰が判断してるのかって。ただの自然現象か、偶然か。

ってのは、まさに僕が本文で挙げた話↓に関わってきますね。

>問題にしたい「端的なアクチュアル」というのは、このような、図の中に主体が描かれている図では決して表すことができないものだ。そこに示されている「捉え方」は、図の中に描かれた主体にとっての「捉え方」でしかないからだ。


この話で、僕は、「私」という主体を端的なアクチュアルな世界開闢者として捉えようとするライン(A系列主義的世界観)と、「私」なんてものはただの自然物理現象でしかないとするライン(B系列主義的世界観)とが、矛盾するとして片付けてしまうのではなく、その2線の交点を求めなければならないと考えています。
僕は物理現象に過ぎないけど、「そうしようと思った通りに行動できる」とすることはたとえばデイヴィドソンの「行為者性」でもって保証することができます。それに、いま読んでいるドゥルーズの時間論もその乗り越えをその交点を探ることで求めているのではないかと思って読んでいるものです。
それは、しかし、僕がドゥルーズを色眼鏡で見て偏った読みをしているのかもしれません。読み切れてない途中であまり大仰なことを言うべきでないでしょうね。

師匠 ありがとうございます。そうか、デヴィドソンですね。

ちょっと違うかもしれませんが、質問を、お願いします。

デヴィドソンの「行為者性」は、「行為」が「物理現象」に先行するということですか?

「そうしようと思った通りに行動できる」という物理現象を担保できるデヴィドソンの「行為者性」は、「そうしようとも思っていないのに行動できる」という物理現象をも担保できますか?


物理現象として決定論的に勝手に脳状態と身体状態が物理的相関的に変化し運動するという状況が必然的にあるのだと仮定してみても、その脳が「僕が上げようと思ったから拳が上がった」と思考することは可能です。しかし、その仮定において、その脳が「僕が上げよう思わなかったのに勝手に上がった」と思考する状況は無さそうに思えます。

なぜなら脳状態と身体状態に相関関係があるとする前提を置くことが絶対に必要だと思われるからです。

師匠 理解できたと思います。いつも、すいません。ありがとうございます!

さっきまで、竹原ピストルの1月の京都のライブ(UPされてました)を聴いてました。
すごくいいです。感動します。涙がこぼれます。

お役に立てたなら嬉しいです。
竹原ピストルに響いてもらえてなおさら嬉しいです。

師匠 私のほうから紹介します。ドラエモンの映画の主題歌で、平井賢の「僕のこころをつくってよ」のMV、よかったら、チェックしてみて下さい。小学生は、たぶん知ってます。

人は人を好きになった時、他者を発見し、大人になる。それでも、観念論者や独我論者がいるのは、だぶん、人を好きになっても、みんながみんな、承認してもらえるとは限らないからじゃないでしょうか。

ちなみに、うちの家内の携帯の私の番号の名前は、「ジャイアン」です。

ジャイアン!まぁ愛情あるネーミング。
平井賢の「僕のこころをつくってよ」の動画みました。あなたがいるからこそ僕の心が出来上がっていくというのは、まるでレヴィナスの議論とか最近の神経科学の議論ミラーニューロンによって他者認知から自己認知が発生するという話とも繋がりそうで、なんか哲学っぽくもあり、かつ、歌詞があの介護支援者とハデメイク女子のMVとも絡んで豊かなイメージが広がって良い感じですね。
素敵な曲をありがとうございます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/65320056

この記事へのトラックバック一覧です: 反復の偽造と語れない「端的なアクチュアル」<「差異と反復」を読もうとしてる3>:

« 存在には反復の偽装と潜在化が必要であること<「差異と反復」を読もうとしてる2> | トップページ | 大阪哲学同好会に来ませんか »