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2017年4月 9日 (日)

「限りある命の美しさ」にもやもやしている話

「銀河鉄道999」は僕の宝である。僕が中学生のときの大人気アニメで今も大好きだ。けれど、当時納得いかなかったもやもやがあって、これが39年たった今もまだ腑に落ちていない。

物語は、鉄郎が機械仕掛けの不死の体を得るために銀河鉄道に乗り込んだ旅の途中で、命は限りあるものだからこそ美しいことに気づき、生身の体のままで自らの生と死に向き合って生きていこうと決意する、という少年成長譚である。
中学生の僕には物語のこのテーマがどうもしっくり来なかった。別に内容が間違ってると思ったわけではない。命が尊さをテーマにするのも悪くないと思った。だけど、生の尊さとか美しさとかを問うのに、「いつか死ぬ命だからこそ尊い」などという低レベルの「命の尊さ」を、どうしてみんながありがたがったり引っかかったりするのだろう、ということが僕にはどうしても腑に落ちなかった。
そして、53歳のオッサンになってもまだ、やはり、僕が問いたいこととは別のところで他の多くの人は命の尊さを問うているらしいことに、しっくり来ないままでいる。

僕がもっと問う価値があると考えている命の尊さってのは、こういうものだ。
今、私は生きている。これが仮に夢だとしてもその夢を私が見ているってことは現実だ。また、仮に私が知らないうちに私が死んでいて、これが私の死後の世界だったとしても、その死後の世界を見ているものとして私が存在し、その私に見られている世界としてこの世界が存在していることは現実である。現実にすでに世界は存在している。
私は「これ」を物理的実在世界として解釈することも、単なる精神世界でしかないものとして解釈することもできる。でも、この世界が、私と相互作用をなし合う「物質」からなるものとして成立し、また私の「記憶」から成立しているものだとして解釈したときに、私は私が3分後にUFOを食し得る可能性を手に入れることができる。そして、私がそのような希望を持つことを「私の生」と呼ぶとするならば、仮にこの私が亡霊だとしても、この世界が死後の世界だったとしても私は生きていると言える。

僕が問いたいのは、このレベルの「生」の尊さなのだ。今世界が現実に存在しているという意味での「生」なのだ。
この「生」はその「生」そのままで何よりも美しいと僕には思える。この私の体が永遠の命をもって不死になって堕落し怠惰になり醜い生き方をするものに成り下がったとしても、決して失われない美しさ。星野鉄郎や松本零士が問うた「生の美しさ」とは全く次元の違う生そのものの「生の美しさ」だ。
そして、僕の考えるこの「これそのもの、世界そのものとしての生」は、私の体が生身でいつか死ぬべきものであるか否かとは無関係に、或る意味で常に死と隣り合わせのものだ。仮に機械の体を持ち永遠の生命が担保されたとしても、それは私の体が引き受けるべきものとしての「生」が永遠だとするものであるだけで、「これそのもの、世界そのものとしての生」は現にあるというそれだけのものでしかなく、永遠の生でありながら瞬間瞬間を死に続けるものだとも言えるようなものなのだ。

だから、「いつか死ぬ命だから尊い」とか、「怠惰になって堕落すると命の美しさが失われる」などと言われると、「言いたいことは分からなくはないけど、それがそんなに大切なことなの?」という思いが浮かんできて、大好きだった「999」と松本零士に白けてしまった。そのせいもあって、僕は今も「死の美化」を嫌悪してしまう。

もちろん生身の体を選んだことは良いことだったと思うよ。でも、機械の体を選ぶことが絶対ナイ話というわけでもないように思うんだ。寿命のある体は生の価値にとっての本質ではないように思えるんだ。堕落せずに必死に生きていければ素晴らしいと思うよ。でも、堕落して怠惰に溺れても、今私が生きていて世界がある、それだけで何ものにも変えがたい素晴らしすぎる価値があると思えるんだ。生と死と向き合ってしっかり前向きに生きていけたら本当に素敵だ。でも、死とも生とも向き合えないでも後ろ向きでも今生きていることの方がどれだけ素敵なことか。

いやいや、「999」のテーマを否定してるわけじゃないんだ。でも、そんな「生の価値」なんて僕にはどーでも良いと思えてしまうって、それだけのことなんだ。
その、僕にとってどーでも良いことをみんなが大切にしてるってことが不思議なだけなんだ。
そういうもやもやが中学の頃からあって、僕が哲学を続けている一つの目的になってきた。そして、今もまだもやもやしていて、さらに今後も考えていこうと思っている。そのもやもやを与えてくれたという意味で「銀河鉄道999」はこれからも僕の宝である。

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コメント

いつも楽しく拝見させていただいております。

命や生を鉄道の旅との類推で表現したかったからあのテーマなんでしょうね。

個人的には不死や永遠の命なんてケチなこと言わずに
終わりだけじゃなくて始まりのほうもなくしてみてほしいです。
何も変化しない気もしますが。

お邪魔しました。

岡さん。コメントありがとうございます。

>終わりだけじゃなくて始まりのほうもなくしてみてほしい

これ、面白いですね。不死ではなくて不出生ですね。生まれ出ることなどなきまま我は無限の過去から生き続けてきた。それは、永遠の輪廻を認めるような生死観に一致するものにもなりそうな気がします。或いは、渡辺恒夫の遍在転生観にも共通するような生死観にも。僕たちはそのような始まりや終わりがない生を生きているのだとすることもできるし、様々な永遠の生命モデルや期限付き生命モデルのうちの(或いは独今論まで含めて)好きなモデルをどれでも採用することもできるように思います。

こんにちは。哲学同好会ではお世話になっております。
とても興味深く思い、コメントしたいと思いました。
正直、横山さんの意見に完全に同意です。死があるから今を大切にするのは本当に今を生きてることにはならないと思います。それは未来を生きちゃってると思うんですよね。
この批判はウィトゲンシュタインの独我論にも近いと思います。
一方で、そのアイデアを唱えてる別の作家でコリン・ウィルソンという人がいます。20世紀中頃の英国の人で、ハイデガーを同じ視点で批判してるんですね。「なぜ人は自由を得ても堕落するのか?なぜ死にかけた時に限って一時活力が増し、しばらくしたらまた堕落してしまうのか?」みたいな事を言ってます。なぜなら、それは今そこに意識(=純粋意思)が無いからだ。と。

ただ、999のエピソードは未見なので詳しくは語れないですが、多分、他者論なのではないかな、と感じました。他者の死が自分の世界を変えた、という感じですかね。なので、未来の自分が死ぬから今を生きる、のではなく、今自分の心にある他者の死を抱えて今生きて行こう、と捉えると綺麗かもしれません。(いや、松本零士がそう思ってるかは謎ですが。。。)

さだまさぢさん、コメントありがとうございます。大哲の仲間からコメントをもらえると嬉しさも一入です。

コリン・ウィルソンは知りませんでした。でも、僕の問いとはちょっと違うような気がしました。ウィルソンの

>「なぜ人は自由を得ても堕落するのか?なぜ死にかけた時に限って一時活力が増し、しばらくしたらまた堕落してしまうのか?」みたいな事を言ってます。なぜなら、それは今そこに意識(=純粋意思)が無いからだ。と。

これと、僕の

>堕落し怠惰になり醜い生き方をするものに成り下がったとしても、決して失われない美しさ。僕の考えるこの「これそのもの、世界そのものとしての生」は、私の体が生身でいつか死ぬべきものであるか否かとは無関係に、或る意味で常に死と隣り合わせのものだ。
>堕落せずに必死に生きていければ素晴らしいと思うよ。でも、堕落して怠惰に溺れても、今私が生きていて世界がある、それだけで何ものにも変えがたい素晴らしすぎる価値があると思えるんだ。

とを見ると、僕の問いとは全然違う方向を向いているように思えるのですが、どうなのでしょう?

ただただ、僕の問いは実は語りえるものでも問う価値のあるものでも無いものだということが問題なのかもしれません。

ふむ、やはり僕が混乱した問い方をしてしまっていたようです。
アクチュアルに僕の眼前に世界が開闢していることとしての「これそのもの、世界そのものとしての生」に対する問い、と、
誰でもがそれぞれの世界の主体であり、誰でもが「これそのもの、世界そのものとしての生」を生き得るとすることへの問い、とはまったく別の問いだったのにそれを混乱して区別しないままに問うてしまっていました。

ここで僕が問うべきだったのは、アクチュアルな唯一絶対の開闢者としての問いではなかったです。

どんな生き方であろうと主体として生きていること自体が尊いのだとするだけで、どこにいる誰でもがそれぞれの世界の開闢者であり得るとするレベルの問いを問うべきだったのだと思いますし、僕が問いたかったのはそういうレベルの問いでした。

しかし、だからこそ、僕の問いとウィルソンの問いははっきりと違うと言えると思います。

僕が問いたいのは、堕落した生であっても、例えばたとえ食肉用に飼育される生であったとしても、意識をもって生きている者はすべて、生きているというだけで他の何者にも変え得ない重大な価値と美しさがあるのじゃないかってことなので、やはりずいぶん違うと言えそうです。

そこまでいくと価値とか美しさがあるって言えなくなるんじゃないかという気がします。

たしかに、主体として生きていなければ何も始まらないのですが、これと並ぶものは他にないわけで。
そういうものに価値という概念が通用するのか、という。
比類なき、ということがすでに価値がある気もするんですが
しかしそもそも、価値があるって言うためには生がなければいけないので・・・。

一般的な意味での価値を超えた価値がある
そういう無茶苦茶な性質を持つってことなんですかね。

横山さん
返信ありがとうございます。

たしかに横山さんの指摘した箇所ではウィルソンは違うスタンスになりますね。

そうですね、ウィルソンの「堕落」は横山さんの「堕落」と一致してない可能性もあります。
ウィルソンの「堕落」は「虚無感」「無力感」「ロボット」とも言い換えられますがどうでしょう。
もし横山さんの「堕落」がそれらとも同じなのならば、ウィルソンのアイデアは横山さんの意見とは異なってしまいます。
(ちなみにウィルソンはサルトルの『嘔吐』感がまさにそれだと述べています。)

ただ、僕は根本から真逆の意見だとは思わないです。
ウィルソンの思想は「実存」と「意思」が必要であるというものなのですが、彼の「実存」は「今を生きる」ことだと僕は捉えてます。「意思」の部分は重ならなくても、「実存」の部分は横山さんのそれとも重なるのではないでしょうか?
また、ウィトゲンシュタインが『論考』の「永遠の相」で言いたかったことも「実存」と同じものだと思っているんですよね。

岡さん、コメントありがとうございます。
仰ることはなるほどその通りだと思います。唯一絶対の主体である私、それは存在しかつ存在しない。また一面でそれはまさしく世界であるような主体、それに関する言及はすべてナンセンスになってしまうような無意味としての私、それを根拠にして何も言うことができない。だから、もちろんその私の存在を根拠として何らかの価値を語ることもできない。
・・と僕も思います。
そう考えたので、「どこにいる誰でもがそれぞれの世界の開闢者であり得るとするレベルの問いを問うべきだったのだと思いますし、僕が問いたかったのはそういうレベルの問いでした」としたのです。そのレベルの問いであれば、価値を問うこともできるのではないかと考えたからです。

しかし、岡さんにそのように指摘され再度考えてみると、僕が問いたかったのは本当はどういうことだったのか分からなくなって来ました。少しゆっくり考えたみたいと思います。

さださん、
なるほど、ウィルソンの「堕落」は僕のいう堕落とは別物ですか。なら、僕の問いと違うことを言ってるとは断言できないですね。でも、僕はそのウィルソンを知らないので、ここでの考察はこれ以上は難しいですね。また機会があれば挑戦してみたいと思います。
また、サルトルもよく知らないのです。「100分で名著」を見ただけの知識しかありません。でも、その浅い知識で言うと、サルトルの「実存」とウィトゲンシュタインの「永遠の相」は本当に一致するのかは疑問です。ウィトゲンシュタインは、僕の理解では、決して他者とは並列にはならないような比類無き主体として捉えています。しかし、サルトルの実存は、多くの人間が世界の中心であり開闢者でありえるようなタイプの主体であるように思われるので、似てはいるけれどとても重要な点で全然違うもののような気がしています。間違った理解でしょうか。

はい、実は横山さんのサルトルへの指摘はズバリで、サルトルの実存をウィルソンは否定してるんです。ただ、僕もサルトルは読んでないんですよね ^^;
それでもやはり、ウィトゲンシュタインのそれとサルトルのそれとは、僕も全く違うものだと捉えています。
サルトルの実存は実は「意思」なのであって、「実存」ではないんじゃないかと思います。
とりあえずそんなところで、ウィルソントークはまたいつか機会ある時にしたいですね(笑)

師匠 連休ですね、が、これから何をするか、考えてます。

たしかに、死をカンフル剤にして、生を鼓舞するのは、邪道な気もします。

でも、カンフル剤の力を借りないと、生きることができない状況も、あるように思うんです。

もともと、生のエネルギーが、乏しい人とか。

しかし、多用すると、抜けられなくなってしまうという、ジレンマ。

ちょっと、違いますか。

taatooさん、コメントありがとうございます。
うちの高槻市ではジャズストリートなる催しがあって今日明日はあちこちで演奏をしてます。いまから聴いてきます。
さて、僕も自らの死をエネルギーにして生きようとすることが不要だなどと考えているわけではないのですが、ただ、そのレベルの生死の問いには僕はあまり興味が無いのですよね。何にもできなくてもどんなに出来が悪くても、このすでに存在してしまっている「この生」のそのままの「有難さ」(などという言い方をするとまるで宗教的な物言いになってしまいますが、それは必ずしも死ななくても問えるものですし、どんな生き方をするにしてもどんなに永遠の生を持つ機械の体を持ったとしても必然的に死と隣り合わせの生と言えるものだと思うんですよね。)。そこにばかり僕の興味は向いてしまって、中学生の頃からずっとそうなんです。

なるほどですね。私の場合は、人生なんて無意味だ、とか考えてた、ひねくれた中学生でした。そして、私の場合も、今もそんなに変わらないです。そういう意味では、ありのままに、よく生きてるってことになるようにも思います。

師匠、ジャズ聞くんですね。私は、猫の額ほどの畑で、草むしりしてました。

師匠、めんどくさいかもしれないけど、身の上話、もうちょっと、聞いてくださいよう~。

それでですね。人生なんて無意味だと直感した、ひねた中学生なんですけど、厭世的になって、自殺を考えるんですけど、丹波哲郎の死後の世界って映画を見て、自殺した人は、暗闇の無限地獄に行くって聞いて、怖くなって、生きることにするんです。で、地獄というカンフル剤で、ポジティヴに生きようとするんですけど、長続きしないんですね。で、本の中に言葉を探し始めて、今日に至るわけです。ここに来て、いい言葉に出会えました。ありがとうございます。

ちなみに、私はメーテルより森雪の声が好きです。師匠は、奥さんの声ですか。

taatooさん、いい話だ。実際に地獄を信じて自死を諦めることもできるでしょうし、あと一杯だけラーメン食べたいという思いから思い留まることもあるでしょうね。死ななくて良かったですね。でも、その話を聞いて少し分かりました。死の恐怖ってtaatooさんには地獄の苦しみなのですね。そこが僕は違うかもしれません。僕の死の恐怖は地獄でさえない完全な無になっちゃうことです。でも、仮にそうなることが出来たと仮定しても、その無を知る主体が無いのですから、そんな状態が起こり得るはずかないことに気づいて、今は少しだけ、楽になりました。

昨日は妻とジャズを、今日は妻と落語を聴いてきました。結構、二人でゆるゆると過ごせて安楽な休日を過ごしています。

師匠、ありがとうございます。話の続きを考えてました。

完全な無の話、わかります。無を認識する主体も無いという救い。ただ、自殺抑止という意味では、その人にとっての何気ないリアリティのほうが有効と思います。ラーメンの味とか、暗闇地獄の恐怖とか、好きな人の声とか、にこそ、可能性があります。生への執着ですね。実際には、それさえも気づく余裕、必要がないんでしょうけど。

人間の生には、物語が必要だなって思いました。


生には物語が必要。まったくそうだと思います。自身が登場人物となる物語とその登場人物である私が記述可能な対象として捉えられなければ、それを私の生だとすることはできないと。

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