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2017年1月 4日 (水)

「私の死後にもちゃんと世界は存在している」と言えるわけ

この今の私だけが現実の「この私」である、とするなら、「3分後の私」は現実の「この私」ではない。でもそう言うとき、その「この私」と「3分後の私」は比較可能であるという意味で並列な存在だと言えるだろう。

ここで考えている「この私」は、「現実世界を開闢している唯一の絶対者としての主体」とは別ものだ。

「絶対者としての主体」は、現実世界そのものだとも言えるかもしれない、あるいは、現実世界そのもののカードの裏面だと言った方がいいかもしれない、そういうものだとして捉えるとしたら、当然そうなる。「絶対者としての主体」は世界の内部に存在することがあり得ないものだ。だから、それは何かと並列の関係になることなどない。

そして、そうすると、「「絶対者としての主体」の開闢する世界の中で、「この私」が「3分後の私」になる」という世界解釈も、「「絶対者としての主体」の開闢する世界の中で、「この私」は「3分後の私」にならない」という世界解釈も、「「絶対者としての主体」の開闢する世界の中で、「この私」が死んでも「明日も生きている人」がいて意識をもっている」という世界解釈も、どれも同等に有意味なのではないか。

そう考えると、「私の死後にもちゃんと世界は存在している」と言ってもいいことになるし、そう言うのが功利的だという意味でそう言うべきだ、と思われる。

 

その「功利的」ってのがまた曲者なんだけどそれはまだ別問題ってことで。

思いつきの言々

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