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2016年12月 5日 (月)

主体と時間の冒険的前提について

「論考」と「探究」から「主体と時間の冒険的前提が世界を構成する」が帰結する?

「論考」に倣って、世界の要素は「もの」ではなく「こと」である、と考える。つまり、文の真偽で意味づけられる対象のみによって構成されるとする。
また、文の真偽は言語ゲームによって担保され、さらに、言語ゲームは行為によって構成される。
そして、行為は主体がなければ成立しない。それゆえ、世界が構成されるためには世界を構成する主体があるとする前提を受け入れなければならない。
しかし、その行為を為す主体は、それ自体でその成立を真偽づけられるものではなく、言語ゲームによって担保される文によって真偽づけられるものに過ぎない。
だから、主体によって世界が構成されるとする前提は、その前提を無根拠のまま、とりあえず、冒険的に仮設する仮説なのでなければならない。
一方、行為は時間がなければ成立しない。
世界に因果的関係があると前提し、主体による世界分析が未知から既知へ移行するものだと前提することによって、はじめて、行為は行為として構成され得ることになる。
ただし、「因果関係があるかどうか」も、「主体による世界分析が未知から既知への移行するかどうか」も、それは、それ自体で真偽づけられるものではなく、やはり言語ゲームによって担保されるものでしかない。だから、「因果関係がある」とする前提も「主体による世界分析が未知から既知への移行する」ものとする前提も、無根拠のまま、とりあえず、冒険的に仮設するのでなければならない。

なお、ここで「冒険的」と言っているのは、還元主義のように確実性を追求することを積極的に諦めるという意味だと考えてもらいたい。

それゆえ、主体と時間を冒険的に前提することによってのみ世界は構成され得る。

最近、↑ってなことを考察しようとしている。そういう意図でウィトゲンシュタインと結び付けながら「フッサール」を読み、その周辺を読みたいと思っている。

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