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2016年11月 8日 (火)

クオリアの論理的に付随しない世界が語り得ないわけ<クオリア再考26>

「或る実体が存在し、かつ、その実体に自然的に付随するが論理的に付随しない質感が存在する」
という文は有意味な命題として成立するか。

 

語彙の確認

【付随】特性Aが特性Bに付随しているとは『あらゆる二つの状況において「特性Aに関して異なりながら特性Bは同一だ」ということがないこと』。aがbに付随するとき、bが等しければ必ずaも等しいが、aが等しくてもbが等しいとは限らない、ということ。例えば、クオリアが物理事象に付随するとき、等しい物理事象は必ず等しいクオリアを伴うが、クオリアが等しいからと言って物理事象が等しいとは限らない。

 

【aとbの関係は論理的】あるいは【aとbの関係は必然的】とは、「aとbが存在するならば必ずaとbは関係がある、ということがあらゆる可能世界において言えるということ」。

 

【aとbの関係は偶然的】とは、「aとbが存在しかつaとbに関係がないような可能世界があり得るということ」。

 

【aはbの関係は自然的】とは、「aとbが存在しかつaとbに関係がないような可能世界があり得て、しかし、現実世界においては必ずaとbに関係があるということ」。

この定義に課題文を当てはめてみる。話を簡単にするために「或る実体」をaとし、「その質感」をbとする。すると、こんな意味になるだろう。

課題文「aが存在し、かつ、あらゆる可能世界で必ずaが存在するならばbも存在するとは設定されているわけではないが、この現実世界においては必ずaが存在するならばbも存在すると言えるようなbが存在する」

これは、はたして根拠のある記述になりうるか。

 

有意味・語り得る・確認検証・根拠

命題「これはペンだ」が真であるとは「これはペンだ」を真とする根拠があるということ。その命題の真が確かめられたということ。その命題の指示する内容を既知として扱うことに決めたという宣言だとも言えるだろう。
また。「これはペンだ」が真だと言えるということは、すぺての可能世界で「これがペンか否か」を確かめるための方法がここで確立しているということでもある。

だから、文が有意味に語れるということは、それが真だと確かめることができ、そして、実際に確かめられたものとして扱えることだ、と捉えることにしよう。


語の必然的な同一性による差別化

そこで、課題文のaとbの存在を同時に確かめることは可能かを考えてみる。

まず、この文の前半「aが存在する」が確認できるものだとして考えてみよう。そのためには「a」なるものがすべての可能世界において同一の対象を指示し得るという前提がなければならない。すなわち、「aは必然的にaである」と言えるということ、同一律がなりたつということだから、まあ、言えて当然と言えば当然だ。しかし、その当然の前提の確立こそが重要なのだ。ここで、「a」という言葉は、それが何であるかということをすべての可能世界において共通させるこのとできる楔にしてしまうのだ。「a」を、そのようなすべての可能世界を貫く基準になるものとして設定するからこそ、「この現実世界でaが存在する」という言葉によって、現実世界が他の可能世界からの差別化を為すことができて、「他の可能世界でも現実世界と同じaがあるか否かを比べることができて、その上で、他の可能世界ではaが存在しないかもしれないと言えるようになる。そして、けれども、この現実世界にはそれがある」とすることができるようになる。その差別化があって初めて記述は意味を生じさせることが可能になるのだ。


それぞれに個別のアプローチをする以外ないこと

しかし、一方、bはすべての可能世界でaならばbとは言えないものだ。だから、いくらaを確かめてもそれによって「この現実世界でbが存在する」とすることが可能世界からの差別化を為すものにはなり得ない。いくら自然的に付随していようとa確かめることはbを確かめることにはなり得ないのだ。だから、「bが存在する」ということを確認するためには、bに直接アプローチしなくてはならないことになる。
僕が言いたいのは、bはaに必然的な関係を持っていないのだから、aを確認することでもって、bの確認をしたことにすることは絶対にできないということだ。長々とくどい説明をしてしまったが、まあ、そりゃそーだ。という話だ。

だから、aの存在が直接確認できるものであり、さらに、bの存在も直接確認できるものであるときに限って、aとbの両方の存在を両方ともに根拠づけて言うことができる、ということになる。つまり、aを確かめてaがあればaがあると言えるし、bを確かめてbがあればbがあると言える。それぞれを確かめられたらそれぞれを別々にあると言える、ということだ。なーんや。当たり前やん。やっぱり、そりゃそーだ。なのだ。

前提として、課題文の後半「bが存在する」を確かめることができると先に前提しても同じことだ。結局、bの存在が直接確認できるものであり、さらに、aの存在も直接確認できるものであれば、aとbの存在をそれぞれに根拠づけて言うことができる。それぞれを確かめられたらそれぞれを別々にあると言える、ということでしかないのだ。

だから、実体とクオリアが両方存在することを根拠付けて語るには、その両方をそれぞれに確かめる以外にないのだ。

しかし、そんなことが出来るわけがない。


クオリアが必然的に付随せねばならないわけ

クオリアは、わたしが世界の中心であるというこの現実によって絶対的に存在する、という人がいる。
そのような語りかたをすることも、或る意味では許されると僕は思っている。ただし。そのようにクオリアを根拠のあるものとして語るという立場をとるのであれば、その人は、そのクオリアを根拠としない別の方法で物理的実体の存在を確かめる方法を調達してこなければならない。或いは、クオリアが必然的に付随しないような物理的実体の存在を求めてはならない。少なくとも、そのどちらかを選ばなければならないはずだ。そして、我々に、クオリアを認めながら、それとは別の根拠で物理的実体を確かめるなんてことはできるはずがない。クオリアをあるとしてしまえば、すべては、クオリアを通して見る以外に見る方法があり得ないはずだからだ。
クオリアを認めてしまうのなら、我々は、そのクオリアを根拠にするという方法でしか、世界を語ることはできないのだ。世界というものを、クオリアを確かめるだけで確かめられるようなものとして措定してしまう以外にないのだ。つまり、世界はクオリアと必然的な付随関係にあることを認めねばならないということだ。

もし、どうしても「クオリアがある」と言いたいのであれば、そして、その発言を根拠のあるものとして言いたいのであれば、それとは必然的には付随しない世界のことを語らないでいるか、そのクオリアを世界と必然的に付随関係にあることを認めるか、どちらかしかない。

もし、クオリアをとって世界を捨てるなんて馬鹿な選択をしないのならば、クオリアは世界と必然的付随関係にあるとせざるを得ないのだ。そのことこそがまさに、必然なのだ。

 

まとめ

問い、「或る実体が存在し、かつ、その実体に自然的に付随するが論理的に付随しない質感が存在する」という文は有意味な命題として成立するか。

答え、その実体と感覚が別々に確認できるときに限って、有意味に成立する。しかし、その両者をそれぞれに確認することができない。だから、この文が有意味に成立することはあり得ない。それゆえ、もし、その実体と感覚の両方を有意味に語れるようにしたいのであれば、その両者の関係を自然的に付随するのみでなく、必然的にも付随するものとして捉え直すほかはない。

クオリアの論理的に付随しないような世界は語りようがないのだ。クオリアが世界に付随しないということは、クオリアから外の実在世界へは必然的に出られないということなのだ。クオリア出られない外側を語ることができるわけないし、逆に世界から乗り込めない内側を語ることなんかできるわけない。そーゆー話だったのだ。

どうだろう。少しはすっきりとした論証になっただろうか。不要な混乱をできるだけ排除したくて、今回は「非機能的」「機能的」という言葉を使わないように心がけた。うまく伝わるものになっていたら良いのだか。

つづく

クオリア再考

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コメント

すみません。のっけからつまづいてしまいました。

>例えば、クオリアが物理事象に付随するとき、等しい物理事象は必ず等しいクオリアを伴うが、クオリアが等しいからと言って物理事象が等しいとは限らない。

というのは、なぜでしょうか??
どちらの場合も「等しければ等しい」という考えしか出てこないのですが…(*_*)ひとつ例え話でも出していただけると幸いでございます。風邪で寝込んでいるのに理解できなくて余計アタマ痛くなっちゃったじゃないですかもう。。笑

SHIROさん、風邪たいへんですね。ご自愛ください。

ご質問のクオリアですが、ここでの「クオリア」については、僕はチャーマーズの定式によるクオリア、つまり「意識は物理的なものに論理的に、もしくは形而上的に付随することなしに、自然的に付随する。と、したときの意識の質をクオリアとする」とするものについて考えているから、というのがその理由になると思うのですが、SHIROさんが分からないとおっしゃるのは、そういうことではないでしょうか。

それとも、
「特性Aが特性Bに付随しているとは『あらゆる二つの状況において「特性Aに関して異なりながら特性Bは同一だ」ということがないこと』。」

ということから

「aがbに付随するとき、bが等しければ必ずaも等しいが、aが等しくてもbが等しいとは限らない」

が導かれるというところが納得できないということでしょうか。

こういう話はどうでしょうか。

様々の色彩に対して、それが語「赤」に対応しているかどうかは付随する、とする。このとき、様々の色彩に対して一意的にそれが「赤」か非「赤」かがきまるので、同一の色彩に対してそれが「赤」であったり非「赤」であったりすることはあり得ません。しかし、ある二色が「赤」に対応するからといって、それが同一の色彩だと言えるわけではありません。

つまり、付随の関係は多対1対応を許すということです。

おでん食べて寝て治ってきました。といいながら仕事してたらまた頭がイタい…(´;ω;`)がんばります。

閑話休題…っと。
ありがとうございます。
ふむむ、なんだかやっぱり、さきほど取り上げた部分って、下記➀と②のズレがありませんか?

コメント3つ目に分かりやすい例えを書いてくださってので、さきほどの部分じゃなくてコメントの方を引用いたします。

・・・

➀まず、こちら↓の同一性は、主観で判断していますよね。

>同一の色彩に対してそれが「赤」であったり非「赤」であったりすることはあり得ません。

なぜなら、同一性を客観で判断しているのであれば、「(客観的には)XもYも赤いけど、(主観的には)Xは赤でYは非赤に見えるぞ」なんてこともあるからです。
でもそうじゃなくて、同一性を主観で判断しているからこそ、「赤く見えたら、赤」しかありえないんだと思います。


➁でも、こっち↓の同一性は、客観で判断していますよね。

>しかし、ある二色が「赤」に対応するからといって、それが同一の色彩だと言えるわけではありません。

なぜなら、主観で判断しているのであれば、「赤く見えたら、赤」 でOKだからです。
でもそうじゃなくて、同一性を客観で判断しているからこそ、「(主観的には)XもYも赤いけど、(客観的には)同一だとは判断できない」という話になっているんだと思います。

・・・

こんな風に、同一性とクオリアのお話には、主観と客観の区別があった方がいいんじゃないかなぁって思ったのです。

ちなみに私は今風邪で目が回っているので液晶がぐるぐるしてます。が、しかし、客観的には液晶はぐるぐるしていないと思います。笑

SHIROさん、
主観客観の問題と、付随の問題は切り離して考えることもできますし、その方が良いような気がします。いかがでしょう。

たとえば、次のような話では、すべてが客観的な分類について語れます。

様々の動物種に対して、それが語「イヌ科」に対応しているかどうかは付随する、とする。このとき、様々の種に対して一意的にそれが「イヌ科」か非「イヌ科」かがきまるので、同一の種に対してそれが「イヌ科」であったり非「イヌ科」であったりすることはあり得ません。しかし、ある二種(例えばタヌキとコヨーテ)が「イヌ科」に対応するからといって、それが同一の種だと言えるわけではありません。

或いは次のような例の方がSHIROさんの問題視に合うでしょうか。

様々の脳神経の物理反応に対して、それが感覚質「アカ」に対応しているかどうかは付随する、とする。このとき、様々の脳反応に対して一意的にそれが「アカ」か非「アカ」かがきまるので、同一の脳反応に対してそれが「アカ」であったり非「アカ」であったりすることはあり得ません。しかし、ある二種の反応が「アカ」に対応するからといって、それが同一の脳反応だと言えるわけではありません。

これが、チャーマーズの定式だと僕は理解しています。それが有意味な概念ではないことを明らかにするために、まずその定式を受け入れ得るあらゆる可能性を考察しようとしているのが、僕の立場です。

訂正します。

>これが、チャーマーズの定式だと僕は理解しています。

これを自然的な付随に限定して考えたものが、チャーマーズの定式だと僕は理解しています。

よくわかりました!きっと私の疑問を超えてのお話しだろうなぁとは思っていたので、すみっこにケチつけるみたいで恐縮でした。笑
でも伺ってよかったです。どうもありがとうございます!
クオリア再考をじっくり読み直したいと思います♪

疑問が解消できて良かったです。また、疑問などがありましたら、いつでもいらしてください。

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