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2016年11月 7日 (月)

話者と必然的に独立のものが必然的に語り得ないわけ<クオリア再考25>

問い

「問い、観察者と論理的に独立だが自然的に関係を持つりんごの存在を語ることはできるか」
これを前節で考えたが、曖昧だったところがあるので、今日はもう少しきちんと詰めたいと思う。

まず、ここで使っている言葉の意味を確認しておく。それぞれ次のような意味だとする。

【aとbに関係がある】とは、「aとbに定義的にあるいは統計的に有意味な相関があること」。
【aとbが独立】とは、「aとbに定義的にあるいは統計的に有意味な相関がないこと」。

【aとbの関係は論理的】あるいは【aとbの関係は必然的】とは、「aとbが存在するならば必ずaとbは関係がある、ということがあらゆる可能世界において言えるということ」。

【aとbの関係は偶然的】とは、「aとbが存在しかつaとbに関係がないような可能世界があり得るということ」。

【aはbの関係は自然的】とは、「aとbが存在しかつaとbに関係がないような可能世界があり得て、しかし、現実世界においては必ずaとbに関係があるということ」。

 

 
我らと独立の存在

ふつう、りんごと観察者は関係しあえるものなので、りんごがあれば見える。見えたら「そこにりんごがある」と言うことに根拠がある。りんごが無かったら見えない。無いことが見えたら「そこにりんごが無い」ということに根拠がある。(ただし、りんごを見なかったからといって必ず「りんごが無い」と言えるわけではない。そこにりんごが無いことを見た場合に、それを根拠にして「無い」と言えるのだ。)

では、そのりんごが観察者と独立の存在だとすれば、どうか。
りんごがあれば見えるか。そうとは限らないだろう。「両者が独立だ」ということは、そこにりんごがあることとそれを観察者が見ることとの間に、「統計的な」相関の有意性が無いということだが、「両者が独立だと『する』」ということは、そこにりんごがあることとそれを観察者が見ることとの間に、「定義的に」相関が無いということだ。だから、定義的にりんごがあっても見えるとは限らないし、見えないとも限らない。りんごが無くても見えないとも限らないし、見えるとも限らない。りんごがあることと見えるか見えないかということは関係ないのだ。だから、りんごが見えても「りんごがある」と言うことにも「無い」とも言うことにも根拠がない。そして、りんごが見えなくてもやはり「りんごがある」と言うことにも「無い」と言うことにも根拠がないのだ。

でも、「問い」では、「論理的には独立だけど、自然的には関係する」としているのだから、その二者(観察者とりんご)は定義的には独立かもしれないが、実際の統計上では確実に関係していると言えるはずなのじゃないか。だから、「問い」の設定では、「りんごがある」と言うことに統計上の根拠があるのではないか。

そうだろうか。
このりんごは「問い」の設定で、「必然的に観察者と独立である」とされ、かつ、「偶然的に観察者との関係がある」と定義されたものだ。
だから、現実世界においてのすべての状況で、そのりんごがあるときには常にそのりんごが見え、そのりんごが無いときには常にそのりんごが無いことが見えるはずである。だから、可能世界がどうであろうと実際にこの現実世界で「りんごがある」と言えば正しくりんごがあるのだし、「無い」と言えば正しく無いのだ。常にそのりんごの有無を語る言葉は真になるのだから、りんごの「見え」に基づいてその有無を語ることは十分に根拠のある語りになっているのではないか。と考えたくなる。しかし、それは正しい根拠ではあり得ない。

 
心臓のある生物と腎臓のある生物

ここで、観察者とりんごの話をいったん脇へ置いておいて、必然対偶然の問題と根拠になるかどうかの問題との関係についての考察を深めるために、別の関係を問う問いを考えてみたい。

別の問題とは「心臓がある生物」と「腎臓がある生物」との関係についてだ、この二者はこれまで発見されたすべての対象について100%関連しあっていて、心臓があれば必ず腎臓があり、無ければ必ず無い。また、腎臓があれば必ず心臓があり、無ければ無い。しかし、だからと言って、その二者の関係が絶対に、必然的なものだとは限らない。これまで無数の検証によって確認されてきたとしても、所詮有限な検証でしかないのだから、絶対にそれを必然だとしなくてはならないということにはならない。たまたま偶然にそうなっていただけだとする言い方もできるのだ。
そして、その、その関連が必然であるとするか偶然であるとするかの問題は、話者の考え方によるのだ。
もちろん膨大な検証によって確かめられたことなのであるから、「心臓があるならば、必然的に、腎臓がある」とすることを前提にして話をすることも可能であろう。そのときには、或る生物に心臓があるという確認に基づいて「腎臓がある」ということには根拠があると言える。「心臓があるならば必然的に腎臓があるとしたうえで、心臓があることを確認した」を根拠にして「腎臓がある」が言える、というのだから当然だ。
しかし、また、もちろん、如何に膨大な検証によって確かめられたと言えども、「心臓があるならば、必然的に、腎臓がある」とすることを前提にして話をしない、とすることも可能であろう。そのときには、或る生物に心臓があるという確認に基づいて「腎臓がある」ということには根拠があるとは言えない。「心臓があるならば必然的に腎臓があるとはできないとしたうえで、心臓があることを確認した」を根拠にしても「腎臓がある」とは言えない、というのだから、これも当然だ。

つまり、我々は何かを語るときに、観察した内容と語りの内容との間にが必然的関連があるとするときに、その観察は語りの根拠になるとし、必然的関連が無いとするときに、その観察は語りの根拠にならないとする、のではないだろうか。
心臓がある生物を見つけて「腎臓がある生物がいる」と言うとき、この命題は心臓と腎臓の有無の関係が必然だとするときにはこの命題には根拠があり、偶然だとするときには根拠がない。「心臓があれば必然的に腎臓があるとするなら、ここに腎臓がある生物がいる」は当然ながら真であり、根拠がある。「心臓があればたまたま偶然に腎臓があるかもしれないとするなら、ここに腎臓がある生物がいる」は真か偽かわからないし、根拠もないということになる。
ということを確かめて、りんごの話に戻ろう。

 
必然と偶然と既知と未知、と根拠

今問題にしているりんごは、観察者とりんごの関係が偶然なのだけど、実際に現実世界ではすべて関係している。というかなり変てこな代物だった。
さて、このりんごがこれまでにすべて観察者と関連していたというのはそれで良いとして、これからの話はどうなるのだろう。これから将来に渡ってずっと全ての機会に偶然に関係しているということがあるのだろうか。
いや、そんなことはあり得ない。たしかに、明日も明後日もいつまでも確かめてみたら、結果的に全ての検証で観測結果とりんごの有無が一致していたということは、あるかもしれない。しかし、それはやってみて結果的にそうだったという既知の話であって、「これから」の未知の話ではなくなっている。「偶然に○○だった」とは、「可能世界においては『○○ではなかった』というパターンもあり得るが、現実世界では『○○だった』であった」という意味である。(「偶然に○○だ」という物言いはその○○が偶然的であることを言うものに過ぎないが「偶然に○○だった」という物言いになると、それが自然的であることまで言ってしまうことになる。)だから、そのとき「現実世界では~だった」という物言いの語る内容は必ず既知のものであるはずだ。既知だから、二つの可能世界の一方だけを真だとする判断が根拠があるものになるのだ。未知のことだったら、二つの可能世界に対する言及の真偽に根拠があるわけがない。そもそも、可能世界の一つが真であることに根拠があるとする、そのこと自体が「既知」の意味ではないか。
それゆえ、未知の事柄について、「偶然に○○だった」とすることはできない。「偶然」の出来事について、それが既知のことならば真偽を語ることはできるが、未知のことであれば原理的に真偽不明とするしかできないはずなのだ。

だから、「観察者との関係が偶然だと定義付けられたりんご」は既知の事柄に関しては「観察とりんごの有無が一致していた」と言うことは可能であるが、未知の事柄に関して「観察とりんごの有無が一致する」と言うことはできない。
そして、もっと重要な論点は、観察者とりんごの関係が常に偶然なのであれば、観察によってりんごの有無が「既知になる」ことはあり得ない、ということだ。
「既知になる」とは確認したことが知識となることだ。そして、「確認」とは命題の真偽の確認のことだ。世界と比べるか何かして、何らかの方法でその命題の真偽を決定することだ。
そして、さらに、命題の真偽を決定するということは、その命題の内容が必然だとすることにほかならない。
「これはペンだ」はその真偽を確認する以前であれば、その命題の真偽はどっちでもあり得る。でも、確かめてしまえば、その命題は、真か偽かどちらかでしかあり得ない。それがペンだったならばそれはもう必然的にペンなのだ。もはやそれが現実にペンでないことになることはあり得ない。ただし、「現実にはそれはペンだけど、違う可能性もあった」と言うことはできる。しかし、その場合、そのそれがペンでなかった可能世界は、その世界において、それがペンであることが確認されていないと想定されたものでなければならない。つまり、これは、可能性として未知の事柄だとすることによって、偶然性を問えるものとして扱えるようになっただけなのだ。「これはペンだ」が既知になったのなら、それを既知の事柄としたまま偶然性を問うことはやはり不可能なのだ。

我々は、すでに確認した既知の世界の事柄についてでなければ、それを語ることに根拠があるとすることができない。
そして、既知の事柄を既知として扱うならばそればかならず必然的な事柄である。
言い換えれば、或る事柄を確認済みの既知として扱うということは、その事柄を、その確認を前提とするなら必然的に真となるものとして扱うということなのだ。
もっと言うと、或る認識を必然的だとすることこそが、それが根拠に基づくものだとすることにほかならないのだ。
(注、ここで僕が問うている問題は、ウィトゲンシュタインが「確実性の問題」で問うた内容に近いものだが、ウィトゲンシュタインの用語の「確実性」と僕がここで挙げている「必然性」「確実性」などと使い方とはまるでリンクしないのでご注意されたい。)
だから、我々が世界について何かを語るときにそれが根拠のある語りとするためには、かならず、その語りの内容が既知であり必然的なものだとして扱わねばならないのだ。
これがペンであることを確認し、その確認から必然的に「これはペンだ」という命題が真だと言えることが導かれるとする立場にたつときに、「これはペンだ」は根拠のある語りになるのだ。もし、これがペンだということを確認したと言いながら、その確認から「これはペンだ」という命題が必然的には導かれないとする立場にたつなら、「これはペンだ」は根拠のある語りにはなり得ないということだ。

 
必然性と高確率性と確実性

ここで注意しておきたいのは、この必然性を「その世界の中で或る事柄が起こる確率の高いこと」と混同してはならないということだ。
いま、その「その世界の中で或る事柄が起こる確率の高いこと」を「高確率性」と呼ぶことにする。
例えば、ニュートリノが他の物質との相互作用を働かせる確率はものすごく小さい。だから、100万粒のニュートリノがスーパーカミオカンデを通過してもその内の1粒でさえ観測できるとは限らない。いつになったら、その一粒を観測できるかはっきりしないのだから、その意味で、ニュートリノの観測可能性はまったく低確率だ。そこにあるニュートリノと観測器が関係し合うかどうかは完全に低確率だと言えるだろう。しかし、この確率が100%になることが必然性を持つことではない。
また、そのニュートリノの観測について、どのニュートリノがいつ観測器に反応するかは現在の人智ではまったく予測がつかない。この予測つかなさを不確実性、予測しやすさを確実性と呼ぼう。このときもちろん、確実性は高確率性ではないし、不確実性は低確率性ではない。
そして、この確実性も必然性ではない。

ニュートリノの検出がいつ起こるか予測つかなくて不確実なのは、我々の科学的理解が不十分だからなだけで、科学がもっと深まればどのニュートリノがいつ反応するかも確実に予測できるようになるかもしれない。そうかもしれないが、そうだとは言い切れない。科学がどんなに発展してもやはりどのニュートリノがいつ反応するかは不確定だと言い切れるものなのかもしれない。だから、どのニュートリノがいつ反応するかは、現時点では不確実だと言えるし、将来的にも言えるかもしれない。
このニュートリノの検出の不確実さがある日どのようなニュートリノがいつ反応するのか100%分かるようになって確実性を得ることは、必然性を得ることとはまた別のことだと僕は考えているのだ。
ここで言っている「確実性」は、いつどこでどうなるかがはっきりと予測できること、ここで言っている「必然性」は全ての可能世界でそうであること、という違いは言い方の違いだけでなく、まったく異なる概念の違いであり、同値でもない。
例えば、「ニュートリノの検出は確実だが必然ではない」とは「或る可能世界ではニュートリノの検出が完全に予測できるが、別の可能世界ではまったく予測できないこともある」という意味であり、「ニュートリノの検出は必然だが確実ではない」とは「いかなる可能世界でも検出されればそれがニュートリノの検出だとして捉えられるが、どのニュートリノがいつ検出されるかはわからない」という意味であって、当然ながら、まったく別の話になるのだ。
また、例えば、「ニュートリノの検出は100%の高確率だが必然ではない」とは、「この現実世界ではニュートリノがそこにあるときにはかならず検出器に反応し、ニュートリノのすべてを検出することができるが、それは全ての可能世界でそうだとは言えるものではなく、検出されないことも可能だ」という意味であるが、「ニュートリノの検出は必然だが、100%の高確率ではない」は「いかなる可能世界でも検出されればそれがニュートリノの検出だとして捉えらるが、そこにニュートリノがあるからと言って必ず検出されるとは限らない」という意味である。これも、当然ながらまったく別の話である。

「必然性」は「高確率性」とも「確実性」とも違う、まったく独立の概念だということだ。まったく低確率で不確実であっても必然であることはあり得るのだ。
ニュートリノは非常に低い確率でしか捉えられず、どのニュートリノがいつ反応するかさっぱり予想できなくても、スーパーカミオカンデでニュートリノの反応が示されたときの、その反応は、如何なる可能世界でもニュートリノの存在と関係するものであるとされることは、あり得る。これが「必然性」である。

さて、論がずいぶんと横道に入り込んでしまったが、これで、「或る認識を必然的だとすることこそが、それが根拠に基づくものだとすることにほかならない」ということと、「必然性は、高確率性とも確実性とも違う独立の概念である」ということについて或る程度明らかなものにできていたら良いのだが。
ここで、話をもとに戻す。最初の問い「観察者と論理的に独立だが自然的に関係を持つりんごの存在を語ることはできるか」へ戻ろう。

 
答え

どうだろう。それができないことはもう歴然ではないだろうか。いくら観察者の目の前にりんごがあって、観察したときにりんごが見えたとしても、その問われている「りんご」は定義として「観察して見えたとしてもその見えとは独立のものだ」とされているものなのだ。つまり、「見え」に現れたとしてもその「見え」を根拠にして「見えた」と言ってはならないと定義されたりんごなのである。論理的に独立なりんごとはそういう意味なのである。だから、いくらりんごが見えたように思えても、それはここで問われているりんごではあり得ないのだ。ここで問われているりんごは決して「りんごが見えた」と語られる根拠にはなり得ないりんごなのだ。だから、問いは「語義的に決して見られることのないりんご」を問うていた何とも無意味な問いだったのだ。

だから、その問いの答えはこうなるだろう。

問い、観察者と論理的に独立だが自然的に関係を持つりんごの存在を語ることはできるか。
答え、或る認識を必然的だとすることが、即ち、それが根拠に基づくものだとすることであるのだから、観察者との関係が独立であることが必然だと定義されたようなものは、その存在を根拠のある話として語ることはできない。

つまり、話者と必然的に独立のものは、いくら偶然的に関係するとしてもムダなのだ。それは、まさに必然的に語り得ないのだ。

そして、だからクオリアが語り得ない、というところまでもう少しなのだが、今日はここまで。

つづく

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