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2016年11月 4日 (金)

我々と論理的に関係しない実在<クオリア再考24>

チャーマーズのクオリアは物理的実在に論理的に付随しないが自然的に付随するという。そんなことがどこまで可能なのかを検討したい。そのために、我々と論理的に関係し合わないような実在というものを考える。

 

ニューニュートリノ

以前、「ニューニュートリノ」なるものを考えた。
ニュートリノという物質は他の物質と相互作用する力が小さく、地球とでさえ関係しあうことなく貫通してしまうらしいが、それでもわずかながらに相互作用が働くのでその存在を実験的に確かめることができる。そこで、さらに、一切の相互作用が働かない「ニューニュートリノ」という存在を考えてみた。それは一切の相互作用がないのだから、それが「ある」ことを確かめる方法は原理的にないものだということになる。(「某かの作用を働かせる可能性を持つこと」を「関係する」とよぶとすると、)「我々と関係し合わないのだけれど、本当はここにニューニュートリノがある」という発言をしたとしても、それが何を言っている言葉なのか誰も分からないし、そんな「本当」などに意味など無いように思われる。「ニューニュートリノ」は有意味に「ある」ことはあり得ないのだ。そして、同じ意味で、「ニューニュートリノ」は有意味に「存在しない」ということもあり得ない。「無い」とさえ言う価値も意味もないものだ。ということを考えた。
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「論理的に関係せず自然的に関係するニューニュートリノ」

それで、今日はその考察をもう少し進めてみて、論理的に我々と独立な物理存在を考えてみる。
上の「ニューニュートリノ」は論理的に我々と関係し合わないだけでなく、自然的にも関係し合わないものとして想定した。それを今回は変えて、【自然的には関係するけれど論理的には関係しないような「ニューニュートリノ」】を想定するなら、それはどこまで有意味になれるのかを考えてみたい。

この新しいバージョンの「ニューニュートリノ」は、自然的には我々と関係し合うのだから、どんなにか薄い確率ではあろうけれども、そこにニューニュートリノが在るときに、我々はそこに或る対象が在ることを観測することができる。
しかし、この時、我々がそこに観測するのは「自然的に関係するが論理的に関係しないニューニュートリノ」なのだろうか。違うのではないだろうか。

僕がここで「論理的」と言っているのは、「語義から必然的に決定され得る」という意味だ。
だから、「ニューニュートリノは論理的に我々と関係し合わない」という文が示すのは、「どんな観察結果を得たならば、我々は、そこにニューニュートリノが関係しているとすることができるか、ということを原理的に決められない」ということではないだろうか。【実験観察の結果、どんなに多数の事例がニューニュートリノの存在を示していたとしても、それはたまたま偶然にその結果を得られただけであるとし、その結果がニューニュートリノの存在からの必然的な関係があって出たものだとは考えてはならない】、というのがその「ニューニュートリノは論理的に我々と関係し合わない」という文の意味するところではないだろうか。

一方、僕がここで「自然的」と言っているのは、「語義から必然的に決定される訳ではないが、たまたま偶然に、しかし現実にそのようになっている」という意味だ。
だから、「ニューニュートリノが自然的に我々と関係し合う」という文が示すのは、「我々が観察している場所にニューニュートリノが来た時に、有効性のある頻度で、そこに反応アリの観察結果が得られる。ただし、その反応はたまたま偶然起こった反応でしかないものだから、その観察結果はニューニュートリノがあるという証拠にはなるものではない」というものになろう。

この検討は、「ニューニュートリノ」について考えているのだから、ニューニュートリノが観測できる頻度は非常に低いものになってしまうだろう。もともと、観察と存在の関係性を検討するために抽出した思考実験だったが、今回の「論理的関係」と「自然的関係」とを考えるためにはそのような観測頻度が低いものでは考えにくいので、もっと高い頻度で観測できるような思考実験を考えてみたい。そこにあったら必ず見えるようなモノ、「りんご」にしようか。

 

「論理的に関係せず自然的に関係するりんご」

では、次の思考実験として、【自然的には関係するけれど論理的には関係しないような「実在りんご」】を考える。
「その実在りんごは論理的に我々と関係し合わない」という文は「どんな観察結果を得たならば、我々は、観察した対象が「りんご」だったと言うことができるのか、を原理的に決められない」ということを意味していると言えるだろう。
「その実在りんごは自然的に我々と関係し合う」というのは「我々が観察している場所に実在りんごがある時に、実在りんごが見える。ただし、その見えはたまたま偶然起こった見えでしかないものだから、そこに実在りんごがあるという証拠にはなるものではない」という意味になるのだろう。
これまでに、実在りんごが見えたときには必ずそこに実在りんごがあった。論理的には我々と関係しなくても自然的には関係するのだから、たまたま偶然ではあるのだけど毎回必ずそこに実在りんごはあると言える。これまでに100万回、実在りんごが見えたなら、その100万回のすべての場面で、偶然ながらもちゃんと、そこに実在りんごがある。
それでも、自然的には関係するのだけど論理的には関係しないのだから、見えるたびに毎回必ずそこにある実在りんごはたまたま偶然にある、だけなのだ。ここではたまたま「自然的に関係する」ということになっているから、たまたまそこに実在りんごがあるのだが、実は論理的に関係しないのだから、そこに、実在りんごが見えていても本当はそこには実在りんごがない、ということも十分可能なのだ。えっ?本当は実在りんごがないのに、そこにそれが見えるというのはおかしいじゃないか。絶対おかしい。そう、おかしいのだ。
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見て確かめられないものを見て在るとすることはできない

「実在りんごが見えているのに、本当はそこに実在りんごがない」というのはどういう状況だろうか。見えているのに無いというのはつまり「幻」を見ているということだと判断すればいいのか。いや。それではダメじゃないか。世界に見えているものがあったら、普通はそこにそれが「ある」とすべきだろう。でも、ここでは「そこに見えているからと言ってそこにあるとは言えないようなモノ」の存在を問われているのだ。そんなものの存在などを、見ることによって言えるわけがないじゃないか。だって、見ても存在を確かめられないものを、見ることでもって「ある」とすることができるわけがないからだ。つまり、どんなに偶然たまたま本当にそこに実在りんごがあったとしても、その存在は、もともとそれを「見て」確かめられてなかったということなのだ。
つまり、「実在りんご」は、我々に見えたとしても、存在を確かめることができないものなのだ。だから、「実在りんご」が見えていると思ったときに、たまたま偶然的に、実際にそこに「実在りんご」があったのだとしても、そこであることが確かめられたのは「実在りんご」とは違うものだとすべきだったのだ。我々が見てその存在を確かめられるのは「論理的に我々と関係しない実在りんご」ではなく、「論理的に我々と関係し合うりんご」だとしなければならなかったのだ。だから、実際に眼前にりんごが見えたのであれば、それは、そこに「論理的に我々と関係し合うりんご」の存在が確認できたとせねばならず、そこに見えたのは「論理的に我々と関係し合うりんご」だったとせねばならないのだ。そして、もし、【「論理的に我々と関係しないが自然的に関係する実在りんご」がそこにある】と定義されてしまったときには、眼前にりんごが見えたときにそこに確認できるものは「論理的に関係するりんご」であるのはやはりその通りなのであるが、定義されてしまった以上、それとは別ものとして見えない「実在りんご」がそこにある、ということになるはずなのだ。

 

論理的に関係しないものは論理的に見えない

以前に考えた「我々と一切の相互作用を持たないニューニュートリノ」はどうやっても、その存在を確かめることができなかった。いくら「見えないけれど本当は在る」と言われたとしても、その文の真偽を確かめることは原理的に不可能だった。だから、その「本当は存在する」なんていう物言いは単なるお題目でしかない、意味を持たないナンセンスな言葉だった。
同様に、「我々と論理的に関係しない物理存在」なんてものも、どうやってもその存在を確かめることができない。いくら「確かめられないけれど本当は在る」と言われたとしても、その文の真偽を確かめることは原理的に不可能なのだ。だから、その「本当は存在する」なんていう物言いは単なるお題目でしかない、意味を持たないナンセンスな言葉だったのだ。

「論理的に我々と関係しないニューニュートリノ」なんてナンセンスなのだ。在ることも無いことも、確かめることができないのだ。さっき、僕は上で、「この新しいバージョンの「ニューニュートリノ」は、自然的には我々と関係し合うのだから、どんなにか薄い確率ではあろうけれども、そこにニューニュートリノが在るときに、我々はそこに或る対象が在ることを観測することができる」としたが、それはまちがいだったのだ。いくら自然的に関係できるものであったとしてもそれが論理的に関係できないものであったのであれば、「それが在ることを確認できる」などということはあり得なかったのだ。
「論理的に私と関係しないりんご」なんてナンセンスなのだ。在ることも無いことも、確かめることができないのだ。
そうすると、「私の感覚と論理的に関係しない物的存在」なんてナンセンスだったということになる。在ることも無いことも、確かめることができない、としか言えないはずだ。

と、ここまでの推論は僕としては大丈夫なように思えるのだがどうだろう。どこかに間違いがあるだろうか。

で、そうであれば、当然、「物的存在と論理的に関係しないクオリア」なんてナンセンスであることは疑いえない。だって、「我々と関係し合わない」というのは、突き詰めれば、「その文の主語である主体と関係し合わない」ということであり、「世界の中心である主体と関係し合わない」ということにほかならないはずだからである。

でも、このクオリアに関する推論は、さすがにこれだけでは不十分なので、別の機会に続きを書くことにしたい。

(今回の記事のアイデアは、ken7rowさんからのコメントにヒントを得てつかんだものです。ありがとうございました。)

 

つづく

クオリア再考

大阪哲学同好会に来ませんか

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コメント

横山さん、

面白そうな内容ではあるのですが、「我々と論理的に関係する」「我々と自然的に関係する」という言葉の意味の説明がないとちょっと文章の意味がとりづらいです。

私は、客体は機能によって定義されると思っています。従って、陽子と全く同じ機能を持つ中性子というものは存在しません。そのような機能を持つものは、定義により「陽子」と呼ばれるからです。もちろん、「陽子」と「中性子」が同種のものに対する別名であれば、そのような中性子も存在することになります。しかし、現実には、「中性子」とは、定義上、陽子とは異なる何らかの機能を持つ粒子の名前になっているのです。

そしてまた、機能は、「これこれの観測を行うとこれこれの結果が得られる」といったことがらにより特徴づけることができると思います。

従って、例えば、陽子を特徴づける機能の存在を示す観測結果が得られたなら、例え、神の目から見て実はそこに何もなかったり、あるいは、神の目からみて今までの陽子とは別種のもの(例えば機能は同じだが、神の目から見て非機能的特性がいままでの陽子とは異なっているようなもの)が存在していたのだとしても、我々にとっては、論理必然的に「そこに陽子がある」ということになるのだと思います。

>「我々と論理的に関係する」「我々と自然的に関係する」という言葉の意味の説明がないとちょっと文章の意味がとりづらい

●(「某かの作用を働かせる可能性を持つこと」を「関係する」とよぶとすると、)
●僕がここで「論理的」と言っているのは、「語義から必然的に決定され得る」という意味だ。
●僕がここで「自然的」と言っているのは、「語義から必然的に決定される訳ではないが、たまたま偶然に、しかし現実にそのようになっている」という意味だ。

と説明したつもりだったのですが、これでは足りませんか。

つまり、
チャーマーズのいう「物理事象に論理的に付随しないが自然的に付随する現象的意識の質(クオリア)」というのは、「現実的には物理事象に100%連動して立ち上がる意識が在るのだけれど、それは、100%といっても偶然たまたまそうなっているだけのもので、そこに必然的な関連を想定しないものとして扱う、とするとき意識を考える。これを現象的意識とし、その質をクオリアとする」ということを意味していると理解すべきだと思うのです。
そして、これに対して僕は「語義として必然的な関連を想定しないようなものは、意味のある言葉として使えるものにはならない」と考えているのです。

さらに付け加えると、ジェグォン・キムの用語での「弱い付随性」と「強い付随性」がそれぞれチャーマーズの「自然的付随性」と「論理的付随性」に対応します。このとき、「弱い」「自然的」が「偶然的」で、「強い」「論理的」が「必然的」を意味するとされています。
そしてさらに、「偶然」は「形而上学的な概念として、あらゆる可能世界において必ずしもそのようになっているとは限らないが、現実世界においては実際にそのようになっている」という意味であり、「必然」は「原理的に、あらゆる可能世界においてそのようになっている」という意味だと言えると思います。(様相論理の言い方にはなってますが、一般的に言っても間違ってないと思います。)

そのように語の意味を捉えると、例えば仮に、「赤い」を「或る一定範囲の波長をもつ光によって刺激されたときと同等の色覚的な視覚印象のこと」と語義を定義し、「りんご」を「ある特定の形状と味を持つ果実」と語義を定義したとして、仮に現実世界には、赤いものはすべてりんごであり、りんごはすべて赤かったとします。
その世界では、りんごはすべて赤く、赤いものはすべて赤かったのだが、それはたまたまそうであっただけで、そうでないこともあり得るとする、と語義定義したとするのです。
さて、そのとき、その世界で「赤」を見たときに「りんごを見た」と言うことは、どこまで正しい発言でしょうか。
「赤い」と「りんごである」が語義的に独立であるとしたままで、赤いものを見たことが「りんごを見た」と言う根拠になるでしょうか。それは、無理ではないでしょうか。だって、その両者を独立としたままその発言をするということは、「『赤』と『りんご』が関係【ない】ものと考えたと上で、 りんごが見える」という発言で「『赤』が見えている 」ということを表現しようとすることになると思われるからです。明らかに、この言い方は、根拠に基づいて有意味に世界を語り得るものではありません。根拠に基づいて有意味に世界を語ろうとするなら、「『赤』と『りんご』が関係【ある】ものと考えたと上で、 りんごが見える」という発言をしないと「『赤』が見えている 」ということを表現しようとすることはできないはずだからです。
つまり、我々は言葉で世界を語ろうとするなら、言葉の意味として、その言葉が世界を表現するものであること自体を必然的なものだと捉える以外に、世界を語るための言葉を使う方法はない、と断言してしまえると考えられます。
これが、「見て確かめられないものを見て在るとすることはできない」という説明で、僕が言いたかったことです。結局は、「言葉は語義から独立な内容をその言葉で表すことはできない」という当然のことを主張しているだけなのです。

まだ、意味がわかりません。
用語の確認をしたいと思います。

横山さんは、毎日の1時の天気と1時5分の天気には関係があると思いますか?
関係があるとすると、それは必然的なものですか?
(簡単のため、任意の時刻の天気は、晴れ、くもり、雨、雪のいずれかだと判定できるものとします。)

交差点を観察していると、赤信号で車が停止するのが観察できます。
信号の色と車が停止するかどうかは、関係があると思いますか?
関係があるとすると、それは必然的なものですか?

ご質問のいずれの場合にも、僕は必然的な関連があると思います。それは、僕が或る二項関係について必然か偶然かを考えるときに、その答えが世界のあり方のみによって決まると考えているのではなく、その二項の意味を必然的に関係するものとするような言語(そのような言葉づかい、あるいは、そのような言語規則)を使用していることによって決まる、と捉えているからです。一般的に僕らは、信号の色と車の停止には必然的に関係があるとするような認識に基づいた言葉づかいをしていると僕が判断したからです。
ただし、さまざまな二項関係には必然的な関係か偶然的な関係かがはっきりしておらず、よくわからないものも多いです。二等辺三角形と二等角三角形が必然的に一致するかどうかはそれを語る規則の基準にどんな幾何学的を用いるかによって変わりますが、ふつう、なにかを語るときには、その語義や語る規則をいちいち細かく定義したり設定したりしませんから、どっちなのかはっきりしない場合もよくあります。多くのものは多くの場合、必然として語られているのか偶然として語られているのかは、とても曖昧なまま語られます。その意味で、天気の関係と信号と車の関係も、偶然かを必然かは曖昧だとも言えます。

しかし、クオリアの場合は、はっきりと定義付けられて必然的に付随しないと謳われてしまっているのですから、その論理的な瑕疵は決定的だと思われます。

つまり、必然か偶然かは、世界の側にその答えが実在しているようなものではなく、その世界を判断して語る人が、偶然と見るか必然と見るかによって語られ方が変わるものだ、と僕は考えている、ということです。

「心臓がある生物」は100%「腎臓がある生物」です。しかし、語義的には「心臓がある生物」と「腎臓がある生物」は違うものなので、腎臓がないけど心臓がある生物が存在する可能世界はあり得ると考えられます。だから、たとえば、ある一匹に心臓があることを見て、「必然的に腎臓がある生物を見つけた」と言うのは間違いだと言えます。

必然的に、何らかの偶然的あるいは必然的な関係が、存在しているということでしょうか?

つまり、関係の内容が必然的なのではなく、
何らかの関係の有無についていうと、必然的にある、ということですか?

「心臓がある生物」は語義的に、あらゆる可能世界で心臓があると想定して、その生物を語っているが、あらゆる可能世界で腎臓があるということまでは想定していないので、その生物が腎臓を持たなかったという可能世界も想定できるような想定であることになるはず。だから、「心臓がある生物」は、一般的に必然的に心臓を持つが、必然的に腎臓を持つわけではない、とされます。

>何らかの関係の有無についていうと、必然的にある、ということですか?

何らかの関係についても、言葉の設定の上で可能世界のあり方をどう捉えるか、その捉え方にかかってくるのだと思います。

心臓の例はよくわかりますが、その他はよくわかりません。

>ご質問のいずれの場合にも、僕は必然的な関連があると思います。

赤信号の時に、車が止まるのは必然的だということですか?
同じことだと思いますが、赤信号なら必然的に車は止まるということですか?

私は次のように使い分けています。

①必然的に関連がある(関連が必然的にある):
 いかなる可能的世界においても何らかの関連がある

 例:いかなる可能的世界においても、信号と車の挙動に何らかの関連性が
   みられるなら、 信号と車の挙動には、必然的に関連がある。

②必然的な関連がある:
 関連があり、その関連の仕方はいかなる可能的世界においても同一である

 例:いかなる可能的世界においても、信号の色は青、赤、黄色であり、
  とおりかかった車は、信号が青なら通過し、信号が赤なら停止し、
  信号が黄なら無理をしないなら、信号と車の挙動には、
  必然的な関連がある。(実際はそうではない。また、別の関連の場合もありうる。)

なるほど、「必然的に関連がある」と「必然的な関連がある」とでは意味が違っていたのですね。それは気づきませんでした。その意味でいうと、僕が

>ご質問のいずれの場合にも、僕は必然的な関連があると思います。

と回答したのは、適切ではなかったですね。

「ご質問のいずれの場合にも、僕は必然的に関連があると思います。」と訂正しておきます。
だから、僕がそこに必然的に関連があると言ったのは、「信号の色によって100%車の止まるか否かが決まる」という意味ではありません。「任意の可能世界が100%の確率で、信号の色が車の制動に影響する世界である」という意味です。「赤信号なら100%車が止まる」という意味ではなく、「赤信号が車に影響を与えるものである可能性が100%だ」と言いたかったのです。

>僕がそこに必然的に関連があると言ったのは「任意の可能世界が100%の確率で、信号の色が車の制動に影響する世界である」という意味で、「赤信号が車に影響を与えるものである可能性が100%だ」と言いたかったのです。

この言い方でもまだ、不適切に思えたので、再度訂正します。

僕がそこに必然的に関連があると言ったのは「任意の可能世界は信号の色が車の制動に影響するものだとされる世界である、と言える可能性が100%だ」という意味で、「あらゆる可能世界で、赤信号は車に影響を与えうるものだ」と言いたかったのです。

「使い分けています」と言いましたが、「必然的」等の語はあまり使用しません。本当に必然的なら、強調するよりも、論証すべきだと思うからかもしれません。にわかに決めたものです。

「必然的な関連がある」は、日本語の文法的には、①②のどちらでも通用すると思います。「必然的な関連」とは、「必然的にある関連」と「関連の仕方が必然的である関連」のどちらでも通用しそうだからです。しかしながら、この①と②の区別は重要です。

あとで気づきましたが、②においては「車の挙動は信号の色に論理的に付随する」ことになっています。もちろん、信号の色と車の挙動との関連は論理的(語義的?)なものではないため、実際にはそうはなりませんが・・・。

そして、例えば、赤と青の信号としての役割が逆転した世界が可能な場合は、それだけで、論理的付随性は否定されます。その程度のことなのです。
そして、これは、逆転スペクトルと類比的です。(たとえが正確に成り立っているわけではありません)

また、信号機はあってもそもそも車が無い世界が可能な場合も、論理的付随性は否定されます。これはゾンビに類比的です。

>信号機はあってもそもそも車が無い世界が可能な場合も、論理的付随性は否定されます

それは、②の話ですよね。①の話では否定されないとして良いですよね。もし、ダメなのなら、僕の考える必然性は①でも②でもありません。

ここでの僕の必然の捉え方をさらに厳密に言うと、二項関係においてであれば、次のようになります。
「二項関係aとbが必然的にRの関係にある」とは、「あらゆる可能世界において、その世界にaとbの両者が存在する場合のすべてでaとbはRの関係にある」を意味します。
だから、かりにaまたはbが存在しない可能世界があったとしても、その必然性は崩れません。

>それは、②の話ですよね。①の話では否定されないとして良いですよね。

②の話しです。①の場合は、そもそも付随性については「あるともないともいえない」ように思います。それは、関連の仕方が必然的かどうかによるわけです。

つまり論理的付随性は、この例では、下記のような形式をとっていなくてはいけません。
「信号の色を任意に決定すると、それに応じて車の挙動がある状態に必然的に定まる」

チャーマーズが否定したのは②のほうです。(逆転スペクトル、ゾンビを反例にした)


ここからは余談ですが、
渋滞や信号機の故障がなく皆が交通ルールを必ず守る等の条件を課すと、さきほどの②は関係を逆にして、厳密性を無視すると、
「車の挙動を見れば信号の色が必然的にわかる」という意味で
「信号の色は車の挙動に論理的に付随する」ということができます。

すると、車の挙動を物理状態、信号の色をクオリアと考えると、たとえ話しがわかりやすくなります。(もちろん、正確なたとえではありません)

車が通過した場合、日本では信号は青です。しかし、外国では赤かもしれません。(逆転スペクトル)
また、車が通過したり止まったりしているのに、信号機が無い国があるかもしれません。(ゾンビ)

信号に関する規則がない場合は、車の挙動を見ただけでは信号の色はわかりません。この場合も、論理的付随性は否定されます。関連が存在しない例になるかもしれません。チャーマーズはここまでは主張していないと思います。

自分で述べておいてなんですが、①の定義には注意すべき点があるようです。

まず、①では、例えば、AとBに"関連"があるというとき、
AとBは集合(あるいは状況の関数)であることを想定しています。

ここで、何らかの”関係”といってしまうと、
AとBとの二項関係とは、直積集合AXBの部分集合のことなので、
可能世界において、Aの任意の要素aとBの任意の要素bのペアが観測されれば、
そのペアだけを要素として持つ集合も関係といえるので、
ただそれだけで、その可能世界において何らかの関係が存在することになってしまうように思います。

従って、「何らかの二項関係」ということを考える際は、例えば、関数関係や、相関が強い関係等に限る、等の制約を与えないとあまり面白くないと思います。

また、集合でなく、要素aとbとの間に何らかの"関係"があると考える場合は、
R(a,b)が成り立つような何らかのRを考えるのかと思いますが、
可能世界においてaとbが同時観測されれば、
さきと同じように、何らかの関係があることになりますし、
aとbが同時観測されないなら、それもそれで何らかの関係
(例えば「同時観測されない」という二項関係)があることになります。
従って、aとbの間に何らかの関係があるのはあたりまえになってしまい、やはり面白くありません。この場合も関係に制約をつけることが必要に思います。

尚、要素aとbについて、どの可能世界においても同じ関係Rが成り立つこと、と定義してしまうと、信号の色と車の挙動についていえば、赤信号なら必然的に停止する、といったことになるのでこれまた注意が必要です。

チャーマーズに関する議論であれば、②を考えるだけでよいように思います。

信号とゾンビの話はそれでいいんですか。チャーマーズがゾンビ論法で言ったのは、論理的に付随しないクオリアなるものがみんなに在るけど、ゾンビにはそれがないってはなしでしょ。それをそのまま、信号のメタファに当てはめるなら、その世界では、クオリアと同様に、信号と車の挙動とが論理的に関係しないものでないといけないことになります。ということは、信号が見えている人にとってもどの車も信号に従ってる訳ではないけど、たまたま信号通りに動いてるって話にしないといけないように思いますが、どうですか。

>ということは、信号が見えている人にとってもどの車も信号に従ってる訳ではないけど、たまたま信号通りに動いてるって話にしないといけないように思いますが、どうですか。

非常に鋭い質問ですね。感動的です。
横山さんの用語法がまだしっくりきませんが、チャーマーズなら「信号を度外視しても、車の挙動は問題無く説明できる」というでしょう。
ここで、「車の挙動」を少し広くとって運転手の信号に関する発言も含めてみると、現象判断パラドックスに類比的になると思います。
先日申しましたように、私は「ゾンビと普通人の言動が同じでは面白くない」と思います。詳細は割愛したいです。

記事を再読させていただきました。意味がわかるようになってきた気がします。

私が理解した横山さんの主張:
もしりんごが実在するなら、りんんごは我々と必然的な関係を持つ。

私の暫定回答:
多分そのとおり。一方、
もし私のクオリアが実在するなら、(多分)
クオリアは必然的に、現に在るか私の部分である。

(誤字や足りない部分があったので、再投稿します。)

記事を再読させていただきました。意味がわかるようになってきた気がします。

私が理解した横山さんの主張:
もしりんごが実在するなら、それは我々と必然的な関係を持つ。

私の暫定回答:
多分そのとおり。一方、
もし私のクオリアが実在するなら、(多分)
それは必然的に、現に在るか私の部分である。

たびたびすみません。先ほどの「実在」は「存在」のほうがよいのかもしれません。

ずいぶんスッキリと分かりやすくまとめてくださいました。有難うございます。

「私が理解した横山さんの主張:
もしりんごが存在するなら、それは我々と必然的な関係を持つ。
私の暫定回答:多分そのとおり。一方、もし私のクオリアが存在するなら、(多分)それは必然的に、現に在るか私の部分である。」

こういうことですね。
僕の主張にそったまとめにしてもらえていると思います。

そして、僕の主張は、そのまとめの「横山の主張」と「ken7rowさんの回答」をどちらも取った上で、さらに、「だから、現にあるクオリアは我々と必然的な関係をもつ」とするものであるように思います。

少し休もうと思います。大変有意義な議論でした。どうもありがとうございました。

蛇足ながら念のため少し補足しますと、
「チャーマーズなら「信号を度外視~」というでしょう。」とは、
チャーマーズなら多少困惑しながらもそう主張せざるを得ないといったニュアンスです。
また、横山さんの主張、「必然的な関係を持つ」は②(強い主張)のほうでよいと思っています。

私のネームは、北斗の拳の主人公「ケンシロウ」をもじったものです。
比較的優勢な時にこれは決め手かなと思っても、横山さんはケロリとして立ち上がってくる。もう死んでいるはずだったのに、丁度ゾンビのように・・・。
(「もう~」はケンシロウの決め台詞です。単なる冗談なので、気を悪くなされないで下さい。)

それでは、また。

ken7rowさん、
ずいぶん面白い議論ができました。有意義な気づきがたくさん得られ感謝しています。また、いつでもいらしてください。

あ、ひとつ付け加え。
「論理的に関係している」の意味を考えるならば、やはり①でなければならないと思います。たとえば科学実験で「ニュートリノ」を検出しようとするときに、実験器具とニュートリノの関係は必然でなければなりませんが、関係する確率はすごーく低くても構いません。それを許すのは①だと思えます。

横山さん、

あのあと「関係がある」の用語法について考えてみました。

2つの「AとBとの関係」
(a)順序対(A,B)を要素に持つような関係(R(A,B)が成り立つようなR)
(b)集合Aと集合Bとの間の二項関係(直積集合AXBの部分集合)

どちらも、単に「関係がある」とすると、自明な主張になってしまいます。
例えば、(a)の意味で、私と神には何らかの関係が成り立ちます。下記のようなRが成立するからです。
  R(x,y):「xはyについて考察したことがある。」

そこで、自明な主張にならないよう、関係に制約を加える必要があるようです。
(a)では、下記のような主張となるのが普通と考えられます。
  具体的関係Rについて、AとBとの間にRが成立する。
   例:秀吉と秀頼は親子関係にある。

(b)では、下記のような主張となるのが普通と考えられます。
  集合Aと集合Bの間に、与えられた制約を満たす二項関係が観察される
   例:父兄会と生徒会の間には親子関係が見出せる。
     信号の色と車の挙動の間には、規則的な関係が観察される。

こうしてみると、私が理解した横山さんの主張は、何らかの変形を施したほうがよさそうです。

ken7rowさん、コメントありがとうございます。
確かに、付随関係は関係する2者が対称的ではありませんね。
僕の考察では、その対称性が崩れていることは大きな問題ではないと考えて、考察の中には入れていませんでした。
その非対称性が、クオリア問題と関係が本当にないのか、あまりきちんとは考えていなかったので、すこし考えてみたいと思います。

考えてみましたが、やはり、関係の非対称は論旨とは関係ないように思えます。僕の論は関係そのものが必然でなければなにかを語るための根拠にはなり得ないとするだけのものですから、別に、その関係に対象性がなくても論には影響ないように思えます。もし、何か影響があるのであれば、例示してもらえないですか。
僕ももう少し考えてみます。きちんとそれが関係ないことを示せるようになったら、書きたいと思います。

よく考えてみたら、その付随関係の非対称性はとても興味深いです。僕の論の傷ではなく、チャーマーズの論の方の瑕疵に繋がるかもしれません。クオリアからは知り得ない物理的実体の多様性までもを許すことになりそうです。瑕疵というほどのものではないでしょうが、それでも面白いかもしれません。記事にできるようならしてみます。それほどの論考にはならないかもしれませんが。

思い付いたことがあったのですが、勘違いでした。チャーマーズの論において、付随関係の対象性が崩れていることは特に問題のない要素だったようです。僕の論においてもやはり、それが傷になるとは思えないでいます。

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