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2016年10月15日 (土)

義務としての正義と天皇制

「誰かを助けることは義務じゃないと僕は思うんだ 笑顔を見れる権利なんだ 自分のためなんだ」(SEKAI NO OWARI 「HeyHo」より)

なるほど、その通りかもしれない。
弱者を助けるのは義務じゃない。
正義を為すのは義務じゃない。

しかし、このような「正義は義務じゃない」などという世界の捉え方には種々の反論もあるだろう。
たとえば、曰く、人は正義を為さねばならない。
たとえば、曰く、盗んではならない。
たとえば、曰く、殺してはならない。姦淫してはならない。愛し合わねばならない。堕胎してはならない。親孝行せねばならない。
たとえば、曰く、牛を食ってはならない。
たとえば、曰く、像崇拝してはならない。
たとえば、曰く、差別してはならない。地球を保護せねばならない。
たとえば、曰く、人は絶対的な善を為さねばならない。
たとえば、曰く、人は聖なる教えを守り、大いなる真理に従わねばならない。

この考え方は、大いなる知恵や大いなる聖というものがあって、人が為すべき行為の「答え」なるものが既にしてあるのだとする。だから、人はその「答え」に従って行為すればよいとする。自分では何も考えなくても良い。「答え」は偉い人が教えてくれる。
「しなければならないこと」というものは、ただ、しなければならないのだ。何故しなければならないのか、などというものは問わなくても良い。それはすでに大いなる先人や大いなる知恵者が「答え」として出しているのだから、人々はただそれに従えばよいのだ。
この考え方を「義務としての正義」と呼ぼう。この「義務としての正義」の考え方は、多くの為政者や経営者や指導者にとって、都合の良いものだろう。だって、国民に「自分では考えなくて良い。『答え』に従え」と言うことで、国民を一斉に従えることができる。労働者を従わせ、生徒を従わせることができる。

為政者が国民に対して、この「義務としての正義」を謳うための装置として、「天皇制」はずっと使われてきたのではないだろうか。「天皇」を先人の知恵の象徴とし、その知恵の教えを守ることが日本人の義務だと思わせることで、国民を「良き行為」を為す人形として縛ってしまう。そのための「天皇制」や「ナショナリズム」なのだろう。
或いは、先生が生徒に対して「義務としての正義」を謳うための装置として、「校則」が使われてきたのではないだろうか。
しかし、そのような「義務としての正義によって行為せよ」というような教えは、もはや、「教育」ではなく、「洗脳」と言うべきものでしかない。自分で考える力を育もうとせず、とにかく「答え」を信じよというのだから、そこには科学的考察も論理的考察もなく、ただただ宗教的な従順さのみを求めるものだからだ。
もし、学校での指導が「とにかく規則だから守れ」としか言わず、「何も考えずに規則遵守せよ」とだけしか言わないような指導になっているのであれば、それはもはや洗脳でしかない。教育は死んでしまっていると言わねばならないだろう。
あるブラックな工務店が徒弟制を組んで、「親方のとにかく愛情深い教えを守れば、すばらしく有能な大工に育ててやる」としているらしいが、それも、どんなに愛情深くても、効率的でも「洗脳」でしかない。

「とにかく正義を為すこと」と「自分で行為の正しさを考えること」のどちらが重要と考えるか。「とにかく正義を為すこと」が重要だと考えると「義務としての正義」論を採ることになるのだろう。一方、「自分で行為の正しさを考えること」が重要だと考える立場を「自立的行為」論と言おうか。

天皇制とか、家長制度とか、独裁主義とか、宗教とか、徒弟制度とか、体罰主義とか、そういうのが「義務としての正義」論タイプの思想で、民主主義とか、民主的教育とか、そういうのが「自立的行為」論タイプの思想と言えるだろうか。
でも、こうして見ると、民主主義はどうも非効率的だ。みんなが正義を為すとは限らないし、たぶん、国民みんなが一つの正義を為すなんてことは、決して起こらない。だから、国民みんなが、或いは、私一人が幸福になるためには「義務としての正義」論を採る方がはるかに手っ取り早いだろう。
だから、僕は「洗脳」が悪いとは言わない。そうしたい人はすれば良いと思う。大いなる智者に身をゆだねてしまうのは或る意味で楽だろうし、救われるだろうし、効率的に幸福が得られるだろう。もしかすると、「答え」に従順に従えば国民は幸福になれるのかもしれないし、おそらく或る意味で実際に幸福になるだろう。
しかし、そんな幸福はまやかしの幸福だと言わねばならない、と僕は思う。僕はそれが嫌いなのだ。自立しているとは思えないのだ。真に必要な生きる力を捨ててしまっているとしか思えないのだ。

だから、SEKAI NO OWARIの言うとおりだ、と言いたい。

誰かを助けることは義務じゃない。
笑顔を見れる権利なんだ。
自分のためなんだ。

悪を為すこともできることを前提としたうえで、結果的に不幸になったとしても、自分で選んで何かを為すからこそそこに生きる意味があるのではないだろうか。
どうだろう。「不幸でも良い」なんてのは矛盾だろうか。

思いつきの言々

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コメント

師匠、こんばんわ。

日本の教育で、もっと哲学を教えたらいいのにと、思うんです。小学校で道徳をするくらいなら、哲学をしたほうがいいです。「悪」と真っ正面から、向き合えるのも、「洗脳」から逃れられるのも、哲学という方法しかないように思います。

セカオワの話は、「情けは人のためならず。」と同じですか。「笑顔見れる」って、ところが、ちょっと恥ずかしいです。

自己責任で「悪」をなすのはいいけど、「悪」をなすっていう場合、たいていは他者がいるので、自己責任で完結するのは難しいことが多い。私見ですが、他人が嫌なことをあえてすることが、「悪」なんじゃないか。これも、ちと恥ずかしい。私の時代の義務教育の呪縛が未だとけていないのかな。


taatooさん、コメントありがとうございます。

そうですね、高校で「無知の知」とか習いましたけど、高校生が問いたい内容からするとかけ離れたようなものばかりでした。全然興味が持てなかったです。もっと、突っ込んだテーマで考えたらいろいろ面白いネタがいっぱいあるのにもったいないと思いますね。
ただ、小学校でも哲学ネタを与えたら良いかというと、そういうものでもないとも思います。
小学生たちは日々自分自身を取り巻く哲学に忙しいです。そのモヤモヤした感じをきちんとモヤモヤさせてやることが、とても大事だと感じています。子たちはそうやって、すでに真の哲学をしているので、わざわざくだらない定番の哲学を示してそれをつぶしてしまうのは、もったいないように思います。

先日1年生から「あったかいのが好きやから、冬が好きやねん」と言われました。モーレツに哲学的でしょう。

でも、
>。「悪」と真っ正面から、向き合えるのも、「洗脳」から逃れられるのも、哲学という方法しかないように思います。
というのは、
まさにその通りだと、強く共感します。

そっか~。わかりました。

哲学を知るべきは、小学校の先生なんですね。

師匠に学ぶ小学生は幸せですね。

民主主義は洗脳の形態の一つではないですか?
権利は権力によって保証されなければ、権利たり得ないのではないですか?

唯子さん、ようこそいらっしゃいました。歓迎します。

民主主義という語は多義的ですね。制度として成立している民主主義制度は、確かに「選挙結果を守れ」「法を守れ」ということを無条件に強いる場合もあるでしょうから、それは、上の本文で僕が言った意味での「洗脳」になる場合もあるかもしれません。
ただし、上で僕が言っている「民主主義」とか「民主的」とかの語は制度としてのものではなく、個人の行動は自分で考えて選ぶべきだというような「行為選択」に関するものです。「自分の行動は自分で選べ」と教えることも洗脳にあたると言われているのなら、面白い論点だと思いますが、賛同はできません。それは、僕の言っている「洗脳」という語が「自分の行動を自分で選ばせず大いなる何かに委ねさせてしまうこと」という意味でのそれだからです。「自分の行動は自分で選べ」と教えることが「自分の行動を自分で選ばせず大いなる何かに委ねさせてしまうこと」だというのは、単純に矛盾になるからです。

また、権利を保障するためには、パワーゲームが必要だと僕も思います。

『自分の行動は自分で選べ』
なぜそんなことしなければならないのでしょう?

そもそも生まれることすら選択できなかったというのに。

正しいとされることは、既に大体決まっていて、
この社会においては、多数派の考えを優先されなければならないことを強いられるのに。
だいいち、この多数派の人達は本当に正しいことを知っていて、正しい選択ができる人達なのでしょうか?
この人達の「正しさ」が社会を成立させる為、己が人生を円満に全うする為の無意識による選択的な刷り込みだと言えなくはないですか?

義務としての正義以外に正義なんてあるのでしょうか?

それと幸福とは何を意味するのでしょうか?

唯子さん、

すこし誤解があるかもしれません。
僕は、制度としての「民主主義制度」と、行為選択の方法としての「民主的方法」を分けた場合の後者を考えています。
ですから、

>多数派の人達は本当に正しいことを知っていて、正しい選択ができる人達

というのは、僕の言い分ではありません。

他者からの刷り込みが個人の価値形成に大いに影響することは間違いないと思います。しかし、刷り込み以外には価値決定の要因があり得ないかと言えば、そうではないと思います。
たとえば、
すべての人類が、現在でも歴史的にも、女性参政権を否定してきたという世界においてでも、私が女性参政権擁護を正義だと主張することは、可能であり、有意味である、と考えています。

そして、以上のことを了解された上で、
>『自分の行動は自分で選べ』なぜそんなことしなければならないのでしょう?

という質問をされているのであれば、それに対する僕の答えは、「単にそれが僕の好みだからで、それ以上の根拠はありません」です。

ということは、価値決定の要因とは自覚できる限りでは、好みだということですね。
私がそれを好まないとしても
それを倫理的に正しくないと言えても、論理的に正しくないとは言えませんね。
好みの問題ですから。

唯子さん、
その通りだと思います。もともと価値は論理的に定めることができないものだと思います。

価値を価値とするのは個人の好みでしょうか?
正しいものがあるのは、「正しさ」あるからではありませんか?
正しさは個人の価値観以前の意味ではありませんか?

倫理的価値は、「絶対なものだ」という人がいます。「人それぞれで絶対的なものなどない」という人がいます。「そんなものない」という人もいます。そのどれが優位であるかなんてことは、論理のなかには答えがないと思います。それでも、僕は、「私は私の正義を働く以外ないのだけれども、他者の正義にも議論の可能性を開くべきでもある」という考えこそが正しい倫理的立場だという立場を取っています。

私個人はいかなる「べき」という主義を持たないので、何でも構わないと言っておきます。

カテゴリは違いますが「私」が無くなることはないのだから、世界が無くなることはないでしょう。
他人の存在は認められても、他者など存在しません。「私」が全てだと考えられます。

確かに別の欄で話すべき論題かもしれませんが、唯子さんがよろしければ構いません。

>他人の存在は認められても、他者など存在しません。「私」が全てだと考えられます。

しかし、↑これは、言い過ぎであり、間違いではないかと思います。その「私」は、デカルトのコギトみたいなものではないですか。それはどこまで語り得るものでしょうか。その「私」に対応するレベルで「他者」を問うのているのなら、それも「存在する」とか「存在しない」とか言えないものなのではないでしょうか。「存在しない」と言ってしまっては、言い過ぎで間違いだと思うのです。

[私]は正確に言えば「私」と思っている当のものと言ったらいいでしょうか。
名指しできないけれど、実感できるものであり、それが無ければ世界は無いも等しいそれ。他ならぬ 「この私性」これがあるのは、存在を認識できる全てのものに当てはまる事実です。誰某と言えない私、誰でもある私
私しかいないと言えませんか?

ここで、もし他者と言える存在があるのだとすれば、「神」のような何かとなるはずです。
世界外存在、または超世界存在
ですが、そのようなものは認識不可能です。


私は哲学を学問することには興味ありません。
自分にとっての問題が、いわゆる哲学と関わりがありそうだと思うからただ考えたいだけです。
「ほんとうに、ほんとうって言えることって何だろう」と

唯子さん、
とても面白いです。
その[私]は、肉体としての私とは違うものではないですか。名前をもつ人格としての私とも違うものではないですか。
或いは、「世界は[私]の世界」と言えたり、「[私]は私の世界」と言えたり、できてしまうようなものではないですか。
また、ある意味で、[今]と呼んでも良いようなものなのじゃないですか

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