フォト
無料ブログはココログ

« 反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14> | トップページ | 義務としての正義と天皇制 »

2016年9月19日 (月)

時間の非実在性と意識のハードプロブレムの相似性<時間と生は非実在か15>

時間の非実在性とハードプロブレムはどっちもダブルバインドの疑似問題である

マクタガートの時間論の考察のまとめとして、マクタガートの時間の非実在論とチャーマーズのハードプロブレムの類似性を考える。

マクタガートの時間の非実在論とは、現在過去未来の3つの時制は互いに排他的でなれけばならないはずなのに、事象はそのすべての時制を持ち合わせねばならないというパラドクスであった。つまり、現実の未来は原理的に現実の現在ではありえないはずであるが、現実の未来の一事象が現実の現在だということは決してあり得ないとするのなら、時間は生を生たらしめるものとしての本質を失ってしまってパラドクスが生じる、というものだった。(と僕は理解している。)

また、チャーマーズのハードプロブレムとは、物的存在である脳からどのようにして心的存在である意識が生まれるのかを考えるとき、機能と構造をいくら研究しても外的な機能と構造についてしか語ることができず、意識の問題には手つかずになる。この、物理機能と物理構造からは語られ得ない意識がいかに生まれるかという問いのことであった。

これについて、僕は、この両者が、「これ性(ヘクシアティ)」の優位性と物的存在の確実性という、言語設定において相反する二者を基盤としてしまったダブルバインドだと考えている。
ダブルバインドとは、子を混乱させてしまうような、同時に二つの矛盾したメッセージを送る親の態度のことで、一種の虐待である。僕は、マクタガートの時間論もチャーマーズのハードプロブレムも、矛盾する二つの前提を受け入れてしまうことによって混乱を招いてしまっただけの疑似問題ではないかと考えているのだ。

 
時間の非実在性がダブルバインドであるわけ

時間の非実在性がダブルバインドだと言うのは次の通りだ。
ダブルバインドの片方は、過去・現在・未来という時間世界が実在し、その時間世界にそれぞれ「私」という主体が実在するとするような、時空間においての物的存在の確実性を基盤とする言葉づかいによる世界理解「物的存在の確実性に根差した世界理解」。
もう片方は、私の感じている「このこれ」こそが唯一確実な絶対存在だとし、不可疑だとする世界理解「ヘクシアティの優位性に根差した世界理解」。
この二つは、ともに絶対であることはできない。しかし、その両方を確実視してしまうことによって、この現実の、ヘクシアティと同レベルの絶対的な確実さをもった過去と未来の存在を求めてしまったのがマクタガートの捉えた時間の矛盾だったのではないか。

もし、物理的時空間の存在を言語設定の基盤とし、それを不可能だとするのであれば、「今」というものは単に「その発言と同時であるとき」という意味を指すものでしかなく、「現実の現在の特異性」なんてものは原理的に語り得ないものでしかないものになるはずだ。つまり、B系列を絶対視するのであれば「今」は「同時」と同義だとするほかないのだ。だから、この視点から見れば、マクタガートのいう時間の矛盾は生じようがないのである。このとき、ヘクシアティなんてものは語り得ないだけではなく、何の意味ものないものになってしまうのだ。

しかし、それでも、「このこれ」自体の絶対性は疑えないように思える。この現実の現在が特異点であるという事実は疑い得ないように思われる。
だから、その気分を尊重して、ヘクシアティを絶対視してみようとするのであれば、そちらを言語の基盤にすることになる。そうであれば、物理的時空間の存在は、言語上の絶対的基盤ではなく、単なる仮説でしかなくなってしまうことを認めなければならない。この、ヘクシアティの優位性に根差した世界観を語るための言葉づかいを採用するのであれば、過去未来現在に「私」なる存在を仮説として位置づけ、「3分後の未来になったらその『私』がUFOを食べられるように『なる』」と仮説づけ、仮定することが、生きることだと取り決めた上で、冒険的にその世界観を受け入れることができるだけでしかないことを認めなければならない。
この時、このヘクシアティの優位性に根差した言葉づかいを用いて世界を理解しようとするのであれば、「本当の現在過去未来や時間などというものの『正しい答え』がどこかにあって、それを我々が発見する」という世界観は捨てて、「そんな本当の答えなんてものはどこにもないのだけれど、我々は自分の理解によって冒険的に世界を作り出すことができて、そこで生きていくことができる」という世界観を受け入れなくてはいけないことになる。

逆に、もし、ヘクシアティの優位性を捨てられるのなら、世界が客観的に実在するとすることができ、絶対的な「本当の答え」があることにもできるかもしれない。そして、その絶対的な本当の物理世界を基盤とした世界理解の可能性は開けるようになるかもしれない。
それとは反対に、「本当の世界」なる物的世界の絶対性を捨てられるのなら、ヘクシアティの優位性を保たまま世界を理解しようとすることが可能になるだろう。
ただし、この、ヘクシアティの優位性と物理世界の確実性の両立を求めることは矛盾するダブルバインドになってしまうので、矛盾なしのその両方を採択することはできない、ということだ。

 
ハードプロブレムがダブルバインドであるわけ

次に、チャーマーズのハードプロブレムだ。

ハードプロブレムがダブルバインドだと考えているのも、そこに、時間の非実在制がバブルバインドだったのと同じ構造が見つけられるからである。
そのダブルバインドの片方は、物的存在である脳が意識の機能を持つとするときに、外的な機能と構造によって語られ得るものがその意識や感覚なるものの全てだとし、心的存在も含めて世界の全てが物理的機能そのもののことだとする、とする。そのような物理機能の確実性を基盤にした言葉づかいによる世界理解「物的存在の確実性に根差した世界理解」。
もう片方は、私の感じている(いわゆるクオリアとしての)「このこれ」こそが唯一確実な絶対存在だとし、それを不可疑だとする世界理解「ヘクシアティの優位性に根差した世界理解」。
この相反する二つの世界理解をともに絶対だとし、私のクオリアと物理的実在の両方の絶対性を求めてしまったものが、チャーマーズのハードプロブレムなのではないだろうか。

もし、世界が物的存在によって構成されていることを前提にするときには、世界には物理的に斉一性があることを言語設定上の基盤にせねばならない。そのときには、同一の物理的機能を持っている脳の片方が意識をもつのであれば、もう片方の脳も同一の意識をもつことは必然になる。言語設定上で物理的斉一性が絶対不可疑であるのなら、機能を持たない感覚としての「クオリア」なんていう概念は単なる矛盾かナンセンスかでしかないことになり、「私の感じるこの感覚の特異性」なんていうものは原理的に語り得ないものでしかない。つまり、物理主義を絶対視する立場に立つのであれば「私の感覚」はその機能と同義とするほかはないのだ。

だから、この視点に立てば、ハードプロブレムは原理的に問いようがない疑似問題になってしまう。この視点に立てば、私の感覚のヘクシアティなんてものは語り得ないだけでなく、何の意味ものないものになってしまうのだ。

しかし、それでも、「このこれ」自体の感覚の絶対性は疑えないように思われる。この現実の「私」が絶対的な特異点であるというこの事実は疑いえないように思われる。
では、その気分を尊重して、そのヘクシアティを絶対視してみよう。そうするのであれば、物理的機能と「このこれ」との関係は、言語上の絶対的基盤ではなくなる。否、脳と意識の関係のみならずすべての物理的存在も言語上の絶対的基盤ではなくなり、単なる仮説づけられたものでしかないということを認めなければならなくなる。
この視点に立った言葉づかいをするのであれば、世界に「私」の肉体が存在することを仮説として立ち上げ、その肉体が世界を感じていると仮説づけ、別途に存在を仮説づけたUFOを食べていると仮説づける。そしてその工程によってそのUFOを味わっていると仮説づけることによって、私はその味を味わうことができる。などというように、世界と私の関係を仮説づけ仮定することが生きることであると取り決めて、冒険的にその世界観を受け入れることができる。世界とはそれだけのものでしかない――ということを認めなければならない。

このようなヘクシアティの優位性に根差した言葉づかいによって世界を理解するのであれば、「本当の答えとしての世界がどこかにあって、我々がそれを発見する」という世界観を捨てて、「そんな本当の答えなんてものはどこにもないけれど、我々は自分の理解によって冒険的に世界を作り出すことができる」という世界として捉えねばならないことになる。そして、そのような、冒険的に世界を作ろうとする態度をとるときに、はじめて、このヘクシアティに満ちたアクチュアルな世界が、物理世界として理解可能なものになる。
しかし、そうやって、物理的世界が実在するという仮説を設定して世界を理解しようとするときに、わざわざ、「『このこれ』と物理的機能が無関係で独立である」と仮定するなどということに、何か意味があるだろうか。そんな仮定には意味があるわけがない。そのような仮定は、物理的仮説を設定しながら、それを自ら否定するような矛盾したやり方であって、決して有意味な世界理解に通じることがない、意味のない世界設定なのだ。
だから、この視点に立ったとしても、ハードプロブレムは原理的に問うことができない疑似問題でしかないものになってしまう。
チャーマーズのハードプロブレムも、マクタガートの時間の非実在性も、物理記述重視の視点においても、ヘクシアティー重視の視点においても、矛盾したダブルバインドから生じる疑似問題でしかないものになってしまうのだ。

 
時間論とクオリア論の相似性

大阪哲学同好会で、この時間論の考察を発表させてもらう機会があった。討論の中で、永井均が累進構造図でもって時間の問題と人称の問題の類似性を示したことに対して、ミスリードではないかと問う人がいたが、「時間」と「人称」の類似性を示したことは、「独今論」と「独我論」の類似性と重なりを示し、それが「マクタガートの時間論」と「クオリア論」と重なるということを示した点で、極めて適切な指摘だったと言えると思う。
まあ、累進構造説自体はそのダブルバインドの矛盾を受け入れてしまうことでその矛盾を乗り越えようとしたが、それに対して、僕はそのダブルバインドを矛盾だとして受け入れないことで問題の解消を図るほうがすっきりすると考えているので、その点で、永井の考察は批判的に捉えられるべきだとも思う。そうは思うが、この、時間論とクオリア論が同じ構造であるとする考察はミスリードなどでは全くなく、とても重要な哲学的な視点であることは間違いなく、高く評価されるべきだと思う。

 

以上で、僕のマクタガート時間論の考察のまとめとしたい。

 

次節からは、時間論で考えた世界把握の仕方を、フッサールの現象学の観点から考えてみたい。フッサールに挑戦してみる。

つづく

時間と生は非実在か

大阪哲学同好会に来ませんか

« 反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14> | トップページ | 義務としての正義と天皇制 »

コメント

師匠、こんばんわ。まとめはぶれないですね。

以前、これ性についてコメントした時に、「これ性」と「この性」は違う。「この性」でも「この私のこの性」と「この机のこの性」は違う。と思いました。どうでしょうか。

①これ性(開びゃく)
②この私のこの性(主観)
③この机のこの性(客観)

クオリアや私的言語、開びゃくさえも、①と②の両方で使用されたり、区別して使用されたりする。すっきりしない原因のように思います。

ところで余談ですが、豪栄道、おめでとう!


taatooさん、
鋭い視点かもしれません。その①と②は、前説で僕が、永井の〈私〉を〈私2〉と〈私1〉に分析して考えたものに相当しますか。

豪栄道優勝は僕も喜んでいます。

師匠、相当します。「この性」も面白いです。「この机」は「その机」と言いますが、「この私」を「その私」とは言わない。「私」は主格の意味あいが強いのでしょう。あえて、「その私」と言った瞬間、時間が必要になる。眉つばです。

豪栄道の涙。もらい泣きしました。

「この性」という分析はとても面白そうですね。アイデアがまとまったらぜひ教えて下さい。
僕は、〈私2〉と〈私1〉という対称軸と私と他者の対称軸の組み合わせが、ドゥルーズの「アクチュアル」「ヴァーチャル」「リアル」という様相の捉え方が関連あるのじゃないかという点に興味を持ちました。それを調べようとドゥルーズを読み始めたのですが、読んでも理解できなくて途中で諦めました。それで、フッサールに戻って整理し直そうと思っています。僕も整理できたらまた記事にします。書けたらまた読んでください。
taatooさんの考察も楽しみにしています。

体力にない私の場合せいぜいつぶやきくらいがやっとで、いつも師匠のパワーにはびっくりさせられています。

「その私」の続きですが、「その私」とあえて言わなくても、例えば、卒業アルバムの過去の自分を指す時、「その私」と言えなくもない。その際、時間の拡がりが生じるように思うのです。

「バーチャル」とか「アクチュアル」って、ドゥルーズ由来だったのですね。ネットで検索して記事をいくつか読んでみました。例によって、無謀なまとめをしてみます。
①ポッシブル(非存在)
②リアル(存在)
③バーチャル(潜在=言語)
④アクチュアル(顕在=現象)
たぶん②の上に③があってその上に④があります。3段のかがみ餅のように。
③⇔④の話は、「言語」か「現象」かの話のように思います。

どうでしょうか。

師匠のフッサール論、デリダ論、楽しみです。

taatooさん、ありがとうございます。
私から見た世界の「ありあり感」と他者から見た世界の「ありあり感」は同質である、等と言うときの「私のありあり感」が「顕在性」で、「他者のありあり感」が「潜在性」として捉えられるのではないかと勘ぐっていたのですが。
「潜在=言語」ということだったら、その勘繰りは違っているのかもしれませんね。自分でも、諦めないでゆっくり調べ続けたいと思います。

『「私のありあり感」が「顕在性」で、「他者のありあり感」が「潜在性]』もありじゃないですかね。

③⇔④は対立というより、相互交通というような。

「私のありあり感」は、「他者のありあり感」由来で、「他者のありあり感」は、「私
のありあり感」由来であるというような。

そして「私」はいなくなる。ドゥル―ズも、確か、ポストモダンでしたしね。


taatooさん、
>「私のありあり感」は、「他者のありあり感」由来で、「他者のありあり感」は、「私
のありあり感」由来であるというような。

まさしくそう思います。それと同じようなことを最近、僕もTwitterでつぶやいていました。

「私から類推して他者の存在を想像するのではなく、他者の存在から類推して私の存在を創造するのが世界の始源じゃないのか。それが間主観性なるものの本質ではないか」

って。

師匠のTwitterは、ドゥル―ズを検索する時、確かに見てました。

今回の私のコメントは、師匠のつぶやき由来ってこともありますね。

師匠のつぶやきが潜在化し、私のコメントとして顕在化した。 

うーん、何でもかんでも、つながる。


師匠 こんばんわ

You Tube の 今年の初音ミクのコンサートを見ました。

年々洗練されてきています。今回、スティックライトを振り続ける(一見かなり異様な)ファンの気持ちが少し解った気がします。(つまり私もファンになった?)

ファンは、確かに、3Dのボ―カロイドの向こうに、それぞれのリアルを感じているように見えます。

とすると、初音ミクは、バーチャルなのか、アクチュアルなのか、それともリアルなのか。

もし見られていなかったら、ぜひ、一度見てみてください。

YouTubeみました。面白いですね。子供の頃、自分は実は地球人ではなく、いつかM78星雲の彼方から自分を迎えに来てくれる使者が来るはずだとかなり真剣に考えていたのを思い出しました。僕にとっては、それは真摯にリアルな妄想でした。初音ミクに萌える皆さんもそのヴァーチャルリアリティと呼ばれる「見え」にリアルを感じているのでしょうね。アンリアルが見ようによっては十分リアルとしての価値を持つようになるということでしょう。
でも、よく言われる「ヴァーチャルリアリティ」の「ヴァーチャル」というものと、ドゥルーズの言う「ヴァーチャル」はたまたま表記が同じなだけであまり関係あるようには思えないのですが、どうなのでしょう。また、僕の妄想している「他者と自我との関係を『ヴァーチャル』と捉え得るかも?」などというでまかせ的な疑問とも関係ないような気がします。

師匠、見てみていただき、ありがとうございます。

ゲーム用ヴァーチャルとドゥルーズ用ヴァーチャルは、違います。対の相手が違いますもの。

ただ、初音ミクをゲームヴァーチャルとして、その対のリアルって、なんだろうか?

taa:初音ミクの対は生身のアイドルかな?
too:いえいえ生身の初音ミクでしょ。
taa:でも、生身の初音ミクなんて、いないしな~。
   やっぱり、生身のアイドルなんだよ。で、これがアクチュアル。
   これに対して、ヴァーチャルなアイドルとしての初音ミク。
too:じゃリアルは?
taa:そりゃぁ、私生活のアイドルじゃない。
too:なるほど。

2つのヴァーチャルが、また混ざってしまったのかもしれません。


taatooさんの問題意識を共有できてないかもしれませんが、次のように思いました。
初音ミクがリアルでなくバーチャルだというのは、その映像が映写機から投影された単なる映像でしかないものあって、「実体がないものだ」という証拠が揃っている、ということではないかと思われます。つまり、ここでのバーチャルとは「見かけだけの」という意味ではないでしょうか。なので、「(「見かけだけの」という意味での)バーチャルなアイドル」の対になるものは「(見かけだけではないという意味での)リアルなアイドル」でしょうし、「その意味でのバーチャルな初音ミク」の対になるものは「その意味でのリアルな初音ミク」になると思われます。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/64227850

この記事へのトラックバック一覧です: 時間の非実在性と意識のハードプロブレムの相似性<時間と生は非実在か15>:

» 言語による現実を獲得 [哲学はなぜ間違うのか]
警官ごっこをする幼児は、警官という言語が意味する現実を獲得できますが、現実に警官にはなれません。幼児はそれを知っていて警官ごっこをしています。それが、そもそもの、警官という言語が意味する現実です。 拝読ブログ: 時間の非実在性と意識のハードプ...... [続きを読む]

« 反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14> | トップページ | 義務としての正義と天皇制 »