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2016年8月 3日 (水)

B系列論者が時間を無矛盾だとするわけ<時間と生は非実在か11>

入不二基義「時間は実在するか」を読む2

…って言っても「時間は実在するか」からずいぶん外れた内容になったかも。

A系列論者は時制表現「だった・である・になる」をすべて「である」に書き換えるような時制の消去を否定する。そして、マクタガートの言う矛盾はそのできない時制消去をしたために起こったカテゴリーミスでしかないとする。
このA系列論者に対して、B系列論者というものもある。こちらはその時制の消去を認め、それなのに矛盾は起こらないとする。本節は、そのB系列論者がどういう時間の捉え方をしているのかを見ていく。

 
時制の消去を認めても矛盾しないB系列

マクタガートの矛盾とは「未来は現在になる」を「未来は未来において現在である」というように読み換えたなら、結局、「未来は現在である」ことを認めてしまうことになるという矛盾であった。B系列論者は、この読み換えを認めながら矛盾せずに済ませられるとする。

「出来事Mは、かつては未来だったが、今は現在であり、これから過去となる」という時制表現(「だった・である・となる」)から
  ↓
「出来事Mは、過去において未来であり、現在において、現在であり、未来において過去である」という無時制表現(「である」)への書き換えについて、

「B系列論者の基本発想は、このような無時制な「である」の観点に立って、そこから時制を取り去った「時間」を考える点にある。この無時制的な観点を徹底すれば、A系列論者が根本的だと考えた時制は、B系列論者によって、出来事や時点どうしの前後関係(無時制的な時間関係)へと置き換えられる。…B系列論者は、次のように言う。[「出来事Mは現在である」は、「出来事Mと、『出来事Mは現在である』と発話されている…というもう一つの出来事Nとが、同時である」という意味である(と翻訳できる)。](「時間は実在するか」講談社現代新書p195)
Irifuji
「現在だ」という語の意味は、その発言自体とその発言によって問われている事象とが同時だということを語っているだけだとするのだ。だから、私が「現在だ」と言うならそれはその言っている時点の私にとっての「現在」であり、誰かが「現在だ」と言うならそれはその言っている時点の話者にとっての「現在」であるというだけのものでしかなく、発言時点と同時だということ以上の意味がないとしてしまうのだ。

 
B系列の「現在」とは発話と同時ということ

たしかに、この見方をとるならマクタガートの矛盾はなくなる。
A系列から見れば、いかなる事象も現実の過去・現在・未来としての絶対的な時制があるはずだったのだが、B系列には「現実の現在」というような特異点としての「現在」などなく、ただ、事象と事象の関係によって「より前かより後か同時か」という分類ができるだけで、それこそが「過去・現在・未来」の意味だとするのだ。
だから、B系列主義においては時系列上の「未来→現在→過去」という変化も蒸発してしまう。

「世界の側に属する実在的な時間(B系列の時間)には特別な時点などなく、どの時点も平等である。ゆえに「まさに今現実に」という特権性は、世界の側の特徴ではなくて、われわれの側がどの時点にいるのか…という問題(たまたまの事実の問題)にすぎない。また、時間特有の変化と言われる「未来→現在→過去」も、われわれの言語や認識がそのような独特の語り方・認識の仕方を持っているということなのであって、それは世界の側で起こっている変化ではない。…言語表現の側(それを使うわれわれの側)に属する特徴――特異点としての現在や未来→現在→過去という変化――を、誤って世界の側に投影してしまう場合にこそ「矛盾」が発生するのである。」(同p203)

「かつては未来であったことが、今は現在であり、やがて過去になる」というA系列論的時制表現でもって語られている「変化」は、「過去から見ると未来であり、現在から見ると現在であり、未来から見ると過去である」というB系列的無時制表現に書き換えられると蒸発してしまう。つまり、「現在・過去・未来」の両立不可能性というのは、A系列論的な視点で時制を捉えたときのみに理解可能な概念だったというのだ。
今現在の比類なき世界が開闢しているこの「端的な現在」なんてものは、その時点からみた「現在」を自分自身が捉えて、それが他と比較不可能な絶対なものであるかのように考えたものでしかなく、その「端的性」も相対的なものだと捉えられるものでしかない。そのように捉えることが可能であり、そのようにとらえると矛盾が無くなるのだ。だから、わざわざそのような矛盾を含む「端的な現在」などというものを設定する必要はなく、設定してはならない。これがB系列論者の言い分である。

 
エントロピーと記憶

また、B系列論を採るとA系列論的な「変化」は蒸発してしまうのではあるが、B系列論にはB系列論なりの「変化」がある。熱力学第2法則と記憶の関係である。
B系列論の時系列上に様々な事象が、物理法則に沿った形で並んでいる。そして、その並び方を法則づけるルールの1つに熱力学第2法則(エントロピー増大則)がある。エントロピーとは乱雑さのこと。たとえば、きちんと整列している10本のボウリングピンに球が衝突すると、ピンはいろいろな方向に弾かれてばらばらな向きに転がることになる。そのとき、偶然に元のようにきちんと並ぶという可能性も無いことは無いだろうが、確率として非常に薄い割合でしか起こらない。確率として、ばらばらで乱雑さが増える向きに物理変化は起こるというのが、エントロピー増大則である。
一般的に流通している物理法則においての相互作用は、ニュートン力学でも相対論でも(観測問題を別にすると)量子論でも時間的対称性を持ち、未来向きの変化と過去向きの変化との間に違いが無い。それらの法則に沿って運動しても起こった出来事は必ず反対向きに運動・反応して元に戻ることが可能であることになっている。しかし、エントロピー増大則によって、対象が大きくなってくるとその乱雑さが可逆的に変化することは確率としてあり得ないとされているので、世界が不可逆であることが説明されるものになる。ボウリングピンに球が当たった痕跡は時系列の一方向にのみ残り続けることになる。痕跡ができたり消えたりが時間的な双方向にランダムに起こるということは無い。
このエントロピー増大の方向へ変化の痕跡が残るという事実は、人の脳に記憶が植えつけられるということにも関係する。エントロピー増大則によって記憶は時系列の一方向のみのデータを持ち得ることになる。エントロピー増大則によって、過去のことしか記憶できないというそのことが、逆に、記憶として残っている時間方向を過去だとすることになるのである。

 
B系列の固定された「変化」

ある意識がB系列上の事象として存在するとする。その意識を立ち上げる脳状態にはB系列上の過去の方向のデータが記憶として刻まれている。その記憶には遠い過去のものもあり、近い過去のものもあり、ほとんど現在と言えるものまでが、順に並ぶ。これはB系列の話であるので、そこに並ぶ記憶としての出来事は単に時系列上に固定されたものとして並ぶだけであるのだが、記憶が一方向だけを向いていて不可逆性を持つということから、時間が向きを持っているものとして感じることになる。固定された事象ではあるが、そこに向きが生まれることで、それが変化し得る時間になるのだ。
さらに、これはB系列の話であるので、その脳の1秒前の状態のものもそこに実在しており、その1秒前の世界像が1秒前の記憶とともにそこに持つ。ただし、これはB系列の話であるので、その脳の1秒前のものと1秒後のものとの間に必然的な関連があるわけではない。1秒前の脳が1秒後の脳に「なる」と言うとき、その「なる」は「言語的にそれを「なる」ということにする」という意味での、定義的分析的な「なる」に過ぎず、何の前提もなしに1秒前の脳が必然的に1秒後の脳に「なる」のではないのだ。僕が1秒前の僕と同一人物であるのは、1秒前の僕を僕だとすることに決めたということだけがその理由であって、1秒前の僕が他人でしかないといえばそういうことも十分可能なのだ。
それでも、この今の私がその記憶の中で私だとしたものが変化し続けていると捉えることにし、そして同時にB系列上に並ぶ多数の私たちが同一の私であるとすることで、それを「変化」だとすることができるのだ。B系列上に並ぶ脳たちが持つ記憶が構成されて、そのB系列に固定されている事象の並び順を「時間的変化」だとすることで、「変化」は十分に説明し得るものになる。
B系列は、ただ年表がだらりと寝そべっているだけという時間モデルなのだが、「3分前に湯を注いだ私が、今UFOを食べている私に「なる」」という変化を説明することができるようになるのだ。

 
B系列とA系列が1つになる地平

そして、或る瞬間における人の脳が変化のある時間世界を立ち上げられるという点においては、B系列論とA系列論は大きく変わらないものとなる。ただ、B系列は可能的な人の脳が作り出した時間世界がどれも並列にあり、A系列は現実の開闢者がただ一つの現実世界を立ち上げるという違いだけである。この違いは大きいものではあるが、それぞれを究極的に求めていった地平の先では、そこに立ち上げられる世界は全く同じものになる。まるで、カントやウィトゲンシュタインの超越論的世界では観念論や独我論と実在論が一つになったのと完全にパラレルな問題として、A系列とB系列は一つになるのだ。

 
B系列の「変化」マクタガートの「変化」

しかし、マクタガートはこの説明で納得することはないだろう。「私は、今湯を注いでいるカップ麺を3分後に「今食べている」と言う私なる」と言葉で言うことはできるだろう。しかし、それは、あくまでどこまでも可能的な現在の話でしかなく、この端的な私この端的な現在の話にはなり得ないからである。マクタガートが捉えたがっているのは「3分後が現実の現在でなければならない」という次元の矛盾とどう向き合うかということであるからだ。僕はA系列論者が正しいと思うし、B系列論者が正しいと思う。でも、それでもこの話だけではマクタガートを納得させられないとも思う。そこに哲学的課題が残る。それについては、次節以降に積み残しておく。

 
B系列が固定していても決定していないわけ

B系列が矛盾しないわけについての考察はここまでなのだが、もうひとつ、B系列的時間の特徴が固定性であって決定性ではないということについても、一言付け加えておきたい。
B系列的世界モデルは3次元空間とは別に時間軸があって、その4次元時空間座標に事象が固定されているだけだと考える。流れる時間があるわけではなく、ただその4次元時空が静的にあるとされるので、4次元主義とも呼ばれる。(注:過去現在未来のすべてがすでにあるとする時間モデルとしてブロック宇宙論というものもある。同じ定義ではないがほぼ同じものだと考えて良い。ただ、4次元主義といっても必ずしも静的とは限らず、ブロック宇宙論の一部に「現在」というすっぽっとライトが当たっている部分があり、その現在が動くとする「スポットライト宇宙論」や、過去と現在だけの時空が実在していて、動的に成長していくという「成長ブロック宇宙論」というものもある。)4次元主義の世界モデルはあらゆる事象が時空間座標に固定されているものだけを扱えばいいので、様々な物理体系と相性がいい。ニュートン力学も相対論も量子論も4次元モデルが整合しやすく説明も楽にできる。それゆえ、B系列論世界は固定性があると言える。しかし、それは決定性があることを指すものではない。
例えば、量子論の多世界解釈モデルでは事象はそれぞれの世界の時空間座標に固定されているけど、それは私の運命が過去現在未来において決定しているということなのではない。
或る時刻に或る場所で或る1つの原子核が分裂していない世界と分裂している世界がそれぞれ別の世界として実在していて、或るとき或る箱の中で猫が生きている世界と死んでいる世界がそれぞれ別の世界として実在していて、或るとき私がUFOを食べている世界と食べていない世界がそれぞれ別の世界として実在している。そのように、過去から現在を経て未来にまで至る一連の事象の時間的連なりが、ただ一筋だけ決定した実在としてあるのではなく、それぞれの時刻においてその在り方のさまざまなバリエーションが同時に多重になっている。多重ではあるがそれぞれの世界では事象は固定されている。或る1つの世界では或るときに「私がUFOを食べている」という状態として固定していて、それが変更されることもないし、変化することもないのだ。

僕はA系列論もB系列論もどちらも十分に時間を説明できているちゃんとした時間論だと考えていて、マクタガートの問いは問い自体がナンセンスなのものだと考えている。でも、マクタガートのそのナンセンスなパラドクスの中に「私の生」の問題が隠れているように思われるので、そこをしつこく追っていきたい。

つづく

時間と生は非実在か

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