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2016年8月 1日 (月)

A系列論者が時間を無矛盾だとするわけ<時間と生は非実在か10>

入不二基義「時間は実在するか」を読む1

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「時間は実在するか」は名著である。しかし、僕は、初読時に前半のマクタガートの時間論紹介の部分しか理解できず、後半の入不二自身の時間論検討は何が書かれてあるのかほとんど分からなかった。でも、今回読み返してみて、少し分かったので記しておく。
入不二はその書で、マクタガート以外の時間論を紹介し「実在」の意味を検討したうえで、マクタガートの時間の非実在の証明を紹介し、それから自身の考えを述べている。入不二自身の時間論では、A系列主義とB系列主義とマクタガートが三つ巴になっていてどれが優位だとは決められないというもので、永井の累進構造と類似のものになっていると僕には思える。このことについて考える

入不二はマクタガート以前の時間論を考えたさまざまな哲学者を紹介しているが、まず、ここでは特にA系列との関連が大きいアウグスティヌス(augustinus 354-430)の言葉を見ておこう。
Augustinus アウグスティヌス

「3つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するということのほうがおそらく正しいであろう。じっさい、これらのものは心のうちにいわば3つのものとして存在し、心以外にわたしはそれらのものを認めないのである。すなわち過去のものの現在し、心以外にわたしはそれらのものを認めないのである。すなわち過去のものの現在は記憶であり、現在のものの現在は直覚であり、未来のものの現在は期待である。」(アウグスティヌス「告白」岩波文庫p123)

この現在から見た「過去」は「この現在において記憶を呼び起こした対象」だからそれは「現在」に属するものだという意味で「過去のものの現在」だとも言える。同様に「未来」は「未来のものの現在」であり、「現在」は「現在のものの現在」だと言える。この「現在のものの現在」という物言いの前の方の「現在」は過去未来と並列になる現在だが、後の方の「現在」は過去未来とは並列にはならないもっと根源的な全体の場としての「現在」である。このような、「場としての現在」の中に「記憶・直覚・予期としての現在・過去・未来」があるという時間の捉え方は、現在だけが実在する時間のすべてであるという意味で「現在主義」と呼ばれる。
この関係を入不二は下図のように表している。
Photo_2

入不二自体は現在主義とA系列の関係については言及していないが、この2者が大いに関連していることについて疑いの余地はないだろう。
A系列とは「現在・過去・未来」による分析で時間を捉える系列のことで、B系列は「以前・以後」によって捉える系列のことだった。B系列はあらゆる事象とあらゆる事象の前後関係を捉えることができるので、すべての時系列を年表形式の順列の上に固定して並べることができる。すべての順列が固定されるのだが、この私が生きて実際に世界を見ているこの「現在」は決して固定されないものなので、B系列に記入されることはあり得ない。それに対してA系列は時間のなかにまず現在を位置づけて楔を打ってしまう。すべての事象は現在より前か後かだけを判断されるので、事象は現在との関係だけを問われることになり、事象と事象の前後関係はA系列だけからは出てこないことになる。しかし、そのA系列の、現在がここにあるという事実の中に、B系列を飲み込ませてしまうことはできる。そうすると現在の中にすべての時系列を位置づけることができるようになり、事象の順序関係についても語ることができるような時間を形成することになる。このようにしてできたものが、アウグスティヌスの現在主義的時間モデルだと言える。その意味で、現在主義とA系列は大きく関係している。入不二の説明するA系列論も、このような現在主義の視点をもったものとして捉えられているようだ。しかし、そのような現在主義モデルで世界の変化が捉えられるのだろうか。

この点を踏まえて、入不二が注目した時制の変換の問題を考えてみよう。
マクタガートは、「出来事Mは、(かつては)未来だったが、(今は)現在であり、(これから)過去となる。」という文を「出来事Mは、過去の時点では未来であり、現在の時点では現在であり、未来の時点では過去である。」と言い換えられるとした。しかし、A系列論者はその言い換えを不当だとする。A系列論者によると、そこで言い換え可能なのは「出来事Mは、過去の時点では未来『だった』、現在の時点では現在『であり』、未来の時点では過去『になる』。」のように文末が「だった」「であり」「になる」となることが保存されたままのものでなければならず、「であり」「であり」「であり」とするのは許されないのだ。

「A系列的な時制(テンス)〔「だった」「であり」「になる」〕は「書き換え」によって消し去ることなどできない原初的で根源的なものであることを忘れるな、とA系列論者は言う。この点を忘れなければ、マクタガートの言うような矛盾など、そもそも発生しない。「出来事は、両立不可能な3つのA特性を、すべて一挙に持たなければならない」という矛盾など、時制表現「だった」「であり」「になる」を不当に消去し、無時間的な「であり/である」で置き換える誤りから発生した仮象に過ぎない。無時間的な(神のような?)視点から見おろして、過去-現在-未来を一望の下に収めることができるかのような錯覚が、矛盾を生み出していたのである。」(入不二「時間は実在するか」講談社現代新書p193)

このA系列論者の言からすると、実際の過去の事象は過去からみれば現在だと言えるのだけど、それでも「過去は、過去の視点で現在である」というのは不当な言い方で、「過去は、過去の視点で現在だった」と言わなければならない、のだ。文法的に「過去」は「現在だった」ことはあり得ても、「現在である」ことはあり得ない。それは、A系列論が「過去は現実に現在でもある」という事実を認めないということである。だから、この視点で言うと、「3分後の僕は「カップ麺を食べている」という状態になる」という言い方について、それを、「今から3分前に3分後だと言っていた時刻においての視点から見て現実に「カップ麺を食べている」という状況である」と言い換えることはできない、ということである。ただし、それを「3分後に『なった』時点においての視点から見て現実に「カップ麺を食べている」という状況『になる』」と言い換えることは、できるとする。「未来」が「現在」に「なる」とすることはできる、のだ。だから、時間がA系列においてその意味で「変化」することは認める。しかし、「未来」が「現在」で「ある」とすることはできない。未来を現在時制で語ることは許さないのだ。だから、時間がその意味で「変化」することは認めない。「現在が未来になる」という「変化」は認める。でも「未来が現在だ」という「変化」は認めない。だから、マクタガートがA系列の矛盾を指摘する第一歩において、初めから矛盾なんかなかったとするのだ。だから、このA系列主義の考え方を採ると、時間が変化することをちゃんと認めたまま、時間が矛盾しないで済むことになるのだ。

このA系列論者の言い分はもっともである、ように思える。ただ、マクタガートを納得させられるものではないだろうと思える。僕の理解によると、「3分後のカップ麺を食べているという事態が現在に『なる』」と発言する私と、「今現実にカップ麺を食べている」と発言する私とが現実に同一の主体でなければ、私の「生」が現実のものにならないというのが、マクタガートの時間論の本質だからである。それゆえ、マクタガートにとって「過去も現在も未来もいずれもそれぞれが過去であり現在であり未来である」と言えなければならないはずなのだ。このマクタガートの考えとA系列論者の考えの違いがどこから生じ、どちらが間違っているのか、これも本章の思索の課題にしていきたい。

つづく

時間と生は非実在か

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