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2016年8月15日 (月)

反実在論的時間論と無矛盾な生<時間と生は非実在か14>

マクタガートの時間論の持つ困難を整理して(そのために永井の時間論の持つ困難も整理して)、反実在論の視点で捉えなおしてみるとその困難を解消できることについて考える。

 
生の矛盾

マクタガートの時間論のどこに困難があったのか。マクタガートの言う時間の矛盾は、過去・現在・未来の三者が排他性を持ちながら、その三者が一つの事象を指示しなければならない、というものだった。この矛盾は、結局、「私」という主体それ自体が過去・現在・未来の三時点について排他的でありながら、そのいずれにも現実に現前するものでなければならない、ということだと考えられる。「この私」という主体が、過去を現実に体験し、現在を現実に体験し、未来を現実に体験するものだと捉えるからこそ、「私」という主体はその生を生きることができる。それゆえ、「私」が生きるためには、過去・現在・未来のすべてが現実でなければならない。しかし、「私」という一つのものが、現実に過去であり、かつ、現実に現在であり、かつ、現実に未来であるということはできないはずである。そのように考えて、生きていることそのものが矛盾を孕んでいるということ、これがマクタガートの時間論の本質だと僕は考えている。

 
2種類の「現実性」

「我々は生きるために、過去と現在と未来を現実に体験しなければならない」と言うときのその「現実」とはどういう内容を指すものなのだろうか。
一般的に「現実」とは、「(1)直接的に(2)ありありと感じられるもの」というものではないだろうか。「(1)直接的に」というのは「現在として眼前に感じられる」という意味であり、「(2)ありありと」というのは「豊かな質感(いわゆるクオリア)を感じられる」という意味である。(「『いわゆる』クオリア」という言い方をしたのは、一般的な「哲学的クオリア」は「機能が一切ない質感」を指すものであるが、ここで言う「いわゆるクオリア」は機能の有無を問わない、単に「質感」という意味だということを確認しておきたいためである。)そこで、「現実」という語の意味について、その二つの視点を分類して考察するために、本節では、(1)の意味での現実性を「現在としての現実性」、(2)の意味での現実性を「質感としての現実性」と呼ぶことにする。

 
累進構造説

では、「我々は生きるために、過去と現在と未来を現実に体験しなければならない」というのは「現在としての現実性」を問うているのか、それとも「質感としての現実性」と問うているのか。それはもちろん両方だろう。けれども、それはそれぞれ別の問いであるはずだ。この問いに、永井「累進構造説」はどう答えるのだろうか。
永井の累進構造説とは、
① 他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉と、他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉とが、交換可能であること
② 他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段とその下の各段の〈今〉とが交換可能であること
という2つの交換可能性による累進構造によって、極限の貧しさしか持たないはずの言語にもっとも豊かな認識を語らせ得るようにするシステム
、だった。

 
現在としての現実性

まず、「現在としての現実性」の問いについて見てみよう。
前節の考察によると、「累進構造説」に従えば、この今現在は現在自体と過去未来をも含む時間世界を開闢点でありながら、過去未来と並列な時間でもあるという存在であることによって、この今現在に「現在としての現実性」があると言えるのと同じ意味で、過去や未来にもその時間の「現在としての現実性」があると言えるようになる。
うん。確かに、「累進構造説」を飲み込めば、現在としての現実性を持って、過去と現在と未来を体験することができそうである。
でも、この「現在としての現実性を持って、過去と現在と未来を体験することができる」という結論は明らかに矛盾している。もし、この「現在としての現実性」が「過去現在未来」になければならないという意味が、そのように矛盾したものであり続けなければならないのであれば、累進構造が矛盾しているからダメだという意味でダメなだけではなく、時間の中で生きていくことそのものが不可能になるのではないだろうか。これは大変重要な論点であるがここでは一旦措いておいて、あとで慎重に再考することにしたい。

 
質感としての現実性

次に、「質感としての現実性」の問いについてはどうか。
前節の考察によると、「累進構造説」に従えば、この今現在は現在自体と過去未来をも含む時間世界を開闢点でありながら、過去未来と並列な時間でもあるという存在であることによって、この今現在に「質感としての現実性」があると言えるのと同じ意味で、過去や未来にもその時間の「質感としての現実性」があると言えるようになる。
うん。確かに、「累進構造説」を飲み込めば、質感としての現実性を持って、過去と現在と未来を体験することができそうである。
でも、この「質感としての現実性を持って、過去と現在と未来を体験することができる」という結論は、「現在としての現実性」とは違って、それ自身は矛盾していない。「現在としての現実性」ではそれ自体が「過去現在未来」と両立することに矛盾しているのだから、それを成立させるために「累進構造説」という矛盾したシステムを用いなければならなかったのは仕方ないかもしれない。しかし、「質感としての現実性」の方については、それ自体が矛盾しているわけではないのだから、それを成立させるのにわざわざ矛盾したシステムを用いなくても良さように思える。なんとか、「質感としての現実性」だけでも、矛盾しないようなシステムで語り得るようにはできないのだろうか。

 
〈今1〉と〈今2〉

「累進構造説」において、世界の開闢点としての〈今2〉はもともと他者と比較不可能な存在であるのだから、「質感としての現実性」を持っているはずだ。それに対して、他時点との比較が可能な〈今1〉は比較可能なのだから、「質感としての現実性」は持っていない。だから当然、〈今1〉と並列してある「過去」や「未来」にも「質感としての現実性」はもともとない。でも、「累進構造説」は「①他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉と、他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉とが、交換可能であること」にしてしまうことで、〈今1〉が「質感としての現実性」を持ち得るものだということにし、「②他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段とその下の各段の〈今〉とが交換可能であること」にしてしまうことで、〈今1〉と並列な「過去・未来」も「質感としての現実性」を持つことが可能だということにしてしまう。それによって、この今現在に「質感としての現実性」があると言えるのと同じ意味で、過去や未来にもその時間の「質感としての現実性」があると言えるようになる、と言えるようになる。

これが、「累進構造」が過去未来にも質感としての現実性を持たせる仕組みであった。

 
視野は決してこのような形はしていない

でもこうやって見ると、やはり、「①他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉と、他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉とが、交換可能であること」のところが不要な矛盾であるように、僕には思える。
「定義として比較不可能なものが、定義として比較可能なものと交換可能であることにする」なんてのがもともと無茶なのであるが、ダメな点はそれだけではない。
2_6
この「①他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉と、他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉とが、交換可能であること」というのは、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で否定した目と世界の図「5.6331視野は決してこのような形はしていない」の形になっているのである。
56331_2 
この図の意味は「世界の開闢点」は世界の中に存在しないのだから、世界を描いた図の中に決して描き込まれてはならないというものだが、累進構造はまさしく、そのウィトゲンシュタインが否定した形そのものになっているからだ。

また、ウィトゲンシュタインは「論考」の「2.172像は自分自身の写像形式を写し取ることはできない。」とした。言語の成り立ちからして、原理的に、「言語が対象を指示する仕方そのもの」をその言語の中に取り込んで語ることはできないのだ。
ところが、累進構造では「質感としての現在性」という言語では語り得ないはずの「対象の内容」を、「比較可能な時間としての今」という、語り得るはずの「対象の内容」と一つにしてしまうことによって、「対象を指示する仕方そのもの」をその言語の中に取り込んで語ることができるようにしてしまっているのだ。まさに、永井自身が、「マンガは哲学する」(岩波現代文庫p16)で吉田戦車のマンガを挙げて「ウィトゲンシュタインという哲学者は『語りえぬものについては沈黙しなければならない』という名言を残したが、それはこのような構造を指している」と解説したことそのものになっているのだ。
Photo
吉田マンガのネタ、そのまま描いちゃアウトかな

 
突き詰めた独我論・中途半端な独我論

では、どうしても矛盾を受け入れないと、この「質感としての現実性」を「過去・未来」に感じることにはできないのだろうか。

そんなことはない。と僕は思う。マクタガートや永井が矛盾しなければならないと捉えてしまったのは、二人が中途半端に独我論的で中途半端に実在論的であったからだと、僕は考えている。独我論を突き詰めた先に実在論に達したのだったら良かったのに、そこまで突き詰めて考えてなかったからなのではないか。つまり、僕が提出するパラドクスの説き方は、ダメット的反実在論の立場で考えれば独我論は実在論と一つになって矛盾はなくなるというものだ。

累進構造説が中途半端に独我論的で中途半端に実在論的だというのは、「他と比較不可能な世界存在の〈今〉」を設定しておきながら、結局、その〈今〉の外側に他時刻の〈今〉を設定してしまわねばならない構造になっている点についてだ。「他と比較不可能な世界存在の〈今〉」という独我論的存在の外側に、実は「その時点にならなければ知り得ないけれど、その時点になれば分かる」という「本当」の他時刻が在るとするような実在論的存在を想定しているのがダメなのだ。真に、独我論的立場を追及するならば、「その時点にならなければ知り得ないけれど、その時点になれば分かる」というように「〈今〉の外側の『本当』」などに頼って考えるのではなく、「その外側の時点など無い」とし「〈今〉の内部においてその時刻になれば分かる」としなければならないのではないか。
「他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉」は決して「他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉」と入れ替わることはできない、とすべきなのではないか。もともと永井がこの入れ替えを必要としたのは、「他と比較不可能な世界存在のレベルの〈今〉」において感じられる「豊かな質感としての現実性」を「他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈今〉」において語らせるためであった、と思われる。それは、言語がその「豊かな質感としての現実性」に到達できないという前提があったためだと考えられるが、それは絶対的な前提なのだろうか。独我論を突き詰めたときにはひっくり返せる前提でしかないものなのではないか。僕には、この前提をひっくり返すことができて、それによってこのパラドクスをほどくことができると思われて仕方がない。

 
現実に到達するか

言語が「豊かな質感としての現実性」に到達できないということについて、ヘーゲルは次のように言う。
「対象は…どれも、自らに絶対に等しいものを持っていないような現実的な、絶対に個別的な、全く個人的な、個別なものとして規定され得る」とするような人がそのことを書いた紙について「自分たちの思い込んでいる一枚の紙を現に言い表そうとしても、しかも現に言い表そうとしたのであるが、それはできないことである。というのも、思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに、帰属する言葉にとっては、到達できないものであるからである」(ヘーゲル「精神現象学」樫山訳平凡社ライブラリー上p136)

ヘーゲルが、言語が「感覚的なこのもの」に到達できないとするのは、言葉が一般であって感覚が個別であるからである。
この点に関して、ウィトゲンシュタインも同意見である。「3.221命題はただものがいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない」(「論考」)とするのは、ヘーゲルが個別を語れないと言うのと同じことを言っているものだと思われる。ところが、そう言いながら、ウィトゲンシュタインは「2.1511像は現実に到達する」「2.1512像は物差しのように現実にあてがわれる」「2.15121あてがわれた両端の目盛りだけが測られる対象に触れている」(同)とする。
ヘーゲルが個別は語れないから言語は現実に到達しないと言うのに対して、ウィトゲンシュタインは、個別は語れないけど言語は現実に到達するとする。

 
反実在論

ウィトゲンシュタインによれば、語るという作業は命題の真偽付けをして真か偽か2値のどちらかに世界を位置づける作業である。それゆえ、その2値で拾えるものは一般的なものに限られ、個別な内容は零れ落ちざるを得ないのだ。しかし、真偽の2値に位置づけられないことと、そこから零れた内容がどんなものでもあり得るということとは、違う。たとえば、「今ここにあるりんごが赤い」という言葉では心的な印象の内容を語ることはできない。だからと言って、「私が感じているその『赤』の質感と、あなたが感じているその『赤』の質感が同じかどうか」という可能性を問うことができないとは限らないのだ。
ウィトゲンシュタインの考えたように、「世界は私の世界であり、私は私の世界である」とする立場で世界と捉え尽くすなら、世界とは今ここで現実に私が開闢しているこのものだけが世界のすべてであり、その外などあるはずがないのだ。そして、「世界」とはどこかに真なる答えが確定したものではなく、現実の「これ」から冒険的に構築していくしかないものだと捉えるような世界モデルをダメットは「反実在論」と呼んだ。
そのように世界を捉えたとき、「他と比較不可能な世界存在のレベルの〈私〉や〈今〉」というものは世界の中の「私」とは交換などできるはずがないものになる。それは言わば「一神教の神」と言うべきものになるのだ。その「一神教の神」の世界の内部に「私」や「他者」や「過去」「現在」「未来」がある。そして、その、私・他者・過去・現在・未来の間では、言語は原理的に個別の質感を語ることができない。だとしても、その、私・他者・過去・現在・未来はどれも、「一神教の神」の世界としてのこの一つの現実世界の内部にあり、その個別の質感の現実性とが現実世界に位置づけられている、とすれば、質感の現実性はきちんと私・他者・過去・現在・未来のそれぞれの現実に到達し共有することができるはずではないか。

 
矛盾する言語体系・矛盾しない言語体系

我々は、他者や他時間と「質感についての現実性」を共有できないとしても良いし、できるとしても良いはずだ。できないとして、私と他者は互いに機能を持たないクオリアをもちそれについて問うことができない空白部分があるとしたり、今と他時間が互いにその時間になってみなければ何も問うことができない質感の空白部分があるとしたりする言語を採用するのか。それとも、できるとして、そのような「クオリア」や「その時間になってみなければ問うことができない質感」などナンセンスだとするような言語を採用するのか。
「その時間になってみなければ問うことができない質感」を問うことができるとする言語を採るならば、過去・未来が「現在としての現実性」を持たねば「質感としての現実性」を有することができなくなってしまうので、必然的にこの言語体系は矛盾を孕むものになる。
「その時間になってみなければ問うことができない質感」なんてナンセンスだとする言語を採用するならば、過去・未来が「現在としての現実性」を持たなくても、「質感としての現実性」を有することができることになるので、この言語体系は矛盾しなくても済むものになる。
この現前の3分後に出来上がるカップ麺を現実に味わうのに、矛盾を受け入れなければならない方を採るか、矛盾しなくても良い方を採るか、どちらを採るべきか明らかではないだろうか。

ただし、一点、注意が必要なのは、僕は、3分後に出来上がるUFOの味の「質感としての現実性」を今現在にすべて知り得ると主張しているのではないし、知り得ない「現実性」など無いと主張しているのでもない。語り得る内容として適切に判別することができる範囲で、有効にその味の「質感としての現実性」を想像することができるということを主張していて、ここにある「質感としての現実性」とは無関係な味があるかもしれないという懐疑はナンセンスでそんなものは問えない、と主張しているに過ぎない。

 
「現在としての現実性」について

そして、ここにある「質感としての現実性」とは無関係な味があるかもしれないという懐疑をナンセンスだとするのであれば、本節の最初に措いておいた「現在としての現実性」という論点にかんしても道が開けることになる。

時間が矛盾しないという言語を採用するなら、3分後を現在とすることはできない。それは単純に矛盾だからだ。
でも、たとえば、こんな風に考えてみたらどうだろう。

 
「なる1」と「なる2」

「累進構造説」では主体の「成り替わり」を次のように考察すると考えられる。他者と比較可能な存在としての「横山」という〈私1〉であり同時に他と比較不可能な〈私2〉でもある主体が、「安倍晋三」という別の主体に「なる」という想定において、そういう想定は言語の限界を超えているのでもともと語れない。しかし、それが語れないのは、「横山」の感じるクオリアと「安倍」の感じるクオリアがそれぞれ比較できないクオリアであるからだ。それぞれのクオリアがそれぞれの言語の基盤になっているのだが、比較できないクオリアであるゆえにそれぞれが互いに同じだとか違うとか語ることができないとする、という構造になっていると僕は思う。
でも、過去未来と比較可能な現在としての〈今1〉であり同時に他と比較不可能な〈今2〉でもある開闢時点が、「3分後」という別の時点に「なる」という想定においては、「そういう想定は言語の限界を超えているので語れない」となるのか。ならないのではないか。否。もちろん、ここで言う「なる」が「安倍になる」と同じ意味での「なる」なのであれば、当然「そういう想定は言語の限界を超えているので語れない」はずである。ところが、ややこしいのは、「3分後」という時点の主体は「3分前」の記憶を持って、「3分前には3分前が現在だった」ことを覚えているのだ。だから、「3分後」ははじめから「3分前が3分後に『なった』ものだ」という言い方もできちゃう。そちらの言い方をするなら、「〈今〉が3分後という別に時点に『なる』」という言い方ができちゃうし、そういう想定もできるのだ。
このとき、「安倍に『なる』」が問えないと言うときの「なる」は、他とは比較不可能な〈私2・今2〉に関する「なる」であり、「3分後に『なる』」が問えると言うときの「なる」は、他と比較可能な〈私1・今1〉に関する「なる」である、と言えると思う。〈私2・今2〉に関する「なる」を「なる2」と、〈私1・今1〉に関する「なる」を「なる1」と呼ぶことにしよう。
でも、そう考えてみると、「なる2」は問うことができないのだから、いくら累進構造説でも「3分後には現実にUFOが食べられるようになる」と言う発言に語り得る内容があるならば、その「なる」は必ず「なる1」であって、〈私1・今1〉に関する発言でしかないはずである。

 
トランプの裏面も同じトランプ

これと同じことを「反実在論」の立場で問うならば、どうなるか。「反実在論」では〈私2今2〉はすべて「一神教の神」でしかないのだから、「なる2」は最初から問えない。だから、当然、「3分後には現実にUFOが食べられるようになる」という発言の「なる」は「なる1」である。だから、「3分後には現実にUFOが食べられるようになる」という発言の解釈は結果的に、「累進構造説」で解釈しても「反実在論」で解釈しても同じになるのだ。

また、たとえば、「このトランプの裏面はAかどうか」という問いに対して、「裏返した視点に『なる』」という意味で「裏から見れば分かる」と言うときその「なる」は、ふつう「なる2」ではない。「なる2」では「裏から見れば」ということが起こり得ないからである。そして、「なる1」ではそのトランプの裏面もこの表面のトランプと同じトランプであって、別ものになることはあり得ない。「同じトランプの見えなかった部分を見るようにする」これが「なる1」の本質なのである。もっと言えば「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」ということが「なる1」なのである。

 
「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」とする冒険的な言語設定

だから、「3分後が『現在としての現実性』を持つことになる」というとき、反実在論の立場で考え、そして、ここにある「質感としての現実性」とは無関係な味があるかもしれないという懐疑をナンセンスだとするのであれば、3分後の世界が「この現実世界」の一部であることになる。今現在こちら側からは見えていないのだけれども、「質感としての現実性」で連続している同一の現実世界を、そのまま3分後の立場から見ることができるようになる。

「或る正当な物理則に則った世界において、時空間のあらゆる地点で共通の世界を見ることができる」
という仮説を立てたうえで
「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」
とする冒険的な言語設定をすることによって、反実在論の立場での「3分後の未来が現在になる」という発言は、「この現実世界を生きる私が3分後を現実に体験できる」という意味を持てることになる。
今、UFOにお湯を注ぐと3分後には現実に食べられるように「なる」。今日宿題を済ませておけば翌朝には提出できるように「なる」。30年前にKと出会ったから今でも連れ添うように「なった」。「時間」ってものがそういうものとしてあることにするから、僕たちは生きていける。そうすることによって、時間は実在することになる。

このような反実在論的言語体系を採るならば、「質感についての現実性」というものは〈私2〉に関するものであると同時にそれは「一神教の神」に関するものでもあることになるのだから、あまねくこの世界に満ちるものになる。このとき、この「質感に関する現実性」は世界の語り得る内容に到達することになり、語り得る「実在性」とぴったりと重なるものになる。そして、「現在としての現実性」は個々の視点にとっての現実性に過ぎないものになるのだ。

 
矛盾しない時間・矛盾しない生

ヘーゲルは厳密な現在の瞬間を記述することが不可能であることを説き、それゆえ、弁償法的な時間の捉え方をしなければならないと言った。しかし、その記述されるべき時間を現在も過去も未来もすべてが「一神教の神」の内部にのみ語り得る実在なのだと冒険的に設定するようにすると、まさに、その設定のなかで過去を記憶だとし未来を希望だとし、それが実在する時間軸のにきちんと乗るものになり、そのなかで僕らは生きていくことができるようになるのだ。無理に矛盾した言語体系を採用しなくても、我々は十分に生を生きることができるのだ。

ってゆーか、それって、ヘーゲルも永井もマクタガートも「『質感としての現実性』を共有しながら違う立場でものが見られるとする」とするという仮説を設定しなくっても、過去や未来があると考えていたってことだと思う。
マクタガードは時間は実在しないと言ったけど、それは中途半端な独我論的で実在論な世界観を下地にしたものであったから矛盾させてしまっただけのものであって、その中途半端な世界観にこだわらなければ矛盾しないで実在する時間論を組み立てることは十分できるのだ。
そして、このようにして語り得ない〈私2〉を基盤としてそこから出来上がった時間モデルは、完全に「語り得る実在論」に重なるものになる。だから、ここに今存在する現実世界はたまたまこの僕という存在が実在の世界で存在しその中で想起した時空間であるものとして完全に記述できるようになる。

カントは、世界を統覚するべき「コギト」が、時間空間やカテゴリーというような形式によって(神の視点に頼らないで)、世界のデータを分別し、分解合成し、何かしら意味あるものとして理解できるようになるとした。そして、その世界観を超越論的観念論であり、経験的実在論でもあると言った。まさに反実在論の考え方である。カントによればその超越論的観念論から取得される経験的実在論が本来の実在を語るべき言葉であり、その超越論的観念論とは無関係な「本当の世界」を想定する先験的実在論を退けた。ヘーゲルが「現在」は語りきれない存在だと考えてしまったのは、結局、「時間」という先験的実在を想定してしまったがゆえの混乱だったのではないか。マクタガートや永井が時間が矛盾しているとしたのは「時間」が先験的実在だと想定してしまったがゆえの混乱だったのではないか。マクタガートは、ヘーゲルが時間論の本質的問いを問うたが、カントは問うていなかったとした。しかし、そんなことは無かったのだ。カントの経験的実在論のアイデアこそが時間論の本質を問うものであったとすべきだったのだ、と僕は強く思う。

 

 

 

どうだろう。僕としては、すごく納得した考察になったつもりなのだが、伝わる内容になっていたら良いのだけど。
僕の時間論は、ここまで。

つづく

時間と生は非実在か

大阪哲学同好会に来ませんか

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コメント

師匠、すご~い。

以前は、ちょっと違うと思うこともありましたが、最近は、師匠のブログが、とても、よく読めるような気がしています。おこがましいです。

現象的ニヒリズムに対向しうる新たな経験的時間論の誕生と言っても言い過ぎじゃないと私は思います。

taatooさん、心強いコメントありがとうございます。

大阪哲学同好会で7月に「論考」の発表をしてもらえたので久しぶりにウィトを読みかえしてみました。「像は現実に到達している」の一行を再発見して、それで一気にここにまとめたアイデアが出来上がりました。
自分でもまずまずのアイデアだと自負してるのですが、taatooさんに誉めてもらえるとなおさらにうれしいです。
反実在論と言いながら出来上がったものは、まるで常識的な時間論です。でも、だからこそ「生」の謎をとく一歩が進めたような気がして、それもうれしく思っています。

圧巻でありました、一気に読ませて頂きました。
時間を連続的に捉えるには、とは少し違いますか?時間を統合する方法とでも言いましょうか。それが人間とは全く別の流れでは無く、寧ろ人間の生の流れであると。さすがの一言です。それに今まで横山さんが格闘しておられた数々の要素が存分に詰め込まれていて、今までのご研究は興味のも向くままという感じを受けていましたが、実は一続きだったのだなと少し感動しています。
ともかく、横山さんの問いの中心である死というものが、今とは全く別の所に陥るものでも無く、全く別に行ってしまうものでもない。今そう思われているのでは無いかとお察しします。
リアルタイムで拝聴出来なかったのは残念でしたが、しかし、これを口頭で聞いてもきっちり理解出来なかったでしょうね(文字で読んでる今でも少しあやふやなw)
あと、ここ2,3年哲学的な本(というか読書そのもの)から遠ざかっていましたが、久々にエキサイティングな読書を提供して下さったことに、特別な感謝をさせて頂きますm(__)m

いや、そのように評価してもらえるとストレートにうれしいです。昨日の発表がどうも下手くそなものでスベってた感が強かったので、ネタ自体がまずかったのかも知れないと気持ちが下がっていました。だからこのはじ銀さんのコメントですごく救われました。

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