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2016年8月13日 (土)

ヘーゲル「感覚的確信」と永井「累進構造」の豊かさと貧しさ<時間と生は非実在か13>

マクタガートはヘーゲルの時間観が自分に最も近いとしているが、それがどういうことなのかを見ていこう。ヘーゲルの時間観は弁証法であって一種の累進構造になっている。それをさらに進めて考えたのが永井の累進構造説だとも言えるだろう。僕の考えでは、マクタガートは、ヘーゲルの時間観だけでなく永井の時間観にも近い考えをしていたのではないかと思われるので、両者の時間観について分析してみたい。僕はこの二人の時間観には根本的に反対の立場をとっているのだが、本節では、僕の批判は極力控えて、その長所に注目するようにしてみたい。(と言いながらも、けっこう批判的な表現になってしまうかも。)

 

マクタガートはなぜ矛盾した時間モデルを採用したのか

マクタガートが時間を矛盾するとせざるを得なかったのはなぜかを、整理するところから考えよう。
「変化」というのは一般的に、同一な2時点のものが同一であるままに差異を持っていることを差すと考えて良いだろう。そのような一般的な「変化」をする対象は時系列上に固定され得るから、それは自分の求める「変化」ではない、とマクタガートは言う。ではマクタガートの言う「変化」は何か。「同一の主体が複数の時間世界を認識すること」だろうか。しかし、ここで言う「主体」と「複数の時間」の関係というものが要注意である。
ここで言う「主体」なるものが「世界」というカードの裏面を差しているのならどうなるだろう。
世界の開闢に遡って世界というカードの表裏を考えるとするとき、まず「世界」は最初「ある」だけのものである。「我思うゆえに世界あり」というアレだ。その内容はまだ主体と世界さえ分離していない。その世界の内容を「過去・現在・未来」や「より前より後」というスケールに当てはめて分析すると、それによって、その「有」のみでしかなかった世界は「時間」を持つことになる。そうして複数の時間があることになる。その状態は或る意味で、複数の時間が1つの開闢世界の中の一部になっていると言えるかもしれない。そして、その1つの開闢世界全体の裏面が主体だということになる。そのように考えるならば、その複数の時間世界は1つの主体が認識する世界の内部の二つの部分でしかないはずだということになる。しかし、そのような想定であれば、「複数の時間のそれぞれの世界を開闢している主体」なるものを想定しようとしても、そんなものは(唯一絶対のこの主体ではなく)、可能性としての主体でしかないことになる。だから、その複数の時間は、一般的などこにでもいる誰かが偶然開いている可能な世界の1つとしての時間でしかない。
というこことは、その一つ一つの時間世界は、B系列の年表上でそれぞれの可能的な主体の認識する世界だということに過ぎない。その可能的な主体もそれぞれの時間世界も、そのB系列年表上に固定して刻まれ得るものになる。そうなると、この変化もマクタガートが矛盾すると言った「変化」ではない。マクタガートの変化はそのような「可能的主体が認識する世界に差異がある」という記述で示されるようなものではなく、「現実の絶対的な主体」が開闢する世界であり、「現在の世界」でもあるような存在を設定したうえで、その現在の世界の外の時間世界を設定し、さらにその外側の時間世界も同一の主体が開闢している世界なるものも設定する。
そのようにして、「我思うゆえに世界あり」の、唯一絶対で、過去現在未来を含む全体としての現実世界の、そのさらに向こうに外部などないはずの「世界の外部」を求める、という矛盾を為す。

しかし、その矛盾した外部を求めるは差異を持って変化だとするのなら、そのマクタガートの言う「変化」は矛盾したものになっている。

しかし、もともと世界の開闢から時間空間が読み取られ、言語として理解できるように組み立てられるはずだった。それゆえ、普通はそのような、矛盾を含むのが明らかなような世界モデルは採用しないで、間違っていると判断されて、即捨てられるはずだ。
それでも、マクタガートは、その矛盾した時間モデルを捨てずに、時間そのものが実在しないと結論づけてしまわなければならなかった。なぜなのか。

 

ヘーゲルの感覚的確信の弁証法的統一

唯一絶対の世界開闢の主体だけが、アクチュアルな豊富な感覚の内容を持つことができて、可能的な認識主体は粗末な内容しか持てないと考えるからではないだろうか。
ヘーゲル(G.W.F.Hegel1770~1831)がそのような時間の捉え方をしていることを、永井は「存在と時間」で紹介している。現実の認識をことばで語ろうとすると中身が無くなってしまうと言うのだ。マクタガートも「時間の非実在性」の中で、ヘーゲルの時間の捉え方が最もマクタガートの捉え方に合致していると言っている。マクタガートによればヘーゲルの時間の捉え方は「ゆがんだ自己状況依存としての無時間的な実在」というものである。

「もし、この見解が採用されるなら、その結果は、カントではなくヘーゲルによって達せられた結果にかくも似てくるだろう。というのは、ヘーゲルが時系列の順序だとしたのは自己状況依存(reflexion)として、ただしゆがんだ自己状況依存としてであり、無時間的(timeless)な実在であるような実在の本質の中での何かとしてである。一方、現象の中での現れの時間順と一致するはずの、物自体の本質の中での何かの可能性について、カントが考えたようには見えない。」(マクタガート「時間の非実在」第73節)

ここで、そのヘーゲルの時間の捉え方と、それに関する永井の読みを見てみよう。
HegelG.W.F.Hegel

「感覚的確信は…そのままでもっとも豊かな認識であり、…もっとも真なるものとして登場する。…というのはこの確信はまだ対象から何ものをも取り去っていないし、対象をまったく完全な姿で見ているからである。だがこの確信は実際にはもっとも貧しい真理である…この確信は自ら知るものについて有るということだけしか言わない」(ヘーゲル「精神現象学」樫山訳平凡社ライブラリー上p122)

ヘーゲルは、世界の対象となる知識は直接的なものや存在に関する知であり、そのまま受け入れるべきその知識を「感覚的確信」と言う。「感覚的確信ははじめ「何ものでもないものがある」という段階から始まり、それを主体の思い込みによって分析されることで「それが何であるか」という意味が生まれてくる。たとえば、「今は夜である」とか「ここに木がある」などという分析をすることによって、それまで何ものでもなかった感覚的確信が「今は夜である」「ここに木がある」という知識になる。ところが、その知識は真理としての確実性は非常に心許ないものでしかない。「今は夜」と書いた紙を翌昼に見ればその内容は気の抜けたものになってしまう。だから、そこで書かれた「今」というものはせいぜい「その筆記があった夜の時点の誰かから見て同時」という意味だと捉えられるものにしか過ぎない。だから、「感覚的確信」がはじめに持っていたはずの「現実的な端的な私にとっての端的な今ここ」というものは、言語化されるときにどうしてもその現実性は切り捨てられて「その場にいる人にとっての『今』」というような一般化された内容に落とし込まれてしまう。「ここに木がある」と心に思ったその思いも、次の瞬間に顔を横に向ければもはや「ここに木がある」とは言えなくなってしまう。だから、先ほど思われた「ここ」というものはせいぜい「その思慮があった時点のその場にいた誰かから見て眼前の場」という意味だと捉えられるものにしか過ぎない。だから、「感覚的確信」がはじめに持っていたはずの「現実的な端的な私にとっての端的な今ここ」というものは、言語化されるときにどうしてもその現実性は切り捨てられて「その場にいる人にとっての『ここ』」というような一般化された内容に落とし込まれてしまう。これは厳密に考えていけばすべての「真理」は必ず「誰でもその場にいればそうなる」というように一般化されたものに成り下がったものでしかない。だから、もともと「この現実の私だけが個別に感じているこのもっとも豊かな知識」だった感覚的確信が、「誰でもが感じる一般的な真理でしかなく、内容の無いもっとも貧しい真理」になってしまうというのだ。それでも、一般化したものに成り下がってしまった確信でも、それに対して再び豊かな個別的な知識を確かめようとして、次の瞬間に新たな「今ここ」を捉えることはできる。そして、それによって「もっとも豊かな知識」を再び得ることができる。ただし、その豊かな知識もそれを意味ある真理として捉えようとした瞬間にそれは再びもっとも貧しい真理に成り下がってしまう。だから、そこにもっとも豊かな知識を真なるものとして、確実なものにすることはできないのだが、それでも、その何度でも豊かな知識を得続けて失い続ける運動をくりかえすことはできる。このような、対象と自我の統一を図る運動を「感覚的確信による弁証法的統一」と言う。

 

マクタガートによるヘーゲルの時間論評

マクタガートがヘーゲルの時間観をして「ゆがんだ自己状況依存としての無時間的な実在」と言ったのは、「今」が「その時点の視点においての同時」というものでしかないことを認めることが「自己状況依存」であり、それを認めながら、その個別性を求め続けるねじれ運動によってその個別性現実性を取り戻すというものが「ゆがんだ自己状況依存」だということなのだろうか。マクタガート自身そのような無理を孕んだ運動をして時間を手に入れかければならないと考えたから「時間が矛盾している」という結論に達したのだろう。でも、矛盾していながら、そういうものだと諦観して受け入れることで、矛盾した時間の中で生きていくことができると考えたのかもしれない。
うん、そうかんがえると、確かに永井累進構造説に似ている。

でも、「どうだかなあ」とやはり率直に思う。原理的にどうしても一般化してしまうシステムを、どんなに積み上げて現実を取り戻す運動をくりかえそうとしても「真理としての現実」などという不可能に手が届くわけがない。それはまるで自分の足元の石段を抜いてそれを上に積み上げているような無駄な無限運動をくりかえしているだけに過ぎないように思えてしまう。それをできたってことにしようとか、そんな無理な設定をして不可能な世界モデルになってしまったのなら、その世界モデルは廃棄して矛盾のないモデルを模索する以外にないのじゃないかと、僕は思う。
しかし、永井によると、僕のそのような理解は問題を取り違えているらしい。

 

二つの〈私〉

「〈私〉とは何かという問いは二つの問い方がありうる…一つはたくさんの(自己)意識的存在者が存在して、私はそのうちの一人らしいのだが、この違いは何が作り出しているのかという問い方…。もう一つは、そもそもこれは何かという特定の可能性と対比されてはいない問い方、すなわち存在の問いである…〈私〉とは何かという問いの意味を理解しない人…の中に、あまりにも第二の視点に固着しているために、そこから身をもぎはなして自分の存在を相対化し他者と対等の立場に置いてみる(そのうえで「現実性-可能性」という形で違いを対象化して捉えなおしてみる)ということがそもそもできない人がいる。もし、第二の問いの問い方の形をとって〈私〉とは何かを問うことができるとすれば、それはむしろ同じ問いを第一の問いの形に相対化することができるということをすでに知っているからだ。」(永井均「存在と時間」p162)

永井によれば、一般的で比較可能な〈私1〉と、この絶対個別で他との比較不可能な〈私2〉の二つのものが同一であるとすることによってのみ、それは問うことが可能になり、意味ある〈私〉の問いになるのだそうだ。そして、もっと積極的に次のように言い切る。

「〔「私」や「今」が語られるときには必ず一般化されてしまうという話を受けて、〕これらは、累進構造図の最上段であることが世の中で役割を演じることはけっしてない――どの段もその段自身にとっては最上段であるという一般的な最上段性は役割を演じうるが――ということを意味している。そこから、累進構造図において最上段の存在を認めない立場と認める立場の対立が起こることになる。それが起こりうるのは「今」や「私」の場合だけであって、感覚的確実性にはこの可能性がないのだ。「今」や「私」に付きまとう「貧しさ」は感覚的確実性の貧しさの比ではない。それは実在しないという極限の貧しさだからである。」(同p181)

ヘーゲルは、感覚的確信を語ろうとすると失われてしまう「感覚的な確実性」を彼の言う運動により掬い取ろうとした。この「感覚的な確実性」とはいわゆる語り得ない「クオリア」や「マイナス内包」の問題である。ところが、永井は問題の本質はそのレベルの問題ではなく、0次内包としての〈私1〉と無内包としての〈私2〉の両方の〈私〉の問題である。これは、「実在しない」というレベルの問題だと言うのだから、明らかに、無内包の〈私2〉を問うている。そして、これは、「累進構造図の最上段」であり、その最上段が「どの段もその段自身にとっては最上段であるという一般的な最上段性」を持つものだというレベルの問題でもあるのだから、明らかに、0次内包としての〈私1〉の問題でもある。

つまり、永井の累進構造説とは、

① 他と比較不可能な世界存在のレベルの〈私〉や〈今〉と、他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段としての〈私〉や〈今〉とが、交換可能であること

② 他者と比較可能なレベルの累進構造の最上段とその下の各段の〈私〉や〈今〉とが交換可能であること

という2つの交換可能性による累進構造によって、極限の貧しさしか持たないはずの言語にもっとも豊かな認識を語らせ得るようにするシステムだと言える。

〈私1〉と〈私2〉という明らかに別ものを一つにすることによる累進構造は、ヘーゲルが説いた運動とはまた違う構造の運動になっているようだ。永井の方がはっきりと矛盾したものになっている。ヘーゲルの運動は「そんなことをしてもそんな彼岸の現実に手が届く訳がないだろう」と思われるような無茶を犯しているが、明らかに矛盾していると言うほどのものでもないかもしれない。しかし、永井の累進構造では、〈私〉が〈私1〉という対比可能な偶然的な現実性を指示しながら、〈私2〉という対比不可能な必然的な現実性をも指示するというのだから、累進構造からしてすでに矛盾している。

それでも、マクタガートは時間が矛盾しているとしているのだから、そのことを思えば、彼のヘーゲル解釈には永井のようなレベルの矛盾の想定までがあったと考えられるのかも知れない。(或いは、ヘーゲル自身も永井が考えた累進構造のようなものを構想していなかったとは言い切れない。)

 

ヘーゲルの個別の感覚的確信と一般の感覚的確信の統一運動

ここまでのヘーゲルと永井の分析をもう一度整理してみよう。
ヘーゲルの感覚と対象と自我の分析は次のようなものであった。

世界はそのままでもっとも豊かな認識としてある。これはこの現実の私が、個別に得ているもので、他の誰とも他のどの時点とも対比できない現実性をもち、必然である。しかし、それは語り得ない。
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それが語り得るもの真理値を持つものにするときに大きく変質してしまう。誰でもその視点に立てば得られる一般的な認識であり、他の対象や他の主体と対比して関係性を述べることができる実在性を持ち、でもたまたまそのようになっている偶然的な存在である。しかし、そこには個別的現実的な私が持っていたもっとも豊かな認識は失われて、最も貧しい真理となる。
そのもっとも豊かな認識をもっとも貧しい真理に落とし込み続ける無限運動をすることによって、我々はその感覚的確信を統一させて得ることができる。

1
例えば、このPC上のこの色が私にどう見えているかは、個別的な知識で私にしか分からない。でも、それを「赤」と名付けて表現すれば、他者にも通じる言葉にはなる。

2
だが、私にどう見えているかを他者は体験することができず、他者にどう見えているかを私は体験することができない。そこに「何」が見えているかは言語ゲーム上には現れない。それゆえ、「あか」という言葉の個別的内容がどんなものか、個人個人に現実にどのような質感で見えるかという内容は表されない。しかしだからこそ、他者や他の物と区別したり分析したりして、それが「どんな」だかを語り得ることができるようになる。そして、その「赤」の実在を確かめられるようになる。

1_2
例えば、「現実の今がいつなのか」はこの現実の時間に居る人にしか分からない。それを「今は深夜0時5分」と紙に書いてしまえば、それは「現実の今」なんかではなく、「深夜0時5分時点の人にとってみての今」でしかなく、だれでもその視点に立ったならばその時刻が今になるという意味で「一般的な今」であり「可能な今」である。

2_3
だが、この紙に書かれた「今」を他の時刻では現実に体験するとこはできず、深夜0時5分が現実の現在にはならない。深夜0時5分が今であるということが「何」であるかは言語ゲーム上には現れない。それゆえ、「今」という言葉の個別的内容がどんなものか、個別の時刻ごとの「今」が現実にそれをどんな質感でもって感じたかという内容は表されない。しかしだからこそ、他の時刻と区別したり分析したりして、それが「どんな」だかを語り得ることになる。そして、そのそれぞれの時刻の「今」の実在を確かめられるようになる。

 

二つの〈私〉と二つの〈今〉をともに問う 

でも、このヘーゲルのやり方では、現実の今のこの〈私〉が他者と区別できる一般の人間の一人でありながら、唯一ここから世界が開闢されているという、この現実の事実が示されない。現実のこの〈今〉が他の時刻と区別できる一般の時間でありながら、唯一ここから世界が開闢されているという、この現実の事実が示され得ない。それゆえ、永井は、〈私〉や〈今〉が一般化された人称や時刻でありながら、決して一般化されない現実でなければならないとし、その矛盾を飲み込んだ〈私〉と〈今〉を想定する。
2_4

このようにして、累進構造のてっぺんは、リアルでありながらアクチュアルでもあるというものとして設定され、累進運動の中でアクチュアルとリアルの橋渡しをするものになる、と分析することができるように思われる。
具体例で言うとこうなる。

Photo_2
発言者が他者と比較可能なレベルの存在なら、言葉で語り得る内容には赤の感覚そのものは乗らない。

2_5
だから、この私が世界の開闢者でありながら、他者と語り合える一般的な人間でもあるという存在だとする。すると、私には自分で赤の感覚そのものを言葉の意味に乗せて発言することができるようになる。

3
或いはこうも言えるかもしれない。この私は私自身と他者を含む世界の開闢者でありながら、他者と並列な一般的な人間でもあるという存在である。すると、私には私の赤の感覚そのものがあると言えるのと同じ意味で、他者にも他者の世界があり他者の赤の感覚そのものがあると言えるようになる。それを認めることこそが他者と共に生きていくことの意味になるのではないだろうか。

Ufo
今が過去や未来と比較可能なレベルの存在なら、言葉で語り得る内容にはこの現実の現在そのものは乗らない。

Ufo2
だから、現実のこの今現在のなかに、比較可能な過去と未来と現在が開いているとしながら、その比較不可能な現実のこの今現在が同時に比較可能な現在でもあるとしてしまう。すると、現在はこの現実の現在性を持ち続けながらそれを言葉に乗せて発言することができるようになる。

Ufo3_2
或いはこうも言えるかもしれない。この今現在は現在自体と過去未来をも含む時間世界を開闢点でありながら、過去未来と並列な時間でもあるという存在とする。すると、この今現在に現実性があると言えるのと同じ意味で、過去や未来にもその時間の現実があると言えるようになる。3分後にできあがるカップ麺が現実に食べられる現在であり得ることになる。未来を自分の現実にするのだから、このことが生きているということではないだろうか。

そのようにみると「他との対比可能な個別性・現実性」なるものを認めれば、実際に矛盾している時間の中で、矛盾しているクオリア問題を飲み込んでしまえるように思える。そのように考えることができれば、この生を実感のあるものとして、意味と価値のあるものとして謳歌することができるようになるのかもしれない。

マクタガートは「時間の非実在性」の中でヘーゲルに関する記述を深めていないし、もちろん永井の累進構造について触れていない。しかし、マクタガートの思いの先には、そのような矛盾の先に捕まえられるべき時間があったのではないだろうか。そういう意味では永井の時間観は非常に興味深い。
マクタガートの時間の矛盾説は、「現在・過去・未来」の3者が互いに排他的でありながら、それぞれが同一の事象を指示するものでなければならないということであった。このマクタガートの説の意味するところは、結局、「私」という主体が「現在・過去・未来」に排他的な存在でありながら、そのいずれにも現実的に現前するものでなければならない、ということだったのではないだろうか。その意味で永井の時間論は非常に的を射ていると思われる。

しかし、この累進構造説を受け入れるためには、「他との比較が不可能な存在でありながら、他との比較ができる存在である」という矛盾を受け入れなければならない。そんなことが正しいわけがない。とも僕には思える。
だって、そんなことが言えるなら、ウィトゲンシュタイン「論考2.171」に反して「像が自分自身の写像形式を写し取れる」ことになってしまう。そんなはずはない。

前節の終わりに、本節で僕の考えを書くと言っていたが、今日はここまでにして、次節で、累進構造説の欠点とこのパラドクスの僕なりの解き方をまとめていきたい。

つづく

時間と生は非実在か

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