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2016年8月 6日 (土)

マクタガートへの永井と入不二の回答<時間と生は非実在か12>

入不二基義「時間は実在するか」を読む3

マクタガートのパラドクスのどこが問題なのか

:マクタガートのパラドクスってのは、「過去・現在・未来」が現実には両立しないはずだとしたら、未来が現在であることはない、ということだよね。単なる言い方の問題じゃないの。どこにそんなに悩まないといけないことがあるのか分からないよ。

:パラドクスの意味はそうだよ。だから、このUFOを「現実に食べられる」ようになる3分後は現実の現在ではあり得ない。つまり、僕は未来を現実に現在として味わうことができない。

:単なることばのマジックじゃないの。って言うか、もろ詭弁っぽいよ、その変な言い回し。「現実」って言葉の使い方が間違っているじゃないの?

:確かに詭弁っぽい言い方だけどね。でも、この「現実」って言葉がダメだっていうんなら「実際に現前している」と言い換えようか。「僕は未来を実際に現前している現在として味わうことができない。」

:じゃあさ。この時計見て。今、実際に現前している現在の時刻は8月5日23時59分35秒だよね。そして、ほら今、実際に現前している現在の時刻は8月6日0時0分5秒だよ。そんなことばの上での矛盾がどうであっても、ちゃんと現実には現在の時刻が推移して行って、そんな心配しなくても、ちゃんと3分前が現在だったのだし、今は今が現在なのだし、3分後が現在になるんだよ。

:いや。心配しているんじゃなくて、謎を解きたいんだよ。明日の現在が来るって言うため矛盾まで受け入れなくちゃいけないってのが気持ち悪いんだよ。でも、マクタガートの説を受け入れるなら、時間が矛盾しているのは確かなようにも思える。その矛盾がどこから来るのか、マクタガートにも納得してもらえるような矛盾の外し方を考えてみたいんだ。

:やっぱり、ことばの問題、というか詭弁の問題でしかないようにしか思えないけど。

:たしかに最後は言葉の問題になるのかもしれない。実際、詭弁だと言えるものなのかもしれない。それでも、それは、僕たちが生きているこの「現実」なるものをどう捉えるかという問題になると僕には思えるんだ。その問いは「「私的言語」がなくては言語が完成しないとか、自分には「クオリア」が有ると分かる」などという誤解と密接に絡み合っていて、そこを解くことが問いの本質じゃないかと思ってるんだ。そしてそれはそのまま僕たちの「生」の問題になると思えてとても興味深いんだ。
それで、入不二基義と永井均が彼らなりの解決を挙げているのを検討したいんだけど、それを紹介していいかな。

:どうぞ。詭弁じゃないってところ見せてほしいわね。


A系列・B系列・マクタガートの三つ巴

未来は原理的に現実の現在ではあり得ない。だから、時間が矛盾しているのでなければ、3分後のUFOを現実の現在として食べることはできない。短絡的に言うと、マクタガートが時間の矛盾を主張したのは、そういう意味だと僕は考えている。
そのマクタガートの主張に対しての、入不二・永井の考えを見る。

入不二は次のように指摘して、マクタガートの言う時間の矛盾が間違いだとする。

「実は①と②は同時に主張することができない。
① B系列は派生的であるがA系列は根本的である(A系列の根源性)
② A系列が矛盾を含むこと(A系列の矛盾)」(入不二「時間は実在するか」p211)

②のA系列の矛盾を言いたいのであれば、A系列とB系列のどちらが優位であるかが決定できないとしなければならないはずだ。だから、それと同時に、①のA系列の優位性を主張することはできない。A系列ならA系列だけを優位にするなら矛盾のない時間モデルを作れるし、B系列ならB系列だけを優位にするなら矛盾のない時間モデルを作れるはずの両系列に対して、その両系列のどちらにも優位性を持たせるという無理を、マクタガートは犯してしまった、と入不二は整理している。そして、それを三つ巴状態として次のような図で示す。
Photo
そして、その、マクタガートが矛盾していると結論づけたタイプの「時間の変化性」について、入不二自身も捉え直すことにチャレンジしている。興味深いことに、この入不二が「2種類の差異を反復する『である』」として示したものが、永井の「累進構造説」にそっくりなのだ。これについて見ていこう。

 
「2種類の差異を反復する「である」」

入不二は次のような、時制表現の累進構造を示す。

①【かつて未来であったことが、今は現在であり、やがて過去になる】――時制表現
 ↓
②【「かつて未来であったことが、今は現在であり、やがて過去になる」のである】――無時制表現
 ↓
③【無時制的な『である』という表現行為も、かつては未来であったが、今は現在であり、やがて過去になる】――時制表現
 ↓
 …

そして、入不二は、この①の表現について「たしかに、ここでは時間特有の「変化」「動き」が表現されている。しかし、それを表現する行為の側はその変化の中にとりあえずは飲み込まれていない」(「時間は実在するか」p234)と解説している。確かに「未来」であった事象が「現在」になりやがて「過去」になるのだというのだから、そこに「事象が未来→現在→過去と移り換わる」という変化が表現されている。しかし、その変化は「とりあえず」の変化でしかない、と入不二は断ずる。
このとき、この「現在」を現実のここにある「端的な現在」だと解釈するなら、
2_2

そこに記されている「未来」「過去」は「かつての現在にとっての未来」であり、「やがてくる現在にとっての過去」であって、(それは当然の話ではあるが)この現実の「現在を現在とする私」にとっての今ではない。ということは、それって、その「未来」や「過去」が、この世界の開闢者としての「私」にとっての「時空間」ではなく、その「未来を現在とする私」や「過去を私とする私」という他者にとっての「時空間」でしかないものだということではないか。そう考えると、いくら「変化」を表現している表現であろうと、その「変化」は「この私」にとっての変化ではなく、世界が「この私」の世界から「他者」の世界へ変わるということを表現するものでしかなかったのだ、と言うこともできる。

だから、その「変化」を私のものとするためには、「未来」と「過去」をこの現実の世界の中に取り込まなければならない。そこで為されるのが②の無時制化の工程になる。①の「かつて未来であったことが、今は現在であり、やがて過去になる」に「のである」を加えて、②【「かつて未来であったことが、今は現在であり、やがて過去になる」のである】にするのだ。
3

こうやって、「未来・現在・過去」をひっくるめて「である」で括ることによって、すべてが「現実の私」にとっての事象にしてしまう。そうするとどうなるか。「未来」「過去」がこの現実の現在の中の事象だということになってしまうのだ。だから、つまり、「未来」は単なる予期でしかなく、「過去」は単なる記憶でしかなくなってしまう。ただ記憶としての過去があり、それとは別の事象としてただ予期としての未来がある。そして、そうなることによって、現在の私がイメージする4次元時空座標にそれぞれの事象が固定化されてしまうことになる。固定された時空内では、もはや現実に「未来」が現実化することはなく、単に「或る時点にとって過去だ」とか「或る時点にとって現在だ」「或る時点にとって未来だ」というような「可能的」な時間でしか語られないものになる。だから、その時間内では、どこかにいる誰かにとっての変化というものはあるかもしれない。しかし、そうなってみると今度は、この現実の私が「未来が現実の現在である時間」が「現在が現実の現在である時間」になり「過去が現実の現在である時間」になるという変化として体験することはできないことになってしまう。
だから、実際に現実の時間を考えようとするなら、この私が現実に捉え得る世界として時間を引き戻さなくてはならない。だから、その②のような現在のさらに外側に実在する「未来」「過去」があることにしなければならない。そのために、さらに②の無時制表現を③【無時制的な『である』という表現行為も、かつては未来であったが、今は現在であり、やがて過去になる】という時制表現として捉えなおさなければならないことになる。
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そのように、時間の時制化と無時制化が繰り返されていく。このように入不二は時間の変化の問題を、「2種類の差異を反復する「である」」として示した。

 
永井の累進構造説

ね、まるで永井の「累進構造説」でしょ。
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永井の「累進構造」ではいくつもの「過去現在未来」が縦横に組み合わされている。この一つ一つの「過去現在未来」という横方向のパーツが事象と事象の時間的な前後関係を示し、誰かの可能的な視点においての可能的な時系列を表す。そして、そのパーツの上下方向の組み合わせは、個々の視点が「可能的なもの」か「現実的なもの」かの様相を示し、この現実の世界の開闢者である私の視点においての「端的な現実」が、この表のてっぺんになる。
そして、この表のてっぺんがてっぺんのままに固定されてしまうと、時間は現実に変化するものにならず、この世界の開闢者の視点という絶対であったはずの「てっぺん」の上にさらなる現実が組まれることによって「変化」が生まれるとする。

入不二の図では、「無時制文による過去・現在・未来」が永井の図においてのてっぺんが固定化され「現実の現在」がただ一つ決まっているものを表していて、「時制文」による過去・現在・未来」が永井の図においての立て方向にどんどん新しい様相が組み替えられていくような、「固定されない現在」を表す。そして、その縦横が累進的にどんどん積み上げられていく運動の中に、「未来が現実の現在になる」という矛盾した時間モデルを見出されるようになるとするのである。

 
永井の回答

そうして、永井と入不二はそれぞれ、その矛盾に対する解決策として、その累進構造を用いる。
永井は、矛盾が世界の本質構造として認め、その、実在しないはずのものを言語が捏造してしまった世界にわれわれが生きていることを認める。そこに矛盾があることを受け入れて、その矛盾した世界が存在するをことにするために、矛盾と無矛盾を累進構造で重ねていくことで、矛盾した世界を語れたことにしてしまうという裏ワザを使うのだ。端的な現実の現在が累進構造によって可能な現在と化して過去に成り下がり、可能な現在だった未来が累進構造によって端的な現実の現在になる。どこまでも、現実世界と可能世界がどこまでも積み重ねられることで、その矛盾を矛盾と認めながら世界の事実として語れていることにしようというのだ。まあ何と、目茶苦茶なやり方だ。無茶なやり方だが、矛盾を矛盾として受け入れて世界を存在させるには、それしかないのかもしれない。でも、本当にそれで良いのか。このようなやり方で納得できる人は納得したら良いと思う。しかし、この考え方は世界が私と無関係に実在しているとするタイプの実在論を下地にしているから言える実在論世界像の1つなのではないだろうか。世界が私によって開闢されているとするタイプの世界像を作るなら、他の何を捨てても同一律と矛盾律は捨てられないようにしか、僕には思えない。だから、僕はどうしてもこの「累進構造説」に納得することはできない。

 
入不二の回答

入不二のやり方も似たようなものだが、少し違う。入不二は上の2種類の「である」の累進構造を考える。そしてその累進構造を極限まで突き詰める。すると、時制的なものの極限としての「『なる』という推移」と、非時制的な極限としての「永遠の現在」が現れると言う。そしてその2つの極限を「関係としての時間」だとする。その「関係としての時間」なるものは、僕の理解では、【「主体と事象との関係」を通して、その主体の視点で見た経験的な実在 としての時間】と、【「事象と事象との関係」を通して、神の視点で見た、非経験的な実在としての時間】との累進構造のことだと思う。その「関係としての時間」に対して、さらに、「無関係としての時間」という新たな対立軸を見出だすことができるとする。それは「無でさえない未来」と「現在だったことのない過去」とによって透かし見えると言う。まるで、時間内に何物も在るとも無いともしないような、そして、何物も関係し合わないような「独<今>論世界モデル」のようなものと捉えたらいいのかもしれない。そして、その「関係としての時間」と「無関係としての時間」との時間の捉え方すると、マクタガートの問い「時間は実在するか」を問うと、問いが蒸発してしまうというのが、入不二の回答なのである。

入不二の読みにおいて「時間の非実在性」での「実在」という概念は5つの意味がある。

(1)本物性:みかけ(仮象)ではない「ほんとうの姿」であるもの

(2)独立性:心の動きに依存しない、それから独立した「それ自体であるもの」

(3)全体性:「ありとあらゆるものごとを含む全体」、あるいは「その全体が一挙に成り立っていること」

(4)無矛盾性:矛盾を含まない整合的なもの

(5)ありありとした(いきいきとした)現実感が伴っているもの

まず、(3)の全体性の意味での「実在」は、「関係としての時間」「無関係としての時間」をすり抜ける。「関係の時間」において、とりあえずの全体として成り立ち、またその「とりあえず性」によって全体が破棄される。
(4)の無矛盾性についても、「時間は、矛盾するゆえに実在しない。あるいは、実在し無矛盾である」のねじれた擦れ違いこそが、時間の表象を紡ぎだすと考えるゆえに、無矛盾性を問う問い自体が放棄されるという。
そして、「(2)が言わんとするような、心の動きに依存しない独立した「それ自体であるもの」と、(5)が(不十分な形で)表わしている現実性。その二つは、無関係としての時間こそが提供する。…「現在だったことのない過去」の過去性と「『無』でさえない未来」の未来性。これこそが、心の働きが及びようがない、私たちからは徹底的に独立した「それ自体あるもの」の原型を与えてくれる。…(5)が不十分なのは、現実性が現実感に矮小化されているからである。…現実化している現実性とは、この今の現実性である。それは、複数性が意味を持たないし、動いているのでも、止まっているのでもない唯一の現実性であった。…この意味((2)独立性と(5)現実性)に限定して言うならば、無関係としての時間(現在だったことのない過去・この今の現実性・「無」でさえない未来)こそが、「実在」であると言えなくもない。」(同p289)とする。
さらに、(1)の意味での「実在」については、本物(実在)と見かけ(仮象)の区別は一本の単純な線によってなされるものではなく、様々なレベルの線引きが重なって厚みを増していき、むしろ時間によってこそ、その厚みを増すものである。だから、時間が実在であるか見かけであるかという単純な問いには、意味がないとする。

それゆえ、入不二は「時間は実在するか」という問いに対して、「その問いは「うまく機能しない。あるいは、(1)~(5)のあいだで統一がとれた解答が与えられるわけではない。ゆえに、「時間は実在するか」という問いは、(1)~(5)のどの意味においても、失効する」(同p291)とまとめている。

マクタガートがもっともこだわっていたのは(4)の無矛盾性の部分だと思われるが、その点について、入不二はその問いが放棄されるとして退けてしまう。
それって、どうなのだろうか。入不二の答えは或る意味正しいと僕は思う。まっとうで当然の正答だと思う。

でも、それは、単にマクタガートの「時間は矛盾しているのじゃないか」って問いが、答えのない言葉の上だけでの、無意味な問いだったことは示しただけのものではないか。それは詭弁としての問いだったことは明かしただろう。
でも、「実際に未来を現実の現在として生きるためにはどう考えれば良いのか」という問いはどうなる。その問いは空中分解して、問えないままではないか。これで謎は解かれたと納得できるだろうか。僕には納得できない。この答えでマクタガートを納得するのだろうか。その点で僕は大いに疑問が残っている。

次節、自分よがりの回答に挑戦してみる。

つづく

時間と生は非実在か

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コメント

『世界が私によって開闢されているとするタイプの世界像を作るなら、他の何を捨てても同一律と矛盾律は捨てられないようにしか、僕には思えない。だから、僕はどうしてもこの「累進構造説」に納得することはできない。』

「開びゃく説」と「累進構造説」とを、整合的に語ることはできない、という意味であれば、師匠のこの主張は、当然のように思います。

そうでしょう。そして、その累進構造が独在論に乗っかってなされたものなら、無理筋なものにしか考えられないのです。
taatooさんのコメントいつもながら励みになります。ありがとうございます。

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