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2016年7月 3日 (日)

「この今現在the present」を考える<時間と生は非実在か8>

A系列を生む「何か」をマクタガートはどんなものだと考えたのか。
「この今現在the present」がそれなのか。(「この今現在」はマクタガートが論文「時間の非実在性」のなかで登場させている、一般的な「現在」とは違う、現実の「現在」に関する概念である。)

「the present」 の訳されかたを調べようと探したのだが、日本語の論文の中でマクタガートの「the present」を扱っているものを見つけられなかった。そのため、「この今現在」は、仕方なく僕が自分で勝手に「the present」の訳として名付けたものである。だから、この言葉を使うときには十分注意が必要である。正しい訳し方をご存知の方がいれば教えてほしい。)

マクタガートは「この今現在」がその何かだとは断言していないが、そう考えていたと窺える箇所もある。この「この今現在」とは如何なる現在なのか。僕は、「この今現在」の本質が「アクトゥアリテート・現実性」や「ヘクシアリティ・これ性」であると考えているのだが、本節では、この「この今現在」が何ものであるかを考える。

「この今現在 the present」のという言い方は「時間の非実在性」の中に6回出てくる。

「私はこれの代わりになぜ「或る意味で、過去は変わる――すべての瞬間は以前よりも「この今現在(the present)」から遠ざかっている〔そのために、過去がより遠い過去へと変化する〕」と言ってはならないか分からないし、これは私が最終的に正しいとする選択肢にはならないのだが、私にはこの見方に本質的な困難があるようには思えないのだ。なぜなら、たとえば、私は時間が実在しないと信じているからである。そして、事象は、時間の中で変化するものだが、いかなる実在的な変化も伴わないようなA系列において、そのA系列の中での位置が変化するという意味で、変化するものだということを、認めているからである。」(第20節)
「〔複数の時系列と複数の現在を考えるという説への反論の中で、〕疑いなく、いかなる現在(present)も「この今現在(the present)」――この宇宙の確実な様相であるだけの「この今現在」――ではない。ただし、そのとき、いかなる時間(time)も「その時間(the time)」――この宇宙の確実な様相のであるだけの「その時間」――ではない。それ〔「その時間」〕は間違いなく実在する時系列だが、それでも、私は「この今現在」が「その時間」より実在性を欠くものだとは思わない。」(第43節)

「「この今現在」は、実際に事象の中を通過する。したがって、見かけの現在と同時だと判定されることはあり得ない。それ〔この今現在〕は、究極の事実であることを据え付けられたまま、持続して長さを持つものでなければならない。」(第67節)
「A系列の中で、「この今現在」が有限な長さを持った存在ではなく、過去と未来を分割する単なる点であるとするような、よく支持される考え方を採って、この困難を逃れようとするならば、我々は、別の深刻な困難に直面することになる。」(第68節)
「今、我々は――見かけの現在を見るということを中心として――時間を経験しているが、我々が存在を経験するような実在の中に、実在の時間があるとするのであれば、その時間経験は明らかに幻想でしかない。我々が観測するその見かけの現在――実際にあなたと私では異なっているそれ――は、観測される事象としての「この今現在」とは一致しない。そして、それゆえに、我々の観測における過去と未来は、観測された事象における過去と未来とは一致しないのだ。時間を実在とするか非実在とするか、どちらの仮説を採るとしても、あらゆるものは見かけの現在において観察されるもので、それ以外のものはない。これまでに見かけの現在において観察されたその観察自体でさえ、そうなのだ。だから、この事例において、1つの現在の中には何もないという言い方をするときの方が、あらゆるものは完全に異なる複数の現在を通過するという言い方をするときよりも、ずっと間違ったものとして経験を扱っているとは、私には見えないのだ。」(第69節)
「「この今現在」は、その現在性の断定と、その未来性の断定より以後である「未来か何か」と、その過去性の断定より以前である「過去か何か」とが、それぞれ同時に起こっているとする何かであり続けている。しかし、この理論は、時間がA系列から独立の存在であることを伴っていて、我々が達した結論とは両立しない。」(注4)

これによると、

・「この今現在」は、事象の中を通過する現在であり、そこから過去のすべての瞬間が遠ざかり続けていくような現在である。

・「この今現在」は、究極の事実である。

・「この今現在」は、人によって長さが変わるような見かけの現在ではない。それゆえ、「この今現在」は事象を直接観測できるような場ではない。

・「この今現在」は、現在性の断定と未来と過去とが同時におこるような何かである。

・「この今現在」は、この宇宙の確実な様相であるだけの現在である。

・「この今現在」は、いかなる現在でもない。

どうやら、この「この今現在」はずいぶん不可解なものであるらしい。
まず、「この今現在」は過去から未来方向へ動き続ける現在である。見かけの現在ではなく、事象がそれに乗るようなレベルの現在ではなく、可能性としてあり得べきいかなる現在でもない。
前節で考えたように、A系列を生む「何か」は事象ではあり得ず、固定化される時系列ではあり得ないはずだから、その点ではこの「この今現在」はその要請を適えているようだ。
しかし、その瞬間に固定されている事象と某かの関係をするのに、その瞬間に固定化されないようなものなんて存在不可能なのではないか、と思える。だから、「この今現在」は普通の存在なんぞではないはずだ。
そんで、「この今現在」は究極の事実であって、この宇宙の確実な様相だと言うのだから、それは、入不二の言う「『まさに今現実化している』という現実性」そのものなのではないだろうか。あるいは永井が「<私>」や「<今>」と表現しているような、アクトゥアルな「これ」とか「ヘクシアリティ・これ性」などにあたるものではないのだろうか。

マクタガートが43節で「疑いなく、いかなる現在(present)も「この今現在(the present)」ではない」と言っている「この今現在」は、それが「現在」であることが可能なだけで「現実」ではないような単なる「現在present」と対比して、現実性を持つ「ただここに現実としてある現在」というものであることが強調されている。「――この宇宙の確実な様相であるだけの「この今現在」――」という表現も「この宇宙に確実に表れている、その現れの確かさそのもの」を指していると考えられる。まさしく「『まさに今現実化している』という現実性」としての「現在」だと言えるだろう。

この現実性は、「可能な現在」に対する「絶対の現在」だということである。しかし、「現実性」が指すものは、それが「絶対の現在」だということだけではなく、それが「ほんものの現在」だということも重要な視点である。この「ほんものの現在」だという視点を「ヘクシアティ・これ性」と言おう。「絶対性」とはそれ以外には「この今現在」がないということであり、「これ性」とはそれが現実世界だということである。実際に、なぜか現実の世界がここに開闢している。ここに本当に見えている「これ」。この、唯一絶対であるだけでなく、ここに実際に世界が開闢して現実の「これ」があるということである。

しかし、この「これ性」は決して語り得る内容を持つものではない。「ここに実際に世界が開闢しているこの現実の「これ」」などと言語化してしまうと、その言葉は必然的に誰もが理解し得る内容を持っていることになってしまい、誰もが確かめ得るような「これ」を語っていることになってしまうのだ。

「この今現在」がA系列を生む何かであるならば、それは事象に固定化され得るものであってはならないはずである。ところが、もし何かが、誰もが確かめ得るような内容なのであれば、それは必然的に世界の内部の事象の上に刻まれ得ることになってしまい、事象に固定化され得るものに堕落してしまう。だから、「この今現在」がA系列を生む何かであるためには、誰もが確かめ得るようなレベルの「これ」なんかではなく、「言語化不可能で、本当に「ここに実際に世界が開闢しているこの現実の「これ」」でなければならないのである。でも、いくら「本当に」などと付け加えて言ってみたところで、それは言語化した途端、誰にでも確かめられて言語化可能なものに堕落してしまうのだ。これは決して表現されないのだ。

だから、本来の、本当の「これ性」というのは、原理的に他者に伝えることができない私秘性をもつだけでなく、自分自身でさえもその意味を掴んで理解することができないナンセンスでしかない概念だとも言えてしまうものなのである。

そして、このように考えて、僕は、「これ性」が「この今現実」の本質であり、さらには、A系列の本質であるとするような視点が、この時間論の問題の中心になるべきだと考えた。マクタガートがA系列は矛盾しているとしたのは、A系列がナンセンスな「これ性」による概念であるためだと思うのだ。

ただし、安直に話を進めては、この問題の中に隠されている最も重要な何かを取り逃がしてしまうだろう。ここからさらに慎重に思考を進めるよう気をつけたい。その語り得ないはずの「これ性」があることを認め、さらにそこに永井が言うような累進構造を認めなければ、時間を時間として受け止めることができず、そのために「生きる」ということができなくなってしまうのではないかという疑問。この、僕自身にとっては真に哲学に問いたい生と死の問題が、ここから始まるのだ。でも、それは、新たな問題になるので、次節に回す。

それと、もう一点。
マクタガートは、「この今現在the present」との比較対象として、「その時間the time」なるものを挙げている。
「いかなる時間timeも「その時間the time」ではない」と言っているときの「その時間」は、それがいつでも存在し得る単なる「時間」と対比して、現実性を持つ「ただ現実としてある」というものであることが強調されている。例えば「昨日の夕暮れであり、2016年7月2日の午後7時であるその時刻」というような時間を指すものだろう。「――この宇宙の確実な様相のであるだけの「その時間」――」という表現も「この今現在の私が現に指し示している唯一絶対の現実の時間」を示していると考えられる。この現実の私が現に指示している「現実の時間たち」は本当に存在している実在の時間であるはずだ。
こうしてみると「この今現在も」「その時間」も「現実性」をもった時間であるという点で同じようなものに思える。マクタガート自身、「その時間」と同様に「この今現在」も実在すると考えている。しかし、「この今現在」には「その時間」と同様の実在レベルの内容だけではなく、上記で述べたように、語り得ず非実在のレベルの内容をもっていて、マクタガートの思索はそれを混同してしまっているものだと、僕は考えている。そして、その非実在性こそが「この今現在」の本質だと僕は考えている。

では、実在レベルの「この今現在」と非実在レベルの「この今現在」とはどのように分析できるのか。これについても、次節で考えたい。

つづく

時間と生は非実在か

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