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2016年7月18日 (月)

「累進構造」のパラドクスとその必要性<時間と生は非実在か9>

マクタガートが説く「変化」や変化を含む「時間」を生む何かが、私の生に根差した「現実性(アクチュアリティー)(「アクトゥアリテート」と表記していたものと同じなのだが、本節で取り上げている永井均の「哲学探求1」でこの言葉を英語的な読みにしていたので、それに合わせた)」とか「独在性」などというものにあるのではないか。ということを前節で考察した。ここから、その現実性や独在性とそれに関わる累進構造がその「変化」の本質であることを考えることとする。ただし、僕は、永井の累進構造やマクタガートの変化をまったく否定的にしか捉えてはいない。それでも、それを問うことが「生きる」ことの意味を問ううえで最も本質的な問いであることは疑えないと考えている。
まず、その変化を生むための「独在性的世界」の例として、ダメットの反実在論的モデルと、永井の累進構造の最上段とを見てみよう。

この世界のすべてを独在論的に捉えてみると、現在主義と呼ばれるような世界モデルを採ることになることを考える。

 

「分析以前の『これ』」と「独<今>論的世界」

以前、<現象主義が反実在論の本質でないわけ>のページで、現象主義が「隣室にテーブルがある」という文の意味を「隣室に行ったならば、テーブルのセンスデータが得られる」と解釈したり、実在論が「隣室に机があるか否か」は超越的に既にして決定しているとしたりするのだったら、それはダメダメな現象主義やダメダメな実在論でしかなくって、「現に得ているセンスデータから隣室にテーブルがあると推論できる」と解釈するときにはじめて有意味な世界を語り得る言語システムになるということ考えた。
だから、同様に、「3分後にUFOを食べる」という文の正しさというものを「現にここに今得ているセンスデータから3分後の可能世界において私がUFOを食べると推論できる」という意味の正しさだと捉え、「実際に3分後になったら分かる」という意味での正しさをナンセンスだと捉えてみよう。
この、或る意味、独今論的にすべては現在得ているセンスデータこそが世界の実態であり、その現在得ているセンスデータだけから構築される世界だけが有意味な実在だとする捉え方をすると、不可知のことに意味を与えなくても済むし、ナンセンスな世界解釈に陥ったり矛盾を孕むことになったりせずに済む。
たとえば、過去や未来なんかも記憶や予期でしかないとしてしまう。そして、必要であれば「実際に3分後になったらUFOを食べている」という文でさえその現在主義の中に入れ込んでしまう。「実際に3分後になったらUFOを食べている」というときの「3分後」を現実の現在になるような未来と取るのではなく、可能な現在になるだけの未来として捉えてもよいとする裏ワザを使うのだ。「実際の3分後」というようにいくら「実際」と言われたとしても言語的に語られ得る「実際の3分後」なんてものはしょせん「可能な現在」になるものでしかないような未来だと考えるのだ。
すべての現在過去未来の時制は、現実に得られているセンスデータや表象内容にたいして後から感性が時間という形式を当てはめたために得られるでしかない、とカントの超越論的な世界像で考えても良い。「過去」も「未来」もそして「現在」も、世界の中で私が意味づけたものでしかなく、世界の客体の側にもとから意味を持って存在するものではあり得ないのだ。
注意が必要なのは「現在主義」というときの「現在」は、このあとから「現在過去未来」に振り分けられた「現在」であってはならない。「過去未来」と並列する「現在」は時間形式によって分析され終わった世界の内部に存在するものであるが、「現在主義」の「現在」や「現にここに今得ているセンスデータ」というときの「現にここに今」は決して「過去未来」と並列にならないようなもので、現実に得られているセンスデータや表象が分析される前の「これ」としか言えないようなものでしかない。この違いを混同しないようにしなければならない。以下、これをきちんと区別するために、「過去未来」と並列する方の「現在」を「時制としての現在」と呼び、「これ」のほうを「分析以前の『これ』」と呼ぶことにする。
そして、このような意味で、すべての「現在過去未来」の時間は「分析以前の『これ』」を「現在過去未来」として分析したものでしかないとするような、独今論的で現在主義的な世界モデルを「独<今>論的世界モデル」と名付けることにする。(「現在主義モデル」でも良いのかもしれないが、語る人によっていろいろな異なる意味がつけられてしまっているので誤解の原因になるだろうから、ここでは「現在主義」という語を用い続けるべきではないと考えた。)

 

「独<今>論的世界」の複数性

「独<今>論的世界モデル」では、現在過去未来の時制の関する文を「分析以前の『これ』」によってその真偽を考えるので、確定的な真理値が得られないときがある。だから、文の「真偽」よりも、その文の信頼性の高さの値である「是値・非値」で捉えるべきものになる。それゆえ、「独<今>論世界モデル」はダメットの反実在論的世界モデルの一形態である。
たとえば、「私は3分後にUFOを食べる」という課題文がどれだけ妥当で信頼できるかということを考えると、「『時制としての現在』という時間において『私は3分後にUFOを食べる」と考える』と発言すること自体に確証があって信頼性が高いと捉えることもできる。また、その課題文は「『時制としての3分後の未来』が『可能的な』現在になったらその時点において『UFOを食べている』と私は考えるだろう」ということについて妥当な推論が成されて信頼性が高いと捉えることもできる。
しかし、この捉え方では「『3分後の未来』が『現実の』現在になったらその時点において『UFOを食べている』ことが真だったことを私は知る」という意味だと考えることはできない。「3分後が『現実の』現在になる」なんていう文は文として矛盾しているので、そのような分析を「分析以前の『これ』」から取り出してくるなんてことができるわけがないからである。

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確かに「3分後の世界が現実であることになる」なんて言うのは矛盾しているかもしれない。しかし、「3分後にUFOを食べることが『現実の』現在になる」ということを否定するのであれば、まともに生を享受できるだろうか。
「3分後の可能世界において私がUFOを食べる」という状況がここに存在していると分析判断される――という捉え方をするだけでは「UFOを楽しむ」ことができるような「生」の価値を得ることはできないのじゃないだろうか。
生の価値をまともに享受するためには、矛盾を矛盾として受け入れる以外にないのでなないだろうか。
「生」を「生」たらしめるためには、この矛盾を受け入れるしかないように思われる。
「3分後にUFOを食べるだろう」とか「3分後が可能世界としての現在になったら私は『UFOを食べている』ことを実感するだろう」などと捉える、この今の時点でのここで現れている「独<今>論的世界①」と、
その3分後に「今UFOを食べている」とか「今から3分前が可能世界としての現在であったときの私は『3分後にUFOを食べるだろう』と言っていた」などと捉える、3分後の時点で現れている「独<今>論的世界②」とがあって、
「独<今>論的世界①」が「独<今>論的世界②」に「なる」ということを受け入れることができないのであれば、私は実際に現実のUFOを味わうことができないことになってしまうのではないだろうか。そのような「なる」を受け入れなければ、私が生きている意味などないのではないだろうか。

 

永井の「現実と可能性の累進構造」

この「独<今>論的世界①」が「独<今>論的世界②」に「なる」という飛躍は、永井均のいう「累進構造」や、入不二基義のいう「2種類の差異を反復する『である』」と、合致する考えになるように思われる。

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永井は累進構造について、上の図を示して次のように説明する。

「最上段が現実の現在・過去・未来を表している。しかし、その過去や未来もまたその時点に置いては必ず現在である。だから、最上段こそが「現実の現在(過去・未来)」なのだ、と言って区別したいところだが、当然のことながら二段目の現在もまた、その時点においては、自分こそが「現実の現在」なのだ、と言って自分を他から区別しようとするだろう。」(永井均「哲学探究1存在と時間」p50)
「この図表の理解において最も重要な点は、横の関係と縦の関係の区別である。…横のつながりが表現しているのは、もちろん時制や人称だが、縦のつながりが表現しているのは様相である。ここで様相とは、現実であることと可能であることとの関係を意味する。最上段は端的な現実性を表現しており、以下は可能性を表現している。…それぞれの段にとってはその段が現実であり、それぞれの段がその段にとっての可能性である。(同p115)

図の最上段は現実であってそれ以外の段はすべて可能的な現在過去未来でしかない。ところがそれぞれの段の現在にしてみれば、その段こそが現実の現在過去未来にならなければならないという。

「…重要なのはここに成立しているこの累進構造である。これなくしては、過去や未来のある時点をその時点にとっては「現在」であると見なすとか、他人をその人にとっては「私」であると見なすというしかたで、時制や人称を相対化することができない。」それができなければ言語(ロゴス)が成立しない。…人称や時制が機能するためには様相が必要不可欠である、ということである。」(同p116)

下図は永井の図に勝手な書き込みをさせてもらったものである。

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左図は時刻t1を現在とする最上段の「現在過去未来」のみが現実であり、それ以外の段はすべて可能性としての「現在過去未来」でしかない。ところが、時刻t2が現在になってみると可能性としての現在でしかなかったはずのt2が現実の現在となり、右図のように最上段に来る最上段だったはずのt1はその下の段に成り下がってしまう。この「累進構造」によって「現在過去未来」という時制は実際に機能する「現在過去未来」になり得る。この累進構造がなければ、僕たちは、3分後に出来上がるUFOを現実に味わうことができないような、無味無臭無内容の形式だけの時制しか持つことができないのだ。僕たちが本当に生を享受できるような時制を得るには、この累進構造のように、矛盾を矛盾として飲み込んでしまうシステムを受け入れることが必要なのである。

 

「累進構造」の矛盾

生を生として享受するためには、複数の「独<今>論的世界」や或いは複数の現在が独在性を持つという、矛盾した「現在の累進性」なるものを受け入れなければならなくなる。

「現実の動く現在は、その内部に端的な現在とその過去や未来を含むという側面と、いつも現在で、それぞれそこを出発点として他の可能性との対比がなされるという側面とが合体して成立していることになるだろう。…すなわち、その動く現在に属する諸々の可能な現在もまた、現在ではある以上、必ず端的な現実の現在のもつ無内包の現実性(独在性)というきわめて特殊な性質をそれぞれ持つとされなければならない…まさにこの構造こそが累進構造ということの意味なのである。」(同p290)

本来、無内包の現実性(独在性)というものは、唯一絶対でありながら、世界を他の何かと比類できるような対象に分類する以前のものであり、否、それ以前の何ものでもないようなモノとしての「分析以前の『これ』」なのだから、それが複数性を持つということなど、矛盾でしかなく、そんなことがあり得るはずがない。だいたい、「3分後になったら現実になる」なんてことが問えるという考えはこのページの最初に否定していた「隣室に行ったらテーブルのセンスデータが得られる」という問い方ができるとしたダメダメな方の現象主義やダメダメな方の実在論そのものではないか。しかし、それでも、その矛盾を受け入れなければ、僕たちは生きている意味を自分で見出すことができなくなる。だから、矛盾しているからと言ってその累進構造を捨てるわけにはいかないのだ。

――というパラドクス。「矛盾」がこの世界の現実として実際にあるなどということは本当なのか。

永井がこの累進構造によって述べたことと同じことを、入不二は「時間は実在するか」の書で「2種類の差異を反復する『である』」として扱っている。この永井と入不二の累進構造とA系列B系列がどのような関係になっているかについて、そして、このパラドクスが本当に解けないパラドクスなのかを、次節とその次で考えたい。

つづく

時間と生は非実在か

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