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2016年7月28日 (木)

「印象」が必然的に機能的なわけ<クオリア再考23>

このブログでもその他の場でも僕は一貫して、機能のないクオリアなんてナンセンスだと主張している。これに対していろいろな反論をいただく。先日の大阪哲学同好会でもこの議論で盛り上がった。会合が終わった後までもメールでA氏と議論するほどだった。それで、クオリア肯定論への少し新しい反論を考えたのでメモしておく。「クオリアが必然的に物理的なわけ」のページで考えたものと基本的に同じアイデアではあるが説明の仕方がちょっと違う。

 

「クオリアが分かる」とされるわけ

僕の「クオリアなんてナンセンス論」に対していただいた反論は次のようなものだ。
「目を閉じると色彩等の「クオリア」が私から欠けるのが分かり、目を開けると私にあるのが分かる。だから、クオリアがいくら機能を持たないものだとしても、私にはクオリアがあることは、私自身にとって明白に分かる。
「私」という根源的な主体から見たら感覚質があることは疑えない。その感覚質が変化することも疑えない。目を開けたり閉じたりすると光のクオリアがあることになったり無くなったりする。他者に本当にクオリアがあるかないか、なんてことは分かりようがない。しかし、私自身が感じているものそれ自体があることは、私にはありありと分かるのだから、私がゾンビでないことは明らかである。」――というのである。

これに対しての僕の回答は、そのクオリアが機能を持たないと断じてしまうのは、この世界が培養脳の夢だと断ずるのと同様の、根拠のない無意味な懐疑でしかない――というものだ。
このことを説明するための場をきちんと整地するために、「クオリア」等のことばの意味を再度確かめておきたい。
僕の意見に対する今回の反論は、「私」という根源的主体(この現実の主体)からみた「クオリア」は否定しようがないという意見である、というのだから、それに対する僕の反論もこの僕の現実的主観による世界という視点から、世界を考えてみることにする。

 

「印象」と「クオリア」の定義をしよう

私は「印象」を受け止める。「印象」は見えたり聞こえたりつねられたり思い出したり考えたりして感じたものとして捉えられることになるようなあらゆる感覚の内容である。私は印象からしか世界の情報を得ることができない。その、もともとは未分析の世界情報を、私という絶対的で根源的な主体が分析することによって、その構造を理解できるものになって、語り得るものになるというような(いわゆるカント超越論的な)世界観を採ることにする。印象の内容の全部あるいは一部を形式に当てはめることによって、世界を理解可能なものとして構成する。たとえば、印象の内容が空間を示すものだと解釈したり、時間を示すものだと解釈したりすることによって、その印象が空間にもとづく表象であることに「なる」とする。或る印象がその時空内に物質があることを示すものだと解釈することによって、その印象が物的な存在の表象であることに「なる」とする。或る印象がその物質が相互作用したり因果関係をもったりして変化したりしなかったりすると解釈することによって、その印象が因果関係を示す表象であることに「なる」とする。
そのように分析されて構成された世界が不整合であれば、その世界解釈は不適切であるとし、整合していれば適切だとする。
そのような印象のうち、私への見え方としての感覚の質と、そこから分析されて構成された世界とに不整合がある可能性があると仮定するなら、構成された世界の内部あるものとして構成された私の眼が本来物理的因果によって受信するはずの感覚と、実際に得た印象の感覚が異なり得ることなる。
このような、因果的に受信するはずの感覚と、実際に得た感覚が、必然的に互いに独立であるような印象を考えるとき、それを「クオリア」と呼ぶことにする。つまり、必然的に世界と印象内容が独立であることを前提とするときの印象を「クオリア」とする。

つまり、説明のためこのページでは、「印象」と「クオリア」を次のように定義する。

「印象」:あらゆる感覚の内容

「クオリア」:必然的に世界とは独立であるような印象の内容

 

「クオリア」を感じることは可能か

さて、この私がこの「クオリア」を感じていると有意味に発言することは可能か。

不可能である。
私が感じているものが「クオリア」であるなら、それは必然的に世界の事実に関する情報では無いことになるからである。

確かに、この世界を感じるすべての「印象」が本当の世界を表すものとは別のイミテーションだとするような懐疑をすることは可能なような気もする。
しかし、その「本当とは別のイミテーション」の世界というものは、その「本当の世界」がいつの日か発見される可能性がわずかにでもあるのでなければならないはずだ。「いつの日か、その本当の世界が発見されるかもしれない」ということを前提しないで、「絶対に永遠に、本当の世界なるものが発見される可能性がない」ということを前提してしまうなら、「本当の世界」という言葉も「本当の世界とは別のイミテーション」という言葉も意味を持つことができない。
「必然的に世界とは独立であるような表象内容でしかないようなクオリア」なんてものを考えようとしても、そんな定義をすると、その定義の中の「世界」が意味を持ち得なくなってしまうので、結局、「クオリア」自体がナンセンスになってしまうのだ。

 

決して外れないヘッドマウントディスプレイ

もし、すべての過去未来において絶対に外され得ない頭部装着ディスプレイが、決してその外の世界を見ることができないものとして定義されて、必然的にディスプレイ映像の外の世界を経験することができないのであるとすれば、そのディスプレイに映される映像と独立の世界というものは、必ず空想の世界でしかない。もしかすると、そのディスプレイの外の世界とディスプレイ映像とは独立な世界像を勝手に想像したものが、偶然に完全に一致するという可能性はあるかも知れない。しかしそれでも、その場合でも、その世界像が私によって外の世界と一致していることは確かめられることは無く、それは完全に無根拠に構成された世界像なのだから、必然的に空想の世界だという以外にないはずだ。そして、それゆえに、そのディスプレイ映像が「本当の世界」と独立であるとするような言語的な設定は、単にそのディスプレイ映像が「ナンセンスなもの」と独立だとする設定に過ぎなくなってしまう。だから、必然的にその設定では、ディスプレイ映像の中身がすべてナンセンスなものとせざるを得ないものになってしまうのだ。
決してその外を確かめることができないようなディスプレイの、外の実在世界なんてものは、必然的に想定不可能なのだ。それでも、もし、決してその外を確かめることができないような、ディスプレイの外の実在世界なるものが、想定可能だと思われてしまうのであれば、その人は知らず知らずのうちに、そのディスプレイを外して確かめることができる可能性を(たとえば、神であれば確認できるなどという可能性を)密輸入させてしまっているはずである。しかし、我々は定義として、それを外し得ないものだとして考えているのだから、そのような確認は神でさえすることができないものなのだ。そのような実在を想定可能にする方法は無いのだ。
ディスプレイ映像が世界と独立であることを前提したまま、その外の世界の実在を想定することは不可能なのだ。
「印象」が世界と独立であることを前提にしたまま、世界の実在を想定することは言語的論理的に不可能なのだ。

 

一部だけが独立だとする想定なら「クオリア」は可能か

もしかすると、それでもまだ、次のような反論をされるかもしれない。つまり、「クオリア」のすべてが世界と独立なのではなく、一部だけが独立していて、残りは某かの関係があるとするような想定なら、「クオリア」は可能じゃないかというような反論だ。

しかし、これも、同様の困難によって否定される。
たとえば、色彩以外についての印象は世界と因果関係を持つものだとし、それを世界の情報だと解釈することができるけれども、色彩についての印象だけは「本当の世界」とは独立であり、一切の因果関係がないものとする。
ところが、そのような「世界とは独立の色彩クオリアがある」とか「色彩クオリアとは独立の色彩に関する世界の対象がある」という文が有意味であるためには、その文が真か偽かのいずれかである言葉として設定しなくてはならない。でも、その真偽を確かめる方法は、私にとって「クオリア」というものを根拠にする以外ない。そうであれば、「クオリア」の一部だけが世界と独立だという設定をしたとしても、それが「クオリア」なのであれば、そこで言いたかったはずのことに対して、経験的根拠なしで真偽を決めつける以外に方法がないということになってしまうのだ。

 

「クオリア」が機能を持たないと断じてしまうのは、この世界が培養脳の夢だと断ずるのと同様の、根拠のない無意味な懐疑でしかないのだ。それゆえ、僕には「私には私のクオリアがあることは明らかだ」などという発言が経験的に有意味な事実を語るものであるはずがない、としか考えられない。

いかがだろう。大阪哲学同好会のAさん、納得していただけただろうか。

つづく

クオリア再考

大阪哲学同好会に来ませんか

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コメント

①クオリアは脳の物理的状態に相関している。従って世界の状態と相関している。
②一方で、クオリアはそれによる物理的結果を引き起こさない。

非機能的クオリアを主張する人(②を主張する人)でも、①は否定しないのでは?

コメントはとてもうれしいです。でも、できればハンドルネームで結構ですので、お名前を教えていただけませんか。

①と②の定義から、原理的にそれらは両立できない。だから、非機能的なクオリアという意味でクオリアという語を用いるのなら、その立場が①を認めることはあり得ないはずだと思います。もし、①を認めたいという気がするのなら、その人は知らず知らず、機能的なクオリアを想定していなければならないと思います。

>①と②の定義から、原理的にそれらは両立できない。

なぜでしょう?

そうかん
【相関】
《名・ス自》二つ以上の事物の、一方が変われば他方もそれに連れて変わるとか、あるものの影響を受けてかかわり合っているとかいうように、互いに関係を持つこと。また、そういう関係。

話が通じていないようですね。
「相関」という語がいけなかったのでしょうか?

世界とその写真は相関してるといってもよいですか?
そのことと、その写真が世界に物理的結果を引き起こすかどうかは、独立でしょう?

補足です。

世界とその写真といいましたが、
世界全体の忠実な写真といったややこしいことをいっているわけではなく、
単に、風景とその写真と思えばよいです。

議論を続けたいという気持ちもないわけではないですが、ジョンドゥさんがお相手であることにモチベーションが保てないでいます。

すみません。では、これで最後でOKですが、
「クオリアは機能を持たない」という主張で意図されているのは
普通は下記のようなことと思います。

クオリアあるいはその集合体は、世界の構造を表現している。
しかし、クオリアあるいはその集合体は、物理的な原因となることはない。

そのようなクオリアに関する話でしたら下のページの方が関連が深いかも。
http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/post-8021.html

ありがとうございます。

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