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2016年6月26日 (日)

芸術とは言語と非言語の間隙のことか

息子が芸術系の大学に通っているので学生の展覧会を見る機会があった。
デザイン画もあれば、日本画も陶器もあれば、果てはコインを回す洗濯機まであった。学生の作品とは思えないほどに磨かれて光る作品も結構あるし、残念なものも少なくない。

その様々な作品群の中で、作者の制作意図が全く分からないものもあったが、それはやはり面白い作品だとは思えなかった。たとえば素晴らしい自然の風景写真があったとして、その風景が人を感動される美しさを持つなら、その風景写真はすばらしい芸術だと言えるだろう。しかし、それが作品ではなくて、ただの自然だったとしたらどうか。それは芸術だろうか。そんなことは無い。作者がいない風景は、比喩として自然の芸術と言われることはあるが、比喩でない正当な意味での芸術であるはずがない。芸術とは、誰か作者の意図的な制作に冠される名だからである。つまり、作者の芸術的制作意図が全く無いようなものは、芸術とは言えないのではないだろうか。そして、作者の制作意図が僕には全く分からないような作品も、どこにその芸術性があるのかが全く伝わってこないのだから、少なくとも僕にとってそれは芸術ではない、と言えるだろう。

ところが、逆に、作者の制作意図が分かり過ぎる作品も面白いとは思えなかった。それは単に言葉で伝えられるような内容だけしか伝わって来ず、言葉の意味の内容を超えるような「何か」をそこに感じることができなかったからだ。そして、言葉が持っている意味を超える「何か」が伝わることにこそ、芸術の芸術たる価値があるのではないだろうか。
だから、作者が言語でもって伝えられないような何かをそこに籠め、鑑賞者がそこに言語以上の何かを感じることができるような可能性があるときに、それが或る種の芸術性があることになるのではないだろうか。

ここで、僕が問うている「何か」とは、霊的な何かとか超越的な何かとかそういうものではない。また、僕が「言葉の意味」と言っているのは言語ゲーム上での実践可能性のことである。だから、僕の主張は、次のようなものになる。

言語ゲーム上で実践可能とは言えないような規則をでっち上げて、その規則をたまたま誰かが受け取った場合に、そのでっち上げに「芸術性がある」とすることができるとする。そして、ここで「言語ゲーム上で実践可能」と言うは、「或る実践規則が繰り返され得る可能性がある」ということに他ならない。だから、「芸術性がある」ような何かとは、「制作者側と鑑賞者側が繰り返されることがないような一回きりの規則を共有すること」だと言える。一回きりの規則などという矛盾した表現で表わされるものだから、それが正しい解釈であるかどうかを確かめることはできず、「作者の意図を正確に感じ取れた」などと言うことが原理的にできないような、一回きりの意図の冒険的な受け渡しこそが芸術なのではないか。
或る意味では、すべての言語は言語ゲーム上で一回きりの規則を冒険的に使っているとも言える。しかし、通常の言語使用において我々は、内容の正しさを確かめ得るような規則だとして、言語を使っている。その言語ゲームから外れるか否かのぎりぎりのコミュニケーションの限界、それが「芸術性」というものの大きな意義の1つではないのか。

「分からないのだけど、分かる」、それこそが芸術の本質なのじゃないか。

というようなことを、学生の展覧会を見学しながら思った。

思いつきの言々

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コメント

芸術on言語。
1回きりでも、1往復すれば十分ということですね。

タローさんは、「芸術は爆発だ!」って言ってました。
全てを破壊するのが、爆発なら、確かに、爆発は1回きりですね。

taatooさん、コメントありがとうございます。
一回きりっていうのは、おっしゃるように一往復きりっていう事なのかも知れません。
が、僕の捉え方はちょっと違うかも知れません。て、僕の言ってることなのに自分でもよくわかってないのですよね。

で、僕の思いとしての「一回きり」は、言語は必然的に複数回使用されるものであることが絶対なものであるはずなのに、複数回使用されるものであることを拒否しつつ、なのに言語性も持たなければならない、という逆説こそが、芸術なのかな、って、感じなんです。
これって、taatooさんが言われていることと同じですかね。

以前、師匠の話で、行ったきりでは、言語にならない。行って帰ってこないと言語として完成しないようなことを教わったように思います。

言語化には最低1往復が必要だという自分勝手な理解が残っていただけかもしれません。

ただ、誰も見たことのない最初の1往復ならともかく、途中の1往復なら、複数回目の1往復なわけですしね。

純粋な1往復の難しさこそが、まさに芸術。タローさんの場合は、片道切符かもしれませんが。

言語を言語として意味あるものとして捉えるということは、結局、言語の理解者がそのつどそのつど某かの言語規則をでっち上げて、冒険的にそれが意味あるものだと取り決めてしまうほかないのかもしれません。その意味では、すべての言語は一回きりのものだとも言えます。しかし、通常の言語は、ふつう、その規則が万人が共有できるものであるとされてしまっています。そこで、その言語規則を意図的に不安定にし、通常の言語の欺瞞性を明らかにし、そんな万人が共有できると見えるとする態度が何の根拠も無い宗教的なものでしかないということを明らかにするようなものがあらわれた時、我々はそこに芸術的な、力を感じるのかと思います。

なんて言いながら、自分で何を言っているのか、ということが本当に自分で分かっているのか、疑問なんですが。

久々に横山さんのブログ拝見しました。ディープすぎて僕には少し手応えありすぎて。
しかしこのエントリはとても共感できました。
言語的なコミュニケートが成り立っているというのは相互の意図が正確に伝わっている状態であるとして、それはつまり言語ゲームが成り立っていると言うことでしょう。
しかし、芸術というのはそれが成立する成立条件外で、しかし何かしらのコミニュケートが成り立っている、それは作者と鑑賞者との意思疎通は正確では無いがしかしなりたっているという、その上でしかし成立しているもの、だと改めて思いました。
知り合った頃の横山さんは正確に成立しうる言語行為のみに関心を持たれているような印象がありましたが、今は一回性の言語行為、換言すれば不確定な言語行為にも関心を広げられています。ご子息の影響かなぁと、勝手ながら思いました。

はじ銀さん、コメントありがとうございます。見ていただけてうれしいです。

そうですね。この数年でどんどん考えが様変わりしてしまってます。良い方に変わっていたら良いのですが。
言語の成立というものは、確実性のない冒険であるのだけど、その言葉遣いの規則の確実性が高くて冒険性が低いものが通常の「ことば」で、その確実性が低くて冒険性の高いものが「芸術」ってものだとするような見方もあるかなという、思いつきです。

初コメントです(天丼)。
一回性の規則というお話は、言及されておりませんが、デイヴィドソンの『A Nice Derangement of Epitaphs』に非常に近い考えの様に思います。(一方でデイヴィドソンの思想は、コミュニケーションに関わる各人の頭の中に私秘的な何かを前提として無邪気に想定しているようで、なんだかなぁとは思うのですが。)
また、「一回きり」という言い方は、「本当に全く同じやり取りは2度生じ得ない」こととして捉えるべきではないかと思います。「同じ川に二度入ることはできない(ヘラクレイトス)」とも言いますし、コミュニケーションならば全く同じ事を繰り返した時点で、聞く側は1回目と2回目で明らかに別の体験をするでしょうし(これは単純に初めて聞くこととさっきも聞いたことは同じ印象を与ええない、というだけの話です)。

しかし、現に私たちは同じ言葉を(同じ効果を期待して)何度も使用しますし、同一性というのは我々の世界観の重要な前提です。では、そのような同一性がどこから生じるかというと、それこそが言語(公共的な言語)の機能の本質ではないかと思うのです。
そして、言語は同一性を担保するがゆえにこそ、新しいことを表現するには逸脱する必要があるのでしょう。
ところで、前期ウィトゲンシュタインのいうように、世界が論理/言語に埋め尽くされるなら、このような逸脱した一回的な言語は世界の中には居場所はないのでしょうか。あるいはそのような言葉は何を表現するのでしょうか。
横山さんはそうした芸術の意義は、なお世界内に、あるいは言語ゲームの営み上に属すものだとお考えでしょうか。

ところで、絵画、あるいは詩(うた)のことを「世界の限界を超える」と表現した人がいます。
私はこの、世界を超えた「何か」は何なのかをずっと考えています。もちろんそれは言語で語ることのできないものなので、そういうものが「ある」とすら言えない類のものなのですが。

長々と失礼いたしました。

ケンイチさん、コメントありがとうございます。
記事を読んでもらえて意見をもらえてとても嬉しいです。

>言語は同一性を担保するがゆえにこそ、新しいことを表現するには逸脱する必要があるのでしょう。ところで、前期ウィトゲンシュタインのいうように、世界が論理/言語に埋め尽くされるなら、このような逸脱した一回的な言語は世界の中には居場所はないのでしょうか。あるいはそのような言葉は何を表現するのでしょうか。

僕は、言葉を「論考」の言語システムとして捉えるなら、文の明確な真偽判断の組合せのみが言葉の意味を編み出すものになると考えていますので、そこに既に設定された規則から外れるような「言葉」の入り込む隙はないと思います。
しかし、「言語ゲーム」というシステムとして捉えるなら、規則自体がきちんと設定されていない曖昧なものもその体系に組み込まれ得ますし、逆に完全に規則が確定しているとしてしまうことも許されなくなると思います。なので、全ての言葉は不確定な規則をとりあえず仮設して意味設定を試みるだけの冒険的活動だと考えることもできるようになります。
そのなかで、その規則の確実性が高くて論理的なものから、低くてもはや言語とは言えないようなものまでの様々なグラデーションがあると思います。
その確実性が低いもののなかで、でも発言者と読者の間に不確実であり非論理的でありながら共有できる「何か」があるときに、そこに芸術性を感じることになるような気がしています。
たとえば、「山笑う」という表現は、最初に発言されたときには、その意味するところは論理的に分析されることができないはずなのに何故か伝わるものがあるというものなので「芸術性」に富んでいたはずです。しかし、その言葉が繰返し使われるうちにその使用規則が確定されてきてしまい、論理的に語り得るような意味に貶められてくると、それはもはや「芸術性」に富むものではなくなってしまいました。
その、最初の「山笑う」のように、分析可能になる以前の冒険的表現のなかにこそ芸術性があるかと感じています。

ケンイチさんへの返答に付け足します。
先日の大哲例会でケンイチさんが、ペットボトルとその像との写像関係をどんな像をもってきても像では表すことができないということを、上手いこと説明されていました。
言語で語り得るものは、語ろうとする対象を別の対象と同様の弁別をしたか否かという分析の枠組みに分ける分け方でしかないとも言えると思います。「論考」でウィトが「それが如何なるものかは語れるが何であるかは語れない」と言ったそのことです。でも、言語が言語であるためには、その言語の先端は「現実に到達して」いなくちゃあならない。そこで、或る言葉が何者かに達しているという事実そのものを、表現対象にし得る事実にさせるための冒険そのものとしての表現。それが芸術の一つの大きな意義なのじゃないかと思っています。

哲学には、「趣味の洗練」という側面があり、その面で、科学や宗教より芸術に近いというようなことを、最近永井さんが、つぶやいてました。

「好み」とか「センス」とか、ですかね。確かに、科学と宗教のはざまに芸術や哲学があるような気がしますし、沈黙に向きあう「冒険」(師匠)という意味でも、芸術と哲学は、近いように思います。

taatooさん、
そうですね。芸術とともに哲学も科学と宗教の狭間にあると言えるかもしれませんね。

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