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2016年6月21日 (火)

「見かけの現在」と「遅れてくる意識」<時間と生は非実在か7>

見かけの現在

一般的に、物理的変化というのは、2つの時間点で物理的な状態に何かの差異があることを指す。運動は変化そのものであるし、昨夜の雨が今朝上がっていたら、それは物理変化であり、B系列上でのB的変化である。しかし、マクタガートの説く「変化」(前節でこれを「A的変化」と名付けた)は、2時点の世界のあり方としての2事象が異なっていることを、指すものではなかった。昨夜の雨と今朝上がっているという2事象間の差異は、100万年昔においても100万年後においても、ずっとその差異のまま変わらず維持されるのだから、それは本当の変化ではないというのだ。B系列の時間軸上に事象として記され得るB的変化はそのB系列の時間軸上に固定されているのだから、それは本当の変化ではない。だから、マクタガートが説くA的変化は2時点間の事象の差異とは関係なく、時間軸上に数値化されることはない。
だから、前節で見たように、現在が複数あったり、或いは、現在の移動を量的に示そうとしてA系列を2次元にしたりしたところでダメなのである。現在を複数化してもA系列をどんなに多次元化しても、それが数量的に固定された時間軸上で示され得てしまうものであるなら、その形式の中でA的変化は表されることはないのだ。
そうすると、時間位置を確定し得ることがらの内容を「事象」と呼ぶとすれば、A的変化は事象と事象の関係の変化を示すものでは無いということだ。

ならば、A的変化とは、事象と事象の関係ではなく、事象と主観的な何かとの考えればよいのだろうか。主観的な何かとは、たとえば「見かけの現在specious present」なるものの変化によって示されるものだと考えれば良いのだろうか。「見かけの現在」とは、心理学者E.R.クレイ(E.R.kellyあるいはE.R.Cray)によって導入され、哲学者で心理学者のウィリアム・ジェイムズ(William James1840‐1910)「心理学原理」(1890)によって知られるようになった、主観的な現在の捉え方である。
Jamesウィリアム・ジェイムズ(William James)

これは、客観的で物理的な現在としての「厳密な現在」と、主観的で心理的な「見かけの現在」とを区別したうえで、「厳密な現在」は瞬間であるが、「見かけの現在」は幅を持つとする。ジェイムズは主観的な時間を次の3つに分類する。

1.過去として与えられている「明白な過去」

2.現在として与えられている直近の過去と直近の未来の複合としての「見かけの現在」

3.未来として与えられている「明白な未来」

我々は幅を持つ「鞍」のような現在に座すことによって、「継起的経験」を現在として体験することができることになる、とする。
これに対して、彼が物理的客観的現在であるとする「厳密な現在」は、瞬間であるがゆえに、我々はそれを直接体験することができず、反省のよってあとから知ることができるだけだ、とする。
そして、我々が何かの知覚を感知して「見かけの現在」として認知するまでには短い時間がかかってしまうので、実際に何かを見た瞬間である「厳密な現在」と、それが実際に見える「見かけの時間」には時間差ができる。そして、その「現在」は、今見えている直近の過去としてだけの現在ではなく、その時間差を乗り越え、直近の未来までもを取り込んでくる。だから、「厳密な現在」の前後にあたる直近の過去未来をも取り込んだ幅のある時間帯が現在になるのである――というようなものが、「見かけの現在」である。

120年以上も昔の心理学の話だけれども、現代の脳科学研究にも通じるような、結構「使える学説」であるように僕には思われる。

 

「遅れてくる意識」説

最近の現在の脳科学研究によると、我々の脳の視覚野が事象をとらえるのは視覚情報を受けてから50ミリ秒後だそうだ。ところが聴覚野では12ミリ秒後なのだという。だから、視覚と聴覚はそのまま情報が取り込まれるのだとすると、視界と音声がわずかにずれた映像内容を知覚し続けることになるはずだが、実際にはそんなことは無い。それは脳が視覚と聴覚の情報をまとめて「同時」のものだと知覚するように再構成してそれを我々に「意識」させているからなのだそうだ。そして、そのような再構成をするための時間が結構かかってしまうので、我々が知覚を意識することができるのは、実際に知覚情報を得てから500ミリ秒以上後だとする研究もある。そして、たとえば、ベンジャミン・リベットの「運動準備電位実験1980年代」によると、意識は自己決定よりも遅れてやって来ると言う。知覚を意識するまでにいちいち0.5秒もかかってしまうのなら、バッターは絶対に振り遅れるだろうし、歌手は8ビートのリズムに乗って歌うことなど絶対にできないはずではないか、という疑問が起こってくるのだが、我々の脳は、なんと我々が意識する前に身体に運動命令を出してしまっているというのだ。だから、0.5秒後にボールがストライクだったという情報が意識されて、それからバットを振り始めようと意識してそれからバットが振られるわけではなく、0.5秒後にストライクだったという情報が意識されたときにはもう脳はバットを振れという命令を出し終わっていて、我々の自分が意識してバットを振ったという「意識」自体をも、その0.5秒後に意識することになるので、振り遅れないでバットが振れるというのだ。歌手は歌おうと自分が意識する前に脳が歌ってしまっているのを、後から意識することになるので、音楽のリズムを意識できるのが0.5秒遅れていたとしても、自分の歌声をそのリズムから遅らせないで歌えるのだ。だから、そのような意味で、「我々の現在は0.5秒後である」という言い方ができるかもしれないし、「我々の現在は0.5秒前である」という言い方ができるかもしれない。この点で、この新しい脳科学の時間意識の説では、意識できる「現在」が物理的で単純な「厳密な現在」だけではないと考えることになり、「見かけの現在」とよく似た現在観を持つことになる。

ただし、厳密に言えば、最近の脳科学によって捉えられる「現在」はあくまで客観的なものであるのに対し、「見かけの現在」は主観的なものであって、まったく別のものである。それでも、この脳科学との整合性によって、この「見かけの現在」は、かなり説得力のある現在を示唆するものだと考えられるものになるだろう。

しかし、それでも、マクタガートはA系列の変化がこの「見かけの現在」によるだとすることはできないとする。

「「見かけの現在」は状況によってその持続する長さが異なるし、それは、同時刻の2人の人にとってでも違う。事象Mは、XのQに関する知覚とYのRに関する知覚と同時にあるかもしれない。或る確定した瞬間に、QはXの見かけの現在の一部に収められ終えてしまうかもしれない。したがって、その瞬間にMは過去になるだろう。しかし、その同じ瞬間にRはまだYの見かけの現在の一部であるままかもしれない。だから、それゆえ、過去であるとされたその同じ瞬間に、Mは現在になるだろう。…これは不可能だ。確かにA系列が何か純粋に主観的なものだったのなら、何の困難もないだろう。我々は、ちょうど、Xにとっては喜びだったがYによっては苦痛だったと言えるように、MがXにとっては過去だったがYとっては現在だったとも言える。」(マクタガート「時間の非実在性」第65・66節)

「見かけの現在」は、個人個人によって長さが違い、或る事象を過去とするか現在とするかも異なってしまうものだから、それは究極の事実ではあり得ない。しかし、A系列は究極の事実だから、「見かけの現在」はA系列の変化を生む何かではない、ということだ。

でも、その長さが個人によって異なるからという理由で、究極の時間の変化の起源を「見かけの現在」に求めてはならないと言うのであれば、その長さが常に0である「厳密な現在」の方にその起源を求めれば良いのではないだろうか。
ところが、これはうまくいかないのだ。「厳密な現在」は「見かけの現在」から得られた情報をもとにして、あとから反省的に振り返って知ることができたとするものなのだから、どうしてもそれは客観的な現在として捉えられるものになるはずだ。それゆえ、この「厳密な現在」はB系列上に固定され得てしまうものになってしまうのだ。

だから、結局、A的変化を生み出す「何か」は、主観的なものでも、客観的なものでもダメだということになる。

この結論によって、A的変化が主観的にも客観的にも生み出され得ないという論点だけを根拠にして、マクタガートは時間の実在を否定した、というように「時間の非実在性」を読むことも可能だと思う。しかし、僕は、「時間の非実在性」論文中の「the present(ザ・現在)」なる言葉が、マクタガートがその問題をさらに乗り越えてしまうような現在性を問うために用いられている、と読んでいる。入不二基義も、この「主観と客観を乗り越えたところにある現在性」をマクタガートはさらに考えようとしていたはずだとして、次のように言う。

「なぜ『現実性』は、主観的な知覚体験の質に還元できなかったのか?それは『まさに今現実化している』という現実性は、主観的な知覚体験から導かれるものではなく、知覚体験に対してあらかじめ加えておくしかない前提のようなものだからである…この『まさに今現実化している』という現実性こそが、『客観的なものとしての実在』と『主観的な時間』という枠組みからはみ出してしまう…」(入不二基義「時間は実在するか」p165)

そして、そのような現在性のある現在のことを「現実性としての現在(この今)(「この」の部分に傍点)」と名付けている。僕はこのこの今」「the present」に当たるものに違いないと考えている。(それゆえ、「この今」に寄せながら、非同一の可能性があることを含ませるために「the present」=「この今現在」と訳すことにした。)

さて、それでは、この「the presentこの今現在」は何者なのか。これが、A系列を生むような「何か」なのか。これについて、次節で考える。

つづく

時間と生は非実在か

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