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2016年6月12日 (日)

マクタガートの「A的変化」を問う<時間と生は非実在か6>

マクタガートが「変化にはA系列が必要」と言った意味を考える。

「事象が事象でなくなることはできない。それはかつて存在してきたいかなる時系列からも抜け出すことはできないのだ。 NがOより以前でMより以後であった場合、その以前か以後かの関係は永久のものであるがゆえに、今後いつでもOより以前でMより以後であり続けるし、これまでもそうであったのだ。」(マクタガート「時間の非実在性」第13節)
「それとも、単に事象Mが終了して事象Nが始まり、MがNになるということを言うためには、ある特定の同一性を維持させておくような何らかの不変の要素によって、Mがそれ自身をNに併合させる、とでも言うべきなのだろうか。しかし、そうしたとしても、依然困難が起こる。MがNに併合するならそこでは、MとNは共通の要素を有し得るはずだが、それなら、それらは同じ事象であるか、まったく変化がないかのいずれかであることになってしまうはずだからだ。したがって、もし、Mが或る瞬間にNに変化したのであれば、MはMであることを止めたりNがNになり始めたりするはずだ。しかし、我々は、或る事象がB系列の中でのそれ自身としての1つの位置を持ち得なくなってしまうがゆえに、それが在ることを止めたり始めたりするなんてことは無いということを見てきた。だから、1つの事象が他の事象に成り替わるということはあり得ない。」(同14節)
「変化が、絶対時間の数値が異なる2つの瞬間において見つけられることも、そのような瞬間があると想定されることも、あり得ない。…B系列は、それがなくなったり別の瞬間に成り替わったりするような瞬間があり得ないということを、永久に示すのだ。」(同15節)

或る事象が事象でなくならなければ、変化はあり得ない。しかし、事象が事象でなくなることはありえない。それゆえ、B系列だけでは変化を成立させることはできない、とマクタガートは主張する。
「2時点の2事象が異なっていれば、それは変化したと言えるか」という問題について、マクタガートは、それだけでは変化とは言えない、とする。マクタガートは、「変化」とは何かが何かに「成る」ことだと考えている。つまり、何かが別のものに成り替わるのだが、そのときに、2時点の事象が同一性を保ちながら互いに異なった状態である、というものでなければならない。けれども、その「同一性が保たれる」というのが「同一の要素を維持している」という意味であるならば、事象MとNは共通の要素を有しているはずだが、そうであるなら、その同一要素のみには異なった部分が無いことになってしまう。そして、その共通の要素以外の部分については、MがMでなくなり、NがNであり始めたりしなくてはいけない。しかし、それでは、MがNに「成った」と言うことはできない。だから、そもそも、B系列だけでは事象が他の事象に成り替わることなどあり得ない、と言うのだ。

それでは、変化が起こり得るためには何が必要なのか。
「さて、変化できたり、その事象を同じ事象のまま残しておけたりするような事象には、どんな特性があるのだろうか。…私には、そのような特性の種類はたった1つしかないように思われる。――すなわち、A系列の述語〔現在・過去・未来〕による問いの中で事象が決定されているということである。」(同17節)

マクタガートは変化に必要なのはA系列の現在過去未来に分析する視点だと言う。そしてその上で、マクタガートは、これに対する仮想反論を挙げる。

「1つめ〔の反論〕は、これらの時系列〔A系列〕が、実在するものではないのに、誤って存在すると信じられていたり、存在するものとして思い描かれていたりする、とするものである。たとえば、ドン・キホーテの冒険である。この系列はA系列ではないと言われる。私はこの瞬間を過去・現在あるいは未来のうちのどれだと判定することができない。それどころか、私はそれが3つのいずれでもないことを知っている。反対に、この系列は確かにB系列だと言われる。ガレー船の奴隷の冒険が、たとえば、風車小屋の冒険より後だということだ。そして、B系列は時間を伴っている。その結論として導かれることは、A系列は時間に必須ではないということだ。」(同36節)

フィクションの中で、例えば「ドン・キホーテ」のお話の中でも世界は刻々と変化するではないか。そして、そこにはB系列しかない。ということは、フィクションの中でその登場人物は、A系列なしでも、十分に変化を感じることができということだ。だから、変化にA系列が必要だとは限らないはずじゃないか。しかし、マクタガートは次のように言う。

「この反論に対して私が考えている回答は次の通り。時間は存在するものだけに属する、ということだ。もし何かの実在が時間の中にあるのなら、それは当の実在が存在するということを伴っているはずだ。」(同37節)

フィクションの中にあるのは疑似時間でしかなく、本当の時間ではない。だから、フィクション中にA系列がないのは当然だと言うのだ。
と、そういうふうに考えて、マクタガートは変化にはA系列が必要だと結論づける。

うーん。どうだろう。どういうことをマクタガートは言いたいのだろうか。
変化が変化であるためにA系列が必要だということだが、マクタガートが考えているA系列ってのは、本当は何を指そうとしたものだろうか。そして、マクタガートがB系列では語れない、その変化ってのはいかなる変化なのだろうか。
その2点(「A系列とは何か」と「マクタガートの言う変化とは何か」)にこだわって、考えてみよう。

まず、「変化」を2種に分類しよう。
B系列上の2時点が異なっていることだけをもって、そこに変化が起こっているとする言い方も確かにあるはずだ。一般的な物理学では、A系列などなくてもB系列だけで「変化している」とすることができるし、普通そのような語の使い方しかしない。そこで、そのようなB系列の2時点の差異があることを、「B的変化」と呼ぶことにする。
一方、B系列の2時点の差異だけでは表せないような、何かが何かに「成り替わる」こととしての、本質的な変化を「A的変化」と呼ぼう。※

       
 

A的変化

 
 

B系列の2時点の差異だけでは表せないような、何かが何かに「成り替わる」こととしての、本質的な変化。

 
 

B的変化

 
 

B系列の2時点の差異があること

 

※この「A的変化」「B的変化」という言葉は、マクタガートの言葉ではない。横山が思索するために勝手に考えた言葉だ。使用する場合は注意してほしい。

一般的に物理学では「B的変化」のみを扱う。たとえば、時刻によって対象の物体に位置が異なっていたとすれば、それは運動しているのだし、位置が「変化」していることになるのだ。グラフで表すとこうなる。(図1)

1_2(図1)

この場合は単位時間ごとに1単位距離進む等速度運動をしている状態である。
これで物理的には十分に変化しているので、「B的変化」はある。しかし、ここには「A的変化」はない。それぞれの時点t0、t1、t2それぞれでの位置は0、1、2が決まっていてこのこと自体は何年たっても変化しない。これが変化するのが「A的変化」なのだ。そして、マクタガートはこのA的変化こそが時間にとって必要不可欠の変化だとする。
では、このグラフに「A的変化」を書き込むにはどうすればいいのだろうか。

まず、A系列はB系列とは別の次元だと考えて、時間を2次元にしてみようか。A系列をB系列に直行する次元にしてグラフにしてみるとこうなるのだろうか。(図2)

2(図2)

(x軸は3次元方向にあるのだけど、ここでは省略して2次元の時間だけを記したと考えてほしい。)

こうすると確かにB系列だけでは表せなかった現在がこの時点でt1にあることが表現できている。しかし、ダメだ。これでは。現在が常にt1であり、t0は常に過去であり、t2は常に未来になって固定されてしまう。マクタガートが考えたような「どの事象も現在であり過去であり未来である」という状況は表されていないものでしかない。
ならば、こう書いてみようか。(図3)

3(図3)

どうしたかと言うと、たくさんの現在を並べてみたわけだ。
こうすると確かに、「(t、x)=(t1、1)」の事象は「現在4において未来」であり「現在5において現在」であり「現在6において過去である」というA系列の不思議を表現できるようになる。でも、これでは複数の現在が同時にあることになってしまいそうだ。
じゃあこうしてみようか。(図4)

4(図4)

どうしたかと言うと、たくさんの現在を別の次元にしてみたわけだ。A系列を2次元にし、B系列と合わせて3次元を使って、時間軸だけを示したのだ。こうすると確かに複数の現在が同時にあるのではなく、かつ、(t1、1)の事象が「現在であり過去であり未来である」というA系列の不可思議も表現できる。

ああ、でも、これでもダメなのだ。
これでは、(t1、1)事象が「現在4において未来」であることが固定されてしまうことになる。そして、「A的変化」に必要な「固定化されない連続性」が失われてしまう。
このことは、マクタガートがブラッドリの論に対する反論として否定した内容に対応していると思われるので、挙げておこう。

「2つめの反論は、ブラッドリ氏によって論じられた、独立した複数の系列が実際に(in reality)あるかもしれないという可能性に基づくものである。ブラッドリ氏によれば、本当に、時間とは見かけだけの存在なのだ。実在の時間はまったく存在などせず、したがって、実在の時系列などというものは存在しない。しかし、その仮説は、なんと、〔多世界に重なり合うように〕実在しかつ独立して存在する複数個の時系列が実際にあるはずだとする。その反論は、想像するに、時系列はすべて実在するが、過去と現在と未来との区分は単にそれぞれの系列の中で意味を持つに過ぎない。したがって、究極の実在として受け止められるものはあり得ない。たとえば、たくさんの現在だ。さて、もちろん、時間内の多くの時点は現在であり得る。(どの時系列の中のどの時点も、ただ一度、現在になる。)しかし、それらは順番に連続して並んでいなければならない。そして、異なる系列での現在は、同一の時間の中にないのだから、連続していないだろう。(その同一の時間の中で存在することを同じように必要としているのだから、それら〔の複数の現在〕は同時にあるのではないだろう。〔そこに〕時間の関係などというものは、ないのだ。)そして、それぞれ異なる複数の現在は、それらが連続しているものでない限り、実在であることはできない。だから、その実在する、異なった時系列は、過去・現在・未来の区分とは無関係に存在できるものでなければならない。」(同41・42節)

A的変化とは「固定化されない連続性」であったが、物理学的な考察で使えるような固定したグラフでは、この「固定化されない連続性」は決して表すことはできないのだ。だから、結局、A的変化をこのようなグラフに表すことは不可能なのだ。A的変化とは、現在が固定されない連続性をもって変化していくような変化であり、それは、つまり、生きている主体の視点として変化していくような変化なのである。A的変化とはB系列の2時点の差異だけでは表せないような、何かが何かに「成り替わる」こととしての、本質的な変化であった。その、何かが何かに「成り替わる」こととは、固定的でない何かの変化であり、それは私が生きているという矛盾によって生まれ出ずる変化なのだろう。これについて、マクタガートは次のように言う。

「A系列を形成する関係は、このとき、各事象や各瞬間と、それ自身が時系列の中にはない何かとの関係でなければならない。この何かが何であるかを言うのは困難であるかもしれない。しかし、この点を回避するならばさらに明白な困難が現れる。」(同49節)

こうして「変化」を考えてくると、それは「A系列の意味」と「私が生きる意味」とに関わってくる問いになってきそうである。A系列のことを前節までに「現在性」と「変化性」と「向き」の合わさったものであると分析したが、この問いを考えていくと、A系列には「変化性」と「向き」だけでなく「現在性」が絶対必要なものであると、マクタガートが考えた理由が見えてくるように思われる。
しかし、その点については次節で考えたい。

つづく

時間と生は非実在か

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