フォト
無料ブログはココログ

« A系列の矛盾が状況依存表現によって解消されないわけ<時間と生は非実在か4> | トップページ | マクタガートの「A的変化」を問う<時間と生は非実在か6> »

2016年6月 5日 (日)

無変化の世界で時間は成立し得るか<時間と生は非実在か5>

A系列はB系列とともに時間にとって本質的(essential)なものだとマクタガートは言う。(本質的とは、ここではA系列が失われれば時間も失われてしまうという意味。)それゆえ、A系列が実在しないことを証明することによって、時間が実在しないことが証明できるのだとする。そこで、A系列が時間の本質だということによって、マクタガートは何を示そうとしたのか、そして、そのA系列とは何者なのかを考えてみよう。

マクタガートが挙げるA系列が時間の本質であるわけはこうである。
「A系列がなければ変化はないだろう。そして、時間は変化を伴うもののはずだから、したがって、B系列はそれ自身だけでは時間にとって十分ではない。」(マクタガート「時間の非実在性」第21節)

(1)時間は変化が伴わなければならない。
(2)A系列がなければ変化がない。
(3)ゆえに、A系列がなければ時間はない。
ということだ。で、今日の思索検討のお題はこの(1)について、「時間が変化を必要とするのはなぜか」を考える。

マクタガートは、時間が変化を必要とする理由について、変化がない宇宙は時間がない宇宙だからだ、としている。
「時間が止まる」ということについて、それがどーゆーことか、という話を以前、「独今論の「今」は0秒間か」のページで考えた。映画やアニメで出てくる「時間が止まる」は、動いている主人公に対して、それ以外の物質や人物たちが静止していて、しかし、その静止状態を光学的に観察できるように、光は伝搬している、という状態を指していることが多い。しかし、これは、本来の「時間が止まる」であるはずがない。本当に、すべての時間が止まってすべての変化が無くなってしまったならば、その止まっていることに気づくべき主体も止まってしまうのだから、その世界は成立することさえ難しくなるはずだ。
だからこそ、世界の成立には変化が必要であり、その変化こそを時間の本質だと考えなくてはならないのだ。
このことについて、マクタガートは次のように示している。

「時間が変化を伴うということは、普遍的に認められるだろう。確かに、或る特定の事柄が任意の時間ずっと変化しないで存在し続けるということは起こり得る。しかし、我々は、異なる瞬間があると述べることによって何を意味しようとしているのかを問うとき、或いは、ものが同一であることを通して、時間が確かに続いていると述べることによって何を意味しようとしているのかを問うとき、それは、他のものが変化していった中で同じものが存続したことを意味しているものだ、ということが分かる。宇宙に何一つ変化が無い(その中に生じる人の意識の思考も含めて変化しない)としたら、それは時間が無い宇宙なのだ。」(同10節)

宇宙のすべてが静止し、変化を持たないならば、そこは必然的に時間がない宇宙になってしまうのだ。だから、時間は必ず変化を要するというのだ。

ただし、「無変化」がすなわち「無時間」そのものと言えるかというと、それは微妙な話なのだ。シューメーカー(1931-)は次のようなおとぎ話をして、必ずしも「無変化⇔無時間」ではないことを指摘する。

ShoemakerSidney Shoemaker

世界はA・B・Cの3地域に分かれている。普段、住民はそれぞれに地域間を行き来できるし、観察しあえる。ところが、これらの地域では、地域ごとに「局所的凍結(local freeze)」という現象が起こる。局所的凍結が起こると、3地域のうちの1つで、すべての過程が完全に停止し、何も動かず、成長したり滅びたりすることも、一切なくなる。凍結の地域に入ることもできるが入った途端それは凍結してしまう。凍結すると1年間停止する。玉子はフレッシュなまま、ビールは泡立ったまま、話をしている人は文の途中を話している瞬間のまま、凍結することになる。そして、1年たって凍結が解けると、その中断していた話は、再び始まることになる。しかし、その話をしている人も、それを聞いている人も、中断に気づかない。そして、この局所的凍結は、A地域では3年ごとに起こる。B地域では4年ごとに、C地域では5年ごとに、定期的に起こる。だから、A地域とB地域は12年ごとに同じ時期に凍結することになる。AとCは15年ごとに、BとCは20年ごとに同時期に凍結する。そして、A・B・Cの3地域は60年ごとに同時期に凍結することになる。この60年ごとの年に、A・B・Cは同時に静止する。(シューメーカー「変化のない時間Time Without Change(1969)」(The Journal of Philosophy Vol.66 p369~)より、意訳の上抜粋)

――と、このような想定を考えれば、宇宙全体が無変化のままの時間経過というものも、一概にナンセンスだとできるとは限らないことになってくる。
凍結している間、すべてが静止するのだから、その内部情報が外部に出ることは無い、光さえ出られないはずである。完全なブラックボックスではあるが、その凍結の前後の状況から、当該の1年間は完全に静止していたことを正当に推測できる。また、その凍結地域の内部に観測者がいる場合も、その凍結を直接観察してそれに気づくことはできないが、他地域がその「瞬間」に丸々1年間経過してしまうことから、自分の地域が停止していたことが分かる。そしてその3地域の凍結時期がめぐってくる周期にずれがあるために、「3地域共に凍結しながら時間経過しているという状況」が実際に起こっているということが、経験的事実として、正当に推論できるのだ。世界のすべてにおいて、すべての変化がなくなり、「何の変化もない1年間が経過する」と分かることになるのだ。

では、「宇宙全体が無変化なままの時間経過ということが起こり得る」ということから、世界の成立に時間は不要だと言えるのだろうか。しかし、やはり、そんなことがあるわけが無い。シューメーカーの例では所詮その凍結が「局所的」であるから言えることであって、初めから終わりまで(時間に「初め」と「終わり」があればの話だが)、凍結している世界があったとしたらどうだろう。それを検討すれば、その世界に「時間の経過」があるとすることに意味があるはずがないことがはっきりするだろう。シューメーカーの言うように、確かに「局所的な無変化」は必ずしも無時間ではなく、一時期に限った話であれば「全世界が無変化であるままの時間経過」は有意味な話になり得ると考えられる。しかし、「時期を区切らずすべての期間において、いつでも、無変化の時間経過があり得るか」と言えば、そんなことは不可能である。そういう意味では、やはり、マクタガートが言うように、時間は変化を必要とすると言うことはできる。
「無変化の世界でも、部分的な時間経過はあり得る」とは言える。しかし、無変化の世界で時間そのものが成立することはあり得ないのだ。その意味で「変化」は時間にとって本質的であると、はっきりと断言できるのだ。

ただし、ここで確認しておかねばならないことが2点ある。
1点は、その「変化を必要とする時間」とは、まだ時間が設定されていないところから時間を設定する段階において、時間を立ち上げるために、変化が必要だとすることである。この視点においては、シューメーカーの批判は批判になるものではなく、必然的に確実な内容だと言える。
しかし、2点目として、その変化とは、2時点の2事象が異なっているという意味での変化であるということが、明らかである。
この2つめのポイントは、実はマクタガートの証明に関して致命的な傷になっている。
(1)時間は変化が伴わなければならない。
(2)A系列がなければ変化がない。
(3)ゆえに、A系列がなければ時間はない。
の(1)で問うている「変化」は、2時点間の事象が互いに異なっているという意味での「変化」だが、(2)で問うている「変化」は、2時点間の事象の異なりを意味するものではない。だから、この証明が成立しないと言えてしまうからである。

この問題については、(2)の問いとともに、次節で考える。

つづく

時間と生は非実在か

大阪哲学同好会に来ませんか

« A系列の矛盾が状況依存表現によって解消されないわけ<時間と生は非実在か4> | トップページ | マクタガートの「A的変化」を問う<時間と生は非実在か6> »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/63733456

この記事へのトラックバック一覧です: 無変化の世界で時間は成立し得るか<時間と生は非実在か5>:

« A系列の矛盾が状況依存表現によって解消されないわけ<時間と生は非実在か4> | トップページ | マクタガートの「A的変化」を問う<時間と生は非実在か6> »