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2016年5月25日 (水)

A系列の矛盾が状況依存表現によって解消されないわけ<時間と生は非実在か4>

前節からA系列の矛盾を考えている。現在・過去・未来が両立不可能な述語であるのに、いかなる事象も現在・過去・未来のどの特性も持つというパラドクスだ。このパラドクスに対して、次のような当然の反論が出てくる。「そりゃ、どの事象も、『過去になるだろう』であり『現在である』であり『未来だった』である、とは言えるだろうが、それは、『だろう』『である』『だった』という時制の助動詞を付けて初めて両立していると言えるようになっているのだから、『その3つの特性がそのままで両立する』という判断ができるわけではない」という反論だ。マクタガートがこの反論を悪循環だと批判したことを前節で見たが、マクタガートはこの反論が無限後退に陥ってしまうというパターンも検討している。今日は、この無限後退のパターンの批判を検討する。

「事象Mが現在であり、未来であったものであり、過去になるだろうものであると言って、3つの特性の両立不可能を回避しようとするなら、我々は第2のA系列を構築していることになる。それは、1つめのA系列に則って事象が規定されるのと同じやり方で、1つめのA系列の既定の上に構築されるのだ。しかし、時間の中の時間という言い方が明瞭な意味を持ち得るかどうかは疑わしい。その上、いかなる場合でも、第2のA系列は第1と同じ困難に悩まされることになる。つまり、その困難とは、第3のA系列の内部に置かれることによってその困難が取り除かれるだけのものだということだ。この同じ原理は、第3を置くのに第4を使うことになり、後は、終わりなくどこまでも続く。あなたは決してこの矛盾を取り除くことができない。それが何であるかを説明することから逃れようとする行為によって、その説明の中にもう一度、その矛盾を作り出して、結局その説明を無効にしてしまうのだ。」(「時間の非実在」第55節)

この批判自体も、どうも、すっきりした批判ではないように、僕には思えた。だって、そんな批判で当該の反論を退けられるのだったら、「ここ」と「そこ」と「向こう」という場所の3特性だって矛盾すると言えてしまうようなものでしかないことになってしまうじゃないか。そんな批判で退けられるのだったら、「私」「あなた」「彼」という人称の3特性だって矛盾すると言えてしまうことになるじゃないか。でも、このマクタガートの批判をそんなふうに評価してしまったら、マクタガートの批判を正しく理解できていないと言って、ダメットはマクタガートを擁護する。

「『過去』『現在』『未来』を『第1レベルの述語』と呼ぶことにしよう。もし、マクタガートが示唆するように『未来であった』を『過去において未来』、……等々、と書くことにすれば、われわれは第2レベルの述語を9個もつことになる。

Genzai1

同様にして、第3レベルの述語が27個存在する。

Genzai2

以下同様である。ところが、どのレベルにおいても3つの述語

Genzai3

は、第1のレベルの『過去』『現在』『未来』に等値である。それゆえ、もし第1レベルの述語に結びついた矛盾が存在するとすれば、その矛盾はレベルの階段を昇ることによっては除去されない。」(ダメット「マクタガートの時間の非実在証明を擁護して」より)

つまり、レベルをどんどん増やしていったとしても、もともとの第1レベルで矛盾していたら、レベルの階段を昇っても矛盾するし、もともとの第1レベルで矛盾していなかったら、階段を昇っても矛盾していないのだ。そして、「過去」「現在」「未来」はもともと第1レベルで矛盾を孕んでいるが、「ここ」「そこ」「向こう」や「私」「あなた」「彼」は矛盾を抱えているものではないのであって、その第1レベルの矛盾こそが問題だというわけだ。

では、第1レベルで、どんな矛盾があるというのだろうか。それは、こうゆーものだ。

現実の現在をきちんと詳細に示すとすれば、「この今現在は2016年5月25日(水)22:15:34であるし、この今現在は2016年5月25日(水)22:16:02であるし、この今現在は2016年5月25日(水)22:16:26である」と言える。これは、現実的にこれ以上ないほど誠実で正確な情報である。そして、このことは「2016年5月25日(水)22:16:02」という時刻がこの正確な命題において「28秒後の未来であり、かつ、現在であり、かつ、24秒前の過去である」と言えるものであることを示している。つまり、1つの事象や1つの時刻が未来であり、現在であり、過去であるということは、現実に確かめられる事実なのだ。そして、現実に確かめられるだけでなく、それは常にあり続ける普遍的な事実なのだ。

時間について必ず言えるこの「両立不可能な複数の述語の両立性」は、しかし、場所や人称については必ず言えるものではない。

現実に、ここは、「このここ、北緯35度67分59秒72、東経139度74分48秒34」であってそれ以外ではない。仮に僕が移動して別の場所から見るという設定をすると、その「このここ、北緯35度67分59秒72、東経139度74分48秒34」は「ここ」ではなく、「そこ」や「100m先」になることは可能である。しかし、それは、そのように見ることを可能だというだけで、現実にその「このここ」が「そこ」や「100m先」ではない。だから、「1つの地点が『ここ』であり『そこ』であり『向こう』である」ということは、現実の事実だとは限らないし、だからもちろん、それは、常に普遍的にそのようにあり続けるというものではあり得ない。

現実に、僕は「この私、横山信幸」であって、「横山裕」やそれ以外ではない。仮に「誰かから見ると」という視点で語るとしたら、その「横山信幸」は「私」ではなくて、「あなた」や「彼」と呼ばれることは可能である。しかし、それはそのような話し方も可能だというだけの話でしかない。この今の瞬間、「私」は決して現実の(アクトゥアルな)「あなた」や「彼」ではない。横山信幸という主体が「あなた」や「彼」として存在しているという事実は、決して普遍的なものではない。だから、「特定の個人が『私』であり『あなた』であり『彼』である」ということは、必然的に現実の事実であるわけではないし、それが常に普遍的にそのようにあり続けるということもあり得ない。

この点に、時間と、場所や人称における状況依存的表現には、明確な違いがある。この違いによって、「現在」「過去」「未来」は第1レベルですでに矛盾を孕むことになるのだけれども、それは場所や人称には当てはまらないのだ。
だから、場所や人称についての述語「ここ」「そこ」「向こう」や「私」「あなた」「彼」が両立不可能な述語でありながら、どの場所やどの人についてもそれらの3つの語が当てはまるから矛盾している、という証明に対して、それが、状況依存的表現によって語られているからそれは矛盾ではないとすれば、その方法で、その証明の間違いを明らかにすることができるのである。そして、時間についてはその方法ではその証明の間違いを正すことはできないのだ。

語られる事象はいかなる事象も、現実に、常に、普遍的に、「過去であり、かつ、現在であり、かつ、未来である」としてしまう主体によって語られる以外には存在し得ないという事実がいつもあるのだから、「A系列」は必然的に第1のレベルですでに矛盾している、というのがマクタガートの言い分なのである。
ダメットが次のように言ったのは、まさにそのことを指しているのだと、僕は考えている。

「時間の中で生じるものとしての事件の描写は、時間的に状況依存的な表現がその描写に入り込まないかぎり、つまり、その描写が時間の中に存在するところの誰かによって与えられるのではないかぎり、不可能である――これがマクタガートの言い分なのである。」(同)

以上を、マクタガートの証明の第3ステップ「A系列は矛盾している」にかんする検討としたい。

次節では、第2ステップに戻って、A系列が時間には不可欠なわけを考えたい。

つづく

時間と生は非実在か

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