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2016年5月23日 (月)

A系列が矛盾するわけ<時間と生は非実在か3>

A系列の矛盾証明

マクタガートによる時間の非実在証明の第1ステップとして、A・B・C、3つの時系列の分類をした。次のステップは、時間にはA系列が不可欠であることを示すことであった。だから、本来の順序では、本節はこの第2ステップを検すべきところなのではあるが、先に、その次の第3ステップを検討してしまおうと思う。
というのは、第3ステップではA系列の矛盾を証明するのだが、その証明の中で、マクタガートがA系列をどう捉えようとしていたのかが、明らかになってくるように僕には思われるのだ。だから、先にそれを見てから、第2ステップを検討するようにすることで、A系列の正体をより鮮明に考えられるようになるのではないか、と狙っているわけだ。

とゆーわけで、本節は、第3ステップA系列の矛盾証明を検討する。

その証明の概略はこうだ。

(1)現在・過去・未来は両立不可能である。

(2)いかなる事象も、現在・過去・未来のすべての特性を併せ持つ。

(3)ゆえに現在・過去・未来の系列であるA系列は矛盾する。

いちおう証明の構成の詳細も挙げておこう。次のようになっている。

1)A系列という述語は事象についての述語である。

2)事象は、現在か過去か未来かのいずれかの事象である。

3)特質は関係的なものか質的なものかのいずれかである。

4)1・3より、だから、A系列は、事象の関係の系列か、事象の質の系列かである。

5)以下、13まで、A系列が関係の系列であると仮定する。

6)事象と事象の関係や、各瞬間と各瞬間の関係は変化しない。

7)しかし、A系列は変化の系列である。

8)6・7より、だから、A系列の関係は、各事象同士や各瞬間同士の関係ではなく、事象と事象以外の何か(過去・現在・未来)との関係である。

9)事象が過去・現在・未来の特性の複数を両立して持てるならば、時間は因果関係を有さない。

10)しかし、A系列とC系列を併用すれば、因果関係のある時間が構成できる。

11)9・10より、だから、過去・現在・未来は、両立不可能である。

12)いかなる事象も、過去・現在・未来のすべての特性を持つ。

13)11・12より、ゆえに、A系列が関係の系列であれば、過去・現在・未来は矛盾し、A系列は矛盾する。

14)一方、事象Mの予期、Mの経験自体、Mの記憶という異なる質を持った3つの状態は、異なる3つの事象であり、未来のMでも、現在のMでも、過去のMでもない。

15)だから、Mの予期、Mの経験自体、Mの記憶におけるMはそれぞれ順に、未来・現在・過去にあるだけで、質が変化しているとは言えない。

16)したがって、A系列は質的なものの系列ではあり得ない。

17)4・13・16より、A系列は矛盾する。

証明終わり■

どう考えても、この証明の中心は、「(11)過去・現在・未来は、両立不可能である。(12)いかなる事象も、過去・現在・未来のすべての特性を持つ。」の部分だろう。

 

現在・過去・未来が両立不可能なわけ

現在・過去・未来が両立不可能でなければならなかったのはなぜなのだろう。まず、もしこの過去・現在・未来が両立可能であったらどう具合が悪いのか、を考えてみよう。
この点について、マクタガートは次のように言っている。

「過去・現在そして未来は、互いに両立しない規定である。いかなる事象も、その〔過去・現在・未来の〕うちの1つか他のどれかでなければならず、どの事象も1つより多くなり得ることはない。このことは、それらの述語の意味の本質である。そして、もし、そのようになっていなかったならば〔事象が過去・現在・未来のうちの複数が両立できたならば〕、A系列はC系列と併用されることによって、時間の〔因果関係における〕結果を我々に与えるには不十分であったろう。我々の見るところでは、そのとき、時間は変化を伴うのだが、未来から現在へや現在から過去への変化まで得ることになってしまうのである。」(「時間の非実在」第50節)

現在・過去・未来が両立可能であるのなら、3分前が過去でありながら現在でもあってさらに同時に未来でもあり得ることになったり、この今が過去でありながら現在でもあってさらに同時に未来でもあり得ることになったりしてしまう。
ということは、「3分前のやきそばUFOにお湯を入れた」という事象が未来で、「いま食べている」という事象が過去だということも許されることになってしまう。つまり、「UFOを食べてから、そのあとでお湯を入れる」という言い方が許されることになってしまうのだ。そんなことが許されては、言語でもって因果関係を語ることができなくなってしまい、世界を時間的な存在として捉えるということの意義がなくなってしまう。
だから、現在・過去・未来が両立することは、決して、許されないのだ。

 

現在・過去・未来が両立しないとダメなわけ

では、その、現在・過去・未来が、逆に、「両立できねばならない」ってのは、どういうことなのだろうか。
マクタガートは、次のように言う。
「いかなる事象もそのすべてを持つ。もし事象Mが過去であれば、それは現在と未来だった。もしそれが未来であれば、それは現在と過去になるだろう。もしそれが現在であれば、それは未来だったし、過去になるだろう。したがって、その両立しない3つの述語はそれぞれの事象を断定し得るものである」(同51節)

 

矛盾に対する反論

でも、どうなの、この、マクタガートの主張は。おかしくないか。「だった」「である」「だろう」という時制をそこに入れ込みながら、その「未来だった」と「現在である」と「過去になるだろう」の両立を求めるってのは、反則だろう。
マクタガートも、その反論は想定して、次のように言う。

「このことは簡単に説明できるように思える。それどころか、我々の言語が過去・現在・未来を示すための動詞の形を持っていて、その3つに共通する形を持っていないのだから、何の説明がなくても、困難を見出だすことはできないように思える。Mが現在・過去・未来であるということになっているという、その回答は、決して真ではない。それは現在で「あり(is)」、過去に「なるだろう(will be)」し、未来で「あった(has been)」。或いは、それは過去で「あり」、未来や現在で「あった」。或いは同様に、未来で「あり」、現在や過去に「なるであろう」。それらの〔現在・過去・未来という〕特性はただ、それらが同時にあるときに両立できないだけで、それぞれの述語がどれも連続しているという事実を否定するものではない。」(同52節)

 

反論に対する反論

そして、この反論に対して、マクタガートはそれが悪循環だといって退けようとする。

「しかし、この説明は悪循環を含んでいる。それは、過去・現在・未来の向きに順序づけられた時間が存在すると決めてかかっているからである。そうであるなら、時間はA系列による記述が前提されているものでなければならなくなる。それでも、我々はすでにA系列が時間を順序づけるものだとすることが無根拠な思い込みだったことを見てきた。それゆえに、A系列は、A系列を前提として順序づけられてきたと言える。だから、これは明らかに悪循環である。」(同53節)

「だった」「である」「だろう」という状況依存的表現がついていることをもって、「現在」「過去」「未来」が両立するというのは悪循環になっているというのだ。「未来だった」というのは「過去において未来」という意味にほかならず、つまり、「未来」という述語を両立可能なものに仕立て上げるために「過去において」という述語を導入している。この導入はA系列を前提としなければできない導入なのだ。結局、この反論は、A系列を前提にしてA系列が言えるということを言っているだけのものであって、それゆえ、悪循環だというのだ。
どうだろう。納得できるだろうか。

反論に対する反論への批判

これが、詭弁に聞こえるのは僕だけではないだろう。だって、こんな話で、現在・過去・未来の矛盾が言えるのであれば、空間的な「ここ」「そこ」という述語も矛盾していることになってしまうじゃないか。この点について、ダメットは次のように解説している。

「マクタガートの議論は状況依存的(token-reflexive)表現の明白な性質に盲目であることにもとづく詭弁である――そういう自然で強い印象をわれわれは受ける。状況依存的表現とは、「私」「ここ」「いま」のような表現で、……状況依存的表現が本質的な仕方で現れる述語をとり、もし、その述語をある存在物について主張することが真であるような何らかの状況が存在するならば、その述語はその存在物に「あてはまる」と言うことにする。また、そのような述語の二つが、どの一つの存在物についても、ともに真となるように主張できるような状況が存在しないとき、その二つの述語を「両立不可能」と呼ぶ。すると、二つの両立不可能な述語が同じ一つの存在物にあてはまる、という場合が可能である。だから、われわれには、マクタガートの議論は実際には何も矛盾をあばいていない、と結論して良いように見える、と。」(ダメット「マクタガートの時間の非実在証明を擁護して」より)

「そこから見たら『ここ』」という場所と「ここから見たら『そこ』」という場所について語るときに、「『ここ』と『そこ』という二つの語は『両立不可能』と表現されるものだ」と定義しておき、そして、同時に、「そこから見たら『ここ』」という場所と「ここから見たら『そこ』」という場所が存在するのであれば、それを「両立可能」と表現すると定義する。そうすると、あらまあ、不思議。なんと、「両立不可能」なはずの場所なのに、ちゃんと同じ一つのものを、「両立可能」なものとして指示できることになる、というわけだ。それも、無矛盾のままに、だ。だって、そう定義したのだから、不思議でもなんでもない。で、そういうわけだから、「ここ」と「そこ」は、「両立不可能」かつ「両立可能」なのに矛盾しないことになるのだ。

 

マクタガートがいう矛盾が否定されないわけ

しかし、この強力な反論を自分で挙げておきながら、ダメットは、それでもマクタガートの議論はこの反論によって否定されるものでないと断ずる。

「マクタガートは、かれの論法をこの流儀で空間や人間に適用しようとの意向を、いささかも見せていない。事実、時間の非実在を立証するとき、かれは繰り返し時間を空間に対比させるのである。だから、我々の考察している論破法は、かれの議論の本質的部分を見落したに違いないのである。」(同)

そして、マクタガードが本当に語りかかったことであろうものを代弁する。

「時間の中で生じるものとしての事件の描写は、時間的に状況依存的な表現がその描写に入り込まないかぎり、つまり、その描写が時間の中に存在するところの誰かによって与えられるのではないかぎり、不可能である――これがマクタガートの言い分なのである。」(同)

つまり、時間を正しく描写するには、現在性を語ることが不可欠であり、現在性のない時間描写は正しい時間描写にはなりえないということを、マクタガートは主張しているとするのだ。そして、その上で、次のように加える。

「もし、われわれの仮想した観察者が、道路は観察するが旅人には盲目である人のように、たんに四次元配位を観察するだけで、それを貫くわれわれの動き――われわれの意識の動き――を観察しないとすれば、かれは生じていることのすべてを見ていることにならない。だが他方、もしかれがその四次元配位を貫くわれわれの経過をも観察するのだとすれば、かれの観察するところのものは、もはや静的ではない。」(同)

と、ゆーことは、時間描写に必要な「現在性」は動的なものでなければならない、とゆーことだろう。そして、この「動的」なるものは「変化性」に他ならない。
結局、マクタガートの主張は、A系列が「現在性」と「変化性」の両方を持たねばならない。けれども、この両者が両立しないということだ、と考えられる。

マクタガートもいろいろ言ってるけど結局、言いたかったのはこの一点じゃないのだろうか。

しかし、その、現在性と変化性の両立というのは、いったい何を指すものなのか。マクタガートは時間に何を求めていたのか。・・・ということを検討するのは次節以降の課題に残しておこう。

でもその前に、マクタガートが、この反論が無限後退に陥ってしまうというパターンも検討しているので、これについても次節で見ることにしよう。今日はここまで。

つづく

時間と生は非実在か

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