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2016年5月17日 (火)

マクタガート「時間の非実在性」1908全訳<時間と生は非実在か1>

Mctaggartジョン・エリス・マクタガート

マクタガートの論文「The Unreality of Time1908」は、時間と存在の謎に言語の限界のぎりぎりのところで迫ろうとする、たいへんスリリングで、たいへん興味深い論文である。全75節だからそんなに長文なわけでもないし、文章自体はそんなに難解なわけでもない。

でも、その日本語訳が公開されているものは、まだなかったようだった。こんな名論文が読まれないこの状況はあまりにもったいないと思い、今回、全文を翻訳してアップした。(著作権大丈夫だよね。)おそらく誤訳だらけのひどいものだろうが、ないよりましだろう。

ダメットや入不二基義や永井均の時間論も、すばらしいマクタガート解釈をしているが、それらをきちんと批判的に読もうとするなら、マクタガート自身を読んでおくことが必須だと思われる。

「時間の非実在性―The Unreality of Time―1908」全訳pdfをダウンロード


是非に一読をおすすめする。

(2016.7.21 訳文を一部修正した。)

 

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時間の非実在性―The Unreality of Time-
                     ジョン・マクタガート・エリス・マクタガート 著
        マインド掲載:心理学と哲学17(1908)季刊:456-473
                                                 横山信幸 訳2016.5.14

1.「時間」が非実在(unreal)であるとか、その実在(reality)を受け入れている言明のすべてが間違っているなどと主張することは、あまりに逆説的であろう。このような主張は、「空間」の非実在や「物質」の非実在を主張するのと比べても、人類の自然な考え方を大きく逸脱するものである。しかし、その自然な見解が持っている決定的な齟齬はたやすく受け入れられるものではない。その上、いつの時代にも、時間の非実在に対する信念が並はずれて魅力的であったことが分かっている。

2.東洋の哲学や宗教でこの〔時間の非実在の〕教義がきわめて重要であったことが見出される。そして、哲学と宗教があまり密接に通じていなかった西洋でも、同じ教義が頻繁に発生していたことを、哲学者の間ででも神学者の間ででも見出すことができる。神学はいつまでも神秘主義から離れ続けていることはできず、ほぼすべての神秘主義派は時間の実在を否定してきた。哲学では、スピノザ、カント、ヘーゲル、およびショーペンハウアーによって、くりかえし、時間が非実在なものとして扱われた。現代の哲学では二つの最も重要な動きがヘーゲルとブラッドリ氏に見られる(まだ単に重要であるだけで、最も重要とまでは言えないものは除く)。そして、この両方の学派は時間の実在を否定している。このような意見の一致が非常に重要であること――そして、その教義がこのような異なる形態をとり、そのような異なる議論によって支持されているということがさらに重要であるということは、否定されるはずがない。

3.私は時間が実在しないと信じている。しかし、私がそう信じるのは上に挙げた哲学者たちがそれを採用してきたからではない。この論文で私がそう信じる理由を説明し提案したい。

4.一見我々に現れているように見える時間においての、時間内での位置というものは、二つの方法で分類される。どの位置も、他の位置のいくつかより前だし、いくつかより後だ。そして、どの位置も過去か現在か未来かのいずれかだ。以後と以前とを分ける分け方は、いつでも変わらない永久的なものだ。MがこれまでNより以前だった場合、それは常に以前だ。しかし、今存在している一つの事象は、未来であったと同時に過去になるものだ。

5.一種類目の分け方〔以前・以後の区分〕は永久的なものだから、時間の特質のより客観的でより本質的なものだとされるかもしれない。しかし、私はそれが誤謬であって、現在・過去・未来の区分も、以前・以後の区分より基本的だと見なすのと同じくらい確かな感覚で、以前・以後の区分と同じくらい時間の本質だと信じている。それは、過去・現在・未来の区分が、私が時間を非実在だと見なしているその時間の本質であるように、私には見えるからである。

6.話を簡単にするため、遠い過去から近い過去を経て現在へ、そして近い未来から遠い未来へと続いている一連の時間位置の系列をA系列とし、より前とより後とをつなぐ時間位置の系列をB系列と呼ぶこととする。時間内の位置の内容を事象と呼ぶ。一つの位置の内容でも複数形で事象(events)と呼ばれるのが適切だと認められている。(しかし私は「これ以上」ないほど深い意味でそれを単数の事象(event)と呼ぶことができると考えているが、それは普遍的に認められているわけでもないし、この議論のために必要でもない。)また、一つの時間位置が瞬間(a moment)と呼ばれる。

7.我々が考えねばならない最初の問いは、或る事象によるA系列の形成が、B系列と同様に、時間の実在にとって不可欠かどうかということである。そして、この両方の系列が形成されなければ、時間を観測し始められないということは明らかである。我々は、時間の中で事象を現在として知覚する。それだけが、我々が直接知覚する事象である。その他の時間での事象は、記憶や推測によるものであり、その記憶や推測が過去や未来だと見なされることによって、実在するものになると我々は考えている――現在より前は過去、現在より後は未来というように――。このように、時間の事実は、B系列と同様に、A系列も我々の観察によって形成される。

8.しかし、これを単に主観にすぎないと考えることもできる。A系列――過去・現在・未来の区分――によって時間の中の位置を決めるという方法について、それは単に我々の心の幻影だとし、B系列――以前・以後の区分――だけを実在の時間の特徴だとする。この方法では、時間を実在として知覚することはできない。けれども、それを実在として考えることはできるかもしれない。

9.この考え方はあまり一般的な見解ではないが、支持する人たちも見られる。〔しかし、〕私は、上で述べたようにこれを支持することはできない。私にはA系列が時間の本質的な特性だと思えるし、A系列を実在すると見なすことの難しさというものは、時間を実在すると見なすことの難しさそのものだと思えるからだ。

10.時間が変化を伴うということは、普遍的に認められるだろう。確かに、或る特定の事柄が任意の時間ずっと変化しないで存在し続けるということは起こり得る。しかし、我々は、ものが同一であることを通して、異なる瞬間や確かに続いている時間があると述べることで何を意味しようとしているのかを問うとき、それは、他のものが変化していった中で同じものが存続したことを意味しているものだ、ということが分かる。宇宙に何一つ変化が無い(その中に生じる人の意識の思考も含めて変化しない)としたら、それは時間が無い宇宙なのだ。

11.そうすると、もし、B系列がA系列を伴わないまま時間を構成することができるのであれば、A系列を伴わないような変化が可能でなければならない、ということになる。過去・現在・未来の区分が、実際に(to reality)適用されないと仮定してみよう、そのとき実際に変化することは可能だろうか。それが変化する、とはいかなることなのだろうか。

12.A系列を伴わないでB系列のみによって形成される時間〔を考えてみたときのその〕の中で、事象が事象でなくなり、別の事象になり始めたという事実があれば、我々は、変化が構成されたと言うだろうか。このような場合、我々は確かにそれを変化だとするだろう。

13.しかし、これは不可能だ。〔B系列上において〕事象が事象でなくなることはできない。それはかつて存在してきたいかなる時系列からも抜け出すことはできないのだ。 NがOより以前でMより以後であった場合、その以前か以後かの関係は永久のものであるがゆえに、今後いつでもOより以前でMより以後であり続けるし、これまでもそうであったのだ。そして、我々が現在を前提することによって、時間はB系列単独で構成されるようになり、Nは時系列の中で、常に一つの位置を、常に持つことになるのだ。(注1)つまり、それは常に事象であり続け、常に事象であったのだ。また、事象であることを始めたり止めたりすることはできないということなのだ。

14.それとも、単に事象Mが終了して事象Nが始まり、MがNになるということを言うためには、ある特定の同一性を維持させておくような何らかの不変の要素によって、Mがそれ自身をもう一つの事象Nに併合する(merge)とでも言うべきなのだろうか。しかし、そうしたとしても、依然困難が起こる。MがNに併合するならそこでは、MとNは共通の要素を有し得るはずだが、それなら、それらは同じ事象であるか、まったく変化がないかのいずれかであることになってしまうはずだからだ。したがって、もし、Mが或る瞬間にNに変化したのであれば、MはMであることを止めたりNがNになり始めたりするはずだ。しかし、我々は、或る事象がB系列の中でのそれ自身としての一つの位置を持ち得なくなってしまうがゆえに、それが在ることを止めたり始めたりするなんてことは無いということを見てきた。だから、一つの事象が他の事象に成り替わるということはあり得ない。

15.変化が、絶対時間の数値が異なる二つの瞬間において見つけられることも、そのような瞬間があると想定されることも、あり得ない。同じ議論がここにも適用されるためだ。そのような瞬間はどれも、B系列の中に、それぞれが他より以前だったり以後だったりするような各自の場所を持つだろう。そして、B系列は、それがなくなったり別の瞬間に成り替わったりするような瞬間があり得ないということを、永久に示すのだ。

16.時間の中のいかなる出来事も成立し始めたり終わったりすることが決してないこと、そして、さらに、(時間がなければ変化はないのだから)もし変化が起こるのであればそれは時間の中での変化でなければならないこと、それゆえに、私は〔二つの事象の内容が同一であれば変化がないとするような考え方を捨て、〕残された考え方を示すことになる。つまり、変化の及ぶ範囲は、変化の前後で事象が存在し続けたり同一であったりしたとしても、そこに変化の発生があるとすることを妨げないような自然の事象にまで、及ぶものでなくてはならないのだ。

17.さて、変化できたり、その事象を同じ事象のまま残しておけたりするような事象には、どんな特性があるのだろうか。(私は、事象の持っている質と、述語としての関係性の両方を含む一般的な述語として、或いはむしろ、事象というものがこれらの関係の述語であるという事実を含む述語として、「特性」という言葉を使っている。)私には、そのような特性の種類はたった一つしかないように思われる。――すなわち、A系列の述語〔現在・過去・未来〕による問いの中で事象が決定されているということである。

18.任意の事象を取り上げてみよ――たとえばアン女王の死を――。そして、その特性においてどんな変化が起こり得るかを考えてみよ。それは死であるということ、それはアン・スチュアートの死であるということ、それはその原因を持っているということ、それはその影響を持っているということ――この種のいずれの特性も決して変化することはない。「星たちがいま一つの地平を見たるその前に」〔訳注1〕。問題の事象は英国王の死だった。時間の最後の瞬間においても――もし時間に最後の瞬間なるものがあるのなら、での話だが――、問題の事象はやはりまだ英国の女王の死であるだろう。そして、あらゆる意味において、それは等しく変化がない。しかし、或る意味においてそれは変化する。未来の事象が存在し始めるということになり、刻々と、近い将来の事象が起こってくるということになり、最後にそれらが起こっていたということになる。そのとき、それは過去になり、あらゆる瞬間において、どんどん遠い過去になっていくにもかかわらず、それはいつまでもそこに残るだろう。

19.このようにして、我々は、変化とは、いかなる変化であろうとも、A系列内に存在するものによって事象に与えられた特性の変化でしかないと結論せざるを得ない。それらの特性が関係的なものであろうと質的なものであろうと、である。

20.もし、これらの特性〔事象に与えられた現在・過去・未来の特性〕が質的なものであるなら、その事象がいつでも同じだとは言えなくなることを認めねばならない。質を変えるような事象が存在し、当然それらの質が完璧に同じではないからである。また、たとえ、その特性が関係的なものであったとした場合でも、もし、――私はそれが事実であると信じているのだが――XとYの関係に、Yとの関係の質においてのXの存在を伴うのだとすれば、事象が完全に同じであることはないだろう。(注2)ここで我々には二つの選択肢がある。我々は、事象が、他の特性に関してではなく、これらの特性〔現在・過去・未来〕に関してその性質を実際に変化させたことを認めるかもしれない。この承認にはいささかの困難もない。A系列の測定というものは、事象の特性の中でとてもユニークな位置に置かれるものであるだろう。しかし、それらは、どんな理論でも、やはりとてもユニークな特性を持つことになる。たとえば、通常「過去の事象は変わらない」と言われる。私はこれの代わりになぜ「或る意味で、過去は変わる――すべての瞬間は以前よりも「この今現在(the present)」から遠ざかっている〔そのために、過去がより遠い過去へと変化する〕」と言ってはならないか分からないし、これは私が最終的に正しいとする選択肢にはならないのだが、私にはこの見方に本質的な困難があるようには思えないのだ。なぜなら、たとえば、私は時間が実在しないと信じているからである。そして、事象は、時間の中で変化するものだが、いかなる実在的な変化も伴わないようなA系列において、そのA系列の中での位置が変化するという意味で、変化するものだということを、認めているからである。

21.A系列がなければ変化はないだろう。そして、時間は変化を伴うもののはずだから、したがって、B系列はそれ自身だけでは時間にとって十分ではない。

22.B系列は、しかし、時間的(temporal)〔訳注2〕なものとして存在する以外には存在し得ない。構成された区分としての「以前・以後」は明らかに時間的な量なのだから。そうして、A系列がなければ時間もないということから、A系列がなければB系列はないと結論づけられる。

23.ところが、時間からA系列の規格を取り去ってしまえば後には何の系列も残らないかと言えばそんなことはない。これらの時間内の事実の実在が互いに関係しあう永遠の関係の系列が残るのだ。――そして、それは、時間を作り出すようなAの規格の系列の組合せである。しかし、このもう一つの系列は――これをC系列と呼ぼう――時間的なものではなく、並び順(order)〔訳注3〕だけがあって変化を持たないものだ。事象は並び順を持つ。たとえば、或る並び順がM、O、N、Pであったとすれば、それゆえにその並び順はM、O、N、PやO、N、M、Pやそれ以外の可能な並び順ではない。もっとも、この並び順の変化が、アルファベット文字や議員名簿のお仲間の並び順の変化以上の意味を持つというわけではない。したがって、これらの、事象として我々の前に現れる実在は、まだ事象の名を冠していないままこのような系列を形成しているのかもしれない。それは、名というものがただ時間としての系列の中にある実在に与えられるだけのものだからである。C系列の関係から以前・以後の関係に成り替わることによって、変化と時間が現れるときにだけに、B系列が成立することになる。

24.しかしながら、単にC系列と変化の事実があるだけでは不十分で、B系列と時間の起源になるものが求められることになる。変化は特定の方向性を持たねばならないからだ。そして、C系列がその並び方を決定したとしても、その方向性を決定することはないからだ。もし、C系列がM、N、O、Pの並び方を決めたとしても、それによってB系列がM、N、O、PやM、P、O、Nやその二つ以外の並び方の、前から後への順番をつけて並び方を決めることはできない。でも、(Mがいちばん前でPがいちばん後ろとなるように)M、N、O、Pという並び方を採ることもできるし、(Pがいちばん前でMがいちばん後ろとなるように)P、O、N、Mという並び方を採ることもできる。だから、C系列の中にも、未来がどう決まっていくかが変化するという事実の中にも、〔求めている時間の起源は〕ないのだ。

25.時間的ではない(not temporal)系列は、それ自身、方向は持たないが並び順は持っている。自然数の系列が保持されるなら、21と26の間に17を入れることはできない。そして、我々はその系列を保持するのだから、17から21を経由して26に至るか、26から21を経由して17に至るかのいずれかになる。前者の系列が我々にはより自然に思える。なぜなら、その系列は終わりが一つだからであり、一般に終わりをスタートではなくゴールとする方が便利だからだ。ただし、我々は、その系列の向きが逆であったとしても同等に扱うのである。

26.さらに、ヘーゲルの弁証法でのカテゴリーの系列において、系列は、我々が存在と因果関係との間に絶対的知見を置くことを禁じている。しかし、それは、存在から因果関係を経由して絶対的知見に至ったり、或いは絶対的知見から因果関係を経由して存在に至ったりすることは許している。前者は、ヘーゲルによれば、証明の方向であり、かくも一般的に最有益な順番である。もし我々が反対方向の数え方の方を有益だと考えてしまっていたならば、我々は〔因果関係を利用できないまま〕その系列をずっと見ているだけしているしかできなかっただろう。

27.時間的でない系列、それゆえそれ自身方向性を持たないような系列は、しかし、そのことを考えている人なら、彼自身の使い勝手によって、或る一方かもう一方かに方向づけて述語を使うだろう。それゆえ、同様に、時間の並び順について考える人なら、二つのうちのどちらかに方向づけて考えるはずだ。私は、事象を順序づけるのに、大憲章から大憲章改正法案と向かうのも、大憲章改正法案から大憲章へと向かうのも、どちらの方向を採っても良い。しかし、我々は、時系列を論じようとするとき、外的な考察における変化は必ずしも伴わなくても良いとしたとしても、〔すくなくとも、それが時系列なのであれば、〕それ自身の系列に属するような変化は必ず伴うとしなければならない。大憲章は大憲章改正法案に先立っていたし、大憲章改正法案は大憲章に先立ってはいなかったのだ。

28.したがって、C系列と変化の事実のほかに、――時間を理解するためには――変化が一つの方向を、もう一方ではなくその方向を、向いているという事実を与えられなければならない。ここにおいて、我々には、A系列とC系列があれば時間を得るのに十分であるように思われる。変化を得るために、そして、変化が与えられた方向に向かうためには、次のことが成り立てば十分である。つまり、C系列の中の一点が、他の何物でもない「現在」であること。そして、現在であるというこの特性が系列に沿って通過していくということが、その「現在」から片方の側のあらゆる時間点が現在だったとしたり、また、もう一方の側のあらゆる時間点が現在になるだろうとしたりすることだ。現在だったものが「過去」であり、現在になるだろうものが「未来」である。(注3)したがって、我々の以前の結論では、いかなる時間もA系列がなければ真の実在ではないということだったが、我々はさらなる結論を付け加えることができる。すなわち、時系列を構成するための要素はA系列とC系列以外にはないということだ。

29.時間の三つの系列をまとめると次のようになる。:A系列もB系列も等しく時間の本質である。どちらも、過去・現在・未来として識別したり、同様に以前・以後として識別したりする。しかし、その二系列はどちらも等しく根本的なわけではない。〔訳注4〕A系列の特性は究極的なものである。我々は、過去や現在や未来によって何が意味されるのかを説明することができない。我々は、ある程度までそれらを記述することができる。しかし、定義することはできない。我々は、それらの意味するものを例示することができるだけだ。「あなたの朝食、今朝」、我々は尋ねる人に対してこう言うことができる、「は過去である。この会話は現在である。あなたの夕食、今夜は未来である」と。でも、それ以上のことはできない。

30.一方、B系列は究極的なものではない。それは、C系列が述語と述語の永久的な関係であり、それ自身時間的ではなく、ゆえにB系列とは別の系列であるからだ。そして、さらに、このC系列という述語がA系列をも形成するという事実があるからであり、最終的にC系列がB系列になるからである。最初から過去から未来への方向を持つものとして設定されていて、その未来方向の中にさえ以前というものを持つB系列に、なるからである。

31.しかしながら、C系列は、A系列に劣らず究極的なものである。〔究極的な系列は〕それ以外にはない。その時間の単位はちゃんと系列を形成する。その永遠に続く関係の系列は、時間の各時点が過去や現在や未来であるという事実と、同じ程度に究極的なものである。そして、この究極的な事実は、時間にとって本質的なものである。その各瞬間がいずれも他の瞬間に対して以前か以後かであること、そして、これらの関係が永久的なものであることが、時間にとって本質であることが認められるからだ。そして、これ――B系列――は、A系列から外れて単独になることはできない。変化と方向を与えるA系列が、C系列と結合されるときにだけ、それは永久性を得て、B系列が生じ得るのだ。〔訳注5〕

32.ここでようやく私は、この論文の一般的な目的が要求される結論の一部にたどりついた。私が時間の非実在の基礎を固めようと努力しているのは、A系列がB系列よりもっと根本的であるという事実においてなのではなく、A系列がB系列と同じくらい本質的であるという事実においてなのである。――それは、過去・現在・未来の区分が時間についての本質であり、もしその区分が実際に決して実在しないのであれば、いかなる実在も時間の中にはないということなのである。〔訳注6〕

33.この見解は、その真偽の如何に関わらず、少しも驚くべきものではない。そのことは、知覚されるものとしての時間が、これらの区分を常に現すものであることによって指し示される。そして、それは一般的に、これ〔A系列の区分〕が、知覚の入口においての幻想ではなく、時間の実在する特性であるとし続けてきた。多くの哲学者は、時間が真の実在だと信じていた者もそうでなかった者もA系列の区分が時間の本質だと見なしてきた。

34.それ〔A系列が時間の本質だとする見解〕に対して反対の見解が維持されているとき、それは一般に維持されているのだが、そのときに私は次のことを信じる。すなわち、現在・過去・未来の区分が真の実在ではあり得ないと見られるという理由(それが正当な理由であることは後で明らかにしたい)によって、結果として、時間の実在が堅持されるためには問われている区分〔現在・過去・未来〕が時間の本質ではないということが証明されなければならないということだ。その〔A系列が時間の本質ではないという〕仮説は、時間の実在を支持し、そして、A系列が時間の本質ではないとして、A系列を拒否する理由をわれわれに与える。しかし、もちろん、これは仮説でしかない。時間の概念の分析が、A系列の除去によって時間が破壊されることを証明してくれるのであれば、この議論の筋道が定まらなくなることは、もはやあり得ないだろうし、A系列の非実在は時間の非実在を必ず伴うことになるだろう。

35.私はA系列の除去が時間を破壊するものであることを証明しようと努力してきた。しかし、我々が考察すべき異論〔A系列が時間の本質ではないとする反論〕が目下二つある。

36.一つめ〔の反論〕は、これらの時系列〔A系列〕が実在するものではないのに誤って存在すると信じられていたり、存在するものとして思い描かれていたりする、とするものである。たとえば、ドン・キホーテの冒険である。この系列はA系列ではないと言われる。私はこの瞬間を過去・現在あるいは未来のうちのどれだと判定することができない。それどころか、私はそれが三つのいずれでもないことを知っている。反対に、この系列は確かにB系列だと言われる。ガレー船の奴隷の冒険が、たとえば、風車小屋の冒険より後だということだ。そして、B系列は時間を伴っている。その結論として導かれることは、A系列は時間に必須ではないということだ。

37.この反論に対して私が考えている回答は次の通り、時間は存在するものだけに属する、ということだ。もし何かの実在が時間の中にあるのなら、それは当の実在が存在するということを伴っているはずだ。これは、私には、例外なく認められる話だと思われる。全てのあらゆる存在が時間の中にあるのかと疑われるかもしれない。或いは、何か実在的に現存するものは時間の中にあるのかとさえ疑われるかもしれない。しかし、何か時間の中にあるものが存在しなければならないことは否定されないだろう。

38.さて、ドン・キホーテの冒険の中での存在するものとは何か?そんなものはない。その物語は空想だからだ。その物語をでっち上げたときのセルバンテスの心の動き、その物語を思うときの私の心の動き――これらは存在する。しかし、そうは言っても、それらがA系列の部分を形成するものだということはない。セルバンテスの物語の創作は過去にある。私のその物語の想像は過去にあり、現在にあり、そして――私の信ずるところにおいて――未来にもある。

39.しかし、そのドン・キホーテの冒険は、ある子どもによって、歴史上の事実だったと信じられているかもしれない。また、それを読んでいる間、私は想像力に助けられて、それを実在した出来事だと考えているかもしれない。この場合、その冒険は存在するものだと信じられていたり、想像されていたりする。でも、だからと言って、それがA系列の中にあると信じられていたり、A系列の中にあるものとして想像されていたりするということではない。それが史実だと信じる子は、それが過去に起こったと信じるだろう。もし私がそれを現存するものだと想像するのなら、私はそれが過去に起こったこととして想像するはずだ。同様に、もしも誰かが、モリス著の「どこでもないところからのお知らせ」〔訳注7〕に書かれた事象を現存すると信じたり、現存するものだと想像したりしたなら、その人は、それが未来でも存在すると信じるだろうし、未来でも存在するものだと想像するだろう。我々が、その信じる対象や想像する対象を、現在・過去・未来のどこに置くかということは、その対象の特性にかかっている。それでも、それは我々のA系列のどこかに置かれることになる。

40.したがって、反論への回答はこうなる。ある事柄は、それが時間の中に存在するや否や、A系列の中に存在することになる。もし、それが、実際に(really)あるのなら、それは実際にA系列の中にある。もしそれが時間の中にあると信じられているなら、それはA系列の中にあると信じられている。もしそれが時間の中のものとして想像されているなら、それはA系列の中にあるものとして想像されているのだ。

41.二つめの反論は、ブラッドリ氏によって論じられた、独立した複数の系列が実際に(in reality)あるかもしれないという可能性に基づくものである。ブラッドリ氏によれば、本当に、時間とは見かけだけの存在なのだ。〔或る意味で〕実在の時間はまったく存在などせず、したがって、実在の時系列などというものは存在しない。ところが、その仮説は、なんと、実在しかつ独立して存在する複数個の時系列が、〔別の意味で〕実際にあるはずだとするのだ。

42.その反論は、想像するに、時系列はすべて実在するが、過去と現在と未来との区分は単にそれぞれの系列の中で意味を持つに過ぎない。したがって、究極の実在として受け止められるものではあり得ないというものだ。たとえば、たくさんの現在があるのではないだろうか〔と考える〕。さて、もちろん、時間内の多くの時点は現在であり得る。(どの時系列の中のどの時点も、ただ一度、現在になる。)しかし、それらは順番に連続して並んでいなければならない。そして、異なる系列での現在は、同一の時間の中にないのだから、連続していないだろう。(その同一の時間の中で存在することを同じように必要としているのだから、それら〔の複数の現在〕は同時にあるのではないだろう。〔そこに〕時間の関係などというものは、ないのだ。)そして、それぞれ異なる複数の現在は、それらが連続しているものでない限り、実在であることはできない。だから、その実在する、異なった時系列は、過去・現在・未来の区分とは無関係に存在できるものでなければならない。

43.しかし、私は、この反論を妥当なものだと見なすことはできない。このような事例において、疑いなく、いかなる現在(present)も「この今現在(the present)」――この宇宙の確実な様相であるだけの「この今現在」――ではない。ただし、そのとき、いかなる時間(time)も「その時間(the time)」――この宇宙の確実な様相のであるだけの「その時間」――ではない。それ〔「その時間」〕は間違いなく実在する時系列だが、それでも、私は「この今現在」が「その時間」より実在性を欠くものだとは思わない。

44.もちろん、私は、複数の異なるA系列の存在が無矛盾だと主張しているのではない。私の論旨は、複数のA系列の存在が矛盾するということにある。ここで私が主張していることは、単に、複数のA系列があり得ると仮定したとすれば、そのような系列が互いに独立であり、したがって、時間においてA系列が本質だということと複数の別の時間が存在することに不整合がないのだとしても、不要な不都合を伴わなくてすむということでしかない。

45.さらに、我々は、複数の時系列に関する理論が単に仮説にすぎないものであることを忘れずにいるべきだ。なぜそれらの存在を信じるべきかという問いに答えられた理由はまだ一つもないのだ。それは、それらの存在を信じない理由がないということを言っていたに過ぎない。それゆえ、それらは存在しても良いはずのものなのだ。ただし、もし、それらの存在が他の何かの直接の証拠となるものと不整合であったならば、それらの存在を信じないとする理由があることになる。今ここで、私はA系列が時間の本質であるということを信じるための直接の証拠を示そうとしてきた。したがって、仮に、(私が否定する理由を与えてくてるものとして、)複数の時系列が存在することと、A系列が時間の本質であることが整合しないという具体事例があったならば、A系列に関する我々の結論を不整合だとするのではなく、複数の時間が拒絶されるべきで不整合だということを示すことになるだろう。

46.では、作業の第二部に移ろう。私の見るところでは、これまでの議論でA系列を持たない時間というものがあり得ないことの証明は成功している。後は、A系列が存在できないこと、したがって時間が存在できないことの証明が残されている。時間が実在するための唯一の方法は存在による以外にないということが認められているのだから、これ〔A系列が存在しない証明〕は、時間がまったく実在しないということを伴うだろう。

47.A系列の述語〔現在・過去・未来〕は事象に特有のものである。我々は、事象について、それが過去・現在或いは未来のいずれかだと言う。もし、時間の中の各瞬間が、異なる実在として得られるものであるなら、我々は、それらについても、過去か現在か未来だと言う。任意の特質は関係的なものか質的なものかのどちらかであるだろう。我々は、A系列の述語を、事象の関係として(という、より正当な見解に見える方を)用いるか、事象の質として(私には反駁を含んでいるように見える方を)用いるかのどちらかを採るしかない。

48.まず、それ〔A系列の述語〕を関係だとする仮定から、検討してみよう。もしそれが本当なら、それぞれの関係ごとに一つの述語だけが一つの事象か一つの瞬間であり得ることになる。そうでない述語は、時系列から外れたものでなければならない。(注4)A系列の関係が関係の変化なのであって、〔その他の〕時系列同士の述語の関係は変化するものではないからである。二つの事象は、時系列の中で、それらが配置される百万年も前から、そのそれぞれが配置されてきた百万年間ずっと、それぞれが相対的に完全に同じ一定の時点に置かれている。それぞれの瞬間の関係についても同様である。一方、もし、時間の中で瞬間が事象とは別個の実在としてあるのならば、一つの事象と一つの瞬間の関係は不変のものである。どの事象もそれぞれ、未来においても、この現在においても、その過去においても、同じ瞬間にある。

49.A系列を形成する関係は、このとき、各事象や各瞬間と、それ自身が時系列の中にはない何かとの関係でなければならない。この何かが何であるかを言うのは困難であるかもしれない。しかし、この点を回避するならばさらに明白な困難が現れることになる。

50.過去・現在そして未来は、互いに両立しない規定である。いかなる事象も、その〔過去・現在・未来の〕うちの一つか他のどれかでなければならず、どの事象も一つより多くになり得ることはない。このことは、それらの述語の意味の本質である。そして、もし、そのようになっていなかったならば〔事象が過去・現在・未来のうちの複数が両立できたならば〕、A系列はC系列と併用されることによって、時間の〔因果関係における〕結果を我々に与えるには不十分であったろう。我々の見るところでは、そのとき、時間は変化を伴うのだが、未来から現在へや現在から過去への変化までも得ることになってしまうのである。

51.それゆえに、その〔過去や現在や未来であるというそれぞれの〕特性は両立しない。しかし、いかなる事象もそのすべてを持つ。もし事象Mが過去であれば、それは現在と未来だった。もしそれが未来であれば、それは現在と過去になるだろう。もしそれが現在であれば、それは未来だったし、過去になるだろう。したがって、その両立しない三つの述語はそれぞれの事象を断定し得るものであるのだが、その事象は互いに両立不可能であることと明らかに矛盾しているし、そして、変化が作り出されることと矛盾している。

52.このこと〔この矛盾がどこで生じたのか〕は簡単に説明できるように思える。それどころか、我々の言語が過去・現在・未来を示すための動詞の形を持っていて、その三つに共通する形を持っていないのだから、何の説明がなくても、困難を見出だすことはできないように思える。Mが現在・過去・未来であるということになっているという、その回答は、決して真ではない。それは現在で「あり(is)」、過去に「なるだろう(will be)」し、未来で「あった(has been)」。或いは、それは過去で「あり」、未来や現在で「あった」。或いは同様に、未来で「あり」、現在や過去に「なるであろう」。それらの〔現在・過去・未来という〕特性はただ、それらが同時にあるときに両立できないだけで、それぞれの述語がどれも連続しているという事実を否定するものではない。

53.しかし、この説明は悪循環を含んでいる。それは、過去・現在・未来の向きに順序づけられた時間が存在すると決めてかかっているからである。そうであるなら、時間はA系列による記述が前提されているものでなければならなくなる。それでも、我々はすでにA系列が時間を順序づけるものだとすることが無根拠な思い込みだったことを見てきた。それゆえに、A系列は、A系列を前提として順序づけられてきたと言える。だから、これは明らかに悪循環である。

54.我々が対峙している困難とは、私がこの論文を書いているということが、過去と現在と未来の特性を持っていることだ。我々はそれを、現在だと言い、未来だったと言い、過去になるだろうと言う。しかし、「だった」は、現在ではなく過去の存在であるということによって、「である」から区分されるものでしかない。また、「だろう」は未来の存在であるということによって、〔過去・現在の〕両者から区分されるものでしかない。したがって、我々はこう述べることになる。問われている事象は現在において現在であり、過去において未来であり、未来において過去である。これは、現在・過去・未来の特性を基準にして、現在・過去・未来の特性を割り当てようとするもので、明らかに悪循環である。

55.この困難にはもう一つの側面があるのだが、それは、この誤謬が悪循環よりさらに悪質な無限後退を示すというものである。事象Mが現在であり、未来であったものであり、過去になるだろうものであると言って、三つの特性の両立不可能を回避しようとするなら、我々は第二のA系列を構築していることになる。それは、一つめのA系列に則って事象が規定されるのと同じやり方で、一つめのA系列の既定の上に構築されるのだ。しかし、時間の中の時間という言い方が明瞭な意味を持ち得るかどうかは疑わしい。その上、いかなる場合でも、第2のA系列は第1と同じ困難に悩まされることになる。つまり、その困難とは、第3のA系列の内部に置かれることによってその困難が取り除かれるだけのものだということだ。この同じ原理は、第3を置くのに第4を使うことになり、後は、終わりなくどこまでも続く。あなたは決してこの矛盾を取り除くことができない。それが何であるかを説明することから逃れようとする行為によって、その説明の中にもう一度、その矛盾を作り出して、結局その説明を無効にしてしまうのだ。

56.だから、A系列を関係的なものだと捉える場合、A系列の実在を主張すると矛盾が発生する。〔では、〕それを、質的なものだと捉えるならばより良い結果が得られるのだろうか。未来性・現在性そして過去性という三つの質があるのだろうか。その一つめ〔未来性〕から二つめ〔現在性〕へ、二つめから三つめ〔未来性〕へと事象が絶えず変化しているのだろうか。

57.A系列の変化が質の変化だとする見解のために言えることはほとんどないように思われる。存在Mを私が予期すること・その経験自体・存在の記憶という異なる質を持った三つの状態があることには、何の疑いもない。しかし、それは未来のMではなく、現在のMでもなく、過去のMでもない。それらはどれもこの三つの異なった質を兼ねてはいない。それらの質は三つの別個の事象に所有されている。――Mの予期・経験M自体・Mの記憶、その各々は順々に未来・現在そして過去にあるだけなのだ。したがって、このことは、A系列の変化が質の変化だという見解について、なんら支持するものではない。

58.しかし、我々はこの問いをさらに続けていく必要はない。A系列の特性が質的なものであったとしても、それが関係的なものだと考えたときと同様の困難が生じるのだ。なぜなら、以前に議論したように、それら〔現在性・過去性・未来性〕には互換性がなく、以前に議論したように、どの事象も〔現在性・過去性・未来性の〕全部を兼ねているからである。これは、以前に議論したように、どの事象も順番に語られることによって説明されることができるだけだということだ。それゆえ、以前に見た事例と同じように、同じ誤謬が犯されていたことになるだろう。(注5)

59.こうして我々は、A系列が矛盾を含んでいることを用いて結論に到達した。これによると、A系列は真の実在ではあり得ない。そして、時間がA系列を伴うものであるから、それによって、時間は真の実在ではあり得ない。我々は、いかなる存在も時間の中にあると判断するとき――物を知覚するにはそうする他ないのだが――そのように判断するときにはいつでも、時間を実在以下のものとするか、或いはそれ以上のものとして、そう判断しているのではないだろうか。

60.我々は一つの反論の可能性を検討しなければならない。我々が時間を否定しているとされる根拠は、時間が、時間の前提なしには説明され得ないということだが、しかし、これは、〔時間の否定を〕証明してはいないのではないか。――と言っても、それは時間が無根拠だという訳でもなく、むしろ、時間が究極だということなのだろうか。それを説明することは不可能なのだろうか。たとえば、善あるいは真が、説明の一環としてその述語を取り入れない限りは説明されないように。そして、そのために我々がその無根拠な説明を拒絶するように。しかしだからと言って、説明を認めずそれを必要としていない時でも、我々は間違った概念だとして拒絶したり、反対に究極のものとしてそれを受け入れたりするわけではない。

61.しかし、ここではこの捉え方はしない。もしかすると正当な説明を認めないままでも、実在を正当に根拠づけられるような解釈があるかもしれない。けれども、実在に適用することが矛盾を伴うのであれば、それを実在だとすることはできない。今、我々は、この時間の事例に――A系列の特性群は互いに両立しないのに、それらの述語がまだすべて真であるという――矛盾があったことを指摘することから検討を始めてきた。この矛盾が取り除かれない限り、時間についてのその解釈は、無効であるとして否定されなければならない。我々はその特性がその述語に継起的に(successively)属すと提案しているが、その説明の矛盾は取り除かれるべきである。説明が循環してしまったならば、矛盾は取り除かれずに残り、それゆえ、その時間の解釈は否定されなければならない。それは、説明され得ないからではなく、矛盾が取り除かれないからである。

62.ここまでで、もしそれが正当であったなら、時間を否定するに十分な根拠があるということが、すでに述べられてきた。しかし、我々はもう一つの検討を付け加えることができるかもしれない。我々に見えている時間はA系列とともに成立したりしなかったりするというものだ。今かりに、A系列を実在させることで見つかった矛盾を無視することにするとしても、A系列が実在する根拠があると考えられるべき積極的な理由はあるのだろうか。我々が、事象が過去・現在・未来に区分されると信じるのはなぜだろう。私は、我々自身の経験が区分を生むと信じている。

63.私は私が確かな知覚を持っている瞬間に、その他の知覚の確かな記憶や予期も持っている。その直接の知覚自体は、知覚の記憶や予期とは質的に異なった心的状態である。これは、知覚自体が確かな特性を持っていて、私が記憶やその予期を持つときに取って代わる特性があるという信念に基づいている。――これらの特性は、現在性・過去性・未来性と呼ばれている。これらの三つの特性に関する見解を持ったならば、我々はそれを他の事象に当てはめてみる〔ことができる〕。私が今持っている直接の知覚と同時に起こるあらゆるものが、現在と呼ばれる。それは、直接の知覚が何一つなくとも、現在に割り当てられる。同様に、知覚の想起や予期と同時に起こるものが、過去や未来に割り当てられる。これはまた、私が今同時に想起したり予期したりする知覚が何もないような事象にまで、拡大して割り当てられる。しかし、我々のその、全体の区分についての確信の源は、知覚と知覚の予期と記憶との区分の中にあるのだ。

64.私がそれを持っているとき、その直接の知覚が現在である。それゆえ、直接の知覚は現在と同時である〔と定義する〕。まず初めに、この定義は循環を伴っている。その「私がそれを持っているとき」という言葉は、「それが現在である」ということを意味するだけのものだからだ。しかし、もし、我々がこの言葉を除外するならその定義は誤りになってしまう。〔現在を定義するのに、〕私はそれぞれ別の場面で、それゆえ現在でないばかりではなく連続的にでもないような場面で、多くの直接的な提示をしているからだ。しかしながら、これはこれまでずっと検討されてきたA系列の根本的な矛盾であって、ここで私が検討したいと望んでいる点は、また別にある。

65.私が持っている直接の知覚は、今、私の「見かけの現在(specious present)」〔訳注8〕の中に収まっている。私が記憶や予期を持てるのは、その向こう側にあるものとしてだけなのだ。さて、その「見かけの現在」は状況によってその持続する長さが異なるし、それは、同時刻の二人の人にとってでも違うだろう。事象Mは、XのQに関する知覚とYのRに関する知覚と同時にあるかもしれない。或る確定した瞬間に、QはXの見かけの現在の一部に収められ終えてしまうかもしれない。したがって、その瞬間にMは過去になるだろう。しかし、その同じ瞬間にRはまだYの見かけの現在の一部であるままかもしれない。だから、それゆえ、過去であるとされたその同じ瞬間に、Mは現在になるだろう。

66.これ〔「見かけの現在」をA系列の現在だと定めること〕は不可能だ。確かにA系列が何か純粋に主観的なものだったのなら、何の困難もないだろう。我々は、ちょうど、Xにとっては喜びだったがYによっては苦痛だったと言えるように、MがXにとっては過去だったがYとっては現在だったとも言える。

67.「この今現在」は、実際に事象の中を通過する。したがって、見かけの現在と同時だと判定されることはあり得ない。それ〔この今現在〕は、究極の事実であることを据え付けられたまま、持続して長さを持つものでなければならない。この長さは、あらゆる見かけの現在の長さと同一ではあり得ない。あらゆる見かけの現在は、その同じ長さを持たないからだ。だから、或る事象は、私がそれを現在として経験しているそのときに過去かもしれず、私が過去として経験しているそのときに現在であるかもしれない。客観的な現在の長さは、千分の1秒かもしれないし、1世紀になってジョージ4世やエドワード7世に達するかもしれないし、この同じ今現在の一部を成すかもしれない。我々は確かに、現在というもの(a present)があることを観察しないし、現在というものがあるとする観察とも無関係だ。それでもなお、我々がこのような現在の存在を信じるべき理由とは何だろう。

68.A系列の中で、「この今現在」が有限な長さを持った存在ではなく、過去と未来を分割する単なる点であるとするような、よく支持される考え方を採って、この困難を逃れようとするならば、我々は、別の深刻な困難に直面することになる。それは、事象群の中での客観的な時間が、我々の知覚する時間とまったく違うものになるということだ。我々が知覚する時間は、変化する現在というものであり、長さを持っていて、それゆえ、未来と過去と合わせて三つの持続部分に分割されるものである。〔それに対して〕客観的時間は、長さがなく点でしかないような(そして、経験できる「この今現在」と同じ名前だというものでしかないような)現在によって分割されるゆえに、二つの部分だけしか持たない。時間とはこのようなものだと信じる理由として、これほど理由にならないものを経験したことがあるだろうか。

69.そして、だから、時間の実在を否定することは、結局、それほど逆説的には見えない。それは、一見、実在についての知識を与えるものとして現れると思われるということについて、それを幻想だとする見方を我々に強いているために――我々の経験と激しく矛盾するように見えて、それゆえ逆説的だと呼ばれていたのだ。しかし、今、我々は――見かけの現在を見るということを中心として――時間を経験しているが、我々が存在を経験するような実在の中に、実在の時間があるとするのであれば、その時間経験は明らかに幻想でしかない。我々が観測するその見かけの現在――実際にあなたと私では異なっているそれ――は、観測される事象としての「この今現在」とは一致しない。そして、それゆえに、我々の観測における過去と未来は、観測された事象における過去と未来とは一致しないのだ。時間を実在とするか非実在とするか、どちらの仮説を採るとしても、あらゆるものは見かけの現在において観察されるもので、それ以外のものはない。これまでに見かけの現在において観察されたその観察自体でさえ、そうなのだ。だから、この事例において、一つの現在の中には何もないという言い方をするときの方が、あらゆるものは完全に異なる複数の現在を通過するという言い方をするときよりも、ずっと間違ったものとして経験を扱っているとは、私には見えないのだ。

70.こうして我々の結論は、A系列もB系列もどちらの時間も実在するものではないというところに達する。しかし、これはC系列が実在するという可能性を残している。A系列はその矛盾によって否定される。そして、その否定はB系列の否定を伴う。ところが、我々はC系列にはそのような矛盾を見出していない。さらに、その否定はA系列の否定からは導かれない。したがって、我々が時系列の中で事象として知覚するものは実在可能である。ただし、その時系列は実際には非時間的(non-temporal)な系列を形成するものでしかない。また、そのような系列を形成しないとしてしまう限りでは、そして、時間的な系列以上の系列が実際にはないとき、それは可能である。しかし、私にはここでその疑問を検討するだけの余地が残されていない。――ただ、C系列が実際に形成されるということによって、以前の見解がより確実になっている。

71.それが正しいなら、それが時間の中での事象として、これらを我々が知覚することによって、誤答と同程度にしか正答を出せないような我々の知覚によって、はっきりさせられるはずだ。その当てにならない時間の形から、我々はそれらの真の関係を掴み出すべきである。もし我々が事象MとNが同時だと言うなら、それは、この時系列の中で同じ位置を占めていると言う。ここに、実在に関する真理がある。我々が知覚したのは事象MとNが実際に、非時間的な系列でしかない或る系列の中で同じ位置を占めているという、その点にこそ真理があるのだ。

72.その上に、事象M・N・Oがすべて順番に異なる時間にあるとするなら、それは同じ時系列上で異なる位置を占めていて、Nの位置はMとOの間にあるとすることになる。そして、それらの事象は或る系列の中にあるように見える真の実在である。ただし、それは非時間的な系列の中に、である。事象Nとして我々が知覚するその実在の位置は、事象MとOとして我々が知覚する実在の位置の間になるだろう。

73.もし、この見解が採用されるなら、その結果は、カントではなくヘーゲルによって達せられた結果にかくも似てくるだろう。というのは、ヘーゲルが時系列の順序だとしたのは自己状況依存(reflexion)として、ただしゆがんだ自己状況依存としてであり、無時間的(timeless)な実在であるような実在の本質の中での何かとしてである。〔訳注9〕一方、現象の中での現れの時間順と一致するはずの、物自体の本質の中での何かの可能性について、カントが考えたようには見えない。

74.しかし、そのような客観的なC系列が存在しているかどうかという問いは、今後の議論に残さねばならない。また、時間の実在を否定するときに当然生じるその他の多くの問いも、我々にのしかかっている。もしC系列がそのようなものなら、それは単に究極的な事実として置かれるのだろうか。或いは、それらの位置を保持するものに関する量の変化によって決定されるのか。それとも、それらすべてに共通する質的にものによってか。そして、そうであれば、その質的なものとは何か。その量が多ければ遅いと判断されるようなものなのか。少なければ早いと判断されるようなものなのか。それとも予備の真理なのか。この三つの問いの解答は、万物をつかさどり、確証と拒絶をつかさどる、我々の希望と涙であるだろう。

75.そして、再び問うが、時間の中に現れている系列は、無限または有限の長さを持つ系列なのか。我々はその現れてくるものを、それ自身でどうやって分割するのか。もし、我々が時間と変化のことを現れとして言いかえようとするなら、それは変化したり時間の中にあったりするような現れであってはいけないのか。それは時間であってはならないのか。そして、とにかく実在するものであることが明らかにされるのか。これは、おそらく深刻な問いだ。しかし。私は、今後、納得のいく方法で回答できることを明らかにしていきたいと思っている。

(注1)同様にそれは正しい。しかし、これはA系列の中に一度きりのことは常にただ一度だという、我々が今考察している仮説とは無関係だ。過去・現在・未来の一つが確定するということが常にNに適用され得るなら、それは、常にそうであって常に適用されていくだろう。だからと言って、もちろん常に同じものであり続けるわけではない。

(注2)私は、ロッツェがしたような主張、XとYの関係がXの質とYの質から成るという、まったく擁護不可能に見える主張をしているのではない。私は、XY間におけるZの関係というものは、「ZYとの関係」という特質としてのXの存在というものを必ず伴うと主張しているのである。それは、関係の差異が常に質の差異を伴うものであり、関係の変化が常に質の変化を伴うためである。

(注3)A系列の本質についての記述は、過去と未来の説明に「だった(has been)」と「だろう(will be)」を使っているから悪循環を含んでおり、妥当なものとは言えない。しかし、後ではっきりさせるつもりだが、この悪循環は、我々がA系列を論じていて、拒絶しなければならないような根拠が形成されるときには、必然となるのである。

(注4)「この今現在」は、その現在性の断定と、その未来性の断定より以後である「未来か何か」と、その過去性の断定より以前である「過去か何か」とが、それぞれ同時に起こっているとする何かであり続けている。しかし、この理論は、時間がA系列から独立の存在であることを伴っていて、我々が達した結論とは両立しない。

(注5)空間的な運動の比喩によって、「時間」を提示することはとても一般的なことである。しかし、それは過去から未来への運動だろうか。それとも、未来から過去への運動だろうか。A系列が質的なものだと捉えるのであれば、過去から未来への運動として捉えるのが自然だろう。なぜなら、現在性という質は、過去の状態に属していたものであり、未来の状態に属するだろうものだからである。もし、A系列が関係的なものだと捉えるのであれば、どちら向きの運動としてでも捉えることができる。二つの述語はどちら向きでも運動するものとして捉えられ得るからである。もし事象が、現在性を据え付けられた点に対する運動として捉えられるのであれば、その運動は未来から過去へ向かうものである。未来の事象はまだその点を通過していないからだ。もし、現在性が、順々に事象の系列のそれぞれと関係していく点の運動として捉えられるのであれば、その運動は過去から未来へ向かうものになる。そのようにして、我々は、事象が未来からやって来るという言い方もするし、反対に、我々自身が未来へ向かって行くという言い方もする。それは、現在がその人に直接のただ一つの存在であるがゆえに、人は誰でも、自分自身の未来や過去に対立するものとして、現在の状態と深く関わっているからだ。

〔訳注1〕ラドヤード・キップリング (Joseph Rudyard Kipling 1865‐1936)の詩「答えThe Answer(1892)」からの引用。「星たちがいま一つの地平を見たるその前に、…我等はその務めに縛られるべし」と、我々は決定されていることの中に縛られている、という話につながっていく。全文はhttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/01-2c44.htmlを参照。
また、本文中、訳注が必要な部分では〔  〕のかっこで示している。

〔訳注2〕本論文で「時間的(temporal)」というのはどれも「時間的な順列が向きをもつ」という意味で用いられている。

〔訳注3〕この「並び順(order)」という語は順列の向きをまったく区別しないような、隣り合う並び方の組合せのみを問題にしたものである。たとえば、CHOOHというような化学結合物質があるとしたとき、CHOOHとHOOHCは同一の物質であり、その二つは同じ並び順である。しかし、これと比較してOOCHHは別の物質であって、別の並び順である。本来「並び順」には順列の向きを有するようなニュアンスがあるかもしれないが、それは適切な訳語が見つけられなかった訳者の不手際であって、マクタガートの文の問題ではない。

〔訳注4〕本論文で、「根本的fundamental」や「究極的ultimate」という言葉はどちらも、「それ以上小さな要素に細分化できない」ということを意味している。

〔訳注5〕この部分などについて、入不二基義は「C系列+A系列=B系列」(「時間は実在するか」講談社現代新書p102)だと解釈しているが、本文28節で、マクタガート自身が「時系列を構成するための要素はA系列とC系列以外にはない」と言っていることや、B系列のみからでは変化生まれないとしていることからも、その解釈は採りにくい。「C系列+A系列=B系列」でも「C系列+A系列⇔B系列」でもなく、「C系列+A系列⇒B系列」という意味にすぎないと解釈すべきだと思われる。

〔訳注6〕「根本的fundamental」や「究極的ultimate」は「それ以上小さな要素に細分化できない」という意味であるのに対して、「本質的essential」はそれが「必須である」ということであり「それがなければその問題の対象が問題の対象ではなくなってしまう」ということを意味するものとして使われている。だから、ここでのマクタガートの主張は、A系列が細分化できないものだと言いたいのではなく、時間に必須であると言いたいのだということである。

〔訳注7〕「どこでもないところからのお知らせNews from Nowhere (1890)」は、アーティストでありデザイナーでもある社会主義の先駆者のウイリアム・モリス(William Morris  1834‐1896)によって書かれた、空想的社会主義と空想科学近未来小説を融合させたイギリスの古典的著作

〔訳注8〕「見かけの現在(specious present)」はウィリアム・ジェイムズ(William James 1842-1910)による現在の捉え方。この現在は、個々人の主観によって捉えられた現在で、「現在として与えられている直近の過去および直近の未来」を指すものであり、瞬間ではなく幅を持ち、時間が経過しても過去へ移行せず、その中で継起的経験が生じる。

〔訳注9〕ヘーゲルは「精神現象学」で、「今」という時間を真理として認識するためには「その時点の視点においての同時」という「一般的なもの」ものとして理解する他ないことを認める必要があること、しかし、それを認めながらその「個別性」を求め続けることによってその個別性や現実性を取り戻すことも必要であること、という一種のねじれ運動が必要であることを説いている。マクタガートが「ゆがんだ自己状況依存で、無時間的(timeless)な実在」と言っているは、そのことをイメージしていると思われる。

本文はhttps://en.wikisource.org/wiki/The_Unreality_of_Timeより「The Unreality of Time」を翻訳したものである。
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以上。

(追記:永井均訳が出た。それを見ると、この論文全部で77節だった。僕の訳したソースがwikisourceの75節までのものだったので、この訳も75節までにしてしまったのだけど、多分どこかで改行が2か所抜けてしまっている。でも、内容としては大差ないのでそのままにしておく。2017.2.14)

おまけ、キップリング「答え」翻訳

つづく

時間と生は非実在か

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