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2016年4月30日 (土)

「生きる」ってなに<時間と生は非実在か0>

谷川俊太郎は「生きる」で言っている。

どこか遠くで犬が吠えるってことが、僕が生きてるってことじゃないのか。

いまいまが過ぎていくってことが、いま僕が生きてるってことじゃないのか。

甲斐よしひろは「HERO」で言っている。

生きるってことは、矢のように走る「とき」の狭間で踊ることじゃないのか。

つまり、世界が実際にあるってことが、僕が生きているってことで、そして、〈「そのときに時間が過ぎていって、ぶらんこがゆれたり鳥がはばたいたりする時間の経過」を、「この僕」という「この世界を開闢させている絶対唯一の主体」が、有らしめてしまうってこと〉が生きるってことだも言えるのじゃないか。

これって言い換えると、「この世界」を現実に開闢させて「現実のこれ」を有らしめている主体としての〈私〉が時間の経過の中で「いま」が過ぎていって「未来」が「現在」になるということを可能にさせてしまうということこそ、が、「生きる」ってこと。

「この世界のこれ性」を意味づける主体としての〈私〉が、現在と未来の複数の時間であり続けること、が「生きる」ってこと。そういうことじゃないか。

 

マクタガートの「時間の非実在」が問うている時間は、そういう意味での時間であって、そういう「生きる」ってことを意味づけるような「時間」が実在しないことを言ったのかもしれない。

Mctaggart_2
J.M.E.McTaggartジョン・マクタガート(1866~1925)

でもそうだとしたら、生きるってことは矛盾を含んでいるんじゃないか。だから、マクタガートも時間を実在しないと言ったのじゃないか。しかし、生きることが矛盾しているって、いったいどういう意味だ?

本章では、マクタガートの時間論と、それをめぐるダメットと入不二基義と永井均の時間論を追って、生きる意味とその矛盾と無矛盾について考えてみたい。

つづく

時間と生は非実在か

大阪哲学同好会に来ませんか

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コメント

師匠 こんにちわ。久々のブログ更新ですね。楽しみです。
同好会も、盛り上がってるようで、何よりです。
ツイキャストのUP、ありがたいです。
師匠のお姿を拝見できて、感動しております。

永井さんの「これ性」について、思ったのですが、
私も師匠の言うように、<私>には、二重性があると思います。
「これ性」=「<>」
「この私」=「<私>」
「この」+「私」=「<>」+「私」
だから、師匠の言うように「これ性」と「私」は、全く違うものだと思います。
全く違うものなのに「この私」と言えるように、一体化できるので、定義が混ざるような感じになるんだと思います。
「この」は、代替可能(代替してもわからない)ですが、「この私」代替不可能です。
「この」に重心がる時は、開びゃく性で使われ、「私」に重心がある時は、自我の非代替性で使われているような気がします。

taatooさん、コメントありがとうございます。
ずいぶんお休みしていましたが、この間にだいぶ読んだりかんがえたりしたものがたまってきましたので、また少しずつ書いていきたいと思っています。

ツイキャス、聞いてくださったのですね。うれしいです。大阪同好会での「〈私〉」の主張
は、僕にとっては至極当然のことでした。
でも、みなさん僕の言いたいことは認識してもらえたみたいですが、同感を得たり、認めてもらえたりするところまでには至りませんでした。
それで自分の理解に不安を感じていましたので、taatooさんに認めていただけて、ずいぶんほっとしています。

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