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2015年11月23日 (月)

「クオリア」が必然的に物理的なわけ<クオリア再考22>

クオリアを物理的存在から乖離され得るものとして捉えたのが、チャーマーズの「機能のないクオリア」や一般的な「心身二元論」だと言えるだろう。
しかし、クオリアを物理的存在と無関係に措定させ得るものとするだけでなく、物理的存在の実在をクオリアと無関係に措定させ得るものとして捉えることができるものだとしなければ、非機能的クオリア論なるものは立ち上げることができないはずだ。
そして、「現象的に今ここに現在しているクオリア」と無関係に、物理的存在が存在することを事実だとすることは、結局、無根拠な思い込みでしかないものを実在だとするような、宗教的言明にすぎないのではないだろうか。
一方、「現象的に今ここに現在しているクオリア」を根拠にしてそれが何を表しているものなのかの記述を紡ぎだしたときに、その記述が絶対的に正しいと言えるものになることはあり得ない。だって、その記述は、当然、言語的記述である。そして、それが言語であるためには、何らかの規則付けが必要である。ところが、その規則は規則のパラドクスによって、無限の規則内容を確定させ得ないことが明らかにされている。それゆえ、どんなに確かな根拠があったとしても、そこから世界にかんする某かの解釈を絶対的に正しい世界像として確定させることは、原理的にできない。どんな世界解釈も、それがどれほど確固としたものだと思われようとも「とりあえずそのように理解してみることにする」というような冒険的な仮説にすぎないものなのである。

だからこそ、逆に、世界存在を「現象的に今ここに現在しているクオリア」とは無関係な物理的存在として想定しようとすることは無意味な遊びでしかなく、そのような世界に価値はない。
つまり、もし世界の存在を有意味に認めようとするならば、「現在しているクオリア」が物理的存在自体を示すものだと捉える以外に世界を立ち上げる方法は無いのだ。
物理的存在というのは、「私と無関係などこかに勝手に存在しているような客観的事実」などではあり得ないのだ。そんな、水槽の脳のような無根拠な話は、まったく経験にもとづかない話で、根拠がないゆえに物理的事実であるとし得る可能性はない。それは、カントの言う「先験的実在論」でしかないもので、すなわち「経験的な観念論」に過ぎないものなのだ。僕らは、世界を根拠に基づいて有意味に記述しようとするためには「経験的な実在論」を採らねばならないのだ。そのためには、目の前に経験されることを元手にして、それを物理的事実と捉える以外ないのだ。物理法則や物理的事実を、神様が勝手に作り出した法則や僕とは関係のない事実などとするのではなく、僕のいるこの世界を説明するための規則だとせねば、いかなる世界記述も、根拠に基づいた有意味な世界像にはなり得ないのだ。僕は、僕に感じられるクオリアを元手に世界を説明する以外に世界を知る方法は無く、それゆえ、僕は、クオリアを必ず物理的だと「決めつける」以外に、世界を物理的に記述する方法を持ち得ず、それゆえ、そう決めつけねば世界を記述すること自体ができなくなってしまうのだ。

だから、世界の存在を有意味にするためには、クオリアは必然的にそして本質的に機能的なものであるとする以外にはあり得ないのだ。

クオリアは世界を記述するための唯一の根拠である。物理とは世界を系統的整合的に記述するための仮説的規則であり、物理的であるとは世界を系統的整合的に記述しようとし、そのために適合する規則を模索しようとすることである、とする。そして、その方法がもっとも有効で有意味な世界記述の方法であることは間違いない。また、この系統的整合的に世界を記述するためには、根拠が必要である。 すると、系統的整合的に世界を記述しようとするためには、必然的にクオリアは物理的であるものとして捉えなければならないことになるはずだ。

この、眼前に広がる視覚と解釈されるだろうクオリア、視覚以外の四感覚と解釈されるようなクオリア、眼球の裏側に思い起こされる記憶のクオリア、今このときには思い起こされていないけれど思い起こされ得るだろうという感覚だと解釈されるようなクオリア、思考のクオリア、希望のクオリア、悲しみのクオリア、欲望と解釈されそうなクオリア、などなどなど、あらゆるアクトゥアルなクオリアの混沌が、この僕の世界記述の根拠となる。このアクトゥアルなクオリアに基づいた僕の世界が、物理的実在世界を形作るのだ。その実在の世界においてのみ、僕は現実の世界を生きることができる。 ただし、その実在世界はアクトゥアルな世界ではあり得ない。その実在世界を記述する言語規則は、言語論的反実在論に基づくような不確定なものでしかなく、冒険的にとりあえずの仮説を措定するものでしかないからだ。 だから、僕は、そのような、必然的原理的に不確定な現実世界でのみ、カップ麺に湯を入れて食べようとすることができるのだ。

 

 

以上が、クオリアに関する僕の考察だ。
クオリアについての考察はここまででいったん切り上げて、次節からは、言語と世界そして主体と時間の関係について考えるため、デリダに挑みたい。

つづく

クオリア再考

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