フォト
無料ブログはココログ

« 「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ<クオリア再考20> | トップページ | 「クオリア」が必然的に物理的なわけ<クオリア再考22> »

2015年11月 2日 (月)

アクトゥアルな〈私〉の問い方<クオリア再考21>

以下、アクトゥアリテートが名詞であることをわかっていず、形容詞的に使ってしまっていましたので、「アクトゥアリテートな」「リアリテートな」と表記していたところをすべて「アクトゥアルな」「リアルな」に訂正しています。僕の、品詞の混同を指摘してくださったウラサキさん、ありがとうございます。

〈私〉の問いの意味を問う
Nagai
この世界は、なぜか世界の開闢者である〈私〉が開闢者であるにも関わらず世界の中の一人の主体としても存在しているという矛盾を抱えたあり方をしている。だから、〈私〉が存在しているというこの奇跡が、必然的に誰にでも当てはまるような一般論でしかないものに読み替えられてしまう。それゆえ、〈私〉の唯一絶対の現前性を取り戻すためには、その一般論全体を飲み込むような、さらなる上位の〈私〉を設定し直さなければならない。ところが、そのようにして〈私〉の唯一絶対の現前性を復活させたとしても、その上位の〈私〉を設定したとたん、それは世界の矛盾のために必然的に一般論としての〈私〉に格下げされてしまう。以下無限に続く。

この、永井哲学おなじみの主体に関する問い。この話は永井哲学の根本課題であるらしく、くりかえし何度もいろんな著作のなかで語られている。僕にとっても非常に魅力的な疑問で、これこそ哲学のもっとも本質的な問題であることは間違いない。でも僕には、永井の話は問題の整理の仕方において納得いかない部分がある。今日はこの〈私〉の問題について考える。
まずは、永井がどんな語り方をしているか、見ておこう。


〈私〉の問われ方(引用)

〈私〉のメタフィジックス1986.p75
全宇宙にどれだけの数の生命、意識、自己意識、あるいは意志主体、総じて心あるものが存在するのかは知らない。だが、そのうち〈私〉であるのはたったひとつである。それは、今これを書いているこの人間である。そこで次のように問わざるを得ない。この人間だけがこの私であって、他の無数の自己意識をもち意志的な諸主体はこの私ではないのは、なぜなのか、と。…永井均というこの人間は、現実の私とまったく同じあり方で存在しているにもかかわらず、彼はこの私ではなく、単なるある「私」のひとりであることも可能であるはずなのに、現実には、たまたま彼がそれ以上のありかたをしているのはどうしてか。

〈魂〉に対する態度1991.p172
私が存在していない場合、世界は図1のようなかたちをしている。そこには、並び立つ複数の人間が存在するだけである。私が存在している場合、世界は図2のような形をしている(図3は私の視点からみたその断面図である)。図2(および図3)はしかし、私が永井均という世界のひとりの人間と同定されることによって、図4に変転する。図3と図4は私が世界を表象するふたつの方式である。
172
…私が生み出され、今ここに存在しているということは、まったく奇跡的な出来事だ、ということである。ながく続いた、これからも続くであろう人類の歴史の中で、なぜか私は二十世紀の後半というこの時期に、そしておそらくはこの時期だけに存在している。…これはおどろくべきことではないか。注意すべきことは、驚くべきなのは諸々の性質の特定の仕方で束ねて出来たひとりの人間が存在していることでもなければ、それらの諸性質の基体なる永井均という個体(固定指示詞の指示対象)が存在することですらない、という点である。そのようなものが存在することができたと言って驚いているのではないのだ。この奇跡性は、時間的にではなく空間的に表象することもできる。今、現に存在している多数の人間のうち、どうしてあるひとりの人間だけが、この私であるという特別なあり方をしているのか、というようにである。どうして私はこの男でなければならなかったのか。そこにはいかなる必然性もない。

「〈子ども〉のための哲学」1996.p93
永井均という名前で指されるまさにその人物がいて、その人が脱人格的自己意識をもっていても、それだけでは〈ぼく〉がいたことにはならない。〈ぼく〉の存在はひとつの〈奇跡〉なのだ、と。ところが、この議論自体がだれにでもあてはまる一般論だったらしいのだ。

「哲学の密かな闘い」2013.p71
現実の世界は図1のようにはなってはいない。図1-1には個性の異なる複数の人間はいるが《私》(ただ個性が異なるだけでなく、そこから世界が開けている唯一の原点)が存在せず、図1-2には日付とさまざまな事件はあっても《今》(ただ起きている事件の内容が異なるだけではなく、そこから現に存在している唯一の時点)が存在しないからである。
73_2

「哲おじさんと学くん」2014.p110
哲 最初の図(第1図)は並在的世界像だ。形の違いは体や外見の違いを表している。体の中の黒塗りの部分はそれぞれの人の心を表していて、その形の違いは心の内容の違いを表している。こちらはもちろん外からは見えない。このような世界像で、学くんが悟じいさんになると言えば、星型の心が楕円形の体の中に入ることを意味するしかない。次の図(第2図)は特在的世界像だ。世界は現実にはなぜか学くんの目から見えており、現実に存在する思いはなぜか学くんの口からだけ出る。世界と学くんの心は一致している。その次の図(第3図)は、そういう世界の開けの原点が悟じいさんに移った場合だ。第2図から第3図への移行が特在的世界像における移動であるわけだ。

48

「哲学探究―存在と意味―」2014.(文学界連載第1回p148)
すべての人間に―それどころか、すべての生き物に―意識状態があるのに、なぜ現実にはある一つの意識しか意識できないのか。逆の形で表現するなら、なぜ一つは意識できる意識が存在するのか。この差異は何が生み出しているのか。この世に存在する生き物が殴られても蹴られても、ほとんどの場合は痛くも痒くもないのに、現実に痛い場合ケースが(今は)存在するのはどういうことなのだろうか。これはまったく驚くべきことではないか。

引用終わり

 

問いの内容

初期とそれ以降でやや表現が違っているが、「問い」の焦点は基本的に同じ「総じて心あるものが存在する…そのうち〈私〉であるのはたったひとつである」のはなぜか、だ。
ここで問われている問題は、永井という物理的実体としての人体がなぜ主体を持つのかという「心身」の問題ではない。また、永井という個人の人格を問うものでもない。現実に存在する「この〈私〉」は、永井という人格をもつから「この〈私〉」なのではなく、安倍という人格を持っていたとしても、横山という人格をもっていたとしても、現実に「この〈私〉」であったのであればそれが「この私」であるはずなのだから、現実の「この〈私〉」は人格とは無関係である。現実に宇宙の中心で世界を見ている唯一の主体であるこの事実だけの問題である。
問いの主要論点は次の3つであると思われる。
第1の問い、世界の開闢者である主体が存在しているが、それはなぜかという問い。
第2の問い、その開闢者である〈私〉が今ここで一人の人物として存在しているが、それはなぜかという問い。
第3の問い、私が現実の世界の開闢者なる主体であるというこの事実が誰にでも言える一般論になってしまうが、それはなぜかという問い。また、その中で〈私〉の唯一性を確保しておくことはできないのかという問い。
細かなことを言うと他にもいろいろあるだろうけれど、要点はこの3つに絞られると思う。

第1の問いは「なぜ何もないではなく、何かがあるのか」という問いと同質のものだと考えられる。その問いが有効な問いでないことは、すでに「「なぜ何もないではなく、何かがあるのか」を考える」のページで検討した。しかし、その語れないはずの、開闢者としての〈私〉が実際にここにあるのだから、その「謎」は解明されるべき問題としてあるはずだとも思える。しかし、この「〈私〉が実際にここにある」という思い込みが実は勘違いだと僕は考えている。でも、それは第2の問いと一緒に考えた方が説明しやすいので、先に第2の問いを考えることにする。

 

アクトゥアリテートな主体とレアリテートな主体

第2の問い、「開闢者である〈私〉が今ここで一人の人物として存在しているのはなぜか」について。
僕は、この〈私〉の問題の提起の仕方も、チャーマーズの意識のハードプロブレムと同様の(疑似問題だと言えるような)矛盾を抱え込んでいる、と考えている。つまりこういうことだ。〈私〉には2つの意味があって、1つは世界の開闢者としての主体、もう1つはすべての人間に備わっている主体で、脱人格的自己意識としての主体、この完全に異なる2つの主体概念を現実の1つの主体があわせ持っているのはなぜかという問いが、この問いである。しかし、その2つの結合は矛盾概念でしかないので永井の問いは疑似問題と見なすべきだということだ。
56331
この1つめの主体というのは、世界を認識する主体ではなく、世界そのものを存在させる、世界の開闢者としての主体で、無内包としての主体である。 「哲学の密かな闘い」で永井が紹介しているカント用語でいえば、「アクトゥアル(現実的)」なあり方をする。 また、ウィトゲンシュタインが「論考」の5.6331節で「視野は決してこのような形はしていない」としたときの、世界の存在者を存在者たらしめるような主体で、世界記述の中にそれが描きこまれることのない(それゆえ決して、存在とはいえないような)ものだ。原理的に語られる可能性がない。だから、今こうして僕が語っているのは本来の無内包や本来のアクトゥアルな主体そのものではあり得ない。記述可能な「どこにでもある」主体に矮小化したものを本来のアクトゥアリテートの比喩として語っているのにすぎない。「「語られうる」自己(レアリテートに回収されたアクトゥアリテート)なのである。」
そして、もう1つの主体は、世界の中に存在して世界を感覚し、知覚し、表象する主体であり、0次内包をつかさどる主体である。カント用語で言うと、実在する主体という意味でレアル(実在的)な主体であるという。それゆえ、図に描かれることができ、命題の主語になり得て、語られ得る。他者でも 誰でも人間ならその主体であり得る。

1つ目の主体をアクトゥアルな主体、2つ目の主体をレアルな主体と呼ぶとすれば、「世界の開闢者である〈私〉が今ここに個人として存在するのはなぜか」という第2の問いは、「アクトゥアルな〈私〉がレアルな存在であるのはなぜか」という問いに言い替えられる。
そう考えると、この問いが疑似問題であることが明らかではないだろうか。

 

POV映像

この問題を一つの比喩で考えてみる。POV(point of view)映像というものをご存知だろうか。登場人物(カメラマン)の目線でのカメラワークによって主観的ショットを作る撮影手法のことだ。「ブレアウィッチプロジェクト」とか「REC」などのホラーはこのPOVを上手く使い低予算で大ヒットを挙げた。
POVでは、観客はカメラマンの目線を持つことによって、ストーリー内の人物になった気分で映画を楽しむことができる。カメラの目線は、そのストーリーの中に存在する人間の目線だから、観客は登場人物になりきってストーリーに入り込める。
このとき、「観客の意識はカメラマンの意識に同調する」という言い方ができるかもしれないが、だからと言って、「観客の意識」と「カメラマンの意識」という2つの別々の意識だったものが同一になるということではない。また、観客がカメラマンに同調することが必然だったというわけでもない。観客はスクリーンの外の世界にいて、カメラマンは(その体が視界に入ってなかったとしても)スクリーンの中の世界にいるのだから、観客がカメラマンに同調するのは、同一だからでも必然だからでもない。
僕が何を主張しているか分かってもらえるだろうか。

たとえば、映像がスクリーンの中の世界に、悟、哲、学、晋三の4者がいることを映しているとする。このとき、スクリーンに映されているのは4つの人体であり、4者の活動の事象である。4人の主体は決して映されない。
(もしかすると、「主体まで映されている」という言い方も許されるかもしれない。映像に映っているものが、人体だと解釈され、活動だと解釈され、その上でその活動が主体を表していると解釈され得る。だから確かに、映像に映っているのが人体だと解釈されるのと同様に、主体だと解釈されることもあり得るとも言えるし、逆に、 映像に映っているのが人体だと解釈されることも、主体だと解釈されることも絶対的な解釈というわけではないと言うこともできる 。ただ、画像を指差して「これは悟の人体」「これは哲の人体」と指示することはしやすいが、主体を指差すことは容易ではない。そのような意味で、人体と主体を差別化することはできる。ここで、「人体は映されていて、主体は映されていない」と言っているのは、「映されている人体」は指差し得るが、「映されている主体そのもの」を指差すことはできない、という意味だと考えてほしい。)

Pov
私が学として存在しているのはなぜか

私が学として存在しているのはなぜか

さて今、学くんの眼によって撮影されたPOVを観賞しているとする。その映像を観た観客が「私が学として存在しているのはなぜか」と問うたとき、その問いは何を問うものだろうか。
それは、「観客である私に対して学くんの眼から世界が見えているのはなぜか」という問いではないだろう。そのような問いであったなら、答えは簡単だ。単に「そこにカメラがあったから」だ。単に「そのカメラが学の眼と名付けられていたから」だ。それだけのことだ。
だから、この「私が学として存在しているのはなぜか」という問いは、「私が『学の主体』として存在しているのはなぜか」という問いだと捉えるべきだろう。しかし、そのように捉えたとしても、その問いは有効な問いにはならない。だって、映像に学くんの主体が映っているわけではないのだから、「私が学の主体として存在している」という判断は、「もともと学の主体なるものが判別可能なものとしてあって、それと私とが同一であったことが検証され判明した」という意味ではあり得ない。この判断は「学と名付けられている人体に対して、それが或る主体を有していると解釈したならば、なぜ私は学の主体として存在しているのだろう」という判断でしかないはずだからだ。だから、この問いは「それぁ、そう解釈したのだから当たり前だろう」と即答されて終わりでしかないものなのだ。
この、「観客である私が学として存在しているのはなぜか」という問いは、結局、そのように「私が学だったとしたら、私が学であるのはなぜか」を問うだけの疑似問題だったと考えるべきなのだ。

そして、そう考えると、 「アクトゥアルな〈私〉がレアルな存在であるのはなぜか」という問いも、「アクトゥアルな〈私〉がレアルな存在としての主体として存在しているのだと解釈したのだが、それはなぜか」という問いだと考えるべきではないか。アクトゥアルな〈私〉という主体の存在を設定したまま、それとは別に、レアルな私なるものが固定指示され得るものとして存在すると前提し、そのうえで、その2者が同一だとしたのが、 「アクトゥアルな〈私〉がレアルな存在としての主体として存在している」という判断の意味だったのではないか。そして、その前提が間違っていたのではないか。

「アクトゥアルな〈私〉がレアルな存在であるのはなぜか」という問いは、真に問いたいことの問うことができない無効な問いでしかないと疑わざるを得ないのじゃないか。
しかし、それでもどんなに言語的にも原理的にも矛盾していたとしても、実際に「アクトゥアルな〈私〉がアクトゥアルな〈私〉でありながら、レアルな主体である」のだから仕方ないじゃないか。現実がそのような矛盾した在り方をしているのだから矛盾を受け入れるしかないのじゃないかと、いう気もする。永井ならば、主体に関するその矛盾を、人は言葉を累進させて易々と乗り越えていると言うかもしれない。
ああ、でもそれも、やはり勘違いでしかないと僕は考える。

 

鏡が左右反対に映るわけ

また、一つ例え話をする。鏡が左右反対に映るわけの話はご存じだろうか。鏡ってのは鏡面に対して立体的に面対称の図形を描くものだから、それは左右反対にものを映すのではなく、奥行きを反対に映していると言うべきなのだ。しかし、僕なんかはそう説明されても、まだやはり、でも実際に鏡は左右逆に映っているのだからその現実を受け入れなければならないのじゃないかと思ってしまう。でも、その思い込みはやはり間違っているのだ。
鏡に人形を映して、人形と鏡像をそれぞれ見てみると、確かに人形の右手が左に映っているように見える。ちゃんと左右反対になっているように見える。なぜか。このとき観察者は鏡を背に人形を見てそれから振り返って鏡に中の人形を見る。するとその2つの画像は観察者の視線とともに水平方向に回転して同一平面に並べられることになって、「左右逆になっている」と感じられるのだ。でも、観察者は水平方向に振り返るのではなく、縦方向に回転させ振り返ることだってできる(鉄棒に体を預けて回転するなど、かなり面倒ではあるだろうけど可能だ)。縦方向に振り返ったならば元像と鏡像は左右逆転ではなく上下逆転して見えるものになる。鏡像は必ずしも左右逆になるとはかぎらないのである。
Photo_3Photo_5
この「鏡像は左右逆転する」という判断は、「水平方向に体を回転させて振り返ったならば」という前提を入れた場合に限っては、「鏡像は左右逆転する」ものだとすることができるというものでしかなかったのだ。
「鏡が左右反対に映るのはなぜか」という問いは、その前提が入っていることを見落としたまま、無条件で「鏡像は左右逆転する」と言えると思い込んでしまっていた勘違いだったのだ。隠れた前提を見落としてしまっていただけのことだったのだ。

 

アクトゥアリテートに関する誤った前提

僕は、「 実際にアクトゥアルな〈私〉がアクトゥアルな〈私〉でありながら、レアルな主体であるのだから矛盾を受け入れないと仕方ない」という思い込みも隠れた前提を見落としたための勘違いだと考えている。どんな前提が隠れているかと言うと、もちろん、「アクトゥアルな〈私〉がアクトゥアルな〈私〉であるままにして、発言者になり得る」という前提であり、「「アクトゥアルな〈私〉」という語が真のアクトゥアルな〈私〉を指示し得ている」という前提だ。

アクトゥアルな〈私〉が世界を認識し、その認識内容を記述し発話する。するとその発話内容は他者からはレアルな主体が発声した記述であると解釈されるのだから、他者から見た場合には、発言は必ずレアルな主体によるものだと解釈されてしまう。けれども、自分自身から見た場合であれば、「アクトゥアルな主体による発言というものがある」と言えるような気がする。気はするが、これが誤った思い込みなのだ。仮にアクトゥアルな主体が「空が青い」と感じて心の中でそう思ったとして、そのとき、この命題を思ったというその事実に対して自分で振り返る作業がなければ、主体を問うことはできない。そして、その「空が青い」と発言した主体はアクトゥアルなものだったと判断しようとしたその瞬間、そのアクトゥアルな主体は、必然的に客体の次元のレアルな主体に成り下がってしまう。アクトゥアリテートな主体という概念は、原理的に、言明の対象になり得ないだけでなく、言明の発言者にもなり得ないのだ。ある言明を言明と捉えたなら、その発言者は必ずその捉えられ方の対象に成り下がらざるを得ないのだ。だから、当然、アクトゥアルな主体はあらゆる考察の対象にもなり得ない。
それゆえに、「 実際にアクトゥアルな〈私〉がアクトゥアルな〈私〉でありながら、レアルな主体である」という思い込みは、どうやったって、勘違いでしかないのだ。決して、「アクトゥアリテートとはどんなだ」などという発言はできないのだ。原理的に定義的に無理なのだ。

ああ、でもそれでも、発言できない内容かもしれないけれども、思考できない内容なのかもしれないけれども、現実の世界には言語に乗らない真実があるのだから、原理的に無理な発言だと言われたとしてもそれを乗り越えて語ろうとするしか無いのじゃないか、という思いも沸き立ってくる。

しかししかし、それでも、その思いさえ、やはり勘違いだとせねばならない。

 

僕の、アクトゥアリテートの語り方

ここで、第1の問い「世界の開闢者である主体が存在しているが、それはなぜか」を再度検討してみよう。「アクトゥアルな主体は、世界の開闢者である。それは、POVの比喩でいうと映像の観客の主体に当たる」などと僕はこれまで語ってきた。しかし、アクトゥアルな主体は原理的に語れないもののはずだった。それなのに、僕はどうやって語っていたのだろう。僕は、POVの観客であることという比喩を使って語っていた。これは、でも、「アクトゥアルな主体」の正しい記述にはもちろんなっていない。POVの観客なんてものは、比喩なのだから、それが現実であるはずがなく、どうやったってレアルなものでしかない。でも、POV映像の中の世界の主体と観客の主体というまったく別のレベルの2つの主体を比較することで、映画の中の主体から観客の主体へと飛躍という比喩によって、真の「アクトゥアルの主体」への飛躍を表現しようとしたのである。レアリテートを踏み台にして、さらに高いレベルの主体への飛躍の仕方を示そうとしたのだ。レアルな言説の中に、他者のレアルと他者のアクトゥアリテートという関係性を描き、その関係性を、現実の自己のレアリテートと現実の自己のアクトゥアリテートに投影することで、アクトゥアリテートを描こうとしたのだ。
このアクトゥアリテートへの挑戦の仕方はまさに永井の累進構造と同様の仕組みになっている。

 

真に問いたいアクトゥアリテートとは何か
(ここからが本節の本丸なのだけれど、僕の筆力がないため、今まで以上にひどく読みにくい駄文がだらだら続く。でも、僕としてはこれで精一杯なので我慢して読んでもらいたい。)

しかし、僕は、この方法によって語り得たものが真のアクトゥアリテートに少しでも近づけたとして良いのかという点で、疑問を感じている。それは、レアルな言説の中で語り得る、「他者のレアリテートと他者のアクトゥアリテートという関係性」なるものが、「実在のレアリテートと現実のアクトゥアリテートとの関係」と相似形になっているはずがない、としか思えないからである。
仮に、こんな、「レアルな言説の中で語り得るレベルの、他者のレアリテートと他者のアクトゥアリテートという関係性」なんかを踏み台にして語り得るようなアクトゥアリテートのことを、真の「現実のアクトゥアリテート」だとして良いと考えるのであれば、それによって、第1の問いを問うことも、第2の問いを問うことも、有効な問いだとして捉え得るだろう。
でも、そんな、「レアルな言説の中で語り得る、他者のレアリテートと他者のアクトゥアリテートという関係性」なんかを踏み台にして語り得るアクトゥアリテートなんかで、真の「現実のアクトゥアルな主体」が語れているはずがないとしか僕には思えない。言説中で語れるレアリテートとアクトゥアリテートの関係などどんなに頑張ったところでレアルなレベルを抜け出せるはずがないと。

ここまで僕がずっと語ってきた「アクトゥアルな〈私〉」なるものは、この累進システムによって語り得るものに変質させられた「バーチャルなレベルでのアクトゥアリテート」でしかないものであり、それを「アクトゥアルな〈私〉」として、比喩的に語っていたものでしかなかったのではないだろうか。
だから、もし、「この世界はなぜアクトゥアリテートな〈私〉がレアルな主体として存在しているのか」という問いが「アクトゥアルな〈私〉」を語り得ているとするのであれば、そこで問われている「アクトゥアルな〈私〉」とは「バーチャルなレベルでの疑似アクトゥアリテート」でしかないものを指していたにすぎない。そして、その問いが「バーチャルなレベルでの疑似アクトゥアルな〈私〉がレアルな主体として存在しているのはなぜか」というレベルの問題だけしか問えないようなものであったとしても、それで良いと納得してしまう程度のものだったのだ。
しかし、そんなレベルの問いが真に問いたかったことなのだろうか。そんなソフトな問題ではなく、言語では問うことができないような、真のアクトゥアリテートについての、もっとハードなプロブレムこそを問いたかったのではないのだろうか。

だから、第1の問いも、第2の問いも、実は問うことができていないとしなければならないはずだとしか、僕には思えないのだ。

本当に問いたいレベルの問いを問題にするのであれば、アクトゥアルな主体とレアルな主体が一致することはあり得ない。それゆえ、もし私が自分のことをレアルな主体だとするなら、それはもはやアクトゥアルな主体を指すものではあり得ず、私が自分のことをアクトゥアルな主体だとするならそれはレアルな主体ではあり得ない、と考えるのが、単純で正確な話なのではないか考えたのだが、どうだろう。

 

第3の問いについて

そして、そのようにアクトゥアルな主体をレアルな主体が一致することがあり得ない、という立場に立つならば、第3の問いもあっさりと解消する。
「私が現実の世界の開闢者なる主体であるというこの事実が、誰にでも言える一般論になるのはなぜか」というこの問い。この問いは、「私がアクトゥアルな主体であり、かつ、他者と並列の存在である」ということが前提とされていなければならないが、そのためには、アクトゥアルな主体とレアルな主体が一致することが許されねばならない。だから、第1第2の問いを否定する立場に立つならば第3の問いも必然的に否定されることになる。
だって、まあそうだろう。POVの比喩でいうなら、僕が劇場Aで「学くんの目線のPOV」を観ている。で、その映像世界の中の哲おじさんにも同様に哲おじさんの目線のPOVがあって、それが劇場Bで上映されている、と主張されている…というような話になるだろう。
哲おじさん目線のPOVの観客は私ではないのだから、それは定義的に、現実のアクトゥアルな主体であるはずがない。
だから、「私が現実の世界の開闢者なる主体であるというこの事実が誰にでも言える一般論になる」というその問いは、その表現自体が決して正しい表現ではなかったのだ。「私が現実の世界の開闢者なる主体であるという事実は、誰にでも言える一般論としての、レアルな内容に読み替えられなければ言語化できないので、必ず「実在する主体である」というレベルの事実に成り下がらなければならない。そのレアルな主体でしかなくなったものが誰にでも言える一般論になる」ってだけの話としてでしか問われ得ないはずなのである。もし第3の問いの真の意味を(真の意味なんてものがあったとして、それを)問おうとしたとしても、それは言語的に表現不可能な問題なのだ。

 

結局

だから、僕にはどうしても、第1の問いも第2の問いも第3の問いも有効な問いとして問われる可能性がないと思われる。
結局、「視野は決してこのような形はしていない」ということだ。
56331_2

永井の問いが哲学の本質を問う問いであることは間違いない。しかし、この問いは、本当に問いたいことが決して問うことができない問いであること、その不可能性を見つめることこそがこの問題の本当の解答であるような特殊な問いであるのだ。そして、その問い得なさの中にこそ、哲学的な真の問題が隠されているような、そんな「本質的な」疑似問題なのである。

どうだろう。納得できる話になっていたらいいのだけれど。

つづく

クオリア再考

大阪哲学同好会に来ませんか

« 「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ<クオリア再考20> | トップページ | 「クオリア」が必然的に物理的なわけ<クオリア再考22> »

コメント

師匠、また私のコメントで恐縮です。

金メダルをたくさんもらっている、内村さんという世界トップレベルの体操選手が、テレビのインタビューで、空中で身体をコントロールする時、自分の頭の中に小さな自分をイメージして、その小さな自分をコントロールすることで、自分の身体をコントロールしているというような趣旨の話をされていました。

レアリテートな主体としての「私」が、知覚する世界には、2つあるとします。
①目の前の世界
②頭の中のイメージの世界

①では、鏡無しで、自分の後頭部を見ることはできませんが、②では、自分の後頭部を見ることができます。内村さんの話は②です。

つまり、②では、主体は、知覚主体から傍観主体へと、移行できているように思います。さらに、内村さんの話は、傍観主体から知覚主体へと、フィードバックできることさえ示唆しています。

知覚主体をレアリテート主体、傍観主体をアクトゥアリテート主体と置き換えて考えるのは、違うでしょうか。

taatooさん、いつも興味深いコメントありがとうございます。

>知覚主体をレアリテート主体、傍観主体をアクトゥアリテート主体と置き換えて考える

傍観主体というものの意味を僕がしっかりつかめていないので、なんとも言えない部分はありますが、たぶん違うと思います。
その傍観主体というのは、この現実の世界を開闢している主体でなければ原理的にあり得ないもの、とは限らないですよね。だからです。

今回の文章は、永井均個人に宛てたファンレターのつもりで書いた要素が大きくて、あまり用語の分かりやすさに気を配っていませんでした。「アクトゥアリテート」について、もっときちんと語の意味を押さえるべきだったかもしれません。
その永井先生にもきちんと伝わる表現になっているか、どうか。読んでもらいたいとの連絡をし、研究室で11月5日に読むと言ってくださっていたので、すでに見てもらっていると思いますが、まだ内容については何も言われていないので、どこまで伝わっているか心許なく思っています。

永井さんの前座みたいで光栄です。

アスリートの場面で、小さな自分を俯瞰している自分は、レアリテート主体であり、世界を俯瞰しうるという意味では、無内包という究極のアクトゥアリテート主体の前座的アクトゥアリテート主体くらいにはなりえているのではないかと思ったのです。

無理ですね。


結局、永井先生からのコメントはいただけていません。先生の琴線に触れるレポートにはなってなかったみたいです。今回はがんばったのでちょっと自信があったので、残念がっています。

永井先生は今や、教祖みたいなものですから、
直接お返事を頂く事はあまり期待しない方が良いのではないでしょうか?
それより、彼の文章を我々の議論の叩き台として利用すればどうでしょう?

ウラサキさん。
ありがとうございます。おっしゃるようにしようと思います。

大学が休みになるくらいまでは、忙しいんじゃないですか。

哲学するには人生は忙しすぎる(11/3)、らしいです。


taatooさん、
ありがとうございます。優しい声かけがとても嬉しいです。

匿名で失礼します。興味深い説明ありがとうございます。永井均の「私」は何かを語るための抽象的形式として判断すべきだと思います。つまり「哲学の誠実な問いかけをするためには『私』がいなくてはならない」という典型的なカントの判断と同じだということです。

匿名さん、コメントありがとうございます。
その、「永井均の「私」は何かを語るための抽象的形式」というのは、カントのいうサブジェクトだったり、文の発話者や文の主語だったり、あるいは超越論的主観などといわれたりするもののことをおっしゃっていますか。それを永井は、〈私〉ではなく「私」として語っているということですか。

そうではありません。永井均は「私」をわざと繰り返し問題提起することで、「自分は哲学を誠実にやっている」という身ぶりを表現しているだけだということです。ですからこれは永井均がいういわゆる「哲学的問題」ではないということです。挨拶もなく失礼。

匿名さん、
永井は、〈私〉の問題が疑似問題であることを自ら気づきながら、それを欺くために問題を繰り返しているというのですか。それは、また、凄い見解ですね。
でも、もしそうだとしても、その永井の意図には僕はあまり興味がありません。それは哲学の問題ではないからです。

こんばんは。返信ありがとうございます。誤解を解くためにもう少し詳しく説明します。私が批判しているのは次の3つです。①意識にとって不調和が起こるのはなんらかの本質的な存在があるからに違いないから探求をしていこう。②誠実に考えているのだから何かを理解する時には達成感があるに違いない。③それ以外は「私にとって」本質的な問題ではない。私はこの種の考え方を宗教としてなら正当だと認めます。

匿名さん、
永井が累進構造によって私的言語を語れるとしているのも、僕がそんな累進構造なんかでは私的言語を語れるはずがないとしているのも、宗教的な正当性しかない、
ということなのでしょうか。

匿名の者です。私はあなたが私的言語を語ろうとしているのか、私的言語と名付けたものを語っているのか区別できません。私はあなたに宗教的正当性を与える権威はありません。したがってあなたの考えが宗教的正当性を持っているか判断できません。ところであなたがもし絶望しているのなら、私個人の提案でニーチェの『反時代的考察』の第三篇を読むことをお勧めしたいと思います。

匿名さん、、ありがとうございます。
反時代的考察第三篇ですね。覚えておきます。でも、僕は興味のある本一冊読むのにその周辺の関連本を数冊読まないと気がすまなくて、その一冊を読むとそこから思い付いた興味に関連するものを読まないと気がすまなくなってしまうので、なかなか新しい本にたどり着けません。
それでも、いつかは読みたいと思います。

初めての書き込みです。
最近、心の哲学や実在論認識論関連に興味を持つようになり、あなたのブログではそれらに関する話題について深く考察されているので数多くの項目を読み続けています。

さて、この「私」についてのテーマで自分が思っていることについてです。
私は基本的に実在論(ただし科学的実在論よりも経験的実在主義などに近いですが)を支持しているので、現実世界全体においての「私」はレアルな主体のことだと考えています。一方アクチュアルな「私」としては、現実世界ではなく、その人自身の心の認識世界における唯一の開闢者、つまり、この記事中での擬似アクチュアルにすぎない存在だと考えています。
個人的には、実在論的視点では擬似アクチュアルな主体であれば前者のレアルな主体と同時に成立するものだと思っています。つまり、問2や問3はこの記事での結論の通り、擬似アクチュアルな私であれば成立し、真のアクチュアルな私では擬似問題だというのが実在論的立場としての結論になりますがどうでしょうか。

長文で失礼いたしました。

亜留守さん、コメントありがとうございます。拙い記事でも読んでもらえてうれしいです。

>個人的には、実在論的視点では擬似アクチュアルな主体であれば前者のレアルな主体と同時に成立するものだと思っています。つまり、問2や問3はこの記事での結論の通り、擬似アクチュアルな私であれば成立し、真のアクチュアルな私では擬似問題だというのが実在論的立場としての結論になりますがどうでしょうか。

同意します。僕もその通りだと考えます。

師匠、こんばんわ。

「同時に成立する。」いいですね。
「成立する。」って、ある種の救いと思います。
「同時に」ということは、切っても切れないってことだから、日常には、結構、有効で流通しているってことですしね。
「疑似」って、わかっていれば、「疑似」も上等って、思うのです。

taatooさん、
そうですね。疑似と分かっていれば疑似も上等だと思います。
「レアルなアクトゥアル」なるものを想定すれば、それは一般的に実在する視点として語り得て、とても有効な語彙になると思います。

遅レスですが、前の自分のレスについて。
実在論全般の立場では真のアクチュアルな主体は有り得ないことになり、レアルな主体や擬似アクチュアルな主体のみ成立できるということも言いたかったのです。
以前どこかで実在論批判を見かけたとき、アクチュアルだと思えるような「私」の存在性の問題などが語られていて、そのことで気になっていましたので。

亜留守さん、ありがとうございます。

>以前どこかで実在論批判を見かけたとき、アクチュアルだと思えるような「私」の存在性の問題などが語られていて、そのことで気になっていました

たぶん、ご指摘のようなことはあると思います。これまで、アクトゥアルな視点とレアルな視点のしっかりとした区別をしなくてはいけないという意識が薄かったので、その点をあいまいにして書いてしまった個所もあると思います。
僕のこのブログは、僕が勉強しながら何年かかけて書き溜めてきた内容ですので、あとから読み返してみると、「それは違うだろう」と恥ずかしくなるような書き方をしている部分が山ほどあります。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/548679/62602134

この記事へのトラックバック一覧です: アクトゥアルな〈私〉の問い方<クオリア再考21>:

« 「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ<クオリア再考20> | トップページ | 「クオリア」が必然的に物理的なわけ<クオリア再考22> »