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« 0次内包・マイナス内包・無内包<クオリア再考16> | トップページ | 第21回大阪哲学同好会の発表用レジュメ「クオリアの意味を考える」 »

2015年9月 6日 (日)

永井の累進構造説は無内包を語り得るか<クオリア再考17>

意識があることや意識の質がどんなであるかということがどうやったら確かめられるか、という問題について、チャーマーズはそれを「宇宙の中心」であることによってだと言った。

「われわれはなぜ同様な議論によって、もし意識体験が論理的に付随し損なったら、自分自身の意識についてすら知ることができなくなる、と結論するよう迫られないのか。その答え。それは、意識体験はわれわれが認識する宇宙のまさに中心に位置するからである。」(チャーマーズ「意識する心」p106)

まさしくこの考えは、永井の言う〈私〉によって意識の存在が確かめられるという問題理解と同じものなのではないだろうか。
永井はこの独在性の視点こそが、現象的意識を考えるための本質だと言う。チャーマーズがゾンビを考えるときにもそれを「誰かの複製」というものではなく、「私の複製」としている点がその本質を表しているというのだ。
問題のこの捉え方は僕も大賛成だ。世界がここに開闢していることが、現象的意識が生じているという問題そのものに大きく関わっていることは間違いないと思う。本節では、この独在性の視点と累進構造によって意識が語り得るものになるという、永井説を検証してみる。

 

〈私〉、無内包、宇宙の中心、コギト、私は私の世界、の視点がクオリアを有意味にする

永井の言う〈私〉も無内包も、チャーマーズの言う「宇宙の中心」も、デカルトの「コギト」も、ウィトゲンシュタインの「私は私の世界」も、世界を開闢し世界の中心で世界を認識する主体だという意味でよく似たものだと言えるだろう。これらはどれも厳密にその意味を考えた場合には語り得ないものでしかないはずのものだ。
たとえば、デカルトの「我思うゆえに我あり」については、「我思うゆえに誰あり」のページで考えたように、さらにきちんと考えようとすれば「世界あり」としか言えないようなレベルの話になるはずだ。「我思うゆえに我あり」と言うときの「我」などというものは、決して世界の中にある実体としての存在者ではなく、「私は私の世界」というときの「私」とでも言えるようなものだと考えられる。そして、「我思うゆえに我あり」でもって言いたかった「絶対的な世界像」は「世界あり」としか言えないようなもののはずなのだ。私がどれほどこの世界を疑ってみても絶対的に疑えないこととして世界が存在しているという事実があり、それを開闢させている主体があるという事実があり、その主体が感じているクオリアがあるという事実があるという、この視点こそが、「クオリア」や「現象的意識」に意味を持たせることができる唯一の視点であり、そしてそれが絶対的事実なのである。この、世界の開闢者としての主体が、現象的意識が存在することの根拠だと考えるべきだというのが、永井の主張だと僕は理解している。

 

「あり」の意味と、「世界あり」はどこまで語り得るか

さて、この開闢者としての主体による現象的意識を独在的意識と呼ぶとすれば、その独在的意識はどこまで語ることができるものなのだろうか。僕は、これはまったく語り得ないものだと考えている。「世界あり」についてでも、実はそれさえ語れないものだと僕は考えているのだ。
なぜか。
たとえば、デカルトの「コギト」を「世界あり」として読み替えたうえで、その「世界あり」が意味ある発言になり得るかどうかについて考えてみよう。今、ここに世界は実際に存在していて私がそれをあると感じてしまっている。だから、「世界あり」は、絶対的に真なる命題だと言えそうに思える。しかし、ちょっと待て。「絶対的真なる命題」などという言葉はそれ自体矛盾表現ではないか。Wikipediaによれば、命題とは「それが真か偽かどちらであるかという真理の担い手となることを目的とするもの」である。つまり、命題とは、世界がどんなであるかを分析するために真か偽かに切り分けるためのナイフであり、真か偽かに分けるときにその分け方の意味を指定するルール自体であるものだ。我々は、このルールをもったナイフで世界を真か偽かに切り分けることによって、世界がどんなものであるかを分析することができるようになるのだ。そうだとすると、我々が「何かがある」ということを理解するということは、「ある」と「無い」とを判別し得ると規定しておいて、そのうちの一方が世界の現実に一致すると判断するという意味であり、その意味でしか「何かがある」を理解することはできないのだ。
だから、命題が意味を持つためには真でも偽でもあり得るような論理的可能性がなければならないはずだ。「絶対的命題」なるものが、偽の論理的可能性を持たない命題というものを指すとすれば、それはそれこそ論理矛盾になってしまうのだ。

しかし、そうは言っても、「世界あり」という命題は、ここに、実際に、確かに絶対的に正しい世界像を表しているではないか。独在性の〈私〉という特異点の存在によって、絶対的に真なる命題が、ここに一つだけ許されているのではないのか。
否。そーではない。
「世界あり」という命題が本当に命題であるためには、それが真である可能世界と偽である可能世界があることを前提とされていて、その二者のうちの真である可能世界が現実であると理解するようなものでなければならない。そのシステムが用意されることによって、はじめてその命題は意味を持てるようになるのだ。もし「世界あり」を意味ある命題だと捉えているというのであれば、それが偽になるような可能世界がある論理的可能性を許しているはずだということ、そのものであるのだ。つまり、「世界あり」が有意味だとすれば、その命題が言おうとしていることは、世界があるか無いかを判別することができるとしたときの、「ある」でしかないはずなのだ。

 

無内包の「ある」が0次内包の「ある」に読み替えられてしまうわけ

僕が言おうとすることは分かってもらえるだろうか。
その、世界があるか無いかを判別できるとしたときの「ある」というのは、もはや、無内包のレベルの「ある」ではなくて0次内包の「ある」でしかない、ということが言いたいのだ。
「無内包のレベルの『ある』」というのは、誰でもが「私」であると主張できるような次元の「私」が見た「ある」ではなく、現実のこの世界を開闢している唯一の主体としての〈私〉の視点でもって見た「ある」であり、〈私〉もろともに世界が開闢している「この」事実のことである。一方、「0次内包の『ある』」というのは、僕以外の多数の「私」をも「私」として認め、その「私」が世界を観察し発見する主体になっているという視点において、その視点で観察されている世界が存在することである。

さてそうすると、もし「世界がある」が偽である可能性を考えようとするなら、「世界がない」という状態がどんな状態であったとしても、そのような状態があることにならなければならない。確かに、「世界がない」という状態を想像することはできるような気がする。しかし、その「世界がない」という状態ってのは、たかだか、「0次内包レベルの『世界がある』」が偽だという次元の話でしかないはずだ。なぜなら、それは、その「無い」という状態を想像している「無内包の主体」は絶対的に「無い」とすることはできないからだ。どんなに無内包の主体の無い状態の可能性を考えようとしても、その可能性が考えられたときには、世界の開闢者はその無くなった世界の手前に抜け出してきて、「無くなった世界の外から無くなった世界が無くなっている状態を開闢している」ということになってしまう。
だから、逆に言うと、「世界あり」という命題が本当に意味を持っているのは、その0次内包の視点での、誰でもが世界の開闢者であり得るという次元での「世界あり」だ、という話に落とし込まれてしまわざるを得ないのだ。デカルトが本当に言いたかったはずの絶対確実な「コギト」は言葉では語れないのだ。永井が言おうとしている〈私〉は原理的に言語化できないのだ。

 

永井の累進構造説

〈私〉の視点による独在論的な世界の存在を語ることができないのだから、独在性が保証している現象的な意識やクオリアなんてものも原理的に語り得ないはずなのだ。
しかし、それでも、永井はその〈私〉も現象的意識もクオリアをも語り得ることになると言うだろう。たしかに、「無内包の主体そのもの」が「ある」とか「無い」などと言うときそれが意味していることを想像しようとして、「無内包の主体そのもの」が無い状態を考えたとしても、そこに存在しなくなるのは「0次内包の主体」でしかなく、「無内包の主体そのもの」の存在は存在したまま逃げていってしまう。だから、無内包の主体を「無い」ことにすることは決してできない。それゆえ、無内包の存在についての話は真理値の無いナンセンスで語れないはずのものだ。それなのに、ここでちゃんと、こうして、無内包の主体の存在を語ることができてしまっているではないか。今ここで、このように矛盾を乗り越えて語り得ている事実こそが、永井の言う累進構造の仕事らしいのだ。

事実、「無内包の主体」の存在をそのまま捕まえることはできない。できないが、無内包の主体に逃げられたときに無内包の主体の身代わりとして捉えられた「0次内包の主体」を、思考の踏み台にして、そこから逃がしてしまった何かを「無内包の主体」として展望する。そして、さらにその展望した「無内包の主体」を捉えようとする。そしてまた身代わりに捉えた「0次内包の主体」を踏み台にして、逃してしまった「無内包の主体」を展望する。そのくりかえしをすることで、「無内包の主体」を語り得たことにしてしまう、というアイデアが、永井の累進構造説の要点だろう。
「次元の0次内包」に矮小化されてしまったような、入手できた〈私〉や現象的意識やクオリアから、展望し捕まえようとする運動を累進的に重ねることで、無内包のレベルの本来の〈私〉や現象的意識やクオリアが語り得るようになるし、我々は、現に、すでにそうやって語り得ているというわけである。実際、このブログ自体でこうやって、無内包を語り得ているのだから、このアイデアは実効性のある、きちんとした考えかもしれないと言いたくなる。

 

「 Д⌒яЮ 」に成る焼き芋

でも、僕は、これを語り得ているとすることが正当な「語り得る」になっているかという点で疑問に思っている。
たとえば、こんな寓話を考えてみよう。
「『テーブルの上に焼き芋が一本ある。この焼き芋は手を触れた瞬間に Д⌒яЮ に成る』と書かれた紙を拾った」――という話だ。この話で、「 Д⌒яЮ 」なるものの意味が分からない。「 Д⌒яЮ 」なるものの意味を、「テーブルの上の焼き芋につれようとした瞬間に焼き芋が変わってしまう何か」だとすることはできるだろう。しかし、その「触れようとした瞬間に焼き芋が変わる、それが何なのか」は決して分からず、語ることができない。「触れようとした瞬間に焼き芋が変わってしまうものXとは触れようとした瞬間に焼き芋が変わってしまうそのものである」と言ったところで何も語ったことにはならない。「 Д⌒яЮ 」が何を表すものかが、原理的に誰も知ることができないものであったのなら、この紙にその答えは書かれていないとするべきなのではないだろうか。

同様に、無内包はそれを掴もうとしたとたんに、0次内包に変わってしまうような何かだ、などと言ったところで何かを語ったことにはならない。それを、無理して語ったことにしてしまおうとしたのが、永井の累進構造説なのではないだろうか。

 

このブログで無内包もクオリアも語っていないか

でも、確かに、僕は、このブログで無内包について、そしてクオリアについて、いろいろと語ってきている。しかし、それは、所詮、原理的に捕まえられないナンセンスなものをナンセンスなものとして語っているだけのものだったり、実は語り得る内容に矮小化されたものによって、語り得たふうを装ったりしているだけのものなのだ。
このページの上の方で、僕は、
「「無内包のレベルの『ある』」というのは、誰でもが「私」であると主張できるような次元の「私」が見た「ある」ではなく、現実のこの世界を開闢している唯一の主体としての〈私〉の視点でもって見た「ある」であり」
などと言って、高らかに「無内包」を語っている。しかし、ここで語られている「無内包」は真の無内包ではなく、実は「0次内包のレベルに落とし込まれてしまったもの」でしかなかったのだ。真の「無内包」などは語り得ないナンセンスであるし、実はそれが何なのかということを僕は僕自身でも知り得ないはずなのだ。

 

無内包やクオリアを持ち出すから語れなくなるんじゃないか

そんなバカは話が本当だろうか。本当にそうだとしたら、私が世界を開闢しているという事実も、現に意識の質を感じているという事実も、語れないということなのか。――でも、僕は、この疑問に対しても否定的に考えている。
無内包やクオリアなんて、ナンセンスで語り得ない。でも、それは、無内包やクオリアが「無い」と言っているのではない。ただただ、ナンセンスだと言っているのだ。僕がこの世界を確かに見ていることや、意識に質が感じられること自体は、わざわざ「無内包」レベルの話を持ち出さなくても、0次内包や1次内包のレベルで十分に語り得るし、わざわざ「機能のないクオリア」なんて話を持ち出さなくても、反省できる意識のレベルで十分語り得るはずだと思うのだ。「わざわざ持ち出さなくても」どころか、そんなナンセンスを持ち出してくるから語れなくなってしまうのだと、僕は考えているのだ。

この考えについては、クオリア否定派のデネットの話を読み取りながら、考察していきたい。次節で。

つづく

クオリア再考

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コメント

①「絶対的真なる命題」は、矛盾ではなく、単なる恒真、トートロジーではないですか。つまり「世界あり」は世界がある場合に限り真、かつ世界は存在し発言している、よって真。
それで、ウィトゲンシュタイの言うように、トートロジーは何も語らない(②と関連)。だから無内包は、入不二氏の言う通り、「端的に」ある。そもそも、可能世界とかそんな余地はなく、それが全てであり、絶対的なもの。
無内包は、いかなる内包からも関係を作られないし、「有意味」であるはずがないのではないでしょうか。

私は今日、『〈私〉の哲学を哲学する』を一読し終えたばかりで、これから読み込むので、的はずれかもしれません。

現に私は、理解も不十分で混乱しています。
「世界あり」がトートロジーだと、ラカンの話で「真理を真理たらしめる真理」と無内包は異なるとされたましたよね。
「世界あり」のトートロジーは、同じなのでしょうか。

でも「真理の真理」というトートロジーと「無内包」が異なるだけで、「世界あり」は「世界」と無内包の対比だから良いのか。

②命題とは、世界を真偽で分けるのではなく、命題自体の真偽が世界によって決まるんですよね?そうして決まったものが真理となり、世界は分析される。
だからトートロジーは、それと無関係に世界はそうあるので、何も分析結果を残さない、つまり語らない。

③焼き芋の話
ここでは、誰も理解できないとありますが、書いた人間は理解してるはずですよね?
一応これは書いておくべきかと。

無内包が何かは語れません。
それは永井氏も入不二氏も言っています。
語れないものが何かではなく、累進構造で「なぜ語れないか」を示したのではないですか。
両氏とも、語ることで「それは何か」を伝えることができる、とは最初から思ってないでしょう。

でも読み手は、語られている内容を自分なりに解釈できます。
自分が最上段に立って。

同様に、焼き芋の例でも、実際に触れてみることで、記号列の意味を自分なりに規定できます。
それは書いた人間と違うはずです。

tyさん、鋭い指摘ありがとうございます。本質をついたコメントいただけてとてもうれしいです。
でも、残念ながら、僕の主張とtyさんの理解とは少し違っているところがあります。確かに、指摘されたような受け取りかたをされても仕方ないような僕の書き方になっていましたから、もっと気をつけて表現しなくちゃいけないと反省しています。

①について、
僕が矛盾表現だと言ったのは、「絶対的に真なる命題」というその表現自体を指して言ったものです。「世界あり」についてではありません。そして、僕の主張では「世界あり」はトートロジーでもありません。
たとえば、「赤いものは赤い」というトートロジー文は「赤いものはFだ」と「xは赤い」の二つの有意味な関数が組み合わさって、たまたま無意味になってしまったものだと考えられますが、無内包レベルの「世界あり」は、そのようなたまたまの無意味ではなくて、もともとナンセンスなものだとせぬばならないと考えています。これをトートロジーだと解釈してしまうと0次内包レベルの「世界あり」でしかなくなってしまうと思うのです。どうでしょうか。

②について、
「命題自体の真偽が世界によって決まる」とも、もちろん言うことができますが、「命題によって世界の分析方法が初めて決まる」という言い方もできるとか思います。ここでは、後者に視点をおいた見方をしてみるとき、命題自体が分析のルールを持ち得ないなら、それはトートロジーでさえなくナンセンスになることを示したかったのです。

③について、
「書いた人間は理解してるはず」という話にしたくなくて、「と書かれた紙を拾った」という設定にしたのです。一見、何か内容がある文のように見えても、もしかすると、書いた人間など居なくて、実は蟻の這い跡がたまたま文字らしく見えたものかもしれない、といったような、トートロジーでさえない、デタラメな落書きというものをイメージしてもらいたかったのです。
そして、焼き芋に触れることができれば焼き芋が何になるのか分かってゲームが始められるようになる、というのは仰るとおりではあります。ですが、今考えている「世界あり」というのは、文の内包や外延が何を指すかを捕まえようとしてもどこまでも逃げていってしまって、そのものには触れることができないようなものです。だから、実際に触れてみれば分かるという話にはできないのです。
そのようなデタラメのナンセンスをいくら累進構造にして重ねても、そこから、意味を紡ぎ出すことは無理じゃないかと考えたわけです。

「(両氏とも)語れないものが何かではなく、累進構造で『なぜ語れないか』を示したのではないですか」という点について、

もしかすると、入不二はそう考えているのかも知れませんが、累進構造についてはあまり語ってないので分かりません。でも、永井については「なぜ語れないのか」を示そうとしただけではなく、累進構造によって語りうるものになっているのだとしていると思います。
私信によると「『自分自身がゾンビでないこと』も『クオリア』も有意味な公共言語としてありうるどころかそうでしかありえない」「本来語りえないのではなく『累進構造』によって語りうるわけですし、・・・『実は無い』ものを言語が捏造してしまった世界にわれわれは住んでいる(そしてそこからみれば逆に語れるが)わけです」だそうです。

それに、③についてはちゃんと、

>「 Д⌒яЮ 」が何を表すものかが、原理的に誰も知ることができないものであったのなら、この紙にその答えは書かれていないとするべきなのではないだろうか。

という仮定の話として言いたいことを喋ってましたから、大丈夫だとおもうのですが。

議論の前提となる事柄について、お聞きします。

デカルトを例に出されているので、彼の方法的懐疑により到達した、「我」という存在について。
とても簡単に、というか、できる限り余計な言葉を排して簡単に言うべきと思うので、そうします。
これは到達した瞬間が始点であり、そして永遠で全体でもある、そんなものでいいですか?

内包は以下。
言語=「第一次内包」から、概念枠という交わりはあるものの非言語である「第0次内包」に行き、さらにその背景に混沌とした「マイナス内包」。
さらにこれらすべてに対して一方的に(向こう側から)「無内包」。


全体的に、私の理解力と文章力のなさ、という問題があるので、その点はすいませんとしか言えないですが。
(すいません。)
一大学生なので、ご容赦ください。

①「絶対的真の命題」は矛盾でしょうか?
私にはトートロジーのこととしか思えません。

でもそれは本質ではありません。
ここで言いたかったのは、矛盾ということを持ち出す意味がない、ということです。

トートロジーであれ、矛盾であれ、それは真偽という二値論理を前提としています。
だから可能世界なんていう考えが出てきてしまいます。
ここで言う可能世界は結局、排中律ですね。
「世界あり」は真か偽である、という。
でもそれがすべてである「世界あり」や「無内包」に、真偽という二値は、そもそも存在しません。

なので「絶対的真の命題」が矛盾というのではなく、「絶対的真」や「命題」と言ってしまうこと自体が問題ではないでしょうか。

「無内包」や「世界あり」は、可能的なものではないからです。

最初に「命題」としてとらえたことが、すでに第0次内包だったのですよね?


【1.5】

あと、ここでは関係ないかもしれませんが、以下の規定はどういう意味でしょうか。

>>「ある」と「無い」とを判別し得ると規定しておいて

「無い」とは、判別されるのでしょうか。
つまり判別可能であるなら、「無い」ということから「ある」を導き出せますよね?

では「無いということ」とは何でしょうか?
これは「無という存在」という大きな問題なので、気になりました。


「命題自体の真偽が世界によって決まる」
「命題によって世界の分析方法が初めて決まる」

言い方は違えど、両者の結果は、同じですね。
可能世界の中から現実世界を特定しようと、現実世界が決定していて命題の真偽が確定しようと、結局は同じ。

ただ私が気になったのは、世界の真偽を決定するナイフだとすると、そのナイフの真偽は何によって決まるのか、ということです。

>>我々は、このルールをもったナイフで世界を真か偽かに切り分ける

この文では、世界の真偽を命題が決定づける、という意味に取られます。

そうではなく分析とは、命題の真偽を世界の在り方から決定し、そしてその命題が世界の理解・分析になる。
私は、そう考えていました。

③たとえ話をすること自体が、変な感じがします。
「例える」というのは、ある物事を別の表現で言い換えることですから。

端的に、「例えられません」のほうが、逆に伝わるのではないでしょうか。

伝わるというのは、受け取った側が最上段に立てるということです。
最上段に立てるというのは、こういうことです。
こういうこととは、まさにこれですよ。
・・・言語機能停止・・・沈黙。


「なぜ語れないのか」と「語りうるものになっている」は、メッセージとしては同じですよね。
「語りうるもの」は、「語りたいこと」ではなく、だから「語れない」という感じで。


無内包のたとえは、宇宙を擬人化する、というのはどうですか。

宇宙君は、ビッグバンによって誕生し、現在も膨張しているのですが、とりあえずその外側はないとします。
それとビッグバンを「点」とします。

すると宇宙君は、ビッグバンという点でありながら、それは全体であったわけです。
その宇宙君は、「私は宇宙です」とは言えません。
そこは宇宙君がすべてで、さまざま存在する星は宇宙君の部分だからです。
つまり宇宙君しかしないのだから、「宇宙でないもの」は存在しません。

しかし宇宙の一部である、地球君はあるとき目覚めてしまいました。
そして自分というのは何か、なぜ存在しているのか、ほかの星と何か違う、等を考え始めます。

でもこの話を聞く、私たちには、わかりますよね。
あなたは宇宙で、宇宙はビッグバンで誕生したのだ、と。

無内包は、まさにビッグバンではないでしょうか?
それがすべてで、一瞬で永遠で。


デカルトが神の存在証明を、「我」から行ったことも、こういうことなのかな、と思っています。


こういう話はメタ的視点の方が、同一平面上よりもわかりやすいのかな、と思います。

あと気になったことがありました。

④無内包と0次内包の違いについてです。

『意識はなぜ実在しないか』で三つの内包が使われていました。
そして入不二により二つの内包が加えられます。
(永井さんは、マイナス内包を否定)


私は、永井さんが、どう考えているのかわからなくなりました。

『意識』では、最上段の現象的レベルの第0次内包が、私だけのものとされます。

しかしそこには、「Xのクオリア」と〈これ〉が混同されていました。
それは、入不二氏の指摘により、0次内包と無内包に分けられます。


これにより、第0次内包、すなわちクオリアは他人にも認められたのでしょうか?

現象的には、私はゾンビではなく、他人はゾンビと言っていたので、それは認められないのではないか、と考えていたのですが。

結局、永井さんの〈私〉は、〈 〉が重要で、クオリアさえも自他ともに認めたのでしょうか?

tyさん、議論ができてうれしいです。

>デカルトの方法的懐疑により到達した、「我」という存在について。これは到達した瞬間が始点であり、そして永遠で全体でもある、そんなものでいいですか?

素敵な表現でとても良いです。

>内包は以下。言語=「第一次内包」から、概念枠という交わりはあるものの非言語である「第0次内包」に行き、さらにその背景に混沌とした「マイナス内包」。さらにこれらすべてに対して一方的に(向こう側から)「無内包」。

1次内包が言語、0次内包が非言語というくくりかたはやや雑なまとめかたに思えます。「なぜ意識が実在しないのか」での0次内包はマイナス内包も無内包も含んだもので非言語の中身もありましたが、「〈私〉の哲学」で「当初の0次内包」と分類されるものはもはやそれらをふくみませんので、ただ個人的な言語だというだけで非言語ではないと思います。

>① なので「絶対的真の命題」が矛盾というのではなく、「絶対的真」や「命題」と言ってしまうこと自体が問題ではないでしょうか。

そのとおりです。ですから、「世界あり」で言いたかったことというのは、命題ではなく、真でないどころか真理値をもたず、ナンセンスでしかないというのが僕の主張です。その主張のために「絶対的真の命題」などという矛盾表現を持ち出したわけです。(繰り返しますが、「絶対的真の命題」が矛盾表現だといっているのであってれ「世界あり」が矛盾だと言っているのではないですよ。)


>「世界あり」や「無内包」に、真偽という二値は、そもそも存在しません。

>【1.5】>>「ある」と「無い」とを判別し得ると規定しておいて 「無い」とは、判別されるのでしょうか。つまり判別可能であるなら、「無い」ということから「ある」を導き出せますよね?では「無いということ」とは何でしょうか?

について、これは、排中律と有意味性の関係についての問題と理解しました。
僕は、それについて、ダメットの反実在論の立場に深く賛同しています。言葉の意味を意味付けるには排中律がひつようではあるが、言語的実在論者が言うような無制限に固定的排中律が設定できると考えるのは無謀だ。でも、排中律がなければ意味は紡ぎ出せないので、とりあえず冒険的に限定的な排中律を仮設定してしまう、というアイデアです。

http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/4-fde6.html
のページ以降にくわしくかきましたのでご参照ください。
見当外れな回答になってしまつたでしょうか。

今はとりあえずここまで、回答しておきます。
残りはまた、あとで。

こちらこそ、うれしいです。
まだご回答が途中のようですが、忘れないうちに書いておきます。


>>1次内包が言語、0次内包が非言語というくくりかたはやや雑なまとめかたに思えます

たしかに雑でした。
「概念枠という交わり」と言ったことで、私的性を示したつもりだったのと、勝手に「非言語」を「非公共的言語」と考えていました。
きちんと書いておきます。
以下でよいでしょうか。

第一次内包:公共的言語の文脈において、自他の区別なく、理解されるもの。
「リンゴは赤い」(「Xは赤い」)

第0次内包:公共的言語の概念枠を引き継ぎつつも、私的な体験を内実として持つ。概念枠により顕在化したクオリアである。私的言語と言える。
「赤さ」(公共言語「赤」+私的なクオリア)

マイナス内包:概念枠のない、潜在的なクオリア。クオリアの闇。

無内包:「現実性」を一方的に与える。(上記の内包に対する「場?」「始点?」。)


★無内包(真の第0次内包)は、「現実性」・「独在性」を第0次内包に与える。
「痛い」と言ったときに公共的になりえない部分、公共性から自立した顕在的クオリアは、無内包によって比類なきものとなっている。
そして「私」においては、その【無内包+0内包】の〈私〉が、なぜか第二次内包の「私」(人格)と一致している。
この「開闢」(無内包)と「人格」の一致こそ、驚天動地の出来事である。

この解釈に問題はありますか?
なんか自信がないのですが。



>>「世界あり」が矛盾だと言っているのではない

理解しているつもりですが、私のほうに何か勘違いがありましたか?
一番最初のコメントにおいても、「世界あり」が矛盾であるということは言っていないつもりです。

>「世界あり」は、絶対的に真なる命題だと言えそうに思える

あくまでこれを仮定にして、それに則って話を展開し、結局この仮定そのものが間違っている、ということ示したつもりでした。

つまり、こういうことです。
無内包(「世界あり」)は、絶対である。
「世界あり」を命題とする。
命題には真偽という二値がある。
たとえ矛盾にしろ、恒真にしろ、その結果以前は二値のいずれかである。
(無制限の排中律の使用を拒否するなら、二値の定まっていない可能性も含む)

ゆえに無内包が絶対ということと【矛盾】する。
よって、命題「世界あり」は、無内包ではなく、その仮定は誤りである。


「絶対的真なる命題」が矛盾表現というのは、この全体で示された【矛盾】を示したかったのでしょうか?

「絶対的真なる命題」という表現は矛盾ではなく、たとえば「((P⇒Q)∧P)⇒Q」のような、恒真だと思うのですが。

【1.5】
反実在論ということは、構成主義的な見地でしょうか?
つまり無限の総体がすでに実在するとして、そこで排中律を無制限に使用するのではなく、私たちの限られた視野において使用するべき。そしてその限られた使用というのは、数学的帰納法によって可能な無限においてである。
こういうことですか?

もしこの通りであれば、「在る」と「無い」は限定的な排中律になりえないのではないでしょうか。

実在論では、無限の総体を実在とみなすので、「~ではないもの」もその総体、すなわち集合として括ることができます。

しかし反実在論では、「~ではないもの」は、ただ「~」以外を認識していく作業が続くだけなので、「無い」という総体は存在しない。

例えば「リンゴではないもの」は、実在論者にとって「りんごではないもの」として存在します。それはリンゴ以外の集合です。

しかし反実在論者にとっては、「リンゴではないもの」は「ぶどう」「オレンジ」「桃」・・・、があるだけ。

「ある」と「無い」の排中律は、使用できないのではないですか?
これは「限定的」なのでしょうか?

まったく詳しくないので、間違っているかもしれません。

tyさん、面白いです。

>無内包は、まさにビッグバンではないでしょうか?それがすべてで、一瞬で永遠で。

これ面白いし分かりやすいし、良いですね。

>第一次内包:公共的言語の文脈において…そして「私」においては、その【無内包+0内包】の〈私〉が、なぜか第二次内包の「私」(人格)と一致している。この「開闢」(無内包)と「人格」の一致こそ、驚天動地の出来事である。

これも上手なまとめ方だと思います。たぶん、永井の考え方に沿っていると思いますし、たぶん正しいと思います。ただ、僕の考えは反永井的なところがあって無内包の私が二次内包の私と一致することなどありえないと考えていますが、それは別問題ですね。


>無内包(「世界あり」)は、絶対である。 「世界あり」を命題とする。…ゆえに無内包が絶対ということと【矛盾】する。よって、命題「世界あり」は、無内包ではなく、その仮定は誤りである。

これも分かりやすくて好きです。でも、僕は「よって、『世界あり』は命題ではなく、仮定は誤りである」と結論付けられると考えます。

>「絶対的真なる命題」が矛盾表現というのは、この全体で示された【矛盾】を示したかったのでしょうか?

まったくその通りです。…「命題は必ず真理値を持つ」「真理値があるなら、真偽の判断基準がある」ところが「「絶対的真なるもの」は真偽の判断基準がない」ゆえに「絶対的真であり、かつ、命題である」は矛盾している。…ということです。

>>>我々は、このルールをもったナイフで世界を真か偽かに切り分ける>この文では、世界の真偽を命題が決定づける、という意味に取られます。

これはまさしく、世界の真偽を命題が決定づけるという意味なのです。ただし、命題の意味は決して命題だけで自立できるものではなく、世界との言語使用の関係によって意味づけられるものです。tyさんは命題の意味が世界によって決まるとお考えのようですから外在論的な考えをお持ちですか。僕は内在論的な言語の捉え方をしています。しかし、ダメットの反実在論は単なる内在論ではなく、命題の意味が発話者の意図だけで決定できるとは考えません。言語の使用の中でしか言語の意味のルールはルールたり得ず、しかもそのルールはウィトゲンシュタインの規則のパラドクスのために、決して確定させることができないルールとして捉えられます。確定され得ないルールを、それでも某かのルールとして意味を持たせるような言語ゲームを冒険的に作っていこうとすることしか、我々にできることはない。その中で、たまたま上手くいったゲームにおいて語の意味は意味たり得る。そのような言語観を僕は持っています。その言語観から見ると、外在主義者は、言葉が魔法の力を持っていることを無邪気に信じているように見えて、なぜそんなに無邪気になれるのか不思議に思えます。規則のパラドクスはご存知ですか。

>結局、永井さんの〈私〉は、〈 〉が重要で、クオリアさえも自他ともに認めたのでしょうか?

この点はよく分かりません。どうなのでしょうか。

ひとつひとつ回答してくださって、ありがとうございます。


>>無内包の私が二次内包の私と一致することなどありえないと考えています

私は、無内包(「現実性」)というのは、私だけではなく、すべてに対していると考えました。
(他人にも。)
だから結局、唯一の〈私〉というのは、0次内包の問題ではないかと。
0次内包は、概念枠が存在するので、公共的言語とつながっており、それゆえ第一次内包、第二次内包と関連していきます。

永井さんは、0次内包と無内包の区別がはっきりしていないように思えます。


>>規則のパラドクスはご存知ですか

これってウィトゲンシュタインのでしょうか?
規則は行為の仕方を決めることができない。
(論理空間において、規則は一つではない。)

クワインの「理論の決定不全性」みたいな感じだったと記憶しています。

つまり横山さんは、言語が問題なく運用されているとき、問題ないがゆえに真である、とお考えということですか?
だから世界に真偽の決定権はない、と。

こうであれば、何も反論できません。
全く正しいと思います。

ただこの立場は、無限を「無限回の操作」としますよね?
その場合、「ないものがある」はどうなるのでしょうか。

そこは問題にならないのでしょうか。
「あるかないか」は、問題なく運用されるので?


もしかしたら全く的外れかもしれません。
そうであれば、すみません。

「理論の決定不全性」と「ウィトゲンシュタインの規則のパラドクス」は、言われてみればよく似てますね。ただし、クワインの方は世界の解釈が一意的に決められないとする点に重点が置かれているのに対し、ウィトゲンシュタインのは規則(命題や関数など)の解釈が一意的には決まらないという点に重点があります。

>だから世界に真偽の決定権はない、と。

とも言えますが、その前に、自分で何を言っているのかさえ決定できない、とも言えるような、かなり不安定な言語規則のイメージです。
「反実在論」という言葉が、科学的実在論に対する反実在論の立場と、語の意味を決定させることができるとする言語的実在論に対する反実在論の立場と、異なる反実在論が二つあるので混同されがちなのだそうですが、ダメットの反実在論は後者です。科学的反実在論はたとえば懐疑主義や現象主義と親和性が高く、唯物論とは低いように僕には感じられますが、ダメットの言語論的反実在論は逆に唯物論の方に親和性があるように僕は感じています。

>ただこの立場は、無限を「無限回の操作」としますよね?

ダメットの反実在論は数学的構成主義や直観主義と関連付けて語られることが多いですから、tyさんの指摘はもっともです。
でも、規則のパラドクスの破壊力は、実は可能無限が可能かどうかも確定させることができない、というところにまで及びます。ですから、逆に、「ある」「無し」の意味を作ろうとするときに実無限や可能無限に達しないところからでも、ゲームをでっちあげられるのであり、上の本文の考察はそのような次元でのゲーム成立の可能性について考えようとしたものなのです。

今現在扱っているクオリアの概念がナンセンスだとして
仮にそれを切り捨ててしまったならば、
今後のクオリアの概念がナンセンスだと確定しまう可能性はあります。
そういった状況では
「今のクオリアはナンセンスだ」の言明は
「今後のクオリアはナンセンスだ」と同じ言明をしているのではないか
と、私は考えてみるのです。
ですから、意地悪な質問だとは承知の上で、
「今後のクオリアはナンセンスだ」と言っているのだと考えてもよいのか
答えていただきたいと思います。

Jさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

今後のクオリアって何ですか。何を指示されようとした言葉なのか、もう少し補足説明してもらえませんか。

言語論的反実在論に関して


なんとなくですが理解できたように思います。
たしかウィトゲンシュタインは、計算における規則の例を出していたように思います。
「以下同様」という、規則に従った操作の繰り返しを決定する唯一の規則は存在しない。

これによれば、言語のルールは決定できない、ということですね。
(言語は一例であり、すべてのルールが決定されない。)

ということは、言語は使用規則によって使用される、というよりも
問題なく使用されることが規則である、と言えるのでしょうか?

そしてその問題のない言語運用に関して、私たちは考える、ということですか?

tyさん、
そうなんです。規則には絶対確実な規定方法はないのです。それでも、言語が規則として働いてくれるような方法を冒険的に探り探り、試していく以外に世界を語ろうとすることはできません。そして、その方法を試すためには、対象の語の使用例を、「この場合は真になりこの場合は偽になる」というように示し、あとは以下同様、とする以外ありません。だから、偽になるような見本の例を示し得ない語では、どうやったって、有意味な語りになるような言語ゲームが始められないと考えるのです。

『「今後将来、クオリアは常にナンセンスなものだ」と語っているのか?』
という質問だと思ってください。

Jさん、
僕のクオリア批判は、言葉が指す意味の問題として考えているものです。ですから、今ナンセンスな用語であれば、その用語に関するルールが変わらないのであれば、今後将来もナンセンスでしかないと考えます。今のクオリアと明日のクオリアが違う意味を持つというのであれば、その意味をもっと詳しくうかがわなければ回答できません。

横山さん、哲学初心者の私の質問に対して、丁寧な回答をしていただき、ありがとうございました。
私の世界がだいぶ広がりました。

tyさん、こちらこそ。たいへん興味深い視点でいろいろと指摘していただいたおかげで、自分の考えをずいぶん整理できました。ありがたかったです。またいつでもお越しください。

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