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2015年9月27日 (日)

「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ<クオリア再考20>

言語以前の感覚「!」

2015年9月21日大阪哲学同好会で「クオリアの意味を考える」を発表してきた。いろいろな意見を戦わせることができてとても楽しく充実した話ができた。僕はもちろん非機能的クオリアのナンセンス性を主張した。それに対する反論疑問の中で大きな論点になったのが次のような視点である。
「非機能的クオリアや表象の内在的側面に類されるようなものが言語化できないとされるのは分かるとして、機能がある方の意識や表象の志向的側面に類されるようなものについても、それは、言葉だけで表されるもの以外のものがあるのじゃないか。」「たとえば、ヘレンケラーの『water』という叫びの有意味性を保証するためには『!』とでも記す以外ないような(言語以前のものとしての)感覚そのものがあるはずだ。」というものだ。また、「言語を超えた思考(あるいは思考ともいえないような何か)があるはずだ。」と言った人もいた。今日は、この「!」とでも言う以外に表しようがないものについて考えてみる。

 
「生(なま)の原質」と「無内包の現実」
Irifuji_3 Irifuji・Motoyoshi
入不二基義(1958-)は、第6回ハイデガーフォーラムのレポート「無についての問い方・語り方」で、その「!」にあたるものを「概念化されない生(なま)の原質」と「無内包の現実」に分けて考えている。「概念化されない生の原質」は、ウィトゲンシュタイン「論考」の「3.221命題はただものがいかにあるかを語り得るだけで、それが何であるかを語ることはできない」というところの「それが何であるか」にあたる部分である。一方、「無内包の現実」は、独在性の基盤としての「この世界が現実に、今、このとおりに存在しているということそのもの」のことである。この、「生の原質」も「無内包の現実」も「!」として表されるものであり、「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係によって言語化して分析することが不可能なものである。

これについて、入不二は「無」を
① 偽装された無:電灯が灯っていないこと
② ほんとうの無:電灯がないこと
③ 外部の無:電灯の有無を考える可能世界の外部がないこと
④ 可能世界自体の無:可能世界がないこと

の4段階に分類したうえで、「生の原質」をその「第4の無」に当てはめて、次のように考察する。

「…「無内包の現実」「絶対現実」という存在と「遡及的に働く自己末梢の極致」としての無(第4段階の無)について論じてきた。さて、この存在と無とのあいだに「無ではなくて存在」という否定関係があるだろうか。両者の間には〈ではなくて〉によって媒介される排中律保存的な否定関係など成立しない。むしろ、次のように捉えるべきである。一つは、現実の内にこそ第4段階の無が含まれているという捉え方である。…「無内包の現実」「絶対現実」という存在には認識論的な観点での無内包が重ねられているだけでなく形而上学的な観点での無(第4段階の無)も浸透している。この点では存在と無は(疑似)矛盾的に一体化している(あると無いとは一つになっている)と言うべきである。」(入不二「無についての問い方・語り方」)

この捉え方をすると、「無内包がない」や「生の原質がない」という言い方をした場合の「ない」という語の意味は「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係が却下されたうえでの「あるかつない」ということを意味するものでしかないということになる。永井均の「累進構造説」で語られる「語り得る」や「語り得ない」はこれに分類されると思われる。つまり、累進構造説では「語り得る」は「語り得ない」でもあるものであり、「語り得ないが否定される〈ということを示すものではない〉」ということでしかないのである。さらに、入不二はもう一つの「ない」の捉え方を提示する。

「もう一つは、「無内包の現実」「絶対現実」という存在と「遡及的に働く自己末梢の極致」としての無(第4段階の無)とは関係の持ちようがない(非時間的なものと時間なるものの無関係)。あるいは、もし「無内包の現実」「絶対現実」が時間的なものだとするならば、その場合には、現実この今こそが、まさに現実と時間の接点にあたるであろう。しかし、「現実のこの今」と「過去」、「現実のこの今」と「未来」とは前後裁断と呼ぶのが相応しく、端的に無関係なのである。」(入不二、同)

この捉え方をすると、「無内包がない」や「生の原質がない」という言い方をした場合の「ない」という語の意味は「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係が却下されたうえで、(ここまでは、さっきと全くいっしょだが、ここからが違う)「あるはある。ないはない。」ということを意味することになる。だから、まさしく端的に、永井の「累進構造説によって語り得る」という言は語り得ないことになるのである。

言語以前の「!」はその語義として言語以前の存在なのだから、当然、語り得ない。「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係が原理的に却下されているのだ。その「!」が「無内包の現実」を意味していたとしても「生の原質」を意味していたとしても語り得ないのは当たり前なのだ。しかし、だ。

 
「!」はなぜ語られているのか

しかし、その語り得なさをさらに分析することができるのではないだろうか。
また、「たとえば、ヘレンケラーの『water』という叫びの有意味性を保証するためには『!』とでも記す以外ないような(言語以前のものとしての)感覚そのものがあるはずだ。」という言語以前のものを問題にしている問いを今ここで言語で語れているというのは一体どういうことなのだろうか。

その答えは、二つあると思う。
一つは、語そのものの有意味性と語の内包や外延の有意味性との混同という、単純な勘違いである。「生の原質」や「無内包」という言葉自体が有意味なのかナンセンスなのかを語ることはできる。しかし、「生の原質」の外延や「無内包」の外延はナンセンスなものであるのだから、それを「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係でもって語ることはできない。「生の原質」のナンセンス性を語れているからと言ってそれがナンセンスではないというのは、その語られているレベルの混同に過ぎない。

もう一つは、「生の原質」が機能的で能力的な分析に一致するものとしてしまうことによって、その能力的部分によって語られることにするというパターンがあることである。「無内包」は、「現実のこの今」と「過去」、「現実のこの今」と「未来」、「現実のこの我」と「他者」との裁断という、その本質によって、「ない〈ではなくて〉ある」という否定関係でもって語ることはできないということは明らかである。
しかし、「生の原質」の方はさらに、語られ得る可能性が全くないものと、その可能性が開けているものとに分けられる、と考えられる。

 
「飲んでみないとわからない」の二つの意味

たとえば、今日、テレビでレポーターが名水を飲んで「この水はねぇ、飲んでみないとわからない」と言っていた。「飲んでみないとわからない」ってことは、その水の味わいは言葉だけでは伝えられないけれど、実際に飲んでもらったらレポーターが味わった感じを伝えることができるってことだろう。しかし、感覚なるものの捉え方には、このレポーターの味わった感じを実際に飲んでもらえれば伝えられるとするような捉え方と、レポーターの感覚と他者の感覚は違うのだから実際に飲んでもらったとしても伝わらないとする捉え方があるだろう。この二つの感覚の捉え方がそれぞれ「生の原質」に通じるのではないか。
実際に他者が飲んでもどうしても伝わらない(それどころか、さっき自分で味わった味と同一であるかどうかさえ判別する方法がない)ような「その場に特化例化された感覚質そのもの」が、本来の「生の原質」のはずである。これは、表象主義が「知覚の内在的特徴」と呼んだものに当たる。他者に伝えることも自分でその真理値を確かめることができないのだから、この「その場に特化例化された感覚質そのもの」としての「生の原質」はどうやったって、言語化不能である。
これに対して、「その水を飲んでみたら分かる」とする立場に立てるのならば「生の原質」が語り得るものになる道が開ける。そのレポーターと僕の舌の構造はまったく同じでなないだろうし、味覚を感じる脳構造も違うだろう。だから、そのレポーターの味わった味を僕が実際に味わうことは現実的には不可能だろう。しかし、レポーターと僕の味蕾細胞や味覚神経や脳組織の構成を比較することなどによって、レポーターの味わった味わいを有意味に想像することはできるし、どこまでもその精度を高めていくことができるはずだ、とする立場に立つのだ。これは、表象主義が「志向的クオリア」と呼んでものに当たるのだろう。ただし、「生の原質」は、水を飲んでみれば伝えられるとされる味わいそのものではないし、志向的クオリアそのものではない。「生の原質」は言語以前のものなのだから、「伝えられるとされる味わい」であったり、他者と共有可能とされる「志向的クオリア」であったりするわけがない。「生の原質」は、その伝えられる味わいから伝えられる部分を引き算した残りであり、志向的クオリアから「それがいかにあるか」を表す分析的言語化や客観化や汎化された部分を取り除いた残りであるはずだ。だから、「生の原質」そのものはやはり言語化できるわけではない。「生の原質」に付随する能力的機能的な性質があることにして、その能力的機能的性質を語ることによって「生の原質」そのものを語ったことにしてしまうという前提を導入することにしてしまう。そうすることによって、語り得ないはずの「生の原質」が語り得るものとして捉えられるとするのだ。

 
意識とは何か

これはある意味順当な説明のように見えるかもしれない。しかし、「語れない「生の原質」なるものが「存在していて」それが能力的機能的な性質に付随して語り得るものの影に隠れている」というように「生の原質」を解釈するのは、虚しいトリックだとデネット(1942-)は言う。「!」を意識として個別に取り出しそうとすることの虚しさを下のような小噺にして説いている。その「!」が機能や能力を持っていないものとして取り出そうとしても、その「!」がはたして「クオリア」という名に値するものなのかどうかという点に関して、一切の根拠がないと言うのだ。
DennettDaniel.Dennett
「意識とは何か
Phil: 意識とは何かね?
Sim: 私秘的で、固定視点的で、内面的で、経験に対して一人称的にアクセスできる視点を持つ行為者だということさ。
P:しかし、意識にはそれ以上のものがある。ロボットがその視点を持つ行為者だったとしても意識は持たない。
S:もちろん、それだけではないさ。僕たち意識を持つ生物は気づいていることに気づくこともできる。経験と思い出の違いを反省し、思い出と経験の違いについて考えることと、見ることと聞くことに違いについて考えることとの違いを反省することもできるさ。
P:いや、意識にはまだそれ以上のものがある。そんな反省ならロボットでもできる。でも、ロボットの主観性は私たちの主観性とは程遠い。
S:たしかに意識にはそれ以上のものがあるよ。僕たちが識別する状態の一部は、感情的価値の次元を持っている。
P:いやいや、意識にはそれ以上のものがあるのだ。ロボットが何かの選好の順位を内像させ得ることは想像できる。しかし、それには赤レンガが織りなす現象的詩情を私が鑑賞するようなものは含まれていない。
S:それは認めるし、もっとほかにもあるだろうさ。今しているような話題と将来出てくるような課題を合わせて、あなたは自我の感覚を繰るのに成功するかもしれないし、さらに、他にもいろいろあるかもしれない。
P:違う。意識にそれ以上のものがあるのは当然なのだ。君のリストに欠けているものが分かった。反省に関する反省のメタ状態、メタメタ状態のすべての能力傾向とメタ能力のすべてを、ある種のロボットに作りこむことは可能だろう。しかし、ロボットには、実在する感触、現象的特質が一切含まれていない。君はクオリアと呼ばれているものを除外している。
S:僕はあなたの質問に答えて「現象的」性質を追加してきたと思っていた。しかし、あなたは僕がそれを始めてさえいなかったと言う。ならば、僕はまずその現象的性質とは何なのかを知りたい。あなたは、その現象的性質を例示できるかい。たとえば、僕があるトラウマのせいである色を急に嫌いになったとしたら、そのトラウマは僕の色に対する現象的性質を変えたと言えるのか。
P:いいや、君に起こる能力的性質自体は現象的性質ではないよ。定義によって、現象的性質は能力的性質ではなく、むしろ内在的で一人称視点だけからアクセスできるのだ。

――こうして僕らは不思議の国に辿り着く。もし、クオリアをあらゆる能力的性質と無関係にすべての因果関係と切り離して考慮された経験の内在的性質として定義するなら、広義の機能主義を回避することが論理的に保証される。しかし、それは虚しい勝利である。その「現象的性質」の存在を信じる理由がまったくなくなってしまうからである。」(デネット「スウィートドリームズ」p248の内容をかいつまんだ)

 
「生の原質」を切り出すことの虚しさ

「!」がもし有意味に語られ得るのであれば、それは決して、能力的機能的性質をすべて剥奪された「生の原質」そのものなんかではない。「!」が語られうるのであれば、それは能力的機能的性質を決してはぎ取ることのできない「機能性ともろともの原質」として捉えられなければならないのだ。仮に、能力的機能的性質をはぎ取った「生の原質」なるものを語ろうとしたとしても、それが何者であるかの根拠が全くないナンセンスでしかないものになってしまうのだ。大体能力的機能的性質を排してしまったら、根拠を失うどころか、それを指示する方法を誰も持ちえないものになってしまうのだから、自分でも何を指しているか分からなくなってしまうのだ。
だから、結局、「!」は機能的なものを根拠にして語る以外ないし、機能的なものの陰に非機能的な「生の原質」が「存在」するなどと想定することは、無根拠で虚しい遊びでしかないのだ。「ヘレンケラーの『water』という叫びの有意味性を保証するためには『!』とでも記す以外ないような(言語以前のものとしての)感覚そのものがあるはずだ。」という言い方ができるというのは勘違いで「ヘレンケラーの『water』という叫びの有意味性を保証するためには様々な言語に変換される可能性のある感覚が必要だ。」と言わねばならなかったのだ。

結局、心の謎はネーミングの謎に集約されてしまわざるを得ないのだ。

どうだろう。僕の偏見だろうか。

つづく

クオリア再考

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コメント

入不二さんのレポート面白いですね。運命論の本も出てるみたいだし。読んでみたいです。

以前、入不二さんと永井さんの対談で、永井さんは一神教的で、ご自身は汎神論的だと話されてました。さしずめ、師匠は無神論的でしょうか。ただ、紙一重という人もいるようですけど。


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