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« メアリーの部屋と、物的知識と、他者の知覚を有意味に知れること<クオリア再考18> | トップページ | 「生の原質」だけを切り出すことの虚しさ<クオリア再考20> »

2015年9月19日 (土)

デネットのカルテジアン劇場とハードクエスチョン<クオリア再考19>

意識のハードプロブレム

脳神経構造におけるいかなる過程が意識の「機能」を成立させるのかという問いこそが、意識の成立過程の問題だとするのが、一般的な脳科学の方法である。しかし、多くの哲学者がそれでは意識の問題の最も重要な視点が抜け落ちてしまうと考えている。その最重要課題とされているものが、チャーマーズの「意識のハードプロブレム」である。
意識のハードプロブレムとは、「クオリアや現象的意識というような非物理的な主観的体験が、物理的物質である脳からどのようにして生まれるのか」を問う問いである。脳科学の方法は、しょせん意識の機能面を扱うものに過ぎず、意識の本質であるはずの非機能的なクオリアや現象的意識を扱うことができないとする考え方である。
僕は、ハードプロブレムなどというものは疑似問題でしかないとし、クオリアや現象的意識が有意味だとする主張を全否定する立場をとっている。この僕の立場は科学では主流であるが、残念ながら哲学分野ではまったくのマイノリティーになってしまっている。

 
カルテジアン劇場
DennettDaniel.Dennett

そんな厳しい状況の中でも、ダニエル・デネット(1942-)は、ずっと一貫してそのマイノリティーの立場からハードプロブレムを否定し、カルテジアン劇場の比喩を用いてクオリア主義を糾弾してきた。カルテジアン劇場(デカルト劇場)というのは、人が見た知覚映像が脳内スクリーンに映し出されそれを脳内にいる小人(ホムンクルス)が見ているとする、知覚の成立過程システムのことである。このようなイメージで知覚を解釈してしまうと、そのホムンクルスの脳内にさらに小さな小人を想定しなくてはならなくなり、無限後退に陥るという批判になっている。

「脳が無数の小人たちで構成されているものとして理解することは有用であるが、小人たちが一部の同胞を脳内有名人へ昇格させるために必要がある程度に、その小人たちが意識をもつものであると想像しようとするならば、私の意識の理論に明白な無限後退を組み込むことになってしまう問題が生じるだろう。この無限後退の可能性は、しばしばこのような前兆を上手く封じる方法、すなわち、基本的な考え方を放棄するのではなく、それを柔軟にすることによって止めることができる。そのような小人たちが、それが一部となって構成する知的媒体より愚かで無知である限り、小人の中への小人の埋め込みは有限で、機械で置き換えられる程度に、たいしたことにないエージェントの段階で底を打つことがあり得る。」(デネット「スウィートドリームズ」邦訳p230)

でも、まあ、クオリア主義者たちがクオリアに信奉したくなる気持ちも分からないでもない。意識の問題を意識の「機能」として扱うだけであるのなら、感覚の質としての「これ」がまるっきり扱われないまま、すっぽりと置き去りにされてしまうのではないかと心配になる。しかし、そんな気がするというのも、よく考えると、どんな気がしているのか自分でもよく分かっていないか、単なる勘違いであるかのどちらかであるはずなのだ。
意識のハードプロブレムは、意識の問題の本質が、非機能的なところにあると考える。だから、そのために、自分自身が知り得るクオリアのどれもが一切機能を持たないと考えることになる。
僕は、クオリアが機能を持たないのであれば自分自身でさえそれを有意味に知り得るはずがない、ということをいろいろな場で主張させてもらっている。クオリアが有意味に知り得るのであれば、すでにそのこと自体が機能の働いていることの証明になってしまっているからだ。どう考えても、非機能的であるとされるクオリアと、自分で有意味に知り得るとされるクオリアとは、まったく別々のものである、としか僕には考えられない。
この、僕の主張に対して、自分自身が有意味に知り得ない意識なんていうものは語義矛盾でしかないはずだから、僕の方がナンセンスだと反論する方がたくさんいらっしゃる。

 
クオリアこそがカルテジアン劇場

しかし、そのクオリア信奉者たちの主張は、意識が意識として立ち上がる謎に対して、機能に還元させようとすることも物理的因果関係で説明しようとすることもしないまま、機能のないクオリアに謎を集約させてしまうことによって、問題の解明を先送りしているものでしかない。意識の問題を先送りし何の解決にもなっていないという点で、クオリア主義はカルテジアン劇場そのものではないだろうか。
主体の私が世界を知覚するメカニズムは、世界をそのまま知覚して認識するものとして解釈しようとするのではなく、クオリアなる心象を知覚して認識するものとして解釈しようとするものなのだから、まさしく脳内のカルテジアン劇場においてホムンクルスという内なる主体の私が世界を見ているとする知覚認知システムそのものではないか。

だから、非機能的なクオリアで知覚成立を説明しようとする想定では、意識の謎に対する解決にはまったくならないのだ。唯々問題を無限後退させていくだけの、(まさしく哲学的な機能から外れた)遊びにしかなっていないのだ。
そしてもちろん、ハードプロブレムも、意識の問題解決のための適切な問いにはなっておらず、ただ、先送りしているだけの疑似問題だとせねばならないのだ。

 
ハードクエスチョン

デネットは、ハードプロブレムを批判し、それに対して本当に対峙しなければならない課題としてハードクエスチョンなるものを提示している。

「脳の中にはいかなる王も国営放送の視聴装置もカルテジアン劇場も存在していないが、内容が長期にわたって行使する政治力には、今もまだかなり際立った差異がある。意識の理論が説明しなければならないのは、少数の内容がこの政治力に高められ、脳内で展開するプロジェクトの中でささやかな役割を果たしたあと、雲散霧消し忘れ去られるのは何故かということである。なぜこれが意識の理論の課題なのか?なぜならそれこそが意識的な出来事がなすことだからである。意識的な出来事は停留し、「脚光を浴びて」時間を独占する。しかし私たちはこの魅力的な比喩と注意のサーチライトという考えを説明して消し去らなければならない。そのためには、注意を向ける単一の原点を前提にしないで、注意もつかむという機能的な力を説明しなければひならない。これが、私がハードクエスチョンと呼ぶものの要点である。すなわち、「それでいったい何が起こるのか?(And then what happens?)」という問題である。」(「スウィートドリームズ」p230)

僕たちが取り組まなければならない問題は、「注意のサーチライト」などという比喩で意識が起こることを説明することではなく、「注意のサーチライト」などという比喩で表される事態の「あとに」いったい何が起こっているのかを明らかにすることによって、「意識なるもの」を分析の俎上に乗せ、その上で「注意のサーチライト」などという比喩で表される事態のもとで何が起こっているのかを明らかにして、そのような比喩的説明を消去できるようにすることなのである。
たとえば「クオリア」などというアイデアをもってきて、機能がないものを土俵に乗せようとしたところで、単に問題を先送りにしていることにしかならないのであれば、意識の発生時点と事後で何が起こっているのかというような、きちんと問うことができる何かを土俵の上に乗せる以外に意識の謎に迫る方法は無いのじゃないか。そして、意識の発生時点と事後で何が起こっているのかを問うというのは、結局、「意識の機能」の発生のメカニズムを探ることによって意識の意味を考えようとすることなのではないだろうか。

脳神経構造におけるいかなる過程が意識の「機能」を成立させるのかという問いこそが、意識の成立過程の問題だとするべきなのだ。

(デネットのこの考察はたいへん素晴らしく、僕は大いに共感している。だが、彼のネーミングセンスにはあまり共感できない。僕も他人のことは言えないが、「ハードクエスチョン」などと言うのが気恥ずかしくなるのは僕だけだろうか。すでに人口に膾炙していた自身の「多草稿モデル」という理論名を、「ファンタジーエコー理論」という名で名付け直してさらに分かりにくいものにしてしまったところにもそのセンスの負の部分が出てしまったと思う。)

 

科学の課題と哲学の課題

本章のこれまでのページで、非機能的クオリアがナンセンスであることを考えてきた。そして、そのような非機能的なものを相手にしようとするのではなく、きちんと機能のあるような意識を相手にすればそれで良いのではないだろうか。道で倒れている人に意識があるかないかは、意図的に運動できるかとか目の焦点が合うかだとかそのような機能でふつう判断する。自分に意識があるかないかは、意識があると「思える」かどうかで判断する。この「思えるかどうか」ってのも機能的事実で判断していると言える。結局、意識は機能的事実で判断するものであり、そうするしかないのだ。だから、非機能的なクオリアではなく、物理的概念である「物的概念」についての知識を持ち得ていると判断できるような機能的事実、あるいは経験的知識を得ていると判断できるような機能的事実があることをもって、「意識がある」とすべきであり、そのような場面で「いったい何が起きているのか」という科学的課題にしか、意識の問題は隠れていないことを明らかにすることこそが、哲学の仕事なのではないのじゃないだろうか。

意識の問題には、すでにして「何も隠されていない」のではないだろうか。

つづく

クオリア再考

大阪哲学同好会に来ませんか

 

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コメント

>自分に意識があるかないかは、意識があると「思える」かどうかで判断する。

その機能は「言葉以後の世界」ではじめて実装される機能ですよね。では、生後間もないあかんぼうの場合はどうでしょうか。あかんぼうが「ある」とか「思える」とかいうことを明確に判断する機能を持っているとは(少なくともわたしには)思えません。だとすると、あかんぼうには意識はないのでしょうか。あるいは動物の場合は?

rararaさん、コメントありがとうございます。ようこそいらっしゃいました。

言語を持たない動物や赤ん坊は、「意識が無い」のではなく、「自分に意識があるかないかを判断できない」ということだと思います。

横山さん、こんにちは。

クオリアについては、それを持つ人と持たない人、あるいはそれを十分に意識化できない人がいると思っています。もちろん、痛みのクオリアは持つけれども視覚的クオリアは持たない等のケースもあると思います。

クオリアを持たないと思われる人の代表は、野矢茂樹やデネットです。

ken7rowさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。

本文記事で僕は「非機能的であるとされるクオリアと、自分で有意味に知り得るとされるクオリアとは、まったく別々のものである、としか僕には考えられない」と書きました。ken7rowさんが野矢やデネットにないとされている「クオリア」は、そのどっちのクオリアですか。野矢やデネットにもしそれがあれば、野矢やデネット自身がそれがあることを知り得るのかどうかです。知り得ないのであればそれがあるか否かを問うことに意味があるとは思えません。知り得るのであればそこには因果関係があるとせざるを得ないと思われます。

非機能的でも有意味に知りうるのでもどちらでもいいのです。それを持つなら、「ああこれのことか」と即座にわかるでしょう。

横山さんは、自分はクオリアを持つ、例えば赤クオリアを持つと思いますか?
思うのであれば、その存在やそのありようを、どんな物理的機能によって知ったのでしょうか?

横山さん、御返事ありがとうございます。

>「自分に意識があるかないかを判断できない」

とのことですが、この「あるかないか」を私が断言できるのはなぜでしょうか? あかんぼうや動物が「私には意識がある」、と言葉以外の方法で判断しているという可能性は残されてしまうのでは?
客観的に見て「判断できなさそうに見える」という判断は出来ます。しかし「能力がない」とまで言ってしまうことは越権行為のように「思われる」。思われてしまうのです、わたしには。

これは「不明瞭な直観」のせいであるかもしれません。フランスの認知神経科学者、ドゥアンヌは、著書『意識と脳』のなかで、チャーマーズが言うような「ハードプロブレム」は科学で解体できる。ほんとうに難しいのは「イージー」のほうだ、と言及しています。

わたしはこの見解を頼もしいものだと期待しながら、一方では、この不明瞭さの穴を埋める方法はあるのか、どこまで分析したらこの穴は埋まったことになるのか、という疑問を持ってしまうのです。

本当は「ある」のだけれど、機能的には無駄なので「ない」ものとされる、意識がその機能を発揮するとき密かに切り捨てられ(保存され)る情報の存在を、完璧に説明し得る言葉はあり得るでしょうか。
いま、物事を眼前にして考えているとき、じつはすでに何かを見逃していて、でもそのことにいまは気づけない。そのことが分かるのは事後。ヒトの意識がそういうものであるかぎり、言葉もまたそういう性質を持つ。扱うもの(私)、扱われるもの(言葉)、双方がともにいまを最先端として、うつろう(代謝によって内容を変える)。記された言葉は進化の過程を明かします、しかしそれもいわば化石を解析するようなことでしかなく、得られた結論は現状を推測するための観測地点にしかならず、そしてわたし(のこのコメント)は数多あるうちのひとつの観測地点です。それ以上のものにはなりえない。

このコメントを書きはじめたときのわたしと、書き終えたわたしは明らかに違ってしまっている。はじめはこんなことを思いついてさえいなかったのです。

ken7rowさん、
「クオリアがあると断言できる」とする言葉遣いをするときには、そのクオリアと必然的に因果関係を持つものだけを実在者としなければならない。というのが僕の考えで、〈クオリア再考24~26〉でその論証をしたかったのですが、伝わりにくかったでしょうか?

>思うのであれば、その存在やそのありようを、どんな物理的機能によって知ったのでしょうか?

そういうわけで、どんな物理的機能から知ったのかは分からないですが、物理的機能は文法的必然としてなければならないと考えています。

rararaさん、コメントをいただくと文章を書く励みにもなり、とても嬉しいです。ドゥアンヌは知りませんでしたが、とても興味深いですね。

>あかんぼうや動物が「私には意識がある」、と言葉以外の方法で判断しているという可能性は残されてしまうのでは?

そのように言うことももちろんできるでしょうが、僕が「言語を持たない」としたのはかなり広い範囲をその「言語」に当てはめていますので、その意味では、言語以外の方法で判断することはできないです。僕は、何かの対象をある有意味な規則にそって弁別することがなし得ることをもって、「言語を持つ」としたいと考えています。上記はそのようなことを言いたかったのだとお考えください。

かなり広い範囲を「言語」としてあてはめている、なるほど!
コメントしてみてよかったです。
横山さん、ありがとうございます。

横山さん、
>物理的機能は文法的必然としてなければならないと考えています。

ここからいえることは、「言語の射程は(このような題材においては)物理的機能をもつものにしか及ばない」ということだけです。そして、クオリアがその射程に入るかどうかは全く別問題です。

確かに、万人に了解可能な形で語れる対象であれば機能が必要かもしれません(抽象的構造等を除く)。しかし、そのようにして語れるような対象のことをクオリアと呼んでいるわけではないのです。クオリアとはそれこそ言語化以前に、はなから知られているようなもののことなのです。

従って、物事を言語によってしか認識できない人にとって、確かにクオリアはナンセンスであり意味不明でしょう。しかし、クオリアを持つ人にとっては、現物を前にして「これはこのようにあり、このようである」という認識が成立しているのです。他人には直接的には伝わらないけれども、認識の内容は直接的で非常に明瞭であり、言語のような間接的な知、すなわち、認識対象とは別モノであるようなものよりも確実なものです。クオリアについての知は、言語の上ではなく、クオリア自身の上に示されているわけです。

>そういうわけで、どんな物理的機能から知ったのかは分からないですが、

いや、少しは見当がついていると思っていたのですが、ここは、ぜひ具体的に考えてほしい点です。どんな機能を利用して知ったのかクオリア肯定派を納得させられるような機能を示すことができれば、クオリア論争に決着をつけることもできるわけですから。しかしながら、本当に物理的機能によって知ったのであれば、残念ながらそれはクオリアではないと思います。

ken7rowさん、

rararaさんのコメントにお答えしたとおり、僕は「言語」の限界を検討したいと考えているので、「言語」の指示する範囲をかなり広いものとして考えています。何かの対象をある有意味な規則にそって弁別することがなし得ることをもって、「言語を持つ」としたいと考えているのです。
そこで、

>物事を言語によってしか認識できない人にとって、確かにクオリアはナンセンスであり意味不明でしょう。しかし、クオリアを持つ人にとっては、現物を前にして「これはこのようにあり、このようである」という認識が成立しているのです。

こう言われるのは、上のような意味で「言語」をとらえるとして、
「『何かの対象をある有意味な規則にそって弁別することがなし得るかどうか』に頼らないで、クオリアなるものを認識できる人がいて、その『クオリアを持つ人にとっては、現物を前にして「これはこのようにあり、このようである」という認識が成立できる』といえる」
ということを仰っているのでしょうか。もしそうであるなら、矛盾していても意味ある発言ができるということを仰っているように思えてしまうのですが、そういうことですか。

横山さん、
すみません、矛盾というのはどのあたりのことか、教えて頂けますか?

ken7rowさん、

>クオリアについての知は、言語の上ではなく、クオリア自身の上に示されているわけです。

この説明が僕には次の比喩のごとき話だとしか理解できないでいるのです。

「君の前に『お好み焼き定食』があるかい?」
「あなたの言う『お好み焼き定食』がお好み焼きとライスのセットのことなら、あるよ」
「いや、『お好み焼き定食』はそれが何であるかという言語以前の存在だから、それがあればあると分かるものなのさ。だから、もし君が『お好み焼き定食』をお好み焼きとライスのセットだと分析してしまったものを『お好み焼き定食』と言おうとしてるのなら、それは違うだろうね。で、君の前に『お好み焼き定食』はあるのかい?」
「何が聞きたいの?!」

ken7rowさん、
すみません。
コメントがテレコになっちゃっていたのに気づいてませんでした。

矛盾というのは次の点です。
「『何かの対象をある有意味な規則にそって弁別することがなし得るかどうか』に頼らないで、クオリアなるものを認識できる人がいて、その『クオリアを持つ人にとっては、現物を前にして「これはこのようにあり、このようである」という認識が成立できる』という弁別をなし得る」

横山さん、ありがとうございます。

どうも、何と何が矛盾しているのかがわかりづらいです。

任意のクオリア(現にあるもの)を前にして、①それがあることや②それのありようがわかりますし③その名前も判別できます。

③は弁別といってもよいと思います。
②は「弁別ではない知」に弁別されます。
①はあるかないかの判別でもありますが、むしろ、あるという状況の端的な認識、「無い」からの区別ではないような認識も成立しています。

「『機能によらない認識が成立している』と言表する」のであれば、現象判断パラドクス的な状況になります。

ken7rowさん、

>②は「弁別ではない知」に弁別されます。①はあるかないかの判別でもありますが、むしろ、あるという状況の端的な認識、「無い」からの区別ではないような認識も成立しています。

つまり②も①も、「弁別に頼らない情報」があるということだと理解して良いでしょうか。その考えは、ウィトゲンシュタイン「論考」の「否定の連言選言による言語構成論」を否定し、さらに「探究」が否定した「私的言語」を肯定するものだと思えます。
しかし、僕にはそのような「言語」は他者に伝えられないだけでなく、話者自身でさえその意味を掴むことができない「言語もどき」だと思えます。
弁別に頼らない言語構成は、原理的に否定文が作られることも真理値を持つことも許さず、それゆえなんの情報量も持ち得ないと思われるからです。
ken7rowさんは、その①と②に何らかの情報量があるとお考えですか。

>話者自身でさえその意味を掴むことができない「言語もどき」だと思えます。

私的言語は、確かに、私的体験を持たない人にとっては不可能に近いでしょう。
一方、私的体験を持つ人であれば、十分にその意味を掴めるわけです。
要は、私的言語批判の主張は、私的体験を持たない人にのみあてはまるというわけです。

ken7rowさん、
>(私的言語は)私的体験を持つ人であれば、十分にその意味を掴めるわけです。

その「意味」は、これまでの話からすると、弁別することも真偽を問うこともなく掴めるものなのですよね。僕も様々な体験を持つ人間ですがそのような真理値のない文を語ることによってその体験を指示し得るとは考えられません。仮に指示できたとしたら、その体験が「ない」に対する文としての「ある」という意味を持つものとして捉えたからだということになってしまって、それが真理値を持たない文だという前提に矛盾してしまいます。

ken7rowさんがそこに「意味」があるとされているのは、実は、知らず知らず弁別を持ち込んで、真理値のある記述としてその体験を捉えられているか、全く何の効果もない呪文を唱えているだけか、のいずれかだとしか僕には思われません。
もし、それ以外に何か、真理値を持たない文の「意味」するところがあると言うのであれば、それを示してもらえませんか。

横山さん、

横山さんは、徹頭徹尾言語的な意味について語っていますね。
判定は難しいのですが、横山さんにおいては本当にそうなのかもしれません。
しかしながら、それは横山さんという題材においてはそうなのであって、それが普遍的なものとはいえないということです。

言語的認識が成立するためには、判断文の生成が不可欠です。
私は、そのような判断文の生成とは異なる認識があるといっているわけです。
もちろん、万人に伝達可能なものとして言語表現することはできないわけですが・・・。

例えば、赤の赤さを理解する最も効果的な方法は何でしょうか?
言語的な説明を聞くことでしょうか?
私の場合は、赤の体験をすることです。その体験の上に赤の意味が示されているのです。そう思いませんか?

もちろん、上記については、私的体験を持たない人も同じことを言えます。だからこの問題は難しいのです。但し、両者に違いが出ることもあるかもしれません。
例えば「クオリアには言表可能な意味しか見いだせない」という命題を肯定するのであれば、私的体験を持たない可能性が強まるわけです。

>それ以外に何か、真理値を持たない文の「意味」するところがあると言うのであれば、それを示してもらえませんか。

残念ながら示せません。現物によって理解するしかないのです。それを自ら見いだせないのであれば、"横山さんには"そうしたものがないのかもしれません。

ken7rowさん、

>残念ながら示せません。現物によって理解するしかないのです。

やっぱり僕には、言語で表せない「お好み焼き定食」の話になってしまうとしか理解できません。

「君の前に『お好み焼き定食』があるかい?」
「あなたの言う『お好み焼き定食』がお好み焼きとライスのセットのことなら、あるよ」
「いや、『お好み焼き定食』はそれが何であるかという言語以前の存在だからそれが何であるかは示せない。現物によって理解するしかないし、それがあればあると分かるものなのさ。だから、もし君が『お好み焼き定食』をお好み焼きとライスのセットだと分析してしまったものを『お好み焼き定食』と言おうとしてるのなら、それは違うだろうね。で、君の前に『お好み焼き定食』はあるのかい?」
「何が聞きたいの?!」

もしken7rowさんが言っておられるように、クオリアが何者であるかを言語で表さなくてもそれがあるなら自分でわかるということが可能であるなら、この話の「お好み焼き定食」もそれがなんであるかを言語で表さなくてもそれがあるなら自分でわかるということも可能であることになるはずだと思われます。
しかし、「お好み焼き定食」なるものが何を指示するか示さないままに、それがあるかどうか聞くことには意味がないでしょう。そうであるならば、「クオリア」なるものが何を指示するか示さないままに、それがあるがどうかを考えることに何の意味があるのでしょうか。

また、「クオリア」なるものが何を指示するか示さないままにそれを見出だすことなんかできるわけがありませんから、横山にはそうしたものが「ある」と言えないのはもちろん、「ない」とも言えるわけがないと思います。

ken7rowさん、
そんな言語で表せないものを語ろうとするなんてややこしいことを、何故されるのでしょうか。
単純に「いま僕の眼前に赤の感覚がある」「昨日見た赤い感覚と同一だと言える同じ感覚をいま覚えている」と言語的に判断できるものとして、感覚を捉えているとしたら簡単なのに、何故そうしないのでしょうか。

横山さん、

>そんな言語で表せないものを語ろうとするなんてややこしいことを、何故されるのでしょうか。

語れる以上のことを知ってしまっているからです。

例えば、
赤の感覚がどのようであるかを、満足のいくように説明してみて下さい。
痛みの感覚がどのようであるかを、満足のいくように説明してみて下さい。

>例えば、赤の感覚がどのようであるかを、満足のいくように説明してみて下さい。

はい、では、
今眼前に、これまで僕が赤いと表現してきた色をしている時計があるのでそれを見ます。だから、僕がいま現に感じているこの感覚は赤いという感覚だと断言できます。この説明だけで満足がいくとしてしまうこともできますが、もっと説明することもできます。この赤色は濃い朱色で、日が陰ってきた部屋の中にあるのでさらに暗く僕の目に映っています。
昨日見たその時計の赤色ともちろん同じような色ですが、今日は僕の目が疲れているせいかややくすんで見えます。今の脳科学では不可能でしょうが、今の僕に見えてるこの赤の感覚を脳神経や身体の測定によって定量的に取り出すことができるようになっていくのでしょうね。
・・・・
このような感じで、僕はどこまでも描写を続けていき、僕が何をもって「赤の感覚」だとしているのかを自分自身に対しても明らかにしていく運動を続けることがどこまででもできます。そうすることで、僕が今現に感じている「赤の感覚」が何者なのかを詳細に限定していくことができると思います。
しかし、そこに、原理的に語り得ないものがもしあるとしたら、それを僕はもちろん説明できません。でも、その説明できない赤の感覚なるものがあると前提してみても、その説明できないものについて、知っているなんてことがあるとは思えません。だって何について知っているのか自分自身にさえわからないからです。

もっと簡単に僕が「この色」ということで、僕はすでに、僕が感じているその感覚に到達していると言ってしまって良いと思います。それを他者に伝えるのは現実的には難しいでしょうが、原理的にはできると設定した言葉遣いをするべきです。そうでないと、自分自身の言語でさえ、その感覚に到達しないことになってしまうと思います。

横山さん、

>僕がいま現に感じているこの感覚は赤いという感覚だと断言できます。

赤いという感覚はどのようなものですか?

先の横山さんの説明によると、そのような描写は、光センサを備えたコンピュータによってでも簡単に記述できるでしょう。横山さんにとっての赤の感覚とはそれで尽きているのですか?

少し日本語がわかりにくかったですね。

>先の横山さんの説明によると、そのような描写は、光センサを備えたコンピュータによってでも簡単に記述できるでしょう。

訂正:
先の横山さんのような記述なら、光センサを備えたコンピュータにでも簡単に出力させることができるでしょう。

横山さんにとっての赤の感覚とはそれで尽きているのですか?

ken7rowさん、
僕にとっての赤の感覚は上でも書いたとおり、いくらでも記述を重ねていくこともできますが、ある意味では上の言明だけですでに(その形式(エイドス)だけではなく)その内容(ヒュレー)に到達していると考えています。つまり、僕の上の記述は形式で尽きているのではなく、(それを反実在論的な言語論に基づいた語りだと捉えるならば、)その内容をも語り得てしまっているとできると考えています。

「反実在論的時間論と無矛盾な生」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/14-515b.html
のページは読んでいただけましたか。
そこで、僕は、ken7rowさんが問われているような、機能があるかどうかを問う以前のクオリアを「質感としての現実性」として考察しました。
僕が考えたのは、そのような「現実性」と「物理的実在」の両方を前提として存在するとするような言葉遣いは必ず矛盾するということでした。
ken7rowさんが問われている「赤の感覚」の言語化できない部分というのは、言語が伝えられるのは形式でしかなくその内容内実は伝えられないというときの「内容」ではないですか。しかし、言語が形式しか表現できないとするのなら、問題の「問えない赤の感覚』は他者の赤の感覚が問えなくなるだけでなく、自分の感覚も原理的には問えなくなるはずです。
そこで、僕は、そのような「内容」を問いたいのであれば、世界の時空間も物理的実体も多様な主体もあらゆる「モノゴト」の実在も前提とせずに、いったん白紙として、ただその「内容」のみを語り得ることのみを前提とするような言語設定が可能かどうかを探るべきだと考えたのです。
僕の達した結論は、クオリアがあると言うには実在論を捨てきった上で、その先にある、観念論と実在論が一致する地平において語る以外はないということでした。
そして「クオリアは語り得ないけど自分ではあると分かる」などと考えている人は、物理的な実在と前提とするような先験的実在論と物理的実体に先んじた存在があるとする先験的観念論の両方を中途半端に両立させてしまった勘違いだと思えるようになったのです。

上記のページでは、マクタガートと永井均を仮想論敵ととらえて考察していますが、ken7rowさんへの反論にもなっていると思います。読んでみてください。

ken7rowさん、
もしよければ、
時間の非実在性と意識のハードプロブレムの相似性http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/15-a8c5.html
もあわせて読んでみてください。僕の主張のまとめになっています。

横山さん、

12~14を読ませて頂きました。興味深いテーマで、いろいろ考えさせて頂きました。
特に、「我々は、他者や他時間と「質感についての現実性」を共有できないとしても良いし、できるとしても良いはずだ。」という文のおかげで、私にとっては新しい事柄に気が付くことができたように思っているところです。詳細は割愛します。

それはさておき、
横山さんの赤の質感(赤の感覚)の記述からわかるのは、横山さんには、コンピュータでも実現可能な弁別機能があるということだけです。コンピュータハードやソフトの設計思想には、(私が持つような)クオリアは含意されてないといってよいかと思います。従って、仮に、横山さんの赤い質感が先の記述で尽きているなら、横山さんはクオリアを持たないということが言えるかと思います。

>、僕の上の記述は形式で尽きているのではなく、(それを反実在論的な言語論に基づいた語りだと捉えるならば、)その内容をも語り得てしまっているとできると考えています。

そうですか。しかしながら、その内容なるものは、どんなに横山さんが力説しても私には届きません。それでもたぶん、横山さんには内容がわかるのでしょうね。すなわち、それは、横山さんにのみ理解可能な一種の私的言語なのだと思います。私が以前書いた「クオリアについての知は、言語の上ではなく、クオリア自身の上に示されている」とはそういうことです。クオリアの意味内容は、形式(記号列)の上にのせて直接他人に送信することができない。そういう意味で語りえない。しかしながら、私的言語であれば語りうるということです。

ただ、私的言語<E>とは違い、横山さんの私的言語をそのまま私の私的言語として解釈することができて、「赤い質感」にも単なる弁別とはことなる意味が見出せます。しかしながら、送信側と受信側の記録再生装置(?)の仕様の比較が困難なので、「赤い質感」の意味の一致の度合いについては、確かなことは言えないというわけです。

これに、冒頭に述べた気付きがつながってくるのですが、詳細は割愛します。


さて、横山さんの時間論は、まだよくわかりませんが、このようになってしまうのではないかと考えています。

時間軸上の全ての時刻に「ありありと感じられる」という特性を付与する。すると、どの時刻も対等で、過去も現在も未来も各時刻が持つ特性によっては区別できないものとなり、単なる時間の順序関係だけが残る。これは、B系列とほとんど同型な構造である。B系列との違いは、そのうちのある一つの定点に印がつけられていて、そこには「現在」と書かれているという点である。その他の時刻に印がつくことはない。結局、一神教の神にとっては、全ての時刻が対等にありあり感じられるものとして並んで現れており、そのうちのある一つの定点に目印がついている、ということになる。

ken7rowさん、
読んでくださったのですね。ありがとうございます。

>しかしながら、その内容なるものは、どんなに横山さんが力説しても私には届きません。それでもたぶん、横山さんには内容がわかるのでしょうね。すなわち、それは、横山さんにのみ理解可能な一種の私的言語なのだと思います。

ということは、やはりken7rowさんはそれでも私的言語を認める言葉遣いをされるということですね。
そのような言葉遣いをされるということは、例えば「横山は赤を感じている」の「赤」という語の内容(ヒュレー)自体は横山とken7rowさんとでは決して共有できないとするってことですよね。でも、そのような語の捉え方はどんな有効性があるのでしょうか。培養脳のようにまるで有効性のない懐疑でしかないのではないでしょうか。
横山が感じている「赤」がどんなだとどんなに力説してもそれがken7rowさんには届かないとするのであれば、横山の感覚がどんなであるかをken7rowさんと僕とが語りあうことに意味がなくなるだけではなく、横山の感覚があるかどうかを語り合うことにも意味がなくなると思われます。この点はそう捉えて良いのでしょうか。

横山さん、
>ということは、やはりken7rowさんはそれでも私的言語を認める言葉遣いをされるということですね。

そうですね。そこはいったん認めることが重要だと思います。

とにかく、「机がある」と「赤い感じがする」とでは、知の成分や伝達のメカニズムが大きく異なっています。机の場合は、知っていること、説明したいこと、伝達可能なことがおおむね一致します。しかし、赤の質感の場合は、知っていることが伝達可能なことを超過しており、さらに、説明したいことと伝達可能なことにねじれが生じるように思います。

その上で、どう対応するかということについては、先述の気付きが得られたように思っているところです。「有効性」を重視してもよいのかもしれません。とりあえず詳細は割愛します。

ken7rowさん、
申し訳ないですが、質問に対するお答えが理解できません。ちょっと質問を付けたしますね。どう思われるか教えてください。

1)横山がどんなに力説してもken7rowさんには届かないと定義された感覚の内容について、ken7rowさんがその存在を語ることに意味があると思われますか。

2)話者と一切の相互関係をもたないと定義した対象(僕のブログではいつも「ニューニュートリノ」として例示しているものです)について、話者はその存在を語ることができると思われますか。

3)ken7rowさんに届かない「横山の感覚の内容」と、話者と一切の相互関係を持たない「ニューニュートリノ」の存在について、それらがあるかないかを語る価値に違いがあると思われますか。

1)自分に語る分には、意味があると思います。 他人に語る場合は、その相手がクオリアを持つ場合に限り、かなりの程度理解してもらえることを期待できます。

2)ニューニュートリノのような客体の場合は、形而上学的にしか語りえないと思います。

3)違いがありそうですね。ニューニュートリノは形而上学的存在でしかありません。一方、感覚の内容であれば、私は私における実物を知っているので、横山さんが言っているものが直接届かなくても、例えば、これのことかな、それともクオリアもどきのことかな、といったことを考えることができます。

1)は横山さんの感覚内容のことでしょうか? でしたら、3)と同様です。

1)と3)については、誰に語るかによって、理解の期待度が変わってくると思います。2)の場合は自分に語る場合と他人に語る場合に差はありません。

ken7rowさん、回答ありがとうございます。

>ニューニュートリノは形而上学的存在でしかありません。一方、感覚の内容であれば、私は私における実物を知っているので、横山さんが言っているものが直接届かなくても、例えば、これのことかな、それともクオリアもどきのことかな、といったことを考えることができます。

直接届かないけど、間接的に有意味な想定ができるということですね。それって、次のような理解であっているでしょうか。

あるブラックボックスXが宇宙空間にあるとして、それが絶対に内部を開けて見ることができないとする。また、あまりに遠いので音波や放射線や電波や重力などを用いても内部を確かめることもできず、どうやってもできないとする。そして、そのブラックボックスXと外見がよく似たボックスが地球上にあって、我々はその地上のボックスを確かめてその中に物質Aがあることを確かめたとする。
このとき我々の記述として、「Xの内部に物質Aがある」は現実の世界の記述としての根拠がないとは言えないが、「Xの内部にニューニュートリノがある」には形而上学的な記述でしかなく、現実の世界の記述としての根拠がない。
と、ここまでは、問題ないかと思いますがもし間違ってたら教えて下さい。

さて、ここからが聞きたいことです。そこで、「横山がどんなに力説してもken7rowさんに届かない横山の感覚の内容」についてken7rowさんが記述するとするとそれは、「Xの内部にニューニュートリノがある」のような、根拠がまったくない記述ではなく、「Xの内部に物質Aがある」のような、記述の真偽について某かの根拠があるかもしれない記述である。

どうでしょう?合ってますか?

横山さん、

>どうでしょう?合ってますか?

合っているように思います。

そして、物質Aがある場合とない場合とで若干ながら外見に差が出るかもしれないと考えている、ということを付け加えるとよいように思います。

ken7rowさん、

Xの中にAがあるかどうかを地上から確かめる方法は、設定上、その外見だけしかないのですから、それが「ある」と言うことに根拠があるとしたら、その根拠は外から見て分かる情報にあるのですよね。
同様に「ken7rowさんに届かない横山の感覚の内容」が「ある」か「ない」かということも、外から見て分かることを根拠に語ることができるかもしれないと考えられるものですか。

横山さん、

考えてみましたが、複数の原理があるようです。
「外から見てわかること」を、簡単のため「外見」と呼ぶことにします。
定義上、内容は外見ではないことになります。

①私における外見ー内容の対応関係を、相手の外見にあてはめてみる
②特定分野の外見(内容の一般的特性に関する相手の発言)から、内容の有無を推論
③上記①②で「ある」と推定される場合でも、論理的には「ない」ことも可能という原理

因みに、
通常の事物については、外見だけが「ある」とされ、外見以外のことは形而上学になります。
上記①は、私という実例があるために形而上学を免れています。
②は例外的な原理で、内容を外から見て推論するわけですから、「内容なのに外見的である」という矛盾をはらんでいます。
私自身の内容は「ある」と発言することができます。(現象判断パラドクス)

横山さん、

あるいは、こう考えるとわかりやすいかもしれません。

なんだか私と呼ぶべきものがいるようで、また、世界と呼ぶべきものが現れています。これを、便宜的に「私の絵」と呼ぶことにします。
絵の中には、特別な身体が描かれていて、絵の内容全体と強い相関を示しています。この身体を「私の身体」と呼ぶことにします。
絵の中には、「横山さんの発言」と呼ぶべきものが描かれていて、さらには、おそらくは、大阪のあたりに「横山さんの身体」と呼ぶべきものも描かれていることでしょう。そして、横山さんの身体や発言は私のものと似ているようです。だから「横山さんの絵」と呼ぶべきものがどこかに存在しているかもしれない。でも、それは確認しようがない、といった感じです。

ken7rowさん、
「私の絵」と「横山の絵」という表現は良いですね。

説明を聞いて、次の点で疑問があります。その「横山の絵」が「私の絵」の中に描かれたものから推測されるものとして、それが「『私の絵』の中の世界」に存在している、と解釈するのであれば、「横山の絵」についての記述は根拠があると言えると思います。
一方、「横山の絵」が「私の絵」の中の存在ではなく、その外の存在だとするのであれば、「私の絵」に描かれたものから推測されることがあり得ないものとしてその存在を記述しなければならないことになるので、その記述は形而上学的なものになってしまうはずです。

それで疑問なのですが、
(疑問)ken7rowさんが「横山がどんなに力説しても『横山の絵』はken7rowさんには届かない」と言われたのは、その「横山の絵」は「私の絵」の外側にあるものとして想定されたからではないのですか?
それとも、「『横山の絵』は形而上学的な記述ではない」と言っているということは、その「横山の絵」は「私の絵」に描かれた世界の中の存在として設定されたものなのでしょうか。
そうであれば 、「『横山の絵』はken7rowさんには届かない」というのは、「横山の絵」はその存在を根拠のある記述で示し得るものであるが、単に「その記述の真偽を確定させることができない」というだけのことになると思うのですが、そういうことなのでしょうか?

横山さん、
以下には、それもひとつの立場だ、といったものでしかない部分があると思います。

私は、もし横山さんの絵があるなら、私の絵と対等なものであるべきだと思います。対等な絵は大きく二通り考えられ、二枚の異なる絵があるケース、及び、私の絵と横山さんの絵が実は数的に同一なケースです。ではどちらと考えるか?

私の絵は私の身体からの視野という形をしています。さらに、私の身体やおそらくは私の脳と密接に相関しています。例えば、私の網膜像と構造がおおむね同じで、目をつぶれば漠然としたものとなるし、メガネをとればぼやける、といった調子です。そして、もし横山さんの絵があるなら同様なことがいえると思われます。すると、少なくとも見え方は二通りある。だとするなら二枚の異なる絵があると考えたい。日常生活においては、一枚の絵を二人が並んで見るだけで二通りの見え方が生じるように思われますが、今の場合は見え方の「見え」を絵と呼んだほうが私には考えやすいわけです。

結局、「横山さんの絵」がもしあるなら、それは私の絵の外側にある、と考えていることになります。

さて、実は形而上学の定義をよく知らないのですが、
「神はいる」と「横山さんの絵がある」では、わかりにくさのレベルが異なるように思います。「神がいる」については、それがどういうことなのかすらよくわかりません。しかし絵なら、私の絵という実例を知っている。それと似たようなものがあるかどうかという問いなら、意味が理解できるように思うわけです。

ken7rowさん、

質問の意図をきちんと伝えるむずかしさを感じています。
僕の質問で僕が「私の絵」という語でもって伝えたかったことと、ken7rowさんの捉えている「私の絵」が微妙にズレているのかもしれません。残念ながら、僕の問いたかったことをken7rowさんがどうお考えなのか掴めていません。。
すみません。同じような質問を繰り返しますが、勘弁してくださいね。

まず、「私の絵」の語義が二重になっている部分があるように感じましたので、整理したいと思います。

>なんだか私と呼ぶべきものがいるようで、また、世界と呼ぶべきものが現れています。これを、便宜的に「私の絵」と呼ぶことにします。

の定義ですが、ここに二重性があるのかもしれません。僕の捉え方は次のようなものでした。この現実に開けている世界を何も前提とせずに、それが存在し経験できる対象として認めてしまう。この世界を「私の世界」とする。そのとき、それを経験しその存在を語る主体なるものを「私」として捉えるというわけですが、ここでの「私」は、私の世界の内部の存在者ではなく、その世界の開闢者としてのみの捉え方をします。世界の内部で体を持ったり名を持ったり行動したりする対象ではないということです。もちろん、「世界の内部で体を持ったり名を持ったり行動したりする某かの対象が存在し、それがこの『私の世界』を作り出している」そのような「私」を考えることはできます。しかしその「私」とここで問うている「私」を区別したいというのが僕の質問の意図です。その「私の世界」を作り出している対象のほうの「私」は、世界の内部に存在し、類比できるものを持ち得る「対象・客体(オブジェクト)」であって、世界を開闢し、類比できるもののない「主体(サブジェクト)」ではあり得ません。僕は「私の世界」の「私」を、あくまで、世界を開闢し、類比できるもののない「主体(サブジェクト)」としてのみ捉えたいのです。
そして、そのように「私」を「主体としての私」と捉え、「私の絵」を「類比できるもののない、ただ一つの現実世界」捉えた上で、僕は、「横山の絵」を「私の絵」に描かれた世界内の存在対象(オブジェクト)として捉えるのか、外にあるものとして捉えるのかを問いたかったのです。
「横山の絵」が「私の絵」の中にあるものによってその存在や有り様をすこしでも類推される可能性があるものであるとき、「横山の絵」は「私の絵」に描かれた世界の内部に描かれた世界の中の存在対象であることになるでしょうし、「私の絵」に描かれた世界の中にあるものによって類推される可能性がないものであるとき、「横山の絵」は「私の絵」に描かれた世界の内部にあるものではないことになるでしょう。

僕には、Ken7rowさんが、

>私の身体やおそらくは私の脳と密接に相関しています。例えば、私の網膜像と構造がおおむね同じで、目をつぶれば漠然としたものとなるし、メガネをとればぼやける、といった調子です。そして、もし横山さんの絵があるなら同様なことがいえると思われます。

と仰っていることから、ken7rowさんが「私」という語を世界の内部の存在対象として捉えていると思われました。そして、僕の聞きたかった意味では、「横山の絵」は「私の絵」に描かれた世界の内部にあるものだと考えられているように思われました。

>結局、「横山さんの絵」がもしあるなら、それは私の絵の外側にある、と考えていることになります。

と仰っていますが、それは違うように思われるのです。

それを踏まえて、ホントに申し訳ないのですが、もう一度お聞きします。

(疑問)ken7rowさんが「横山がどんなに力説しても『横山の絵』はken7rowさんには届かない」と言われた、その「横山の絵」は「私の絵」に描かれている世界の外側にあるものとして想定されたのでしょうか?

横山さん、

横山さんの絵があるものとして、教えて下さい。(半信半疑ながらの質問です)

①絵の中の横山さんの身体が目を閉じたら、絵全体が漠たるものになりますか? それとも、絵の中の横山さんが目を閉じても、目を閉じた横山さんと風景が描かれた絵が依然として現れていますか?
 (そういえば、自分のまぶたは絵の中にはっきりとは描かれていませんが・・・。)

②絵の中の横山さんの手がつねられると、主体としての横山さんは痛みを感じますか?絵の中の他人の手がつねられた場合はどうですか?

③主体としての横山さんは手を動かそうと思うことがありますか? ある場合、そう思うと、絵の中の横山さんの手が動いたりしますか? また、絵の中の他人の手を動かすこともできますか?

横山さん、

ここに宇宙が一つある。であれば、これと似たようなものがもう一つあってもおかしくない。

私は宇宙論には詳しくありませんが、そう思います。
(念のため補足しますが、「あってもおかしくない」とは、「ないかもしれない」ということも含意しています。)

「横山さんの絵なるものがあるかもしれない」とは、その種の推論にも似ています。

横山さん、 追加です。

④絵の中の横山さんの手がつねられると絵の中の横山さんは痛みを感じますか?

ken7rowさん、

>横山さんの絵があるものとして

というご質問の設定ですが、質問にお答えする前にこの設定について2つの確認をしておきたいと思います。
(1)これまでの話で「私の絵」と「横山の絵」の対比を考えましたが、質問にお答えするには、僕が見ているこの現実を「私の絵」だとし、この僕をその現実の開闢者としての「主体」だとしてそのことを語らねばなりません。ですからご質問への回答は「私の絵」についての話になります。僕の考えでは、私ではない第3者の「絵」は「私の絵」に描かれた世界の中の存在としてしかありえないので、そのようにしか答えられません。それゆえ、「横山の絵」についてのご質問への回答はどれも「私の絵」についての回答という形をとります。
(2)僕は、(第3者の絵としての)「横山の絵」をken7rowさんがどんなものとして捉えられているのかを確かめたいと思って先の質問をしています。「横山の絵」が世界から得られるすべての経験のうちの何かを根拠として推測されるものなのか、それともあらゆる経験とは関係なく無根拠にでっちあげたものなのかを確かめたいと思っているのです。それゆえ、ここで、僕が考えたい「私の絵」は、類比がない唯一の「主体」にとってすべての経験を含んでいるものとしての「絵」なのです。「私の絵」に「私」にとってのすべての経験がある、ということにしておけるものとして、「私の絵」を設定することによって、その中に根拠があるか否かを確かめれば、「横山の絵」なるものが正当な推論によって語られたものか、単なる無根拠なでっち上げなのかが分かるようにしておきたいのです。そのため、ここで、「私の絵」は単なる視覚的な知覚だけを指すものではなく、聴覚も触覚もあらゆる感覚にかんする情報を網羅するものだとさせてください。また、現在の知覚のみを指すものではなく、過去の知覚についての想起をも含むものとし、また、これまでのあらゆる思想や思考についての情報について想起できるのであればそれも含むものとして、世界にかんして「私」が得られるすべての情報源としてあるものとして設定させてください。

以上2点を確認させてもらうと、回答は次のようになります。
①絵の中の横山さんの身体が目を閉じたら、絵全体が漠たるものになりますか?

「私の絵」の中の客体対象としての私横山が目を閉じていれば、「私の絵」のうちの現在の視覚的な知覚にかんする部分が黒ずむだろうと思います。

②絵の中の横山さんの手がつねられると、主体としての横山さんは痛みを感じますか?

主体としての「私」世界の中の存在ではないので、その主体自体が痛がるような仕草をしたり「痛い」と言ったりすることはあり得ません。ですから、ふつうの言語ゲームの意味では、主体は言語ゲームに参加できないので「痛みを感じる」とすることはできません。(「感じる」とすることも「感じない」とすることもできません。)しかし、「私の絵」の中に描かれた世界の内部の客体対象としての「横山」は「その痛みを感じている」とすることができますし、その「痛み」は「私の絵」の情報としてありありと主体に達します。その意味でなら、「主体は痛みを感じる」と言えるかもしれません。

②-2 絵の中の他人の手がつねられた場合はどうですか?

絵の中の横山は「他人がつねられているのを見て痛そうだと感じる」という言語ゲームを為すことができます。その「他人がつねられている」とか「いたそうだ」などという情報が主体に達しますので、その意味でなら「主体は他人がつねられて痛がっていると考えている」とか「主体は横山がそう考えていることを実感している」などと言えるかもしれません。

③主体としての横山さんは手を動かそうと思うことがありますか?

この質問に対する答えも同じです。絵の中の横山は「手を動かそうとする」という言語ゲームを為すことはできますが、主体はゲームに参加できませんのでその意味で「手を動かそうとする」ことも「動かそうとしない」こともあり得ません。しかし、横山が「手を動かそう」とすることはありありと主体に到達しますので、その意味でなら「主体が手を動かそうとする」と言えるかもしれません。

③-2 ある場合、そう思うと、絵の中の横山さんの手が動いたりしますか?

主体が「そう思う」ような言語ゲームを為すことはあり得ませんが、「横山」が手を動かそうとしたら横山の手が動きますし、そのことがありありと主体に届きます。その意味でなら、「客体対象としての私が手を動かそうとしたら、手が動く、ということを主体はありありと感じる」と言えるかもしれません。

③-3 絵の中の他人の手を動かすこともできますか?

主体が横山の手を動かすというゲームさえできないのですから、他人の手を動かすことはできません。

④絵の中の横山さんの手がつねられると絵の中の横山さんは痛みを感じますか?

痛みを感じます。これは正当な言語ゲームとして「そう感じる」と言えます。

さて、このような設定をしたら、僕の疑問はどうなるのでしょうか。
ken7rowさんが「横山がどんなに力説しても『横山の絵』はken7rowさんには届かない」と言われた、その「横山の絵」なるものの存在について、ken7rowさんは、主体が取得し得る何かを根拠として正当に推論されたものとして想定されているのか、無根拠な空想なのか、です。
「ここに宇宙が一つある。であれば、これと似たようなものがもう一つあってもおかしくない。」という推論を示されているところから見ると、その「横山の絵」は「私の絵」に描かれた根拠から正当に推論されるものだと考えて良いかと思われるのですが、良いのでしょうか。

〔疑問〕ここで、「私の絵」のデータから少しでも正当性のある推論によって推量され得る世界を「私の絵に描かれた世界」と呼ぶとすれば、「横山の絵」は「私の絵に描かれた世界」の内部にあり得る客体対象としての存在だと考えて良いのでしょうか。それとも、「私の絵に描かれた世界」の内部にはあり得ないものだという想定なのでしょうか。

横山さん、

「私の絵」とは「私のクオリアの総体」と言ったほうがよいかもしれません。
ただ、横山さんがおっしゃるような意味でも大きくは変わらないように思います。
しかし、何を疑問に思われているのかよくわかりません。

横山さんにとって、「私が経験できないものであれば、それは存在しない」ということでしょうか?

横山さんが語る「私の絵」と似たようなものが存在しないことを立証できるのでしょうか?この立証できるかどうかは重要だと思います。

繰り返しになりますが、
横山さんが語る「私の絵」なるものがもし存在するなら、たぶん、それは「私の絵」と同格なものでしょう。そしてそれは、「私の絵」とは数的に同一ではないようです。 だとすれば、それは「私の絵」の外にあるだろう、ということです。そして、別に「ある」と断言しているのではなく、「もしあれば」ということであり、むしろ「この種のもの」がないかもしれないと疑っているわけです。

>〔疑問〕ここで、「私の絵」のデータから少しでも正当性のある推論によって推量され得る世界を「私の絵に描かれた世界」と呼ぶとすれば、「横山の絵」は「私の絵に描かれた世界」の内部にあり得る客体対象としての存在だと考えて良いのでしょうか。それとも、「私の絵に描かれた世界」の内部にはあり得ないものだという想定なのでしょうか。

いえ、単に、「私の絵」と同類のものがもう一つあってもよいという推論であり、それが経験可能になるわけではないので、あるとしたら私の絵の外に私とは隔絶してあるということです。ないかもしれません。

そして、横山さんの「私の絵」はもしあるとしたら、私の「私の絵」の外にしかありえないと思います。もっとも、横山さんがクオリアを持たない存在の場合は、横山さんの「私の絵」は、私の「私の絵」の中の横山さんの身体の中にある脳内に見いだせる何らかの構造として見出せるようにも思います。

>横山さんにとって、「私が経験できないものであれば、それは存在しない」ということでしょうか?

これは、まったくの誤解です。
「経験できるかどうか」は、僕の主張においては全然関係ない視点です。僕の主張においては、「根拠があるかないか」だけが関係あるのです。それに、「存在しない」というのも誤解です。僕の主張では、「根拠のないものは存在するとかしないとか言うことができない」というものなのです。
だから、僕は、「経験できないものでも十分に存在しない」としません。でも、「根拠のないものは、存在するとかしないとか言うことができない」とはします。

僕は結局、「横山の絵」を推論する根拠があるのかをきいています。根拠があるならそれは根拠に基づいた存在としてあるはずであり、根拠がないのなら出鱈目な思い込みでしかないはずだ、ということなのです。

ken7rowさんの答えは、「横山の絵」はken7rowさんが「私の絵」として経験することができないという意味で「私の絵」の外にあると言っておられるのであって、「横山の絵」が無根拠だと言ってるのではないですよね。「「私の絵」と同類のものがもう一つあってもよいという推論であり」という根拠に基づいてその存在を語り得るものとしてあるものだから、その意味で、「私の絵」のデータから正当性のある推論によって推量され得る存在だと考えて良いのですよね。
そして、それなら、その「私の絵」と同類のものだということが、その存在の根拠なのだから、「横山の絵」は「私の絵」と同類のものとしての存在だとするときにのみに、存在価値のあるものだと考えてるべきで、「私の絵」とはまったく関係ないようなあり方をするものと想定するなら、その存在価値はなくなってしまうはずだ、というのが僕の主張になるのです。

ken7rowさん、
今の議論は、何か僕とken7rowさんとの興味がズレているのか、少しかみ合いにくいですね。
ちょっと違うことで気にかかっている疑問があるので、それに話を移してもいいですか。
それとも、もう少しかみ合わせられるか頑張ってみましょうか。

横山さん、

ズレがどこにありそうか何となくわかってきたようにも思いますが、少し時間をおいたほうがいいかもしれませんね。 

疑問に答えられるかどうかわかりませんが、どんな話でしょう?

ken7rowさん。
では、お言葉に甘えて別の質問をさせてもらいます。

僕がどんなに力説しても、僕の感覚の内容がどんなであるかやそれがあるかどうかどうかをken7rowさんに語って届かせることはできない。ってことは、ken7rowさんがどんなに力説してもken7rowさんが問題にしている「それ」が何であるかが僕に届くこともないはずですよね。
なのに、僕に「それ」があるならあると分かるはずだと仰る。
それが何であるかを知らされることができないはずのものをどうやって「ある」と分かることができるのか。
そのような矛盾ができてしまうメカニズムを教えてもらいたいのです。

横山さん、

横山さんの主体の存在価値は何でしょうか? あるいはどんな付加価値があるのでしょうか?

単に情報を受けとるだけであるなら、横山さんの絵とはカルテジアン劇場で、主体はホムンクルスに相当するのでしょうか? しかし、もともと絵の中にある情報が単に主体に移動するだけで何か価値が生まれるのでしょうか?

横山さん:その「痛み」は「私の絵」の情報としてありありと主体に達します。

情報は、典型的にはコンピュータのビット列であり、物理的な存在です。普通は「ありあり」という形容をされません。そして、主体は情報の受信装置や記録装置を持っているのだとすると、主体とは物理的機能体であり、同じく物理的機能体であろう絵と相互作用を行うのですから、絵の一部とみなすべきです。 世界と物理的相互作用を行う対象は(たぶん)世界の一部とみなされるようなものです。

しかし横山さんは、そうではないという。であるなら、主体の価値とは、もしかすると、もともと単なる情報であったものを「ありあり」としたものに変化させることではないでしょうか? そして主体が物理的記録装置を持たないなら、主体は自らを記録媒体にして情報を担うしかない。その記録媒体こそがクオリアだと思います。

そしてそれは主体なのだから物理的なものではないでしょう。物理的情報がクオリア上の情報になっても情報量は増えない。だからおそらくは語るべきことも増えない。それでも情報を自らが体現し「ありあり」したものになることによって、主体は情報を「知ったり」「味わったり」できるようになるのではないかと思っています。

先の投稿は、ご質問に対する返信としての文章です。
回答になっていることがわかりにくいかと思いますが、そのつもりで読んでいただければと思います。

私の「私の絵」は私のクオリアの総体であり、主体は絵と重なっていることになります。

横山さんの場合、先の投稿の解釈があっているなら、「横山さんの絵」は、私なら客観的世界と呼びたくなるようなものです。 そして、クオリアがあるとするなら、それは主体のほうです。

ところが主体について描写しようと思っても、同じ情報を持っている絵についての描写と同じになってしまう。

だから、どんなに力説しても、主体特有の特性は伝わらない。それでも、その描写があてはまる主体のほうに目を向ければ、その特性は何らかの意味でわかるといえるのではないかということです。

補足です。

>横山さんの場合、先の投稿の解釈があっているなら、「横山さんの絵」は、私なら客観的世界と呼びたくなるようなものです。 そして、クオリアがあるとするなら、それは主体のほうです。

ここでの「横山さんの絵」は、横山さんが語る「私の絵」のことです。先の投稿の解釈があっているなら、私がこれまで語ってきた「横山さんの絵」は、むしろ横山さんが語る「主体」に対応しているようです。

「横山さんの主体」が「私の絵」=「私の主体」の中にあるのでは、不平等でしょう。

ken7rowさん、
説明ありがとうございます。
「主体は自らを記録媒体にして情報を担うしかない。その記録媒体こそがクオリアだ」で「どんなに力説しても、主体特有の特性は伝わらない。それでも、その描写があてはまる主体のほうに目を向ければ、その特性は何らかの意味でわかる」ということは、ken7rowさんのその説明でしめされた内包に当てはまるものを探すことによって、私は自分に「クオリア」があるかないかを判断できるようになる、ということですね。
しかし、その説明で示されているものは結局、「その人が主体として感じた内容」として、伝わるものでしかないのじゃないですか。
もし、 その記述で伝わるのなら、それが伝わった相手は、その記述を基準にして、自分にそれがあるかどうかを確かめることができますが、それで伝わらないのであれば、やはり、伝わらない相手は自分にそれがあるかどうかを確かめるすべがなく確かめられないはずです。
だから、ken7rowさんや僕が自分にそれがあるかどうかを確かめられるとすれば、それは少なくとも自分で確かめるための基準となる弁別規則があるはずで、その弁別規則は語り得るものとして伝達可能なはずです。その弁別規則の及ぶ範囲でだけしかそれがあるかどうかは確かめられないはずです。
だから、そう考えて、クオリアとは「その人が主体として感じた内容」として、伝わるものでしかあり得ないと僕は考えています。
ところが、ken7rowさんは弁別規則では伝わらないけれど、自分で確かめられるとされています。

その不可能だと思われる壁をどうやって乗り越えるのか、を聞きたかったのですが、「その特性は何らかの意味でわかるといえるのではないかということです」という回答では肝心のところがわからないです。そこのところは、どうやってその不可能を乗り越えるのでしょうか?


それから、「私の主体」という語の意味は、僕とken7rowさんとでは違っているみたいです。もしかすると、ここの違いこそが我々の齟齬の大もとかもしれません。

>「横山さんの主体」が「私の絵」=「私の主体」の中にあるのでは、不平等でしょう。

僕の考えている「主体」は、類比するものがない唯一絶対のものですから、不公平でしかあり得ないです。「他者の主体」なるものが有意味に存在するのであればそれは、この現実世界の内部に存在するものであり、また「他者の主体」と並列なものとしての「私の主体」を想定するならそれも、この現実世界の内部に存在することになると思います。しかし、この現実世界をアクチュアルに現実たらしめている「主体」は決してその世界の内部に存在しません。それは、だから、「私の主体」などと呼ぶべきではないものなのかもしれません。

横山さん、

まず質問です。

横山さんの語る「主体」とは物理的機能体ですか? 
それとも「非機能的主体」とでも呼ぶべきものですか?

類比するものがない絶対唯一の「主体」は、物理的機能はあるとは言えません。世界の事象でも語るべき対象でもありません。だから、そんなものが有意味な存在であろうはずがなく、宗教的な妄想かナンセンスでしかないようなものです。

でも、「その人が主体として感じた内容として、伝わるもの」と僕が言ったときの、その「主体」は、類比するものがない唯一絶対の主体ではなく、単に、他者の主体と並列するような世界の中に存在する一主体というものを指す意図で言ったものです。

横山さん、

横山さんは、最初からナンセンスなものを書いてみようという、
そういうスタンスで書いていたのでしょうか?

横山さん、

一つ横山さんの投稿を見逃していました。
スタンスが判明するまで詳細は語りませんが、

>私は自分に「クオリア」があるかないかを判断できるようになる、ということですね。
しかし、その説明で示されているものは結局、「その人が主体として感じた内容」として、伝わるものでしかないのじゃないですか。

判断できるようにはなりません。「その人が主体として感じた内容」にあてはまるものが複数あるのです。しかし、ひょっとすると、そのうちの”本物”を特定する言葉がありそうです。


そうです。
語り得ないものを、無理に語ってしまうことによって、その語られたものは語られるレベルに貶められたものとしてになってしまうので、語りたいことなど語り得ないことを承知した上で語っていました。
もし、その「主体」が語れたとしても、その瞬間に語られた主体は主体ではないものに成り下がってしまうものですから、しょうがありません。僕の理解は、その矮小化した、語られてしまった「主体」のぬけがらにしか届いていないと考えています。

判断できるようにはならない?
しかし、ken7rowさんは自分にクオリアがあると判断できるのではないのですか。

横山さん、

いえ、「主体」の存在をいくばくかでも信じつつ書いていたのか、
故意に絵空事を書いていたのかが知りたいのです。

「主体」はあると信じていますよ。
それは、宗教的にこの世界を現実化させている一神教の神として、超越的に信じています。

しかし、それはこの現実世界の中の存在ではないので、培養脳のような、でっちあげのデマカセと変わらないレベルの話でしかありません。

横山さん、

「主体」について、
「そんなものあるわけないだろ」と言われたように感じたのですが、それは私の早とちりで、

「そんなものが有意味な存在であろうはずがなく、宗教的な妄想かナンセンスでしかないようなもの」だが、それでも信じている、

ということでよろしいでしょうか? 信じているなら問題ないのです。

あ、なんか、議論が先に進んだようで良い感じですね。

それでよろしいです。

ただ、僕が信じている主体は、すべての人がそれぞれに持っているようなものではなく、世界にたった一つしかない、唯一無二の絶対者です。
一方、「他者の主体」や、他者の主体と並列のものとしての「私の主体」は、ちゃんと世界の中に存在していて、そう語り得るし、それを信じてるだけじゃなくて知っているものです。

これに対して、クオリアはその存在がナンセンスであるだけでなく、その存在を信じてさえいません。それはクオリアなるものが、唯一無二のものとされているわけではなく、誰もが持ち得るとされているのに、世界の中に存在せず語り得ないとされているからです。

僕のいう「主体」は矛盾を生みませんので信じられますが、「クオリア」は矛盾を生んでしまうので、信じることができないのです。

A)ねえ、私のこと愛してる?
B)その「愛してる」って、どういう意味?一緒にいたい?抱きたい?幸せになってほしい?
A)いいえ、そんな言葉にできる愛じゃなくて、愛があるならそれと分かる愛。私を愛してるなら、分かるはずよ。
B)一緒にいたいし、抱きたいし、幸せになってほしいけど、その「愛してる」っていうのが何のことか分からないなら、愛してるとも愛してないとも言えるわけがないよ。「クオリア」っていうのが何のことかはっきりさせられないなら「クオリアがある」とも「ない」とも言えないようにね?

横山さん、

私が以前に書いた「それを持つなら、「ああこれのことか」と即座にわかるでしょう。」というのは言い過ぎだったかも知れません。
しかし「もしそれを持つなら「ある」としか言えず、「ない」とは言えない」と言えそうです。

従って、横山さんが「クオリアはあるともないとも言えない」と発言するのであれば、横山さんは私がクオリアと呼んでいるようなものを実際持たないか、「クオリア」の意味が私とは違う、ということになるかと思います。

もしクオリアがあるとしたら、横山さんが「現にある」と確信するものの中にあります。「現にある」の意味が私と同じならそれは私がいうクオリアと類似のものですが、その判断は難しいです。

判断の指標としては、
Aを見出すために「Aがある」という言語的判断の生成が必要なら、Aはクオリアではないと私は思います。
Aの存在がその機能によってしか知られないなら、Aはクオリアではないと私は思います。

尚、「Aがある」という言語的判断は、それ自体がクオリアとして現れている可能性があります。横山さんは、言語的判断の存在をどのようにして知りますか?


A)ねえ、私のこと愛してる?
B)その「愛してる」って、どういう意味?一緒にいたい?抱きたい?幸せになってほしい?
A)抱きたいってことよ。
B)もちろん抱きたいよ。
A) 抱きたいという気持ちがあるの?
B) 当然あるよ。
A) 本当に気持ちがあるの?
B) 抱きたいんだからあるよ。
A) それは本当に気持ちなのかしら。もしかしたら口がそう動いてるだけじゃないの?
B) ばかなこというなよ。

すみません。得意の訂正です。

>Aを見出すために「Aがある」という言語的判断の生成が必要なら、Aはクオリアではないと私は思います。

正:Aの存在が「Aがある」という言語的判断によってしか知られないなら、Aはクオリアではないと私は思います。

クオリアであっても、言語的判断を伴うことはごく普通にあると思います。

言語ゲームという言葉の使い方をよく知りませんが、「クオリア」は言語ゲーム上、「今現にある」ということを含意しているはずです。 すなわち、「クオリアはない」という言葉遣いは、哲学的状況でしか発生しないのだと思います。

>「もしそれを持つなら「ある」としか言えず、「ない」とは言えない」と言えそうです。
>横山さんが「クオリアはあるともないとも言えない」と発言するのであれば、横山さんは私がクオリアと呼んでいるようなものを実際持たないか、「クオリア」の意味が私とは違う、ということになるかと思います。

いやあ、それゃ、「クオリア」の意味するものは違っているでしょう、というか、「クオリア」が何を意味するかを示されてないのですから、何を意味するかを僕は分かっていないので、同じとか違うとかということにさえならないと思われます。

「その人が主体として感じた内容」という言葉で示されるものをクオリアとして良いのなら、それは僕にもあると胸を張って言えます。でも、「『その人が主体として感じた内容』という言葉では表されきれないもの」というような結局、それだと断定できないような言葉でしか示されてないものを、在るとか無いとかすることなど無理です。
どうやったらそれがあるかどうかを判断できるのかを示されないものを、どうやって判断して答えたら良いのでしょうか。
だから、どうして「クオリアはあるともないとも言えない」から、横山にはクオリアが無いが導かれるのかさっぱりわかりません。

C)ねえパパ、そこに「ヘンピオ」ある?
B)「ヘンピオ」ってなんのこと?
C)言葉じゃ説明できないけど、あれば分かるものだよ
B)「ヘンピオ」が何なのか教えてもらえないなら、在るとも無いとも答えられないよ
C)在るとも無いとも言えないって言うのなら、パパのところには無いはずよ。

つまり、二人ともが「あるよ」と答えるようなものについて、それが実際同じなのかどうかが問題になるのです。「ヘンピオ」の例は的外れです。
(ただ、我々のものが同じかどうかは、もうこれ以上追及しなくてOKです)

「クオリア」の指示対象として成立しうるものは、少なくとも2種類ありそうです。
どれもが、「現にある」「ありありとしたもの」「感じ」「主体的」といった形容がなされます。それらのうち、非言語的にも見いだせるもの、機能によらずに見いだせるものが、「私の意味するクオリア」だと試しに言ってみているわけです。(一般的にはどうかは知りません。)

横山さんのそれ(その人が主体として感じた内容)は、本当に横山さんの「主体」に関わるのであれば、非機能的な可能性があります。「主体」とのかかわりがうすいなら、機能的かもしれません。そして、第三のものの可能性もあります。要は、複数枚ある絵のうちどれなんだろう、ということです。

(電話での会話)
C)ねえパパ、そこに「ヘンピオ」ある?
B)あるよ。
C)でも二人の「ヘンピオ」は同じなのかな?
B)同じだと思うよ。気になるなら特徴をいってみて。
C) そうだね、こっちのはね、(続く)

ken7rowさん、

>つまり、二人ともが「あるよ」と答えるようなものについて、それが実際同じなのかどうかが問題になるのです。

それができれば良いですね。でも、それが同じかどうかをどうやって確かめるのか?

>どれもが、「現にある」「ありありとしたもの」「感じ」「主体的」といった形容がなされます。

それを基準に判別すれば良いのか?

>それらのうち、非言語的にも見いだせるもの、機能によらずに見いだせるものが、「私の意味するクオリア」だと試しに言ってみているわけです。

ってことは、「どれもが、「現にある」「ありありとしたもの」「感じ」「主体的」といった形容」されるもののうち、何か言葉では表せない何かをクオリアだとしようということですよね?
それなら、やっぱり、その言葉では表せない、基準なしに判別する以外ないもの、をどうやって判別するのか、が問題になりますよね。

>(電話での会話)
C)ねえパパ、そこに「ヘンピオ」ある?
B)あるよ。
C)でも二人の「ヘンピオ」は同じなのかな?
B)同じだと思うよ。気になるなら特徴をいってみて。
C) そうだね、こっちのはね、(続く)

この二人は、確かめ合いをどれだけ重ねても言葉では確かめられないものを、言葉を重ねて確かめようとしているのではないでしょうか。
この二人は、例えばどうやったら確かめたことにできるのか、ken7rowさんは例示できますか?

横山さん、

>何か言葉では表せない何かをクオリアだとしようということですよね?

いえ、見解が一致しなくてもいいわけです。

私が意味するクオリアは非機能的、横山さんが意味するクオリアは機能的、という事態になることもあります。そうなった場合、「二人の発言が真なら、二人が意味するものは異なる」と言えるのではないかということです。 二人とも機能的、あるいは二人とも非機能的と一致するなら、その分だけ候補をせばめることに役立ちます。

「世界の絵」は複数枚考えられます。そのうち「現にある」ものは、各人に相対的に1枚に定まっており「これ」と指示することができる。 そして、複数の絵は通常の記述によるだけでは区別できないけれども、「機能的」かどうかは、絵を互いに区別することに役立つ数少ないキーワードの一つではないかということです。

( 相手が意味するものを理解できないこともありえます。 実は私は、「機能的な世界の絵」というものは、抽象的にしか理解できません。「(たぶん非機能的な)これ」は「私において現にあるもの」であり、ありありとわかるのですが・・・。 )

参考までに、私は「非機能的ならナンセンス」とは言えないと思っています。

ken7rowさん、

ken7rowさんには「自分で自分に「これ」があると分かる」ような感覚があって、他者にも「自分で自分に「これ」があると分かる」ような感覚があるとする。ってことですよね。でもって、その「これ」自体は言葉では表せないようなもの。
それって、「ken7rowさんが横山になってみれば、現実のken7rowさんと同じような「これ」を感じているかもしれないし、まったく違うような「これ」を感じているかもしれないし、まったく感じていないかもしれない」と「わかる」いう意味なのではありませんか。

またまた訂正です。

2017年1月 1日 (日) 10時51分
>どれもが、「現にある」「ありありとしたもの」「感じ」「主体的」といった形容がなされます。

ちょっと矛盾していますね。ひとまず下記のように訂正します。それでもその後ろの記述とうまく合いませんが・・・。

正: 各人における「現にあるもの」は、どれもが、「現にある」「ありありとしたもの」「感じ」「主体的」といった形容がなされます。

それとも、どんな仮定をしたとしても確認できないものだとして、各人がそれぞれに「現にある世界の絵」を持つことにする、と前提するということですか。

横山さん、

う~ん、少し疲れてきてしまいました。

私には「現にある世界」と呼ぶべきものがあります。それは誰にとっても同じだと思います。その「現にある世界」は各人に相対的にあるもので、複数の在り方があるのかもしれないと私は思います。そして、自分のものがそれらのうちのどれと同類なのかを記述によって特定するのが難しいと思うわけです。 世界の在り方は万人が共有していると思っている人がいてもいいです(普通はそうかもしれません)。 

( 私は、クオリアの総体(現にある世界)のことを単にクオリアと呼ぶこともあります。
 通常は、例えばリンゴ赤のクオリアのように、局所的なものを意味するようですが。 )

だいぶ疲れてきました。

ken7rowさん、
>少し疲れてきてしまいました。

そうですね。また話が膠着してきましたね。疲れも出るでしょうから、小休止しましょうか?

横山さん、

ご配慮ありがとうございます。そうさせて下さい。

ken7rowさん

了解しました。ken7rowさんの意見には賛同できない部分もありますが、ご意見を伺ったおかげで新たなアイデアに気づけた機会を得て感謝しています。またおいでください。いつでもウェルカムです。

今度は日本語の訂正(あるいは補足)です。

「各人に相対的に」:

ネットを見るとあまり用例がないようですが、「人それぞれに対して一つずつ」という意味で使っています。

横山さん、おつきあい頂きありがとうございました。
議論の前後で私の考えが少し変わったように思います。ではまた。

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