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« 第21回大阪哲学同好会の発表用レジュメ「クオリアの意味を考える」 | トップページ | デネットのカルテジアン劇場とハードクエスチョン<クオリア再考19> »

2015年9月14日 (月)

メアリーの部屋と、物的知識と、他者の知覚を有意味に知れること<クオリア再考18>

「他者の痛みを感じることはできない」と人はよく言う。確かに、私と他者が、いやA氏とB氏が完全に同じ知覚を持ち得るはずがない。しかし、その「完全に同じ知覚を持てない」というのはどーゆー意味なのか。それは、他者の知覚がどんなものであるかをまったく知り得ないという意味なのだろうか。そうじゃないと僕は思う。もちろん人は他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。それは当然そうだ。しかし、他者の痛みを有意味に想像して知ることはできるのじゃないか。知覚の本質は一人称的なものであると言う人がいるが、それが本当なら、ある人の知覚は本質的に他者が知ることはできない。しかし、それが本当にそうであるのなら、知覚は自分自身でさえ言語化して理解することができないはずだ。知覚は三人称的な言語化によって初めて自分でも捕まえられるのじゃないのだろうか。この問題の混乱は、他者が知ることができない知識なるものは「経験による知識」でしかないのに、それを「一人称的クオリア」なるものだと混同して考えてしまったところにあると、僕は考えている。他者の知覚を想像することが不可能で無意味であったりナンセンスであったりするとしてしまうような爆弾が、その一人称的な非機能クオリアであること、そして、その非機能的クオリアという爆弾がナンセンスであることを確かめることによって、他者の知覚を想像し知ることの有意味性をはっきりさせられるということを、僕は確信している。
本節では、ジャクソンの「メアリーの部屋」知識論法に対する、デネットの批判を見ることで、その点を考えてみる。

 

メアリーの部屋

フランク・ジャクソン(1943~)の「メアリーの部屋」(或いは「知識論法」)は次のようなものだった。
「メアリーは、何らかの理由で白黒のテレビモニターのみを通じて、白黒部屋から世界を調査することを余儀なくされた、輝かしい科学者である。彼女は視覚と神経生理学の専門家で、完熟トマトや空を見たときについて、また「赤」「青」などのような用語を用いるときに何が起きるのかについて、物理的に完全に理解し説明できる。彼女はたとえば、空からの光の波長が網膜を刺激し、前視覚、中枢神経系、肺、声帯での空気の収縮へと通じて、「空が青い」という文を発する過程を解明する。(これらすべての物理情報は白黒テレビのみから得られているということが原則である。)そして、メアリーが白黒の部屋から解放されたり、カラーテレビが与えられたりしたときに何が起きるだろうか。彼女は何かを学ばないだろうか。彼女が、われわれの視覚体験について何かを学ぶことは明らかだ。彼女の知識が不完全だったという結論は避けられない。しかし、彼女はすべての物理情報を持っていたとしていたはずだ。それゆえ、物理主義は偽である。」(「Epiphenomenal Qualia随伴現象性クオリア」かなり意訳)
すべての物理的知識をもっていても、新たにクオリアを経験して新しい知識を得ることができるはずである。だから、物理的知識以外の知識がある。という主張である。

 

デネットのメアリーの部屋

これに対して、ダニエル・デネット(1942~)は次のような展開例を示して反論する。
「かくしてある日、メアリーを閉じ込めていた監視人たちは、いよいよメアリーが色を見る日が来たと判断した。ちょっとしたおふざけで、彼らはメアリーの人生最初の色彩体験として提示するものに、明るい青色のバナナを用意した。メアリーはそれを一瞥すると「あら、私を騙そうとしたでしょ。バナナは黄色なのに、これは青い色をしている」と言った。監視人たちは驚いた。なぜメアリーにそんなことがわかるのか。彼女の答えは「簡単なこと。私が、色視覚の物理的な因果に関して知り得ることはすべて、絶対的にすべてを知っているということを忘れないでください。だからもちろん、皆さんがバナナを持ってくる前に、黄色い対象ないし青い対象がどのような物理的印象を私の神経系に対してもたらすかということを見事なまで細部にわたって正確に書き記していました。したがって私は、私がどのような思考内容を有することになるかを事前に知っていたわけです。」(「解明される意識」)
「…私が述べたことは、メアリーは、実際に色を見る経験をする前に、色彩科学の膨大な知識を使って、赤いもの、黄色いもの、青いものを見るということはそもそもどういうことなのかということを理解していたということであった。…これは思考実験ですよ。つまり、あらゆる種類のことをでっちあげなければなりません。――伝統――…一度も色を見たことが無かったら、色がどのように見えるかということが推論できません。――デネット――それは民間定理です。」(「スウィート・ドリームズ」)

どうだろう。デネットの反論はどうも、矛先がはっきりしているとは言い難く、分かりやすいものではないかもしれない。しかし、問題の本質は外していないと思う。もし仮に、メアリーが「すべての物理知識」を持っているという前提を導入するのであれば、その仮定には、「経験的知識」を未経験のままに持っていることにするという実現不可能な無茶な仮定の話をでっちあげないといけないことになる。そして、もしそのように仮定するのであれば、メアリーは部屋を出たときの赤体験にも何も新しい知識を得ないことになる、という主張だと解釈すべきだと僕には思われる。そして、そのように解釈すると、知識論法のトリックはあっさりとほどけるものになる。

 

理論的知識と物的知識

「物理の様々な概念を区別する必要がある。物理の理論的概念(theory-conception of the physical)によって定義された特性は、物的概念(object-conception)と潜在的に区別される。ジャクソンの思考実験はその一つの解釈だけを前提としている。メアリーには物理的なすべての理論を教えることができる。しかし、物的概念はその知識から逃れてしまう可能性が開いたままである。」(ダニエル・ストルジャー「Physicalism物理主義」2009より)
と、ストルジャーが言うように、物理概念には理論的概念と物的概念がある。理論的概念は理論的な学習と考察によって得ることができるが、物的概念は実際に経験してみないと知ることができない知識である。知識論法を推す人たちの間違いは、この物的概念とクオリアなどの一人称的知識なるものを同一視してしまったところにあるのではないだろうか。物的概念とクオリアはもちろん別ものだ。ゾンビはクオリアを得ることはあり得ないが、物的概念はゾンビでも得ることができる。物的概念は経験でもって初めて得られる経験的知識だ。クオリアも経験によって初めて得られる経験的知識だから、クオリアがすなわち物的概念だと思われやすいかもしれない。しかし、まったく違うものなのだ。非機能的クオリアは機能がない。第三者に伝達することができない。(僕は、自分でさえ知り得ないものだと思うが、それはここでは措いておこう。)赤いものを見たときに「赤い色が見える」という言葉を発することでは伝えることができないような一人称的な経験的知覚がクオリアである。物的概念は機能がある。第三者にもきちんと伝達することができる。赤いものを見たときに「赤い色が見える」という言葉でもって捕まえられるような知識が、物的知識である。
だから、一般的にメアリーの部屋の話のような状況において、メアリーは部屋の中で赤色に関する物的知識を得ることができない。だから、部屋から出たときに新しい知識を得たからと言って、「物理的知識」ではない知識があるという結論は得られない。せいぜい、「理論的知識」ではない知識があるという結論が得られるだけである。
これに対して、デネットが指摘しているのは次のようなことである。「メアリーがすべての物理的知識を持っていた」という前提を導入することで、物理的知識以外の知識があることを結論付けようとするのであれば、その前提の「物理的知識」には「クオリア以外の物的知識」が含まれていることにしなければいけないし、そのうえで、部屋から出たメアリーが新しい知識を得た場合に限って、物理的知識以外の知識があるという結論が得られることになる。ところが、メアリーが仮にゾンビであったとしてクオリアを知らなかったとしても、あるいはゾンビでなかったとしても、物的知識を与えられていたのであれば、部屋を出たときの赤体験で新しい知識を得ないことになる。だから、いずれにせよ物的知識以外の知識があることを立証することはできないのだ。

 

例化された体験と汎化された体験

僕たちは、赤いものを見て、赤いものを見た個別の体験を物的知識として持ち得る。もちろん、そのときに得る知識において、その、この僕が赤いものを見たこの瞬間の「個別に例化された体験」自体は、その瞬間のみに存在するものであるから、他者にそのまま伝えることはできない。(他者に伝えられないというだけではなく、自分自身でさえ、その体験を思い出して味わおうとしてみてもそれは記憶を追体験するだけで、その体験そのもの自体を再度体験することはできない。)「個別に例化された体験」としての物的知識は言語化できないが、物的知識とはその例化された体験だけを指すものではない。「複数例に汎化され言語化できる体験」としての物的知識というものもあるのだ。
たとえば、妻の赤体験そのものを僕が体験することはできない。だって、妻は近視だけど僕は老眼だから見え方は違って当たり前。妻の眼球も妻の視神経も僕のものと完全に同じ組成なわけがないのだから、見え方も完全に同じになるわけがない。でも、その眼球や視神経や脳組成を調べ比べることで、妻の赤体験と僕の赤体験がどう違うのかを推量して、妻の赤体験を想像して知ることはできる。それは、理論的知識にもとづいた物的知識だと言えるものではないだろうか。
たとえば、僕たちはコウモリが超音波ソナーによって空間を見るという体験そのものを体験することはできない。でも、コウモリの超音波ソナーの仕組みを研究して自分の聴覚体験や視覚体験とどう違うかを推量して、「コウモリであるとはどういうことか」を推量し、想像して知ることはできる。それは、理論的知識にもとづいた物的知識だと言えるものではないだろうか。
あるいは、こうもだって言える。僕は、昨日の僕の赤体験そのものを、今体験することはできない。記憶の中のそれを思い出して、追体験するだけである。しかしそれも、自分の記憶の追体験に関する経験的な理論的知識を考慮することによって、昨日の体験がどんなだったかを推量して想像して知ることはできる。だから、自分自身の記憶でさえ理論的知識にもとづいた物的知識と言えるのである。

 

他者の体験を有意味に知ることは可能だ

僕たちは、他者の体験をそのまま体験することはできない。しかし、それは非機能的クオリアが共有できないからではない。非機能的クオリアなどというナンセンスを持ち出さなくても、そのことは物理的知識でもって説明できるのだ。ちゃんと体験を体験したものとして言葉に表すことができる機能性のある体験として捉え、その機能性のある体験から得られた知識を相手にするのだ。その体験的な知識・物的知識を、「個別に例化された体験としての物的知識」と「複数例に汎化され言語化できる体験としての物的知識」に分ける。そうすると、他者の体験をそのまま体験することはできないというのは、「個別に例化された体験」としての物的知識が他者とは共有できないというそれだけの話になるのだ。そして、その「個別に例化された体験としての知識」と「理論的知識」を用いて推量することにより、「複数例に汎化され言語化できる体験としての物的知識」を想像して知ることができるようになる。だから、僕たちは、他者の体験をそのまま体験することはできないが、他者の体験を有意味に想像したり知ったりすることは可能なのである。

 

矛盾のない世界解釈を採りたい

僕のこの心の捉え方は、基本的に機能主義である。クオリアなんていうナンセンスを排除しても、このように機能主義をもとにして考えると我々は結構きちんと心的知識について考察することができる。
たとえば、永井均は「「実は無い」ものを言語が捏造してしまった世界にわれわれは住んでいる」と言って、世界に矛盾があることを受け入れている。また、心の哲学wikiの管理人さんは「やはりクオリアは非論理的であり、矛盾したものである。しかし、非論理性がクオリアの本質だとして、それが結論であるとするわけにはいかない。世の中には論理的でない矛盾したものがある、というのは言葉の上では簡単であるが、そのような諦念は哲学には有害である。」などと言って、やはりクオリアの矛盾を受け入れたうえで、それを乗り越えようとしている。僕やデネットがクオリアを否定する態度に対して、問題をきちんと受け止められていないと批判されることがあるが、僕は逆に矛盾やナンセンスを受け入れてしまう態度の方がよほど非哲学的態度に思える。
世界に矛盾があると思える場合に、世界の矛盾を受け入れるやり方と、矛盾を拒否し矛盾のない世界解釈を模索するやり方があると思うが、僕はきちんと矛盾なく説明できる世界解釈を探す道を採りたいと思う。
だから、僕はクオリアを否定し機能主義によって心の問題を説明する道を採っているし、それで十分成果が得られると思う。

 

さて、でも、今回考えた心の理論ってほとんど表象主義志向説と同じなのじゃないかという気がする。確かにそうなのだ。非機能的クオリアというナンセンスを排除すると、心の理論は、機能主義も表象主義も同じようなものになってしまうと僕は考えている。それについて、次節で、カルテジアン劇場と一緒に考えたい。

つづく

クオリア再考

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コメント

気になったことがあったので、またコメントさせていただきました。


●「理論的知識」と「物的知識」について


ジャクソンの思考実験は、すべては物理的な理論で説明可能である、という考えに対する批判ですよね。
メアリーの「これが黄色ね!!」というクオリアに対する反応を想定し、認識において物理学がすべてではなく心的な性質もあるのだ、という。


引用①デネットの部分
>>もし仮に、メアリーが「すべての物理知識」を持っているという前提を導入するのであれば、その仮定には、「経験的知識」を未経験のままに持っていることにするという実現不可能な無茶な仮定の話をでっちあげないといけないことになる。

引用②ストルジャーの部分
>>赤いものを見たときに「赤い色が見える」という言葉を発することでは伝えることができないような一人称的な経験的知覚がクオリアである。物的概念は機能がある。第三者にもきちんと伝達することができる。赤いものを見たときに「赤い色が見える」という言葉でもって捕まえられるような知識が、物的知識である。だから、一般的にメアリーの部屋の話のような状況において、メアリーは部屋の中で赤色に関する物的知識を得ることができない。


引用①の「経験的知識」は、すなわち次の引用にある「物的概念(知識)」ですか?
(あとこの引用文全体の意味が分かりませんでした。)

そうであれば、横山さんは否定していますが、これら知識は一般的に言われる「クオリア」と同じではないでしょうか?
(つまり物理的なプロセスで説明できない現象。)

それ自体がどうであるかを伝えることはできませんが、「クオリア」として言語化はできています。

横山さんはデネットの主張を、メアリーが物的知識・経験的知識を持っていることは実現不可能、と解釈していますね。
しかしこの知識が「クオリア」でないなら、本当に不可能でしょうか?
(デネットは、クオリアであっても可能と考えていると思います。私はクオリアに本質を置きませんが。)


「私は赤を見ている」
メアリーは、この「赤」というものの完全な理論的知識を持っています。
なので彼女にとっては、「赤とは~(理論)である」と言えることになります。
すると彼女の「私は赤を見ている」という発言は、「私には今、~が起こっている」ということと同じと考えられます。

つまり彼女の「赤体験に関する報告」は、単に「理論の報告」にすぎません。
これが「経験的知識」であるなら、彼女はすべての色に関する経験的知識を持っていても不思議ではないでしょう。
ここでの経験的知識は、理論的知識なのだから。
(経験と理論の差がないため、すでに経験を知っている。)

デネットは、こういうことを言っているのだと思いました。
つまりクオリアであろうと、完璧な理論を持つならば、すでに分かっている、と。

横山さんは、妻やコウモリの例で、理論的知識に基づいた物的知識があると述べています。
しかし、それは物的知識ではなく、単なる理論的知識にすぎないのではないでしょうか?
それは「(疑似)体験」という媒介によって、「物的知識」と誤解しているのではないかと思います。


>>「物的概念はその知識から逃れてしまう可能性が開いたままである」
(ダニエル・ストルジャー)

「可能性が開いたまま」であるということは、「物的概念」はすべてが理論的知識に還元されないものですよね。
しかし「逃れて」という言葉からうかがえるように、理論的知識に支えられるものがあっての物的概念だと思います。

それは「複数例に汎化された体験」ではなく、まさに言語化不可能な「個別に例化された体験」でしょう。
(ただし「個別に例化された体験」として言語化されています。)
そして「個別に例化された体験」とは、「クオリア」のことではないでしょうか?

「個別に例化された体験」は、記憶を追体験する瞬間にも存在します。
語ることと同時に、語ることができないものが常にある。
この語ることができないものが、経験的知識・物的知識ではないでしょうか?
(「語ることができないもの」として言語化され、伝達されているので、機能はあります。)

「他人の経験を直接体験できない」というのは、クオリア(「個別に例化された体験」)の問題ではないかと思います。

しかしクオリアの問題は、前述のとおり、理論的なところに由来すると考えています。
「現実的」に考えれば、時空間座標が重なる人間はいないし、物理的メカニズムや構成が同じ人間もいない。
それゆえクオリアも異なる。
ただそれだけ、本質は物理的な差異だと思います。

言ってしまえば唯脳論です。(養老岳司の)
ただし、単純に脳だけではありません。
脳は身体の一部、というより身体です。
そのため「純身体」(脳以外の身体)の個別性も必要になります。
そして最後に環境です。

私の「脳+純身体=身体」は常に環境と相互作用しており、その総体こそが体験の個別性を生んでいると思います。


だから「クオリア」なんてものを持ち出すまでもない。
そういう意味で横山さんの意見に賛成です。

やっかいなのは可能世界です。
このせいでクオリアの有無だけが差異として存在する二つの世界が考えられます。
これに答えるのは、永井風の独在論かな。
そもそもクオリアの有無という二世界は、「私には」考えられない。
なぜならそこに〈私〉はいないから。
(いままでの議論をすべて〈私〉にして。)

>>他者の体験を有意味に知ることは可能だ

これは単なる投射のことですよね。
やっぱりこれと、他者の体験は違いますよね。

tyさん、コメント歓迎します。以下の回答がちゃんとした回答になっていれば良いのですが、見当違いだったらまた指摘してください。

僕は、非機能的クオリアなんてものは機能がないのだから、自分でもその存在を確かめられる訳がないという主張をよくします。すると大抵、自分の意識に気づけないなんて語義矛盾でクオリアを否定する僕の方がナンセンスなのだという人が現れます。そのようなクオリア主義の方々は、一方でクオリアには機能がないと言い、また、一方で自身のクオリアを有意味に語り得ると言います。
しかし、僕には、その、機能がないとされる「クオリアA」と、自身の意識を有意味に知り得るとされるときの「クオリアB」が、同じものであるはずがないとしか思えません。だから、僕は、「クオリアA」のことだけを指して「クオリア」だとか「非機能的クオリア」と呼ぶようにしていて、自分のクオリアは有意味に知り得ると言われるときの「B」とは分けて考えるようにしています。そして、その「クオリアB」の方を僕は、「物的概念」とか「物的知識」と呼ぶべきだと考えているのです。「クオリアB」は自身が知り得るということで、すでにそのこと自体で機能が働いていることは明白ですから、すなわち、物理的概念になってしまうことは必然だと思われます。(もしかすると、随伴現象説等で反論されるかもしれませんが、それも正当な反論にはなり得ないと、僕は考えています。)
一方、クオリアAは機能がないのですから、物理的概念でも、物的概念でもあり得ません。僕のでっち上げた「個別に例化された体験」なるものがクオリアAに相当すると思われますが、それもそれだけでは、ナンセンスなのだと思います。理論的概念の支えてもらって「複数例に汎化された言語化可能な体験」になることによってしか、有意味な概念になり得ないものだと思います。そして、汎化され物理的存在として捉えられることによって、クオリアAは「物的概念」として、初めて意味のある概念になるのじゃないでしょうか(この説明では、物的概念から理論的概念を引き算すればクオリアAが求められるような言い方になってしまっていますので、 多分不適切な説明だと思います。クオリアAは唯ただナンセンスで、「物的概念」の形でなければ概念にはなり得ないと思います。)

そして、物的概念はそのうちに理論的概念を含んでいると見ることもできますが、物的概念はすべて理論的概念に還元されるとは限りません。分析文と総合文が明確に分類できないからと言って、分析文と総合文がすべて相互に還元可能だとは言えないことに相当します。

これで、回答になっていれば良いのですが、いかがでしょうか。


それから、もう一点、(「語ることができないもの」として言語化され伝達されているので機能がある)と考えるべきではないとおもいます。
それは、その語の外延が機能を持つかどうかという視点と、その語自体が機能を持つかという視点を混同しているようにおもいます。

tyさん、
もう一点、付け加えます。

メアリーが物的知識や経験的知識を持ち得るかということについて、(デネットはクオリアであっても可能と考えている)というtyさんの指摘は正しいと思います。実際にデネットは「メアリーがすべての物理的知識を持っている」という前提を満たし得るような、そして白黒部屋に居ながら物的知識を得られるような、様々なパターンを考案しています。しかし、その何れもが、当初の「色体験が未経験のまま」という設定からは外れてしまったものになっていると思います。デネットは「白黒部屋に居ながら」という状況で物的知識を得ることが可能かという視点で考察して、メアリーが物的知識を持ち得ると述べたのに対し、僕は「色体験が未経験のまま」という状況で物的知識を得ることが現実的に不可能だと述べたのです。両者の言い分に齟齬があるように見えるかもしれませんが、反する意見を持っているわけではないと、僕は考えています。

私自身、クオリアに関してほとんど考えたことがなく、本を少し読んだ程度の素人なので、間違っているところや知らないことが多々あると思います。

>>一方でクオリアには機能がないと言い、また、一方で自身のクオリアを有意味に語り得ると言います。

クオリアA=非機能的:語ることができないもの
クオリアB=機能的:有意味に語ることができている

ではブログ内容で否定しているのは、非機能的クオリア=クオリアA=「一人称的知識」のことだったのですね。

私は「随伴現象説」に魅力を感じているので、こういうふうに区別して考えたことはありませんでした。
なのですべて「クオリアA+B」のこととして読んでいたようです。


①このクオリアAは、入不二氏のマイナス内包のようなものでしょうか?
この理解の仕方がわかりません。

たとえば「リンゴの赤さ」――このとき私の網膜を光が刺激し、そこから色々通り、後頭葉に刺激が伝わり~、等々の物理現象があり、そして私に「赤さ」が見えます――この赤さは「A」と「B」のどちらでしょうか?


「私が見ている赤さ」(〈私〉だけのものです)が、言語化されえない(詩的言語的)実質=「クオリアA」
「私が見ている赤さ」としてみんなが語るものが、実質が問題とならない、公共的言語=「クオリアB」

それとも

クオリアA=概念枠以前のクオリア
クオリアB=概念枠によってとらえられるクオリア

でしょうか?

②随伴現象説に対して、どのような考えをお持ちなのでしょうか?


>>すべて理論的概念に還元されるとは限りません。
>>(「語ることができないもの」として言語化され伝達されているので機能がある)と考えるべきではないとおもいます。

これらは、その通りでした。

上のコメントは名前を書き忘れてました。


デネットについて

私は「メアリーの部屋」について、そもそも白黒の部屋という設定さえ許されないのではないか、と考えていました。
生まれて以来、徹底的に光の刺激を排していながらも、脳の機能は存在するという条件下でなければ、「白」や「黒」、「グレー」を見てしまうからです。

横山さんが仰っているのは、こういう意味で、「いかなる色体験」も経験していない状態でしょうか?

私は、何らかの色体験、たとえば「赤体験」なしに「赤のクオリア」を見る、ということかと解釈していました。

tyさん、

>私に「赤さ」が見えます――この赤さは「A」と「B」のどちらでしょうか?

多くのクオリア信奉者達は否定する でしょうが、 僕はクオリアAがナンセンスで存在し得ないものだと考えています。だから、Bでしかあり得ません。

随伴現象説について、
たとえば、「ジンベエザメのお腹に、他の物質と全く相互作用を持たない物質でできたコバンザメがくっついている」という文はこの現実の世界に対して真理値を持ち得るでしょうか。僕は無理だと思います。随伴現象説はその無茶を抱えたまま真理値を持ち得るとしてしまっているので、結局、現実世界の事柄を説明することができない物語にすぎないと考えています。

メアリーの部屋の解釈については、 http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-558c.html
のページが回答になるかもしれません。よろしければご覧下さい。

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