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2015年8月 7日 (金)

クオリアの消失を自分で気づけるか<クオリア再考9>

心の哲学の学者たちによるクオリアにかんする議論は迷走しっぱなしである。その原因の一つは、「クオリア」なるものの意味がいまだに哲学界で確定せずきちんと共有されていないことだろう。

たとえば、Wikipediaでは、「クオリア」の意味を次のように表現している。

「簡単に言えば、クオリアとは「感じ」のことである。「イチゴのあの赤い感じ」、「空のあの青々とした感じ」、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」といった、主観的に体験される様々な質のことである。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

しかし、この説明では明らかに不十分であろう。「イチゴのあの赤い感じ」というもので表現されるものを、クオリア欠損のゾンビに対してそれが感じられるかと聞いたところで、必ず「感じる」と言うはずである。その他の「空のあの青々とした感じ」も、「二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ」も、「面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ」も、もちろんゾンビだって「感じる」と言うし、感じているように行動するし、感じているような脳反応を示すのだ。そのような「主観的に体験される様々な質」は、クオリアがなくたって感じられてしまうように反応できるのだ。だから、wikiの定義では不十分だと言わざるを得ない。

では、十分な「クオリア」の定義とはどういうものなのだろう。Wikiで不十分なのだからそんなものがあるのだろうか、と疑いたくなる。
そこで、哲学者たちはクオリアをどういうものだと考えているのかを確かめてみると、それぞれがてんでバラバラなクオリア像を持っていることが分かる。

「あなたの劣化していく脳にシリコンがだんだん植え込まれていくにつれ、意識体験の領域は縮んでいくが、これが外的な振る舞いには影響を現さないことにあなたは気づく。あなたは自分の外的ふるまいに対するコントロールを失っていることに気づいてすっかり仰天する。…あなたは大声で叫びたくなる。『何も見えない。まったく見えなくなっている』しかし、完全にあなたのコントロールをはずれたあなたの声が『目の前に赤いものが見えます』と言っているのを耳にする。」(サール「ディスカバーマインド」)
サールはここで自身のクオリアが消えていく場面を描いている。これを見ると、サールの考えている「クオリア」なるものはそれを失っても外的には何の変化も表出しないが、失われること自体は自分で気づくものなのである。

しかし、これに対して、チャーマーズは否定的にコメントしている。
「しかし、この可能性は排除できそうである。このシステムはかなりきめ細かいところで元のシステムと同一である。単純にいって「何も見えない」というような新たな信念や、大声で叫びだしたいというような新たな欲求や、あるいは驚きというような新たな認知状態が入り込む余地はまったくない。」(チャーマーズ「意識する心」)
これを見るとチャーマーズの考えている「クオリア」はそれを失っても自分自身でさえもそれが失われたことに気づきえないものなのである。

だから、サールの言っている「クオリア」とチャーマーズの言っている「クオリア」は別物だ。サールのクオリアは自分でその変化が気づけて、チャーマーズのは自分で変化が気づけないものだ。

チャーマーズは、クオリアがぼやけていったとしてもそれ自体に自分で気づけないと考える。クオリアが反転しても気づかないし、クオリアが跳ね踊っても気づかないのだ。
「赤と青のシステムの間には、そのそれぞれと内的組成はせいぜい10パーセントしか違わないけれども、著しく異なる経験をする二つのシステム、この二つのシステムを私とビルということにしよう。私が赤の経験をするところで、ビルはかすかに異なる経験をする。ビルは青を見ると考えた方がいいのかもしれない。二つのシステムは、脳のある小さな領域が私の場合はニューロンであるのに対し、ビルの場合はシリコンチップになっている点でも異なる。この、神経回路がシリコン回路に置き換わっていることが唯一、ビルと私の物理的違いである。この思考実験で決定的なステップは、ビルのと同じようなシリコン回路を持ってきて、それを私の頭にある回路と機能的に同型になるだろう。この回路に変換器とイフェクターを取り付け、私の脳のそれ以外の部分と相互作用できるようにするが、われわれは直接それに接続はしない。そのかわりスイッチを組み入れて、神経回路とシリコン回路を直接切り替えられるようにする。パチンとスイッチを入れると神経回路はお役御免になりシリコン回路がそれにとって代わる。…スイッチを入れると、私の経験に何が起きるだろうか。スイッチが入った後では、私は多かれ少なかれビルと同じシステムである。ビルは青を経験を楽しんでいた、そういう仮定である。ということは、スイッチが入った後は、私も青の経験をすることになるだろう。だとすれば、そこで何が起こるかというと、私の経験が〈目の前で〉変化するということになる。今や私は、以前に赤を経験したところで青を経験するだろう。これは最初は合理的に思えるかもしれないが、ここでは何か非常に奇妙なことが起こっている。私の経験は赤から青に切り替わるが、私はいかなる変化にも気づかない。スイッチを何回となくパチパチ切り替えるに伴い私のクオリアが行ったり来たり跳ね踊ってもなお、私は何の異変に気付かず、ただ為すべきことをしているだけであろう。仮定により、私の機能構成は始終正常に保たれる。スイッチを入れた後の私の機能構成はスイッチを入れなかったのとまったく同じに展開する。突然「何か妙なことが起きている」と言いたくなるようなことはない。突然びっくりしたり、感嘆の声を上げたり、注意をそらしたりといったことはまったく入り込んでこない。」p329

どうだろう、チャーマーズがクオリアの変化に自分で気づかいないとしている理由が分かってもらえただろうか。チャーマーズのクオリアは自分で変化に気づけないような自分の主体に対しても弁別機能を働かせ得ないものを、クオリアだと捉えているからなのだ。一方、サールの言うクオリアは、自分の主体には弁別機能を働かせ得るものを指している。そうすると、二人は同じものを言おうとしてもまったく違い対象について語っていただけで、それぞれの主張がきちんと対立できていないものだと考えることができる。
他の哲学者たちを見ても、どうもみんな勝手なクオリアについて語っている。だから、そのため、それぞれの言い分はぜんぜん噛みあわないのだ。

次節ではその様子を見てみよう。チャーマーズと永井均とサールと信原幸弘と茂木健一郎がそれぞれ言っている「クオリア」が別物であることを示して、それぞれの哲学的立場を整理してみたい。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

(横山さんの記事を見ますと、つい口出ししたくなります。すみません。)
クオリアはそれが表すべき「ものごと」が無いのではないですか?
そもそもクオリアを言い出した人が、それが在るがごとく錯覚したしたことか
ら「クオリア」という言葉が生まれたんではないですか?
無いものを名付けても、二人以上の人間に共有される言葉にはなりません。
せいぜい「クオリア」というものが在るらしい、と語られるだけで(今の状態)、
遠からず死語(と言うのも変ですね、。正式な言葉と認知されてないようなの
で)となって、消えてしまうと思います。すぐに消えないのが不思議な位です。
正直、私もウィキペディアでこの言葉を探った口ですが、「イチゴのあの赤い
感じ」といった説明に妙に納得した記憶があります。しかしよく考えると、感じ
はfeelingで、色なら赤い、青い、黒い‥で済むのであって、そこに赤の赤さ、
青の青さ、などと遡及するのは単なる同語反復で、意味を持たないと、それ
こそ感じたのです。‥‥そう、あのヴィトゲンシュタインんの「語りえぬもの」を
むりやり語った仕儀のものではないですか。

平戸さん、コメントありがとうございます。
今回は、僕も平戸さんの意見に全面的に賛成です。
ダン・デネットが「クオリアなんてものは、奇術師のトリックによってもともと無いものを在るもののように思い込まされているだけの勘違いだ」というようなことを言っていますが、全くその通りだと思います。
でも、そのような捉え方に対して、心の哲学の専門家たちの多くは否定しているようです。
彼らがどう間違っているのかを考えてみたいと思っています。

私はクオリアについての議論が続いているのは
クオリアそのものへの興味だけではなくて、
解決困難な課題に関係しているからだと思います。
私が捉えている課題が所謂ハードプログレムと一致してる
という保証はありませんけども。

Jさん、こんにちは。
今回はJさんの仰っていることがよく理解できるような気がします。
たしかにハードプロブレムにたいする興味のあり方によって人はそれぞれに違った対処をし、その違いがクオリアの違いになって現れたり、主義主張の違いになって現れたりするのだと思います。

ある本を読んでいたら、ヴィトゲンシュタインの「哲学の問題は『私は途方に暮れる』と
いう形をとる」(哲学探究1部123節)という引用注がありました。
<私は途方に暮れる>とはハードプロブレムの謂でしょうから、クオリアも、古くから
あるハードプロブレムの類に他ならず、例えばゼノンのパラドクス(アキレスと亀など)
と同じものではないかと感じました。
つまり、「言葉の取り扱い」という踏み石を踏みはずすと、身動きが取れない“穴”に
落ち込む、というヴィトゲンシュタインの警鐘が当っている問題なのだろうと思うので
すが。

平戸さん、コメントありがとうございます。

「クオリアは本当はあるんだけど、言葉にはそれを表現する能力がないので、語り得ないだけだ」ということを仰る方がいます。でも、僕はその「本当」なるものの存在を説くことに意味があるわけがないと考えています。語られ得ない真実を求めようとすることに意味があるというのは誤謬であり、その誤謬を注意深く排除することが、僕たちを蝿取り壺から解放する手立てだと考えています。
平戸さんの仰る「ヴィトゲンシュタインの警鐘」とは、そのようなイメージでしょうか。

仰るとおりだと思います。
‥それにしても、クオリアを「クオリアという脳状態と仮定するもの」としていいでしょう
かね(それが科学的にどのような脳状態かは分からないにしろ)。
それとも、そもそもどう仮定するかが問題であるもの、なのでしょうか。そうだとすれば、
それは「雲をつかむようなもの」と言えますね。
私の直感ですが、生命現象(生体反応)のカラクリが科学的に解明されれば、クオリア
が何であるかも判明するような気がします(その時は思考のカラクリも判明するでしょ
う)。逆に、生命のカラクリが解明されない限りは、クオリア、クオリア、クオリア、と何
度言ったところで、それは“虚無のもの”でしかないように思いますが‥‥勝手な早
とちりかも知れません。

平戸さん、

>クオリアを「クオリアという脳状態と仮定するもの」としていいでしょうかね

そのように仮定すると、クオリアは語り得るものになります。表象主義などでもそのようにクオリアの意味を定義し直すことで、物理的で検証可能なものとして論議されています。
でも、そうすると、その「クオリア」はチャーマーズのクオリアとはまったく別のものを扱うことになりますから、チャーマーズが問いたかった問題はすりぬけてしまいます。

いま、まとめているこのブログで、その辺りの問題を考えみたいと思っています。

2次元空間人Aがいます。
Aの周りには2次元空間が広がっており、Aはその中を移動することができます。
そして、2次元空間の周りには3次元空間が広がっているとします。
Aが2次元空間中のある地点から一方向に進み続ける時、
Aが見るであろう景色はどのようなものでしょうか。

Jさん、
彼らがどんな景色を見るのかは、その2次元人間が3次元を認識できるか否かによると思います。3次元の存在を知り得るという想定をされますか。

おそらくAは
「1次元空間に垂直な軸を引いた空間が2次元空間なのだから
2次元空間に垂直な軸を引いた空間が3次元空間だろう」
と語ることはあるでしょう。
しかし、2次元空間に垂直な軸を頭の中で描くことはできないだろう。
と私は思います。

Jさん、
それなら、彼らは前後左右だけがあって上下のない世界を見ているということですね。

それが、今回の思索と何が関わるとお考えですか。

突然失礼します。
Jさん、フラットランドの話でしょうか?私も今回の思索とどう関係してくるのか興味があります。

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