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2015年8月13日 (木)

チャーマーズのクオリアが物的存在に論理的に付随しないわけ <クオリア再考11>

論理的付随
Chalmers
外在主義者たちに対してチャーマーズが異を唱えている点は色々とあるが、最も大きな違いの一つは、クオリアが脳状態に論理的に付随するか否かという点だ。外在主義者は付随するとし、チャーマーズは付随しないと言う。
この付随(スーパーヴィーン)を、チャーマーズは次のように説明している。

「論理的付随性について、一般に特性Bが特性Aに論理的に付随するとき、事実Aが事実Bを内含している、ということができる。ある事実がもう一つの事実を欠いていては論理的に成り立ちえないとき、ある事実がもう一つの事実を内含しているというのである。」(チャーマーズ「意識する心」邦訳p61)

つまり、「BがAに論理的に付随する」とは、「論理的にAがBの必要条件であり、またAの否定がBの否定の必要条件であり、BがAの十分条件であり、またBの否定がAの否定の十分条件である」ということ、「BならばA、かつ、¬Bならば¬A」、「B→A、かつ、¬B→¬A」、「Bであるときには必ずAで、Bでないときには必ずAでない」だということである。ここで「論理的に」と言っているのは、「現実には起こり得ないことでも可能世界であり得るのだったら認めよう」ということだ。この「論理的付随」に対して、チャーマーズは「自然的付随」という付随性を持ち出してきて、クオリアは脳状態に論理的には付随しないが自然的に付随すると言っている。あらゆる可能世界で付随するとは限らないが、現実世界では事実として付随しているってことだ。クオリアの内容が脳状態によって決定するのだということは、絶対的な必然というわけではない。でも、実際にこの現実世界ではクオリアのすべてが脳状態によって決定するのだ、とチャーマーズは主張している。

 

外在主義の言い分

一方、外在主義が、クオリアが物理状態への付随性を完全に失うことはあり得ないとしているのは、こういうわけだ。「クオリア」という語を名づけるということは、「クオリア」としてまとめられる同種の存在があると仮定することである。そして、「クオリア」という語が某かの同一の事柄を指示するものであるとするためには、それが同一の物理性をもつことが前提されていなければならない、ということだ。これについて、信原幸弘は次のように解説している。

「水的性質さえ備えていればよい物質を「超水的物質」と呼ぶとしたら、どうであろうか。つまり、水的性質さえ備えていれば、そのほかにどんな本質を持っていようとすべて超水的物質とするのである。そうすれば、水も超水的物質である。」(信原「意識の哲学」p98)

「水的性質」以外の本質的性質をいっさい有しないのが「水的物質」だった。だから、水が「H2Oである」という本質を持っていたとしたら「水的性質」以外の本質を持っていることになるから、水は「水的物質」ではない。そこで、「それ以外の本質も考える」という視点を一切省いてしまって「水的性質」があるかないかだけに注目するようにする。そうして得られたものを「超水的物質」と名付ける。ところが、その「超水的物質」は、それがH2Oであることが可能かどうかということが一概に言えないようなものになってしまう。たとえば、超水的物質のサンプルとして水をとればこれはH2Oでないことは不可能である。しかし、超水的物質のサンプルとして水的物質をとればそれはH2Oでないことも可能である。つまり、超水的物質はサンプルによってその本質が異なってしまうのである。

「クオリアについても同様である。クオリアが意識に現れない本質をもつとすれば、クオリアは皮相クオリアではない。たしかに、超水的物質と同様に、超皮相クオリアを導入することもできよう。すなわち、意識に現れる諸特性を備えてさえいれば、それ以外にどんな本質をもっていてもかまわないようなものを超皮相クオリアと呼ぶのである。そうすれば、クオリアはたしかに超皮相クオリアである。しかし、だからといって、ゾンビが可能になるわけではない。超皮相クオリアをもつ人と同じ物的なあり方をしながら、それを欠く人が存在しうるかどうかは、その超皮相クオリアの一例がどんな本質をもつのかによる。それが皮相クオリアだとすれば、たしかにそれを欠く人は存在しうるが、その人はゾンビではない。しかし、その超皮相クオリアがクオリアだとすれば、それを欠く人が存在しうるかどうかは定かではない。もしクオリアが物的なものと本質的な結びつきをもつとすれば、それを欠く人は存在しえない。同じ物的なあり方をしている以上、クオリアをもたざるをえないのである。超皮相クオリアは、クオリアや皮相クオリアと違って、単一の性質ではなく、雑多な性質の寄せ集めにすぎない。したがって、それについて何が可能なのかを一概にいうことはできないのである。」(「意識の哲学」p98)

「クオリア」なるものが何か定まった物理的性質をもつならば、クオリアは身体の物的状態に対して某かの付随性をもたねばならない。逆に言うと、クオリアが物的状態に付随しているときに限って、クオリアは一つの定まった概念だと言えるのだというのである。クオリアを論理的に物的状態に一切付随しないものとして定義しようとしても、それは一つの定まった物理性質をもつものにはなり得ず、一つの定まった概念になり得ないはずだ、と言うのである。

 

外在主義がクオリアの物的付随性があり得ないとしてはダメだとするわけ

ここまでの外在主義がクオリアの物的付随性があり得ないとしてはダメだとするわけをまとめておこう。

1. 「ことば」は一つの同種のものの集合を外延として確定する。 

2. この外延の集合は共通した本質をもつ。仮に、それまで見えていなかった本質があったとしても、その集合が隠れた本質をもっていることは可能である。 

3. 外延の集合は共通した物理的本質を持ち得る。  

4. 外延の集合が共通した性質をもつならば、それは本質的な性質である。 

5. 逆に、そのような本質的性質をもたない対象の集合は、「ことば」が指示する対象の集合ではないことになる。  

6. ゆえに、「クオリア」ということばが一つの同種の対象を指示するのであれば、それは物理的本質をもつ可能性は除外されない。 

7. だから、クオリアは物的状態に付随しないとは言えない。 

8. そして、「ことば」の意味はその外延をさす。「ことば」の意味は発話者の頭の外の実在世界に存在するので、この立場を外在主義という。

 

一次内包に対する思惟可能1と二次内包に対する思惟可能2

しかし、もちろんチャーマーズはこの説明に納得しない。 チャーマーズにしても、「ことば」が何かを指示するときにその本質に従って指示すると考えるのは、外在主義と同じである。違うのは、ことばの意味がその指示の仕方にあるとするところである。外延をことばの意味だと考えるのではなく、内包こそがことばの意味だとする。

「一つの言明は論理的に可能なあらゆる世界で真であるとき、そのときに限ってのみ、論理的必然である。言うまでもなく、可能世界での真を一次内包と二次内包に従って評価するか否かによって、言明の論理的必然には二つの種類がある。これら二種類の論理的必然を順に、必然性1、必然性2と呼ぶことにしよう。…思惟可能であるということには二つの種類はあって、思惟可能な世界で、ある言明をそれに含まれる語の一次内包と二次内包のどちらによって評価するかに応じ、思惟可能1、思惟可能2と呼んでもいい。「水はXYZ」は、この言明が(一次内包によって評価すると)真である思惟可能な世界が存在するので思惟可能1であるが、この言明が(二次内包によって評価すると)真である思惟可能な世界は存在しないので、思惟可能2ではない。」(「意識する心」p96)

外在主義の立場に立つと、一次内包によって指示された対象と、二次内包によって指示された対象が別のものになることはあり得ない。「同じ言葉が指示するものは必然的に同一のものである」という前提の上に論を組み立てるからだ。
でも、チャーマーズは、必ずしも一次内包と二次内包が同一の対象を指示すると限らなくてもかまわないと考える。
「水とは水的物質である」を一次内包とし、「水とはH2Oである」を二次内包とするとき、外在主義の立場では、この二者は必然的に一致する一つの対象を指示しているので、仮に、水的物質であるけどH2Oでないようなものが出てきたときには、それを「水」ではないとする。 でも、内在主義の立場では、この二者は必ずしも一致しなくても良い。「水的物質としての水」があり、「H2Oとしての水」があり、たまたまその二つが一致する場合もあるし、一致しない場合もある、ということを認めるのだ。

思惟可能性あるいは思考可能性というのは論理的可能性は同値のものであるが、チャーマーズは一次内包と二次内包とにそれぞれ異なる思惟可能性があるとする。
(細かいことを言うと、思惟可能性は論理可能性とは全く違う別物だ。「論理的に可能」とうのは命題の内包だけから論理的に導出される可能性である。一方、思惟可能性はあらゆる可能世界でその命題が真であり得る、ということである。でも結局は、論理的に可能なものは思惟可能になり、思惟可能なものは論理的に可能になって、結果的にこの二つは同値になる。だから、ここではこの二つを同じものとして扱っても大きな問題はないと思われる。)
 

思惟可能性1とは、「水とは水的物質だ」という一次内包に対しての可能性なのだから、水が水的性質をもたないような世界にかんする思惟可能性1はあり得ないが、水がH2Oでないような世界にかんする思惟可能性1はあり得る。
思惟可能性2とは「水とはH2Oだ」という二次内包に対しての可能性なのだから、水が水的性質をもたないような世界にかんする思惟可能性2はあり得るが、水がH2Oでないような世界にかんする思惟可能性2はあり得ない。

 

想像できた気がすることが即ち思惟可能ではないわけ

ただし、チャーマーズ自身が注意が必要だとしているのは、想像思考できたような気がしたからといっても必ずしも思惟可能だと言えるわけではない、ということだ。たとえば、「有理数が無理数よりも多い」という命題が真になる可能性は、そのような世界が存在するかも知れないと想像できるような気がする。しかし、「無理数」ということばの内包にはもともと「有理数よりも高い濃度で存在する」という意味が含まれている。だから、「有理数が無理数よりも多い」というのはことばの意味からして矛盾表現なのである。矛盾はいかなる可能世界でも真になることはないので思惟不可能である。 もっと丁寧に説明すると、こうだ。「有理数が無理数よりも多い」という命題が意味を持つためには「有理数」や「無理数」や「より多い」ということばが意味を分かっていなければならない。もし「有理数」の意味を「分数で表せる数」とし、「無理数」の意味を「分数で表せない実数」とし、「より多い」を「二つのグループの要素を一対一対応させたときに対応する相手が得られなくなる側であること」とし、さらにその説明をしている語「分数」や「実数」なども意味を定めていく作業を進めていくと、どこかで「有理数が無理数より多い」という命題が必然的に偽になる段階にまで到達する。そうなると、もはやそのものが何を意味しているかなどとは関係なく、演繹的に論理的に機械的に偽になるということが出てくるのだ。だから、この「有理数が無理数より多い」という命題が真であると想像思惟するためには、それらの意味定義のどこかで意味不明だとか分からないとする部分を設けて「有理数」や「無理数」や「より多い」の意味をずらしてしまうようなズルをいれておかないとダメだ、ということになる。

そして、現実世界の実在物質に則したことばの使い方できちんと定義したなら、この世界に実在するたいていのものの存在は物理存在に論理的に付随していると判断できるのだ。

 

チャーマーズも水が物的存在に論理的に付随するとすべきであるわけ

この視点で、「水」の問題に戻って考えてみても、やはり同様のことが言える。水はH2Oであることに論理的に付随していると言って良いし、言うべきなのだ。ただし、その論理的に付随しているということは、論理的必然ではない。必然ではないがそう判断した方が有益だということだ。

一応、細かく見てみよう。僕たちは水の内包を一次内包と二次内包に分けて考えることができる。そしてそれぞれに基づいて思惟可能性を二つに分けて考えることができる。だから、水の本質が水的性質だと考えてH2Oでない水も思惟可能だとすることもできるし、水の本質がH2Oであることだと考えて水的性質がない水も思惟可能だとすることもできる。 しかし、水を水的性質をもつものだとしたうえで、その正体は実はH2Oだと考える思考自体の中に僕たちの本当に考えたい思索課題があるのではないか。だから、H2Oでない水が思惟可能だと捉えると問題の本質を取り逃がしてしまう。水について一次内包と二次内包を別のものの内包として捉えることは原理的に可能である。しかし、それをしたところで問題解決につながらないのだからやっても仕方がないということだ。

 

チャーマーズが意識が物的存在に論理的に付随するとしてはいけないと考えたわけ

チャーマーズも、世界もたいていの実在物は物理的な本質をもっていて物理的なものに論理的に付随すると認めている。

「(ミクロレベルの事実に限らず)高レベルの事実はそれが事実であるかぎり、物理的なものに(世界的に)論理的に付随していると私は考える。意識体験は、それが論理的に付随しないという点で、ほとんど唯一のものである。」(「意識する心」p102)

あらゆるものが物理的なものに論理的に付随するとしながらも、意識体験だけは唯一例外で付随しないとする。なぜだろうか。

「(私は、意味は内包として考えるのが正しいと主張しているのではない。意味というのは多面的なものであり、少なくとも場合によっては、そのある面を内包に完全に反映できなくて、内包を意味に等置させるのを控えざるをえないところがある。ここではむしろ意味を内包と等置するのは取り決めと考えたほうがいい。<意味>という語にさほど多くを背負わせてはいない。いずれにしろ、意味による真のなかで私に必要なのはただ一種類、内包による真だけである。)」同p97

世界の、意識以外のあらゆる実在物は物的にそれがどんな存在であるかを問うことに意味がある。だから、それが物理的にどんな本質があるかに注目する必要がある。それを物理的な本質から意味づけた二次内包でもって定義しなおすことで、その存在が物理的状態に論理的に付随すると捉える、その捉え方をすることに大きな意味があるし、そうすべきだ。それゆえ、意識以外のあらゆる実在は、その意味を外延によって捉えようとしても良いのかもしれない。

しかし、チャーマーズにとっては、意識という存在についてだけはそのような捉え方をさせることを許すことができない特殊な問題なのである。

たとえば、私のクオリアを脳状態そのものとして定義しなおすことは或る意味で可能なのかもしれない。そして、その定義でもって他者のクオリア一般を考えられるようになるのだから或る意味で役に立つ捉え方なのかもしれない。しかし、そう捉えてしまっては、チャーマーズが本当に考えたい問題は抜け落ちてしまうのだ。彼は、脳状態そのものとはまったく別の一次内包としてだけの現象的意識そのものを問題にしたいのだ。物的本質をもつ一つの種としてしまっては抜け落ちてしまうような「部分」こそを問いたいのだ。もしかすると、そのような捉え方は不可能でナンセンスな問いなのかもしれない。でも、それが仮に不可能であればどのような不可能で、仮にナンセンスなのであればどのようなナンセンスなのかを探っていきたいのだ。その「意識の問題」という「部分」を問うためには、「クオリア」ということばの意味を、物理的外延としてしまうわけにはいかず、物的なものに論理的に付随するとしてしまうわけにはいかないのだ。どうしても「クオリア」の意味は内包でなければならないのだ。

これが、チャーマーズがクオリアにかんして、内在主義をとる理由であろう。

 

チャーマーズが意識にかんして内在主義をとるわけ

チャーマーズが内在主義をとる理由もまとめておこう。

1. 実在するものの名の意味は物理的外延として捉え、物的存在に論理的に付随すると考えることで、物的な存在の意味を考察することができるようになる。 

2. だから、あらゆる実在するもののほとんどは、物的存在に論理的に付随すると考えるべきである。 

3. しかし、意識に関しては、物的存在に論理的に付随すると考えてしまうと、意識の物理的ではないような現象的側面について考察することができなくなってしまう。 

4. だから、現象的意識やクオリアは物的存在に論理的に付随しないと考えねばならず、それを示すことばの意味は内包して捉えねばならない。

ということだ。

 

結局、ことばの意味を外在主義的に外延に求めるのも、内在主義的に内包に求めるのも、どちらも可能であるし許されるのだ。そして、その哲学探究の目的が物的な存在の解明にあるのなら、外延主義的にならざるを得ない。逆に探求の目的が物的存在の解明とは別のところにあるのなら内在主義的にならざるを得ないのだろう。どっちでも好きな方を選べるのだ。だから、外在主義者がその外在論を根拠にして内在論批判をするのは間違っている。チャーマーズがクオリアを内包として捉えてその謎に挑もうとしていること自体に対して、外在論の立場から外在論の立場のままで否定することはできないのだ。

いけいけ、チャーマーズだ。

 

でも、僕は、それでもチャーマーズのクオリアはナンセンスだと考えている。それは外在論とは別の論拠によるもので、本ブログでこれまでにも述べてきた論拠によるものだが、今回のクオリアの意味を整理していく考察の中でさらにはっきりしたものにしていきたいと思う。でも、それはまた今度。

とりあえず次節では、チャーマーズの問題意識とは別方向に発展していった表象主義について考えたい。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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