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2015年8月26日 (水)

立川談志「六尺棒」まくらより<クオリア再考15>

立川談志「六尺棒」まくらより

 

子:親父は俺のことが分かんねぇな。なぁ。

父:ぁん。また、始まりやがった。馬鹿野郎。てめぇのことぐらい分からな親父じゃないの分かってんだ。分かんねぇててめぇが分かってねえじゃねぇか。

子:お前のこと分かってるってんだろ。んが分かってねぇ証拠なんだよ。分かってるてぇのは分かってねぇってことなんだよ。

父:分かってるから分かってるてのを、分かってるのを分かってねぇって決めつけるてめぇの方がよほど分かってねえじゃねぇか。お前のことを分かってるから分かってるって分からねぇって決めつけるてめぇが分かってないことに、お前が気が付いてねぇから分かってないって言うんだよ。

子:俺ぁ、親父のこと分かってるんだよ。どう分かってるかってのを親父は俺のことを分かってねぇけども分かってるつもりになってるから、結局分かってねぇってことに気が付かねぇから分かってねぇってんだよ。それを分かってるって言ってる親父は分かってねえじゃねぇか。

父:俺はお前のことを分かってるから分かってるっていうのを、分かってる親父わかってるって決めつけるお前が分かってないってことが、おとっつぁん分かるからお前のことを分かってるって言うんだよ。それを分かってる親父分かってるって決めつけるお前の方がよっぽど分かってねえじゃねぇか。何だか、分からねぇけど。

 

去年、すなぼうずさんから教えていただいた噺をyoutubeから起こしてみた。立川談志の「六尺棒」という噺のまくらの一部だ。

この親子の話の食い違いは、どちらかが優位というわけでもなく、全くいたちごっこの累進構造になっている。永井の言う累進構造とは少し違うが、矛盾しあう二つの言語が互いに相手を踏みつけながら重なり合っているところは、似ている部分も多いと思う。

 

で、この親子の矛盾する話を累進構造によって一つにまとめることができるだろうか。

やはりダメじゃないだろうか。

だって、この噺で、息子の方の話と親父の方の話は、矛盾しあう異なる基準によって真偽を決定する、それぞれ別の言語だとすることもできるだろうが、それを両方とも飲み込んでしまって両方の言語をまとめようとすると、どうなる?息子の視点でも無く、親父の視点でも無い、第3のたとえば談志の視点によるメタ言語的な解釈が必要になってくるだろう。しかし、この第3のメタ言語はもはや、息子の視点による真を真だとはせず、親父の視点による真も真だとはしないのじゃないだろうか。

つまり、矛盾を累進構造に中に放り込むことによって矛盾しあう二つの真を両方とも言えるようにしてしまおうと言うのは、やはり無茶無理じゃないだろうか。

 

 

どうだろう。そう考えて、僕は永井の累進構造も無理があると考えているのだが、僕の無理解なのだろうか。

 

と今回はちょっとお遊び半分の思索だったかも。次節では、きちんとした話に戻るかな。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

横山さん
今回は私は短歌でコメントいたします。
『それをそう かんじとるから そうである そうであるから そうあるせかい』
これも、ある哲学ブログを見ていて出来たものです。

平戸さん、面白いコメントありがとうございます。
平戸さんも短歌を作られるのですね。僕も以前、短歌人に入って作歌していたので、とても興味深いです。今は完全に止めてしまいましたが、短歌大好きです。

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