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2015年8月24日 (月)

永井の、独在論と累進構造によるクオリア論<クオリア再考14>

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内在主義と外在主義とが1次内包と2次内包とをめぐって論争をしているが、これに対して永井均はクオリアを論ずるためには0次内包なるものが必要になると提案している。本節はこの0次内包によるクオリア論について考える。

 

1次内包・2次内包と内在・外在論

1次内包は、語の内包のうちの、生活上での語の使用され方によって意味づけするような内包を指し、2次内包は一般的に物理的分析によって意味づけするような内包を指すものであった。
チャーマーズら内在主義者は、一つの言葉がもし1次内包と2次内包を同時に持っていたなら、それぞれが同じ一つの対象を指示するとは限らないとし、それゆえ、クオリアの物理的本質を示す2次内包を誰かが提示したとしても、クオリアの1次内包と2次内包が指示するものが異なってしまう可能性は消えるわけじゃなく、ゾンビの論理的な可能性も消えないと主張する。
これに対し、外在論者は、言葉の働きの大原則として一つの言葉の外延を一つに定めるべきだとする。だから、1次内包と2次内包が仮に同じ対象を指示できないという状況が生じるのであれば、そのときは1次内包の方が間違いだったとせねばならないと考える。そのため、クオリアの物理的本質を示す2次内包が発見されたなら、2次内包によって指示されたクオリアがその唯一の外延なのであり、1次内包が異なるものを示すようなことがもしあれば、そのときは1次内包が間違っていたのである。だから、論理的にゾンビはありえないことになる。
語の意味の本質とは、内在主義にとっては発明されるべきものであるのに対し、外在主義にとっては発見されるべきものだと言えるのかもしれない。

 

0次内包

この論争に対し、永井は、1次内包を使っても2次内包を使っても、0次内包を持ち込まねば現象的意識やクオリアなるものを指示することはできないと主張する。外在論内在論とまったく次元の違う論点が必要だと言うのだ。
たとえば、「梅干しや夏みかんを食べたときに酸っぱそうな顔をするときに感じているもの」というのが「酸っぱさ」の1次内包である。この1次内包に対して「何も酸っぱいものを食べていないのになぜか口全体に酸っぱさが広がるとしたらそうなったとわかる」という意味の第1の逆襲が起こって「第1の逆襲をへて何も酸っぱいものを食べていなくてもなぜだか酸っぱく感じられることが可能になった段階の酸っぱさの感覚そのもの」という第0次内包が得られる。そして、この0次内包を得ることによって私は語の意味を自分自身の言葉として掴むことができるようになる。この0次内包にクオリアがかかわってくる。
ここでのクオリア観は、私が感じているクオリアだけが本当のクオリアであり、この本当のクオリアによって語られる世界こそが本当の世界だと考えられる、というものだ。永井の、「〈私〉とは世界を開闢する場であり、そこから世界が開けている唯一の原点である」とする世界の捉え方は「独在論」と呼ばれるから、このクオリア観を「独在論的なクオリア」と呼ぶことにする。

 

独在論的クオリア

永井は、このクオリアを語ろうとするときの、語が生まれくる働きを「識別」と「直接感じる」の二つに分けて考えている。
「識別することが機能なら直接に感じることは実感です。識別することが知覚なら直接感じることは感覚と言ってもいい。識別することが「心理的な働き」なら直接感じることは「現象的な事実」でとも言える。後者に関してはそのなまなましい質感に注目するときには「クオリア」と言われたりもしますし、単に「体験」という語で指される。」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」P28)
この「識別」によってわかる「心の心理的側面」については言語の機能面によって得られた言葉であるから、第三者が機能によって検証し客観的に確かめることができる。ところが、「直接感じる」ことによってわかる「心の現象的側面」については機能なしに得られる言葉だから、機能によって検証することができない。だから、「現象やクオリアがある」という発言が真であると保証するものは無いように思われる。しかし、その「現象面」を語ることさえ、それが「独在論的」な語であることによって保証されてしまうのだ。

「ウィトゲンシュタインという哲学者は「私的言語」というものが可能か否かを論じて、不可能であるという結論を出したのですが、あの議論ははっきりと誤りで、私的言語がなければ言語は不可能です。私的言語の可能性が言語にとって不可欠なものに転じることによって言語は完成するのですが、ただそうであるということを通常の公的言語で語ろうとするとそのこと自体は公的言語の意味の働き方に乗らなければ語れないので言わんとすることが言えない―言わんとしていることとは別の「正しい」ことが言われてしまう―ということが起こるのです。」(永井均「なぜ意識は実在しないのか」p36)

ここで、永井は、「独在論的クオリア」が私の言葉にとって本質的であることを示唆している。この独在論的クオリアの本質は、私が私のクオリアについて言うときには当然のものであるが、その本質からして、私が不特定多数の第三者的な人々のクオリアの存在についてを語ることはできないと言う。

「(チャーマーズ「意識する心」を紹介して、)ここで、現象的と心理的の対比がなされていますが、それを語る彼自身にとっては、この対比は現実にナマで有効な対比であるとしても、それが語られる相手にとってもそうであることを――すなわち、他者においても現象的と心理的の対比が成り立つことを――彼がなぜ知っているのでしょうか。」(同p53)

 

言語の累進構造

そして、その独在論的な本質は公的言語になるためには変質してしまうという。

「言語を介したこの伝達によって、現象的なものはすでに現象的でなくなって心理的に、つまり心理的な概念の内部での現象的なものに、変質してしまっているのではないでしょうか。
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…つまり、この対比には、↑という構造をもった、対比の累進が避けがたく組み込まれているのです。そして、このことが避けがたく組み込まれているということこそが、この対比の本質なのだと思うのです。対比をどのレベルで理解すべきかが決定できないので、不安定な構造を内部に抱え込んでいるからです。…もし「感じる」に現象的と心理的の二つの意味がありうるなら、「現象的」それ自体にも、その二つの意味がありうるのは、むしろ当然。それなら、「体験」や「意識」や「クオリア」など、じつはみんな同じはずではないでしょうか。」(同P53)

心の現象的側面と心理的側面が累進構造を成すことで「クオリア」という言葉が公的言語として語り得るものとなる。(累進構造の形は「哲おじさんと学くん」では、カント原理とライプニッツ原理との累進に変わってはいるが、形式と実体の累進構造という点では一貫している。)
また、この累進構造は、「識別」と「直接感じる」の対立の累進であり、「そのもの自体が何であるか」という視点と「それがいかにあるか」という視点の累進であり、語り得ないものと語り得るものの累進である。
この累進システムによって、クオリアが公的言語として語り得るものになるのだ。いや、それどころか、クオリアは、或る意味で、公的言語が成立する意味で必須要素だと言える存在になっているらしい。
私たちの言語システムを、そのような矛盾しあうもの同士の積み重ねだと捉えると、私のクオリアを語ることができるようになり、それによって、すべての私の言葉は意味を持つことができるようになるらしいのである。

「他者に語らず一人で悶々と思っているだけであろうとなかろうと(他者にそれを語ろうと)、「自分自身がゾンビでないこと」も「クオリア」も有意味な公共言語としてありうるどころかそうでしかありえないと考えています。この点は大昔から現在までずっとそうです。」(mixiで僕の質問に対して永井から頂いた回答。)

 

累進構造による、ゾンビ可能性の揺らぎ

しかし、この「クオリアが公的言語として語り得る」とか「ゾンビが論理的に可能かどうか」とかいう問題は、誰の発言かとか累進構造のどちらの視点を採るかとかいうことによって、答えが安定しないものになる。

「(意識が論理的に物理性質に付随していないというチャーマーズの主張への反論として)これは「意識」の第一次内包も心理的でしかありえないということから明らかでしょう。つまり、この意味でゾンビは文字通りまったく不可能なのです。理由は簡単でわれわれの「意識」概念はミクロ物理的な第二次内包などが開発される以前から、つまり最初から、たとえば「意識を失う―回復する」ゲームに参加できるか否かによって客観的に規定されているし、そうであるほかはないからです。ゾンビだって、たとえば頭を打って意識を失い、その後、意識を回復することができる。ゆえに意識を持っていざるを得ない。われわれの「意識」概念の故郷はそこにしかないからです。しかも、この場合「第一の逆襲」は起こりません。なぜなら「何も酸っぱいものを食べていないのに、なぜだか口腔全体に酸っぱさが広がる(にもかかわらず苦い表情にしかならない)」という状態に対応することが、もし「意識」におこったら、それはつまり、じつは意識があるのに「意識がある」ふるまいが一切できない状態でしょうから、それが起こったことを表明することはまったくできないでしょうし、もしその逆が起こったら、それはつまり突然ゾンビになることでしょうから、やはりそれが起こったということはできないでしょう。」(「なぜ意識は実在しないのか」p80)

というように、独在論的クオリアの捉え方をすると、ゾンビの論理的可能性は許されない。しかし、また、

「チャーマーズもゾンビを考えるとき、それを「私のゾンビ複製体」として考えていました。これは全く象徴的なことです。「私のゾンビ複製体」とかじつは、私とあらゆる点で同じなのに、ただ私ではないという点においてだけ違う人のことです。「現象的な意識体験がない」ことのモデルはそこにしかありません。つまり、この問題は「私のゾンビ複製体」としてしか立てられないのです。それなのに、そのことが、私でない人にも一般化できるのです。」(同p83)

というように、累進構造の立場の採り方によっては、ゾンビの論理的可能性を許すこともあり得ることになってしまう。

 

矛盾することが言語の本質であること

「本来語りえないのではなく「累進構造」によって語りうるわけですし、「矛盾」は、マクタガートが時間について発見した意味でのそれは世界の本質構造そのものだと言っているわけですし、「言語論的には無いはずのものでも有るとする」のではなく、「実は無い」ものを言語が捏造してしまった世界にわれわれは住んでいる(そしてそこから見れば逆にも語れるが)わけです」(mixiで僕の質問に対して永井から頂いた回答。)

世界はもともとこのような矛盾を含んでいる。だから、クオリアは独在論によって語り得るものとして確実にあるのだが、同時に他者の視点から「クオリアがあるなんて無意味だよ」と言われる可能性はどこまでも消えないかもしれない。しかしそれでも、累進構造の中でその無意味論をどこまでも嘲笑し返してクオリアがあることを有意味に語り得るとすることができる、らしいのだ。

こうして、この「独在論的な世界理解」と「累進構造による世界理解」によって、クオリアは矛盾したものでありながら語り得るものになるのだとするのが、永井のクオリア論だと言えるだろう。

さて、この独在論的クオリアは本当に語り得るものだと言えるのだろうか。語り得るというのであれば、その語り得ると言うのはどういう意味か。僕はその点についてもちろん否定的批判的に考えている。その批判を永井均本人にぶつけられる機会があったのだが、僕の無理解を逆に批判されてしまった。次節ではその辺りをもう一度考えてみたい。

つづく

クオリア再考

★大阪哲学同好会へのおさそい★

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コメント

横山さん
上の論考を読んでのザックリとした感想です。
『識別することが機能なら直接に感じることは実感です。識別することが知覚なら直接感じることは感覚と言ってもいい。識別することが「心理的な働き」なら直接感じることは「現象的な事実」とでも言える。後者に関してはそのなまなましい質感に注目するときには「クオリア」と言われたりもしますし、単に「体験」という語で指される。』‥‥
ウーム、相変わらずの“永井語”ですね。この人の語り口は独特の、一種危険なまでの集中力を見せながら、どこかでトボケが混じるのが特徴で、油断のならないところです。ハッキリ言って、これは言葉の遊び(弄び、玩び)の範疇のものでしょう。だからこの人の語り口に対しては、つい言葉尻をとらえツッコミを入れたくなるのではないでしょうか(そういう語り方ですから仕方がありません)。ここでもそうです。‥‥私にとっては「直接感じる」から「識別」できるのだろうと思いますし、「なまなましい質感」は「識別」の純粋な表われだろうと思ってしまうのですが。‥‥そして永井の「クオリア」もはっきりとは定義しないままの「アレ」扱いのものと言えそうです(どこかで定義しているのかも知れませんが)。そのあげく、アノ「体験」とトボケられてしまうのです。
そこで、これを逆手に取ってしまえば「クオリア」は「アレ」で済むものだということです(従って、「クオリア=アレ」と書いてみましょう)。「クオリア=アレ」という曖昧なままのものでいいし、これがなくてもこれまでの認識上で何も困ることはないものでしょう。まして「クオリア=アレ」が、認識の世界に“新しいパラダイム”を起こすというようなものでは到底ないということでしょう。ただの「害にならないもの」に過ぎないと言っていいでしょうから。つまり、当面「クオリア=アレ」は、そのようなものと位置付けておけばいいように、やはり私は思います。
それとも、より精妙にもっと深く読みこなすべき事案であり、現代の哲学の雰囲気は、この「クオリア=アレ」を、もっと重大な問題意識のものとして持てと要求しているということでしょうか。

(追補) なお引き続き、永井他の論文の紹介をお願いいたします。

mixiでのやり取りを公の場に持ち出すのは止めるように永井さんがおっしゃっていたと思いますが、その後許可を得たのでしょうか?
許可を得たとして・・・一部だけを抜粋するのではなく、全部載せた方が良いと思います。
文脈が分からなくなりますから。
僕は横山さんと永井さんの議論の中で特に重要だと思ったのが「言語論的には無いはずのものでも有るとする」のではなく、「実は無い」ものを言語が捏造してしまった世界にわれわれは住んでいる(永井さんの話)・・・という部分です。
「クオリア」なるものがあるのではなく、「ない」ものが、言語の力によって我々に共有される「実体のある」もののようにねつ造されるということですね。
横山さんがこの言葉をどう受け取っているのかはいまいち分からないのですが。

許可を得たか得ていないか、ということに対して批判するつもりはないですよ。
ただもし得ていないとすれば、それこそ全文載せるべきだと思います。
藁人形論法になりかねませんし。そういうフェアではないやり方で賛同が得られたとしてもつまらないのではないですか?横山さんが藁人形論法でも賛同さえ得られれば良いと考えているなら、それでもいいのでしょうが。

がみさん、
ご意見ありがとうございます。
永井氏から許可を得ていないのですが、自分の文の中に挿入するという形でなら許されるかと思って勝手に引用してしまいました。確かに不適切なやり方かも知れないですね。本人に伺ってみて 許可されないなら、削除します。

平戸さん、
感想ありがとうございます。
>ただの「害にならないもの」に過ぎないと言っていいでしょうから。つまり、当面「クオリア=アレ」は、そのようなものと位置付けておけばいいように、やはり私は思います。

と仰るのには、ある意味で賛成したくも思います。ただし、クオリアはいろいろの人がいろいろな意味で語っていて、一概に「クオリア」といっても意味が定まらないところがありますので、精密に話を進める必要はあるかもしれません。
でも、ある程度、そのさまざまなクオリア論を整理して考えることができるのではないかと思っています。自分にそれがどこまでできるか分かりませんが、ゆっくり考えてみたいと思います。

がみさん、
ありがとうございました。永井氏に確認をとりました。0次内包は無内包との対比で考えるべきだという新たな指摘も頂けましたので、次節でその点も含めて検討したいと思います。

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